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良い羊飼いは
羊のために命を捨てる
〜 復活節第4主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ヨハネによる福音
  10章11−18節


■ レクティオ・ディヴィナ
 MEDITATIO…黙想する から

1.イエスはご自分を「良くない」羊飼いたちとどのように区別していますか。
 「良くない」羊飼いたちは雇い人にすぎません。雇い人が世話をする羊は自分の羊ではないので、雇い人は狼が来ると羊を置いて逃げます。しかし、イエスは羊のために命を捨てます。イエスと「良くない」羊飼いたちの区別は、羊のために命を捨てるのか、捨てないのか、にあります。

2.良い羊飼いは羊たちをどのように警護するのでしょうか。
 14−15節では「知っている」が四度も繰り返されています。父なる神とイエスがお互いを「知っている」ように、イエスと羊もお互いを「知っています」。この「知る」は一方通行の知的な働きではなく、人格的な相互の愛の交わりに基づく「知る」です。雇われた「良くない」羊飼いには「(ただの)羊」(13節)であっても、良い羊飼いには「自分の羊」(14節)ですから、羊の命に無関心ではいられません。このような人格的な交わりに動かされて、良い羊飼いは「羊のために」命を捨てます。
 つまり、イエスと「良くない」羊飼いたちの本当の区別は、イエスは父なる神を知り、父なる神がイエスを知っているように(15節)、イエスは自分の羊を知っており、羊もイエスを知っている(14節)、ということにあります。イエスは自分の羊を知っているゆえに「羊のために」命を捨てます。良い羊飼いは羊たちをどのように警護するのでしょうか。それは、良い羊飼いイエスは自分の羊を個別に知っており、それぞれの羊たちの必要を知っているので警護することができるのです。

3.イエスが、羊たちの襲う狼たちのことを言うとき、イエスは誰のことを指しているのでしょうか(マタイ10章16節参照)。
 マタイ10章16節の「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」の「狼」は、悪質狂暴な人間の意。旧約ではイスラエルを荒らす指導者たち、外敵を指し、新約では偽預言者、偽教師たちに使われています。イエスは、ここで、12人の弟子たちを派遣するにあたって、世俗的な名誉や成功を約束するのではなく、かえって苦難を約束されます。
 人間の歴史は、苦難に冒険的にいどんだ者たちによって変えられてきました。イエスは冒険的な信仰の道を示しておられますが、それが狂信的冒険でないことは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10章16節)という迫害に処す原則提示によって知られています。

4.イエスは彼の羊たちを最終的にどのように守るのでしょうか。
 14−15節と17−18節は、父なる神との交わりの中でイエスが命を捨てることが語られています。特に17−18節では、イエスは強制的に命を奪われるのではなく、自ら進んで命を捨てることが言われます。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」。
 その理由が二つの方向から述べられています。第一に、父なる神がイエスを愛しており、命を捨てることは父なる神の「掟」、つまり意思だと知っているからです。「それゆえ、父はわたしを愛してくださる」。「これは、わたしが父から受けた掟である」。
 第二に、命を捨てるのは、「再び受ける」ことができると知っているからです。「わたしは命を、再び受けるために捨てる」。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。 イエスの死と復活は神のみ旨です。イエスは父なる神との交わりの中で、「再び受ける」という確かな希望に包まれて自ら進んで十字架上で命を捨てるのです。
 14−15節と17−18節は、父なる神との交わりの中でイエスが命を捨てることが語られましたが、16節では命を捨てる理由が語られています。「この囲いに入っていないほかの羊」とは異邦人を指します。彼らは「(イエスの)声を聞き分ける」し、「一つの群れに(なります)」。イエスが十字架上で命を捨て、復活によって再び命を受けた後、異邦人も救いにあずかります。異邦人には私たちも含まれます。最終的にイエスの十字架上の死と復活によって、私たちも救われ、守られることが約束されているのです。

■ 今日の福音のまとめ
 今日の福音は羊飼いと羊たちとの深い交わりに焦点をあて、イエスは弟子たちにとって、指導者以上の者であると強調します。羊たちは羊飼いの声を聞き分けて彼について行きます。羊飼いは自分の羊を個別に知っており、それぞれの羊たちの必要を知っています。羊たちに求められているのは、羊飼いであるイエスの声を聞き分け、イエスがどこへ行こうとも後をついて行くことだけです。「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。キリスト者の共同体はふさわしく福音を歩むとき、「一人の羊飼い、一つの群れ」という理想が実現するのです。
 「狼」は羊を奪い、殺します。狼は偽預言者や偽教師です。彼らは自分自身を宣べ伝え、自分の知恵や思想を語り、良い羊飼いとして命を捨てるイエスを無視します。
 ところで、自分自身の心の中に「良い羊飼いのイエスと羊である自分」だけではなく「狼」も棲んでいませんか? この「狼」は他人のことを指していません。自分自身のことです。「狼」に心を奪われないようにしましょう。
2024年4月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部で、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、本文では「斜字(イタリック)+太字」で、小見出しでは「頭に「■」を付ける+下線」で代用させていただきました。ご容赦を。
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