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イエスは座っている人々に、
欲しいだけ分け与えられた
〜 年間第17主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネによる福音
6章1−15節
今年はB年なので本来はマルコ福音書の年ですが、福音書が短いので、今日の福音「五千人に食べ物を与える」の箇所からヨハネ福音書の六章に移行します。この章は今日の福音「五千人に食べ物を与える」の後、「命のパン」についての長い説教が述べられている有名な箇所で、B年第17主日(今日)から21主日までの五主日にわたってその大部分が主日のミサで朗読されます。
今日の福音の解説
今日の福音は「五千人に食べ物を与える」という箇所で、一般的に「パンを増やす奇跡」と呼ばれています。「パンを増やす奇跡」の話は、四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)すべてに記述されています。ヨハネ福音書は、他の福音書と比べて、聖体を思い出させるような独特な記述が幾つかあります。
(1) ヨハネにおいてのみ、「感謝をささげること」を意味するエウカリテオという動詞を用いています。その語から、私たちは「聖体祭儀」(エウカリスチア)を思い浮べます。
(2) ヨハネにおいてのみ、最後の晩餐の時のように、イエスが自らパンを分けています。
(3) ヨハネにおいてのみ、弟子たちにパン屑が無駄にならないように、それらを集めるようイエスが命じています。
マルコ福音書では、イエスは弟子たちに直ちにその場を去るように強いていますが、ヨハネ福音書だけがその理由を教えています。即ち、人々はイエスに彼らの地上の王になるように望んでいたということです。
今日の福音のまとめ
4節以下で今日の福音は「パンを増やす奇跡」について述べていますが、ヨハネだけがそれを過越祭に関係づけています。
過越祭の食事の前半では父親が子どもに話す形で「出エジプト」の出来事が語られました。種無しパンや苦い野菜はエジプトの苦しい奴隷生活を忘れないためだ、と言いました。そして後半の食事そのものは、パンの祈りから始まりました。最後の晩餐の時、過越祭のパンの祈りにイエスは新しい意味を付け加えました。「わたしの体だ」と。
過越の食事は最後に祝福の杯というぶどう酒の祈りで終わりました。イエスは最後の晩餐の時、この最後のぶどう酒は「あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」という言葉で、十字架を祭壇として屠られるイエスの姿を暗示しました。旧約はシナイ山で、雄牛の血で結ばれました(出エジプト記24章3−8節)。過越の食事の席で、イエスは自分の血で新しい契約が結ばれたと宣言したのです。新しい契約とは、イエスの受難の死(十字架上の血)を通して、神と人間を結ぶ契約です。イエスを通して、すべての人と神をつなぐ契約なのです。
当時のユダヤの人々は、罪を犯した故に死がおとずれる、と考えていました。過越祭はエジプトの苦しい奴隷生活からの解放の記念の祭りです。同じように、イエスの受難の死(十字架上の血)は罪の奴隷(死)からの解放となります。ミサの中でパンとぶどう酒は「渡される体」「流される血」という聖別の言葉が示すように、イエスの受難の死を表しています。聖体の秘跡(御血)は、イエスの死、永遠の新しい契約を立てた死の記念です。私たちは聖体拝領によってこの契約にあずかり、死(罪の状態)から命を与えられるのです。ヨハネが「パンを増やす奇跡」を過越祭に結び付けたのも、過越祭の意味に基づいて、「パンを増やす奇跡」の意味を示すためです。死から命への過越をイスラエルにもたらすのは、「命のパン」としてのイエスなのです。
また、14節で人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言います。「パンを増やす奇跡」はイエスを、モーセが約束した終末の預言者として啓示します(申命記18章15節・18節)。今日の福音では最後の晩餐の時のように、イエスが自らパンを分けています。終末時の食事という思想は既に旧約聖書の中に見られるもので、例えばイザヤ書の中には神が「命のパン」を与えることによって、死者に生命を回復される、という希望が歌われています。
「万軍の主はこの山で祝宴を開き…すべての顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた(おおっていた)布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」(イザヤ書25章6−8節)。
「主が彼らを導いて乾いた(かわいた)地を行かせるときも彼らは渇く(かわく)ことがない」(イザヤ書48章21節)。
飢えと渇きの後には死が待っています。今日の福音は、人間的な弱さの表れである飢えを通して、イエスがそれを癒す「命のパン」であることを啓示しているのです。
イエスを信じる者はイエスのうちに「命のパン」を見ます。イエスは、弟子たちにパン屑が無駄にならないように、それらを集めるよう命じたように、「命のパン」はそのわずかなものも決して失われてはならないのです。今日の福音は、「感謝をささげること」を意味するエウカリテオという動詞を用いています。その語から、私たちは「聖体祭儀」(エウカリスチア)を思い浮べます。それは神のすべての賜物に対する感謝の祈りへの招きなのです。そして、その賜物の中心は「命のパン」であるイエスです。今日の福音は、「命のパン」に対する感謝の祈りを私たちに勧めているのです。
2024年7月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教