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八日の後、イエスが来られた
〜 復活節第2主日
(神のいつくしみの主日)B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネ20章19−31節
復活節第2主日は、2003年から「神のいつくしみの主日」と付記されるようになりました。「神のいつくしみの主日」に毎年朗読される今日の福音は、平和と聖霊の授与、派遣、信じることへの呼びかけが含まれ、教会の使命、ミサの意味とも直結する重要な箇所といえます。
イエスは罪を赦すことによって教会を建てる
今日の福音の前(ヨハネ20章18節)で、マグダラのマリアがイエスの復活を弟子たちのところに行って告げます。弟子たちはそのことを耳にしていることを前提にすると、弟子たちはユダヤ人たちを恐れているだけでなく(19節)、もう少し内面化して彼らの心を想像すると、弟子たちは自分たちがイエスを裏切り、見捨て、見殺しにしたことの事実に脅え、恐れていたということも考えられます。つまりイエスがもう一度生きかえって弟子たちに顕れる(あらわれる)ということについて、弟子たちが脅え恐れていました。なぜならイエスが来れば、彼らの裏切りが指摘され、イエスを見捨て、見殺しにした彼らの罪が裁かれ、断罪されると思っていました。そのような状況の中で、イエスは「あなたがたに平和があるように」(19節)と弟子たちに言われます。
イエスが用いたのは、シャローム「平和があるように」という意味の言葉です。ヘブライ語のシャローム(平和)は、神が共におられる時のことであり、その時こそが真の平和であると考えられていました。神の臨在に触れている、こんなに安心・平和なことがないというのがシャロームという言葉です。
イエスがここで「平和があるように」と言われたのは、イエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている罪人である弟子たちに、「神が共にいてくださる」ということを宣言しています。イエスは裁く神としてではなく罪を赦す神として、弟子たちと共にいてくださる、と言います。これが「平和があるように」という言葉の本質です。この宣告をイエスから受けた時、弟子たちは自分たちのような者が神のいつくしみによって赦されたということを受け入れ、信じたのです。と同時に、イエスが弟子たちの罪の贖い(あがない)となって十字架で死んでくださったということも受け入れたことを示します。弟子たちの派遣によって教会は建てられるのですが、この教会は罪を赦しによって建てられることが示されているのです。
見ないのに信じる人は幸い
イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と言います。「見る」という言葉はある意味で「信じる」ということと直結している言葉です。ここでは、見て信じる信仰と見ないで信じる信仰とが対比されています。今日の福音の背景として、ヨハネの教会は生前のイエスや復活のイエスの目撃者である直弟子たちの時代は過ぎ去って、ほとんどの人々が生前のイエスを見たことがなく、また復活のキリストを直接見たことがない人たちでした。つまり、見ないのに信じた人たちばかりだったのです。
本書の目的(30−31節)
30節の「しるし」は、奇跡ではなく、目に見える出来事の背後に、目に見えない神の救いの業を読み取るという視点から用いられています。31節では、ヨハネ福音書の執筆の目的が明らかにされます。イエスを神の子メシアと信じることであり、その信仰により、イエスの名により(永遠の)命を受けるためです。
今日の福音のまとめ
イエスは2度にわたって弟子たちに現れています(来ています)が、そのいずれもが週の初めの日(日曜日)のことです。週の初めの日は感謝の祭儀(ミサ)を行う日です。ヨハネの教会のほとんどの人々は生前のイエスや復活のキリストを直接見たことがない人たちでした。見ないのに信じた人たちはどこでイエスと出会ったのでしょうか。それはミサです。ミサが行われるときにはいつも、イエスは真ん中に立ち、「平和があるように」と述べます。十字架によって私たちの罪を贖った(あがなった)イエスは、復活によって死に打ち勝ち、罪を赦す神として、私たちと共にいてくださいます。見ないで信じた人々はミサの中で神のいつくしみに出会っていたのです。
ヨハネ・パウロ2世教皇が帰天の直後に発表された最後のメッセージで「神のいつくしみの主日」について次のように述べています。「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか」。
ヨハネ・パウロ2世教皇「神のいつくしみの主日のメッセージ」(カトリック中央協議会)より。
(1) キリスト者は神のいつくしみ(赦しや平和)の大きさを信仰によってミサの中で味わうこと。
(2) キリスト者は神の息が吹き込まれ(聖霊の授与)、神のいつくしみを世界に伝える教会の使命(派遣)が与えられていること。
(1)と(2)が復活節第2主日「神のいつくしみの主日」を祝う目的なのです。
2024年4月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教