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イエスは十二人を
遣わすことにされた
〜 年間第15主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マルコによる福音
6章7−13節
「イエスは十二人を遣わすことにされた」。今日の福音は十二使徒の派遣です。すでにマルコは3章13−19節で十二使徒の選びについて語り、さらに十二人を選定した目的にも触れて、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるためであった」と言っています。今それが実行に移されるのです。
〔語句の説明〕
7節「二人ずつ組にして遣わす」。 二人一緒の旅はユダヤ人の慣習で、初代教会の宣教にも取り入れられています
8節「杖」。 野獣や盗賊から身を守るための棍棒(こんぼう)。
「パンも(持たず)」。 パンを持たないで旅をするのであるから、食物は訪問先の接待に頼らなければいけなくなります。
「袋」。 他人からもらった食物や貨幣を入れる袋。
「下着は二枚着てはならない」。 当時は下着を二枚着ることは贅沢(ぜいたく)と考えられていました。
10節「ある家に入ったら、…その家にとどまりなさい」。 この指示はキリスト者の家の存在を前提にしていると思われます。とにかく使徒たちは居心地のよさを求めて家々を渡り歩いてはならないとされます。
11節「足の裏の埃を払い落としなさい」。 敬虔(けいけん)なユダヤ教徒は異教徒の地からユダヤ人の地へ戻る前に、足や衣服の埃(ほこり)を汚れた(けがれた)ものとして落としました。「足の裏の埃を払い落とす」所作は、その土地を異教徒の土地と見なすことを意味しています。
「油を塗って多くの病人をいやした」。 油は古代世界では医薬品として広く用いられていました(イザヤ1章6節)。
しかし、十二使徒が油を用いたのは、医薬品としてではなく、目に見えないで働く、神のいやしの力を、目に見える形で表す象徴的な意味であったかも知れません(ルカ10章24節)。或いは、イエスのいやしの業と、弟子たちのそれとを区別するためであったかも知れません。なぜなら、イエスのいやしの業は、手を置くか、唾液(だえき)をつけるかなどの方法で行われており、弟子たちのように、油を塗っていやしたことはなかったからです(マルコ10章13節、ヤコブ5章14節)。
レクティオ・ディヴィナ
LECTIO…読む の解説
レクティオ・ディヴィナでは、次のように今日の福音を解説しています。
- 彼ら(使徒たち)を遣わすことを決めるのはイエスです。使徒たちのアイデアではありません。「いつ」そして「どこへの」「どのような」旅なのか、イエスがすべて決定しています。
- イエスは彼ら(使徒たち)が神の力のみを頼ることを重ねて強調します。そのために荷物はいりません。お金も食料も着替えも必要ではありません。
- (宣教の)旅は使徒たちのためのものではありません。彼らは神の呼びかけに応えています。(宣教をするためには)信仰と信頼は欠かせません。
今日の福音のまとめ
イエスは、神のみことばと悪霊に対する権能だけを身に付けて使徒たちを宣教に送り出されます。今日の福音は、使徒たちがどの地方をまわって宣教すべきなのか、またどの位の期間宣教に従事すべきなのかについては一切触れていません。ただ、使徒たちが、万事イエスの命令通りにおこなったことを伝えるだけです。このように、マルコの考えでは宣教者はイエスの代理であり、宣教者においてイエス自身が来られることを際立たせています。
宣教者は弱く貧しいが、イエスの力を宿し、人々を回心に導きます。マルコは宣教者にイエスの姿を見ていたのです。また、宣教者の側から言うと、宣教の頼りとなるのは神の力のみです。宣教者は宣教を通して働く、神の力を見ていたのです。
ここから教会(=私たち)は次のように問いかけられています。
- 12節で「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」と述べています。教会が宣教するとき、他の人に回心を求める前に、まず教会が回心する必要があるのではないでしょうか。
- 軽装で宣教の旅をし、提供される便宜(べんぎ)は何でも受けよと言うイエスの指示は、物質的な快適さへの関心や物質的なものへの依存による宣教が、教会の信頼をいかに損なっているのか、という問題を提起します。
- 宣教を受け入れない人々に対する「足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい」というイエスの命令は、神の力を信頼し続けることができない教会の方に責任があるのではないでしょうか。
宣教は神の宣教であり、神の働き・力です。教会は神の力を信頼しないで、他の人々に自分自身を押し付けていないでしょうか。人間の決断と応答にはタイミングがあります。そのタイミングは神が決めるものなのです。
今日の福音でイエスは十二使徒を派遣されたように私たちも派遣されます。神の力のみを信頼し、その応答として私たちに宣教という行動を促しているのです。
2024年7月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教