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これはわたしの体である。
これはわたしの血である
〜 キリストの聖体B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   14章12−16節、22−26節


 過越の祭りはモーセの律法に忠実なユダヤ人が、過越の小羊を屠り(ほふり)食(しょく)するために、エルサレムに集まりました。この祭りは、ユダヤ人がエジプトにおける強制労働から解放されたエジプト脱出を記念して行われました(出エジプト記12章1−27節)。

 過越の食事をする(12−16節)
 もともと遊牧民は小羊を屠る春の祭りを祝い、農耕民は春先に古いイーストを廃棄して、新しいイーストができる前の八日間を除酵祭(種無しパンの祭り)として祝いました。ユダヤ人はこの二つの春の祭りに合わせて、エジプト脱出を祝う歴史的なユダヤ教の祭りに変化させました。過越の食事は家族ごとに家でしますが、そのための小羊は、神殿で祭司たちが律法に従って屠りました。神殿の儀式と家庭の祝いが密接に結び付いていました。イエスはユダヤ人たちの出エジプトを記念する過越の食事を「最後の晩餐」として選ばれたのです。

 主の晩餐(22−26節)
 過越の食事の前半は父親が子どもに話す形で「出エジプト」の出来事が語られました。種無しパンや苦い野菜はエジプトの苦しい奴隷生活を忘れないためだ、と言われました。そして後半の食事そのものは、パンの祈りから始まりました。その祈りにイエスは新しい意味を付け加えたのです。「わたしの体だ」と。福音書や典礼の伝統は「あなたがたのために渡されるわたしの体」―《あなたがたのための》(汽灰螢鵐判11章24節)、《あなたがたのために与えられる》(ルカ22章19節)―と、裂かれたパンの中に十字架の死に渡されたイエスの体を見ています。
 過越の食事ではパンと苦い野菜のほかに小羊の肉や他の豆類などを食べたと思われますが、最後に祝福の杯というぶどう酒の祈りで終わりました。ルカの福音書では「食事を終えてから」(22章20節)と言い、パンとぶどう酒の間に食事があったことを示しています。そしてこの最後のぶどう酒は「あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」(22章20節)という言葉で、十字架を祭壇として屠られるイエスの姿を暗示しています。
 旧約(旧い《ふるい》契約)はシナイ山で、雄牛の血で結ばれました(今日の第一朗読 出エジプト記24章3−8節)。過越の食事の席で、イエスは自分の血で新しい契約が結ばれると宣言します。新しい契約とは、イエスの犠牲、死を通して、神と人間を結ぶ契約です。人間がイエスを通して神を知り、神を愛するようになります。ユダヤ人だけでなく、すべての人と神をつなぐ契約なのです。
 「神の国で新たに飲む日まで…」という言葉から、死に際して、イエスが受け止めていたのは、神の国でした。神の国は、イエスが死ぬことで完成するという確信があったのです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは、過越の食事の祈りに「わたしの体、わたしの血」という新しい意味をあたえました。さらにルカによる福音書では「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(22章19節)と言われます。イエスは「最後の晩餐」の記念の儀式(=ミサ)を行って、イエスがどのような救い主なのか、何を教えどんな生き方をし、そのためにどのような苦しみを受けなければならなかったか…それを忘れるな、いつも目の前に見ていなさい、と言われるのです。単に「最後の晩餐」を思い出すだけでなく、それが何を意味しているのかを心に刻みなさい、という命令です。
 2012年「福音宣教」5月号(58−59頁)に「次の世代に」という題で、中川明神父様(高松大阪教区)の次のような記事がありました。「キリスト教信者とそうでない人との結婚準備講座では、からだの復活と聖体にも触れます。カトリック信仰の中核なのに、普通の日本人には奇妙に見えるだろうと思われるからです。ある時、信徒の若い女性が『変なことを言っているでしょう』と恥ずかしそうに相手に言うのを聞き、『やはり』と思いました。その後の私の説明に彼は得心していましたが、従来の信仰教育には肝心な何かが欠けていて、それは自分たちの信仰を恥ずかしく思うほどなのです。…『ただ信じればいい』と言われ、結局何も分からぬまま忙しい日常に追われ、時間だけが過ぎ、周囲にも次の世代にも信仰を伝え得なかったのが、戦後の日本の教会かもしれません。破綻しかかっているのなら、まず、自分の信仰を振り返るべきかもしれません」。
 イエス・キリストの意志に基づき、キリストの出会いをもたらすために特に定められて教会生活の中心をなしている特定のしるしがあります。キリスト者はこの特定のしるしを「秘跡」と呼びます。
 カトリック教会には、キリストに由来するものとして秘跡が七つあります。日本のカトリック教会ではこの七つの秘跡を、洗礼の秘跡、堅信の秘跡、聖体の秘跡、ゆるしの秘跡、病者の塗油の秘跡、叙階の秘跡、結婚(ないし婚姻)の秘跡、と呼んでいます。
 これらの秘跡には共通の要素があります。その一つは、いずれもしるしとしての性格を明瞭に持っていることです。まず、人間性に深く根づいた、したがってまた人間生活にしばしば見出される、象徴的な意味を帯びたある種の動作が根本的な要素となっています。こうした動作はキリスト教に限らず、他の諸宗教でも宗教的儀式に用いられますが、秘跡の場合には動作の意味を明らかにし、救いをもたらすキリストの業と結びつけるある言葉が伴われます。
 聖体の秘跡 言葉→これはわたしの体である。これはわたしの血である
 聖体の秘跡 動作→聖体を食べる(拝領する)。聖体を見るは秘跡ではありません。
 聖体の秘跡の意味を心に刻み、自分の信仰を振り返りましょう。
2024年6月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教