ミサの意味
〜 イエス・キリストとの対話 〜

「祈る力を育てるチーム」 田坂共愛


 私達は、なぜ毎週教会に集まるのでしょうか? また、集まるべきと言われているのでしょうか?
 カトリックの信者は、重大な理由(病気や乳児の世話など)の際を除く、主日及びその他の守るべき祝日に、ミサにあずかる義務を有していますが(新教会法 1247 条/カトリック教会のカテキズム 2181 条より)規範を守るためにミサにあずかるのでしょうか? ご聖体を頂くためでしょうか? それとも聖書を聞き、神父様のお話を聞くためでしょうか?

 ミサの中で私達は毎週、最後の晩さんの再現をしています。その最後の晩さんのとき、イエス様は、最後の晩さんの席についた際、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ 22 章 15)とおっしゃっています。
 私達が毎週ミサにあずかるのは、私達が最後の晩さんの席につくように、キリストが強く願っておられ、私達はそれに招かれて、ミサに臨むのです。そして、「過越の食事」を取ります。「過越の食事」とは、イスラエルの先祖の民が経験した出エジプトの出来事と重なります。イスラエル民の家の戸口に「屠られた子羊」の血を塗り、それが目印となって、その家は滅びから逃れました。この過越を忘れないために、ユダヤ教では毎年過越祭を祝います。
 最後の晩さんが行われたのは、この“過越祭”の季節でした。そこでイエスは「過越の食事」を選びました。これは、イエスの十字架上の死によって、これからはいけにえの子羊を屠る必要はなく、イエスが十字架の上で流してくださった血によって、私達に救いの業を行ってくださったのです。その「過越の神秘」を、私達は毎週のように現在化しているのです。

 私達はこうして、毎週イエスと食卓を囲んでいますが、ここで考えなくてはならないことがあります。それは、私達が弟子たちのように、イエスと親しい関係にあるか? ということです。ミサにも毎週行っているし、教会奉仕に積極的に参加している「信仰熱心な方」でも、イエスとの親しさや近さが感じられないことがありませんか? イエスの弟子たちは、宣教の道を歩む中で、イエスと親しく対話し、とても近い関係にあったはずです。教会が、自分の救いの場所、安全を確保するための「場所」で留まることなく、自分の感じたことや祈りを、イエスと対話、共有することで、イエスとの親しい交わりや、イエスと本当の繋がりを作ることが出来ます。

 そして、教会に集う一人ひとりがイエスとのつながりを持ち、最終的には「共同体全体」でイエスとつながることによって、私達も弟子達と同じようにイエスとの食卓を囲むことが出来るのです。この共同体の姿こそ、過越の子羊として屠られたイエスが強く願っておられた、「記念としてこれを行いなさい」と言われた「最後の晩さん/ミサ」の姿です。
 近年は、教会で行われる会議・分かち合い等の始めと終わりに、指名された一人が、自分の考えた言葉で「共同体の祈り」を捧げる機会が多くなりました。自らの言葉で祈りを捧げるとき、イエスとのつながり、ミサに集まる意味、イエスが最後の生贄の子羊となってくださった過越の秘跡について、今一度、見つめ直すきっかけになればと思います。
(典礼奉仕者養成コースに参加して)