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主の道筋をまっすぐにせよ
〜 待降節第2主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マルコによる福音
1章1−8節
■ 表題(1節)
表題(1節)の「初め」は、創世記冒頭の「初めに」と同じ言葉ですが、マルコ福音に関する物語の開始を意味するだけでなく、待ちに待った福音が今、始まるという緊張感を表し、神が救いのために歴史に介入する、その「今」を強調しています。
マルコはイエスの伝記ではなく、「神の子イエス・キリストの福音」を書こうとしています。ですから、伝記作家だったら興味を抱く、イエスの誕生や成長に関する記事を書きはしません。しかし、イエスの十字架と復活に焦点を絞るパウロの福音理解とは違って、イエスにまつわる様々な出来事を報告します。病気に代表される悪の力や、人間を抑圧するものとなった宗教的伝統から人を解放する出来事の中にも、イエスの福音が光っているからです。
■ 神の言葉(2−3節)
「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ書3章1節)。
「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたの道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」(出エジプト記23章20節)。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40章3節)。
2節後半はマラキ書3章1節と出エジプト記23章20節からの引用であり、3節はイザヤ書40章3節からの引用です。この引用には「わたし」と「あなた」と「使者」の三人の人物が登場します。「わたし」は神であり、「使者」は洗礼者ヨハネです。そうであれば、「あなた」は1節の「神の子イエス・キリスト」です。
荒れ野に洗礼者ヨハネが現れようとするとき、神がイエスに語りかけます。「わたしはお前に先だって使者を送る。彼は『荒れ野で叫ぶ者』であって、お前の道を準備する者である」。神はイエスにこう語りかけて、行動の時が来たことを告げます。こうして、「福音の初め」が、神の完全な主導のもとに開始されます。
■ 洗礼者ヨハネの活動(4−5節)
神の声に呼応して、洗礼者ヨハネが「現れます」。彼が「罪の」赦しのための悔い改めの「洗礼」を宣べ伝えると、それに応じて、ユダヤからもエルサレムからも人々が続々出て来て、「罪を」告白して「洗礼を受けます」。神に呼応して活動を起こした洗礼者ヨハネ(4節)に応じて、人々が行動を起こし(5節)、主の道を整えます(3節)。しかし、マルコは人々の心の思いを一言も述べずに、行動だけを淡々と模写します。すべてを引き起こす神の言葉に注目しているからです。
マルコが述べる洗礼者ヨハネは、厳しい裁き(ルカ3章7節以下)ではなく、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えています。彼の施す洗礼はイエスがもたらす「悔い改め」の前ぶれであり、それによって、イエスが私たちのもとに来る道が「まっすぐにされます」。
■ 洗礼者ヨハネの風貌(6節)
「(イスラエル王アハズヤは、『お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か』と彼らに尋ねた。)『毛衣を着て、腰には革帯を締めていました』と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った(列王記下1章7−8節)。
「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ書3章1節)。
「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ書3章23節)。
洗礼者ヨハネの風貌は預言者エリヤの姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。当時、マラキ書3章1節とマラキ書3章23節を組み合わせ、預言者エリヤが終わりの日の前に再来すると考えられていました。待ち望んでいた預言者エリヤはすでに来ています。決定的な時はすぐそこに迫っています。
■ 洗礼者ヨハネの言葉(7−8節)
7−8節は、洗礼者ヨハネの登場を述べる2−3節の神の言葉と対応し、ヨハネ自身の言葉を明らかにします。洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えることによって、再来のエリヤとしての役割を果たし、神の決定的な介入を告げ知らせた人ですが、その彼も「後から来られる方」と比べれば、「その方の履物のひもを解く値打ちもない」人物だとされます。
当時の社会では、履物のひもを解くのは奴隷の仕事とされていましたから、洗礼者ヨハネと「後から来る方」との相違が非常に強調されていることになります。その方が「優れた方」であり、洗礼者ヨハネを凌駕する理由は、「聖霊で洗礼をお授けになる」ということにあります。ここでの聖霊は個人というよりは、時代全体を新たにする力です。時代が変わり、新しい救いの時代が聖霊と共に到来しようとしています。
■ 今日の福音のまとめ
長い間沈黙していた神が、その沈黙を破り、神による福音の胎動が始まりました。神が歴史に介入し、救いのために行動を起こします。長く待ち望んでいた救いが、目前に迫っている「今」、洗礼者ヨハネは叫びます。「主の道筋をまっすぐにせよ」と。聖書の述べる「悔い改め」は、「神の業にあわせて向きを変えること」、つまり「神に立ち帰ること」を表します。主の降誕が近づいている「今」、私たちも悔い改めて、主の道筋をまっすぐにしましょう。
2023年12月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
●本文で太字にしている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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