印刷など用に
Wordファイル
ダウンロードしたい方は
こちら

次のように書いてある。
「メシアは苦しみを受け、
三日目に死者の中から復活する」
…あなたがたは
これらのことの証人となる
〜 復活節第3主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ルカによる福音
   24章35−48節


■ 1.レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から
 イエスは、弟子たちが本当にイエスが死から復活したことを受け入れることが出来るよう、どのような手助けしたでしょうか。

 36節で、弟子たちの真ん中にイエスが立ち「あなたがたに平和があるように」と言われますが、彼らは亡霊だと思い恐れおののきます(37節)。このような亡霊の出没についての俗信は当時のユダヤで珍しくありませんでした。
 ルカによる福音が編集された当時、ギリシア的霊肉二元論に基づくキリスト仮現説がはびこり始めていました。キリスト仮現説とは、キリストの魂或いは霊が、生まれたときに体に入って、死ぬときに神のところへ帰る、つまりキリストは本来神の世界に属する者で、この地上に現れたものの、それは仮の姿であった、真の人間ではなかった、とする説です。
 今日の福音は、魂の復活ではなくからだの復活であることを、第一に手足をもった復活であること(39−40節)、第二に焼いた魚を食べたこと(41−43節)をもって、こうした誤りや異端を締め出す復活の出来事として記されています。
 イエスの復活という使信に対して、当時のユダヤには様々な反論がありました。弟子が死体を持ち去って、偽りの宣伝をしているのだというのが、まずユダヤ教会に流れた説明であって(マタイ28章11―15節)、マタイはこれを論駁(ろんばく)しました。誰かが死体を移したので、行方不明になったのではないか、とも考えられました。ヨハネはこの説を論駁します(ヨハネ20章2・13・15節)。さらに、弟子の見たのは幻か霊にすぎなかったのではないか、という疑惑も、ユダヤ人の頭に浮かんだことでしょう。それをヨハネも(ヨハネ20章26−29節)、ルカも今日の福音で反論したわけです。尚、全く狂気の沙汰と見る見解は、使徒言行録26章23−29節で取り扱われています。

 イエスが手足を見せ示しても、弟子たちは「まだ信じられず」(41節)いるので、彼は焼き魚を彼らの前で食べて、体をもっていることを証明します。しかし、イエスが焼き魚を食べたから信じた、と今日の福音は記していません。弟子たちの目(心の目)が開くのは、45節に至ってからであり、それも復活したイエス自らが(聖霊によって)彼らの目を開きます。そこでは復活したイエスは聖書の説明をしています。

■ 2.レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から
 イエスは弟子たちを 次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」。…あなたがたはこれらのことの証人となる」(48節) として描きます。彼らは目撃者なのです。今日私たちはどのような方法で証人になることができると思いますか。

 第一朗読の使徒言行録3章15節で、ペトロは「あなたがたは、(イエスを)殺してしまいましたが、神は(イエスを)死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」と言います。復活したキリストは死んだイエスです。この同一性、継続性は重要です。十字架と復活を結び付けているからです。復活のキリストに従うことは十字架を担った方(かた)に従うことです。「わたしの手と足を見なさい。」(39節)というのは、教会に対するキリストのことばであり、弟子たちはその目撃者なのです。
 44−48節は、キリストの教えと委任を含んでいます。この教えは新しいものではなく、復活のキリスト及び歴史的存在であるイエス「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)と旧約聖書「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)とのあいだの連続性を強調しています。
 弟子たちの委任は、彼らに対する教えと同じく、旧約聖書に根をもっています「次のように書いてある」(46節)。「それは書いてある」という言い方は、「それ以前からの神の計画であった」ということなのです。旧約聖書の中ですでに示されている神の計画は、教会の宣教の特質となるメッセージが含まれています。メッセージは、.リストは苦しみを受け、三日目に死から復活した(つまり復活したキリストは死んだイエス)(46節)と ∈瓩硫い改めと赦しが与えられるということです(47節)。
 このメッセージが「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)というのは、イスラエル(その全てではないが)が福音を拒絶したから、その後そのような方向に教会の宣教は発展していった、ということではありません。「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という教会の宣教は最初から神の計画であった、と今日の福音は語っているのです。
 しかし、弟子たちは初めからそのように理解したのではなく、またそのように行動していません。今日の福音で、イエスは彼らの前で焼いた魚を食べることまで行いますが、物的証拠をどんなに積み重ねても、聖書のことばの成就(神の計画)を信じる者に変わるとは限りません。イエスが彼らの心の目(知る力)を「開いた」とき、それが決め手となって、彼らを証しする者に変えます。弟子たちでさえ、証人となるためには、イエス自らが(聖霊によって)繰り返し与える開示と励ましを必要としたのです。
 今日私たちはどのような方法で証人になることができると思いますか。まず聖霊の働きを祈りましょう。
2024年4月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部で、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、本文では斜字(イタリック)で、小見出しでは頭に「■」を付けることで代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。