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サタンは滅びてしまう
〜 年間第10主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   3章20−35節


 誤解する身内の人たち
  (20−21節)

 今日の福音の直前には、救いを求めてイエスに押し寄せる群衆(3章7−12節)及び彼の活動に参与するために十二人を任命し、使徒と名付けたことが記されています(3章13−19節)。それとは対象的に、今日の福音では、イエスについて「気が変になっている」と誤解する身内の人たち(21節)と「ベルゼブルに取りつかれている」と中傷する律法学者たちが描かれています(22節)。
 「身内」とは直訳では「彼のところの者たち」で、使者(古典ギリシア語)、賛同者、随伴者(七十人訳)、隣人、友人、親類(パピルス)などという広い範囲の人々を指しています。その人々は、イエスの気が変になったというのでイエスをとり押さえに来ました。気が変になったというのは、精神異常になるという意味ではなく、神に対する熱心さのあまり常軌を逸している、とか、悪霊に取りつかれた、という意味です。

 ベルゼブル論争
  (22−30節)

 律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言います。ベルゼブルとは悪霊の王、頭ということです。学者たちは単純に気が変になっているということではなくて、宗教学的な解釈をします。ただ、学者たちのプロ的表現と、身内の人たちの受け取り方とはつながっています。イエスが「ベルゼブルに取りつかれている」という第一の中傷は、古代人にとって、この言い回しは「気が変になっている」とは同義でした。
 第二の中傷―「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22節)に対して、イエスは王国のたとえ(24節)、家のたとえ(25節)、家財道具のたとえ(27節)によって、この中傷の不合理性を指摘します。国も家も内輪に争いがあれば成り立たないし、「強い人(サタン)」をイエスが縛り上げたから、「家財道具(サタンに捕らえられていた人々)」がサタンから解放されたのです。このイエスの業は聖霊の働きなのであり、それを見落とし、ベルゼブルの働きだと言い張る者は「聖霊を冒涜する者」であり、「永遠に罪の責めを負う」ことになります(28−30節)。

 イエスの母、兄弟
  (31−35節)

 イエスのことを心配してやって来た「身内の人たち」の中にイエスの母と兄弟たちがいました(31節)。マリアが人々の噂を聞き、イエスのことを気にして、呼びにきたということは、想像することができます。ヨセフについては一言も記されていないので、多分既に他界していたものと推測されます。イエスの兄弟については古来三通りの解釈があります。.茱札佞肇泪螢△梁子たち。▲茱札佞叛荳覆箸梁子たち。イエスの従兄弟(いとこ)たち。カトリック教会はの解釈を採用しています。
 イエスは周りに座っている人々を見回して(34節)、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と教えます(35節)。イエスが運ぶ神の国(支配)は、血脈を中心にした関係を終わらせ、まったく新たな関係を作り出しているからです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の冒頭では群衆のあいだのイエスの人気について言及します(20節)。しかし、イエスはすべての人に理解されたのではありません。むしろ、身内の人たちに理解されないのです。「私の母、私の兄弟とは誰か」(33節)。イエスはここで血縁によらない、人と人との新しいつながりを指し示します。
 「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」(34節)。イエスは周りに集まった群衆を見回して(34節)イエスは言います。
 「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)。これは、この群衆のようにイエスと共にいることが、「神の御心を行っている」ことだという意味です。しかし、こう考えるのは単なる説明です。イエスの言葉は目の前の人々に働きかけています。イエスの目は周りに座っている人々に注がれています(34節)。
 常識的に見て、マルコ福音書が編集された時期はイエスが亡くなられて、まだしばらくしか経っていない時で、しかもイエスは死刑囚として処刑されて、地上を去ったかたですから、海のものと山のものともわからない状況にキリスト教はあったわけです。今のようにキリスト教が生まれて2000年も経っていて、文明諸国が皆受け入れている時代とわけが違います。
 そのような時期にあって、イエスに従い、彼と共にいるために、家族との絆を失くした人、家族から顧みられなくなった人、家族の中で決定的な対立に陥っている人々がいました。この人々に向かって「あなたがたが、私の家族なのだ」とイエスは語りかけるのです。それは、この人々にとってどれほど大きな喜びでしょう。
 家族は大切なものですし、家族は大切にしなければいけません。しかし、家族との絆を失った人々にとって「家族にこそ救いがある」と言われても、その人々にとっては救いにはなりません。イエスの救いはすべての人に向けられていました。それを私たちが自分のある狭い枠(自分の家族、自分のグループ、自分の国……)の中だけでイエスの言葉を理解しようとしてもすべての人の福音にはならないのです。
 しかしながら、私たちが、苦しみにあるすべての人と生きることを願うならば、その人々と共にすべての人の救いを探し求めるのであれば、イエスの言葉は福音として響いてきます。イエスはそういう人と人の大きなつながりの中に私たちを招いています。
2024年6月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教