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イエスは
飼い主のいない
羊のような有様を
深く憐れまれた
〜 年間第16主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   6章30−34節


 今日の福音は、使徒たちが宣教から帰って来たときに、イエスが彼らを人里離れたところに導いて休ませようとされたこと、しかし群衆がイエスを求めてついて来たので主(しゅ)は群衆を教えられた、という内容です。

 《語句の説明》
 30節「使徒たち」。 マルコではここにだけ用いられています。この語はヘブライ語の「シャリアハ」に由来するものと考えられています。このヘブライ語は、ラビの用法では、権威を認められた代理人という意味を持っています。「シャリアハ」は忠実に使命を果たすとき、彼を任命した人と同じと見なされました。

 31節「休む」。 ギリシア語アナパウオー。文字通りに「体を休める」の意味ですが、ここでは神によって「元気づけられる」という積極的な意味が含まれています。弟子たちが休む「人里離れた場所」とは、イエスがそこで祈っていたように(1章35節)、神との交わりが繰り広げられる場所だからです。休息の時は、体の疲れをいやすだけでなく、宣教者である弟子たちが人々の願いに対応する力を神から得るためにも必要なことでした。

 34節「深く憐れみ」。 「憐れみ」は、ギリシア語スプランクノン(はらわた)という名詞を動詞化して、スプランクニゾマイ(はらわたする)という語を使っています。ユダヤの思想では、スプランクノン(はらわた)は人間の深い感情のやどるところであると考え、優しい思いやり、切なる憐れみ、熱情、愛情、心情など、この語によって切なる感情そのものを代表しました。「深く憐れみ」は、飼い主のいない羊のような群衆を見て、はらわたがぎゅっと締め付けられ、思いやりの心で一杯になり、いろいろと教え始めた、という愛し方です。マルコは、教えるイエスの心には深い愛が溢れている(あふれている)ことを指摘しているのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音のキーワードは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)という言葉です。
 使徒たちに対するイエスの憐れみは明らかです(30−32節)。使徒たちが行ったことや教えたことの報告を残らず聞くと、イエスは使徒たちが是非休息しなければならないことを敏感に感じとります。憐れみ…飼う者…休息。これは自分のもとにいる羊たち=使徒たちを保護するために心を用いる羊飼い(牧者)の姿です。
 しかし、「(彼ら)だけで人里離れた所」に退かせるイエスの計画は実現しませんでした(33−34節)。群衆は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、彼らよりも先に着きます。これは「真(まこと)の牧者」を懸命に求める羊の群れをあらわしています。イエスは舟から上がると、「人里離れた所」にいる大勢の群衆を見ます。この時点で、「飼い主のいない羊のような有様」の群衆へのイエスの「憐れみ」は、弟子たちや自分自身の関心よりも優先しています。イエスは群衆に「いろいろと教え始められ(ます)」。さらに今日の福音の直後にはパンをふるまいます(35−44節)。これは、イエスは「真の牧者」であることをあらわしているのです。
 旧約聖書では、リーダーがなく、打ち捨てられた民の状態を描写するのに、よく「牧者を欠く羊の群れ」の比喩(ひゆ)を使います。そして、神は、今日の第一朗読に見られるように、このような民に善い牧者を与えることを約束します。今日の福音は「真の牧者」であるイエスの姿を描いています。こうして、第一朗読のエレミヤを通して約束していた神の言葉が成就したことをマルコは宣言しているのです。

 現代社会では、医療や福祉制度の改善で、人の世話をする機関が充実され、私たちは「牧者」(仕える人・奉仕する人・世話をする人)の必要をあまり感じなくなっています。しかし、イエスを「真の牧者」とする人は幸せです。そしてイエスは今この「牧職」を使徒たちに授けになるのです。
 カトリック信者は洗礼のとき、「キリストの祭司職」(祈る)、「キリストの預言職」(信仰を伝える)、「キリストの牧職またはキリストの王職」(奉仕する)、に預かり、その使命が与えられています。そして、鍛冶ヶ谷教会では、カトリック信者に与えられた使命「キリストの祭司職」「キリストの預言職」「キリストの牧職(王職)」を果たすため、共同体として三部門を設置しました。三部門の名称は、「祈る力を育てるチーム」、「信仰を伝える力を育てるチーム」、「神の愛を証しする力を育てるチーム」としました。

 今日は、キリストから私たち一人ひとりへ、そして共同体に与えられた使命「牧職」について黙想しましょう。イエスの憐れみは人里離れた場所での神との交わりから来る憐れみです。神との交わりの時をもつことは、私たちが「牧職」という使命を果たす力を神から得るためにも必要なことなのです。そして共同体の「神の愛を証しする力を育てるチーム」の活動の推進のためにもお祈りください。

2024年7月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教