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少女よ、
わたしはあなたに言う。
起きなさい
〜 年間第13主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   5章21−43節


 今日の福音は、ヤイロの娘の蘇生の物語(21−24節a、35−43節)の中に出血の止まらない女性の奇跡的な治癒の物語(25−34節)が挿入され、サンドイッチ型の構成となっています。
 二つの物語を結び合わせているのは「信仰」というテーマです。
 イエスは願いに答えてヤイロと一緒に出かけます。その途中で「出血の止まらない女性」に出会います。もしイエスがまっすぐにヤイロの家に行っていたら、娘が死ぬ前にヤイロの家に着いたかもしれません。二つの物語のつながりを考えるならば、その間には単なる時間の経過だけでなく、「信仰」というテーマを深めているのです。

 癒し(いやし)と救い
 出血の止まらない状態とは、婦人病のことです。ユダヤ教の律法によれば、この病気を患う女性は宗教上汚れた者であり、彼女が使った物に触れる人も汚れるとされていました(レビ記15章25節以下)。従って、いかなる宗教行事にも参加できず、ユダヤ人共同体から疎外されました。特にユダヤの婦人にとっては12年間もこの病気を患うということは大きな苦痛でした。26節の「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしでも…」というところは、現代でもありそうな描写です。
 イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34節)と言います。この箇所(34節)で「救う」と訳されたギリシア語動詞「ソーゾー」は、「出血の止まらない女性の奇跡的な治癒の物語」では、23節、28節、にも使われています。
 「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(23節)。
 「この方の服にでも触れれば癒していただける」(28節)。

 「ソーゾー」(救う)は、23節で「助かる」、28節で「癒す」という言葉に訳されています。ここで、この言葉「ソーゾー」(救う)が使用されているのは、イエスの奇跡的な力の介入によらなければ病気は癒されないという、ヤイロと出血の止まらない女性の信仰を示しています。
 女性の出血が、彼女がそっと分からないように触れることで止まるとき、今日の福音は、彼女が「救われた」とは言わず、「(病気が)癒された」と言います。彼女が恐れおののきながらイエスのもとに来て、イエスの前にひれ伏し、すべてありのままをイエスに話したのちにはじめて、イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言います。「救われた」ということは、ただ単に病気が「癒された」だけでなく、宗教的な汚れや恐れから解放されて、共同体の生活の中に再び入れられることを示しています。同様に、ヤイロが娘の命を助けてほしいと願ったときの「ソーゾー(救い)」(23節)は、娘を死から生きかえらせるものとなります(41−43節)。
 しかし、「あなたの信仰があなたを救った」というのは不思議な言葉です。出血の止まらない女性を救ったのは、神の力やイエスの力です。しかし、あえて「あなたの信仰があなたを救った」といいます。「救われる」ためには信仰の役割が重視されているのです。

 今日の福音のまとめ
 幸田和生司教(東京教区)は「こころをよむ マルコによる福音書 上」(日本放送出版協会)139頁で次のように説明しています。

 「マルコ福音書の中での信仰(ピスティス)ということばは、『信仰』というよりも『信頼』といった方が良いと思います。…あらゆる手を尽くして病気がよくならなかった彼女にとって、それは『あきらめないこと』を意味していました。…イエスは、この「ピスティス」に大きな力を見ます。それはその人の中で何かを変えるのです。絶望が希望へ、あきらめが信頼へと変わっていくときに、「癒し」が成り立ちます。神が全能であると信じ、神が自分に目を止めてくださることに希望を置き、神から来る救いを受け入れる姿勢なのです。このような神への信頼は何よりもイエス自身が生きた姿勢でした。そのイエスの信頼が、人々の中に同じ信頼を呼び覚ましていったのです。
 この信仰(ピスティス)というテーマが、36節のイエスの言葉、『恐れることはない。ただ信じなさい』につながっています。娘の死という出来事に直面したヤイロに向かってイエスが求めるのは、このような信頼なのです。恐れは人をとりこにします。恐れの中で人は行き場を見失うのです。しかし、それを突き破って神に信頼すること、それが信仰(ピスティス)の力なのです
」。

 私たちは、信仰の反対は「不信」「疑い」だと考えます。しかし、信仰(ピスティス)は「信頼」といった方が良いのですから、信仰の反対は「絶望」「あきらめ」「恐れ」です。
 つまり、信仰とはあきらめない態度です。イエスなら何とかしてくれるのではないか、という必死の思いなのです。ヤイロは自分の娘のためにイエスへと向かいました。女性は、言葉より行動を通して自分の信仰を示しました。それが、今日の福音が私たちに教える「信仰」なのです。あきらめないヤイロの信仰が娘を救います。イエスは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われた。少女はすぐに起き上がって、歩きだした(41−42節)。

 レクティオ・ディヴィナ…
  MEDITATIO(黙想する)から

 ヤイロは、他の人にあきらめるようにと誘惑されました。彼がイエスを信じ続けるために何が助けになりましたか。あなたの信仰にはどんな試練がありましたか。そしてあなたは今もイエスを信頼していますか。
2024年6月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教