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預言者が敬われないのは、
自分の故郷の中だけである
〜 年間第14主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   6章1−6節


 今日の福音は、イエスが「故郷のナザレ」に行かれ、故郷の人たちの不信仰に驚かれた、という記事です。ここにも先週に続き「信仰」というテーマが現れます。

 人々のつまずき
 イエスは会堂で教え始められると、(ナザレの)多くの人々はそれを聞いて、驚いて三つの問いを問い始めます(2節)。「この人はこのようなことをどこから得たのだろう」、「この人が預かった知恵は一体何か」、「どうやってその手でこのような奇跡を行うことができるのか」。この問いを大切にしていけば、故郷の人々はイエスの教えと業(わざ)の背後に働く神に出会い、イエスが本当に誰であるかを知ることになります。驚きと問いは、信仰への入口だからです。
 けれども、3節で人々の驚きはすぐにしぼみ、問いはいつしかイエスに対する不信感を表す言葉へと変わってしまいます。彼らの言葉は、「この人は大工ではないか。マリアの息子で…」(3節)というものでした。彼らは彼らなりにイエスを知っていたのです。ナザレの人々にとってイエスはある意味で近すぎました。そのため、自分たちの理解の範囲内でイエスを理解しようとするのです。ナザレの人々から見れば、イエスとは所詮「大工で、マリアの息子」のイエスだったのです。
 しかし、イエスはそういう人間的な理解を超えたところから人々に語りかけます。それが彼らには理解できません。イエスの語ることばが神のことばであり、イエスの行いが神から来ていることを理解できないのです。
 このようにしてナザレの人々はイエスにつまずきます。「つまずく」とは「罠(わな)にかかる・落とし穴にはまる」ことを意味しています。その罠はイエスが仕掛けたものではありません。ナザレの人々は、イエスを自分たちと同じレベルに引き下ろし、イエスに不信感をいだき、自分から罠の落とし穴にはまったのです。

 不信仰に驚かれた
 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5節)。
 イエスの驚くべき知恵や奇跡の業を目にしたとき、故郷の人々はそれを素直に認めようとせずに、「この人は大工ではないか。マリアの息子で…」(3節)と考え、「自分と同列の人間にすぎない」と判断します。このとき、人々はイエスにつまずき、イエスに不信感をいだきます。そして、イエスも奇跡を行うことができません。行う力が失せたからではありません。行っても、奇跡とならないからです。奇跡は神の働きを示すしるしであって、人々を楽しませるためのパフォーマンスではありません。
 マルコ福音書は、信仰がない(不信仰だ)と「奇跡を行うことができなかった」と書きます。マタイは「できなかった」という表現を弱めて、「なさらなかった」というふうに言い換えています(マタイ13章58節)。マルコは、このような表現を使うことによって、「信仰」というテーマを強調します。

 今日の福音のまとめ
 マルコ福音書は、イエスのこの故郷訪問を、イエスの宣教生活に一大転換をもたらした出来事とみなしています。イエスは宣教の初期から「会堂」で教えを述べました。しかし、ナザレの会堂における人々の「不信仰に驚かれた」後、もう二度と会堂の中に足を踏み入れません。さらにマルコ福音書は、ナザレの人々の不信仰を、「会堂」で代表される全ユダヤ人の不信仰の典型とみなしていました。それで故意に「ナザレ」という名を使わずに「故郷」という用語を選んだと考えられています。「預言者が敬われないのは、自分の故郷の中だけである」。

 先週の福音のまとめで信仰(ピスティス)について次のように述べました。
 「マルコ福音書の中での信仰(ピスティス)ということばは、『信仰』というよりも『信頼』と言った方が良いと思います。それは『あきらめないこと』を意味しています。それはその人の中で何かを変えるのです。…イエスは、この「ピスティス」に大きな力を見ます。…神が全能であると信じ、神が自分に目を止めてくださることに希望を置き、神から来る救いを受け入れる姿勢なのです。このような神への信頼は何よりもイエス自身が生きた姿勢でした。そのイエスの信頼が、人々の中に同じ信頼を呼び覚ましていったのです。…私たちは、信仰の反対は『不信仰』『疑い』だと考えます。しかし、信仰(ピスティス)は『信頼』と言った方が良いのですから、信仰の反対は『絶望』『あきらめ』『恐れ』です」。

 ここでいう信仰(ピスティス)とは、イエスへの信頼です。神についての何らかの理解ではありません。イエスならば何とかしてくれるのではないかと思い、ひたすらイエスに向かっていく姿勢です。
 故郷の人々はイエスの身近にいただけに、その人間的な面にこだわり過ぎます。彼らは、イエスを普通の大工であり、その家族を知っていると言います。このように、彼らはイエスにつまずきます。それは単なるつまずきではなく、「イエスについて」のつまずきです。イエスのうちに、そしてイエスの「知恵と奇跡の業」の背後に働く神の姿ではなく、肉の姿しか見ない人は、皆つまずくのです。つまり、そのような人々は、イエスを信頼することができないのです。
2024年7月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教