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主イエスは天に上げられ、
神の右の座に着かれた
〜 昇天は別れではなく、
新たにイエスと私たちが
「共に働く」開始の時 〜
主の昇天B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   16章15−20節


 今日の福音は三つの段落に分けることができます。中心は19節でイエスの昇天を述べています。その前に置かれた前半部(15−18節)ではイエスの指示が述べられ、後に続く20節では指示を忠実に実行する弟子たちの姿が描かれています。

 弟子たちの不信仰を強調する
  三つの顕現物語

 今日の福音の直前(マルコ16章9−14節)には「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」が述べられています。
1.「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。…マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(9−11節)。
2.「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことを信じなかった」(12−13節)。
3.「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」(14節)。

 今日の福音は、「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」の直後に置かれていますが、弟子たちが不信仰から脱却したとはどこにも書かれていません。イエスが弟子たちを宣教に向けるのは、彼らが完全な信仰を持っていたからではありません。不信仰であっても宣教へと送り出しています。

 弟子たちの実行
 15−18節では不信仰な弟子たちに宣教という指示が与えられ、20節では弟子たちはその指示を忠実に実行しています。
 20節の日本語訳は「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで働いた。主は彼らと共に働き…」というように二つの文章に訳されていますが、原文ではこの二つの文章を独立属格構文によってひとつながりの文章にしています。文法的にはひとつながりの文章にすることで宣教する弟子たちと「共に働く」イエスの存在を強調しています。
 イエスは宣教という指示を弟子たちに与え、弟子たちはその指示を忠実に実行します。宣教は人々を信仰へと招くだけでなく、不信仰を抱えたまま宣教した弟子たちをも変えます。なぜならそこにイエスが「共に働く」からです。

 今日の福音のまとめ
 聖書学では、今日の福音は2世紀初めのマルコの教会に属する人たちによる加筆だと考えられています。当時の教会の人たちは直接肉眼でイエスを見た人たちは帰天し、多くの信仰者は宣教者の証言を信じた人たちでした。今日の福音の直前に置かれている「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」は実際に当時の教会に起こっていた出来事なのです。
 今日の福音を加筆した人たちは自分の共同体の中に不信仰の状態、即ち復活したイエスと出会う信仰体験をすることなく、直接肉眼でイエスに会った人たちの証言を懐疑的であることから生じる不信仰を見ていたのでしょう。そして、これは今日の教会の中でも同じような不信仰が数多くの次元で見られます。
 今日の福音で驚くべきことは、イエスは弟子たちの不信仰を叱責(16章14節)しますが、その弟子たちに対して「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」(15節)と指示をします。イエスは宣教者に完全な信仰を期待していないのです。
 「第一朗読」と「福音」の昇天は、宣教という「横への広がり」を可能にし、「第二朗読」の昇天は信仰の成長という「縦の広がり」を可能した出来事です。不信仰をイエスに叱責された弟子たちは、イエスの指示を忠実に実行することで、「共に働く」イエスによって、全世界へ向かう宣教者と変えられ、またよりいっそう深く知ることができるようにされました。
 昇天という出来事はイエスが地上から遠く離れてしまったように見えます。しかし宣教の主体は弟子たちというよりも、イエス自身であることを考えれば、イエスは離れたのではなく、むしろ昇天したことによって、「神の右の座に着かれ」(19節)、地上と天とがいっそう緊密に結ばれることになったのです。昇天はイエスとの別れではなく、新たに私たちと「共に働く」開始の時なのです。

 レクティオ・ディヴィナから
 自分の周りの人々に福音を分かち合いなさい(宣べ伝えなさい)というイエスの呼びかけにどのように応答しますか。信仰を分かち合った時の経験はどのようなものでしたか。福音の証人となるために力を与えていただけるよう聖霊に祈りましょう。
2024年5月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教