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わたしは、
天から降ってきた
生きたパンである
〜 年間第19主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネによる福音
6章41−51節
今日の福音は、「天から降って来たパン」についてのユダヤ人の反応から始まります。彼らは、砂漠を旅した先祖と同様に(出エジプト15章24節、16章2節、7節、12節、17章3節など)つぶやきます。
ユダヤ人のつぶやき
(41−42節)
ユダヤ人がつぶやくのは、イエスが「天から降って来た」(41節)と述べたからです。彼の両親を「我々」(42節)は知っているし、「ヨセフの息子のイエスではないか」(42節)と考える彼らには、イエスがなぜ「天から降って来た」と口にするのか、理解できません。この42節では「我々」が強調されていますが、この「我々」はイエスを自分たちと同じレベルに引きずり降ろす「我々」であり、自分の考えから抜け出せずにいる「我々」です。だから、この「我々」は「どうして今、『わたしは天から降って来た』などと(イエスは)言うのか」(42節)とつぶやくことになります。
父が引き寄せる・
わたしのもとに来る
(43−46節)
この箇所では、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せる」(44節)「わたしのもとへ来る」(44・45節)という空間を示す表現が使われています。「引き寄せる」は、本来、舟とか車のような重い物を力いっぱい引っ張るときに使われる用語で、ヨハネ21章6節・11節では、海に打ってたくさんの魚を取り込んだ網を引き寄せる場面で使われ、ヨハネ12章32節では、イエス自身が「地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という預言の中に用いられています。
「天から降って来た」の「天」とは、父(神)と子(イエス)との親しい関係を示す用語で、私たち自身も「神によって教えられ」(45節 イザヤ54章13節)、「父から聞いて学ぶ」(45節)ことによって親しい交わりに入れられるのです。
しかしイエス自身は「父から聞いて学んだ者」ではなく、「神のもとから来て、父を見た方(かた)」(46節)であり、私たちのために「父から遣わされた方」(44節)です。従って、真実に「天から降って来た方」であり、また「天のパン」として、永遠の命を与える方なのです。私たちは、神から聞き、学び、そして引き寄せられてイエスを信じ、イエスのもとに行き、イエスから命を受けるのです。
天から降って来た
生きたパン(47−51節)
47−51節では「命」が種々の形で登場します。「永遠の命」「命のパン」「死ぬ=死なない」「生きたパン」「永遠に生きる」「世を生かす」です。イエスの与える「命」のパンはマンナとは本質的に異なっています。マンナはそれを食べても死んでしまいますが、「天から降って来た生きたパン」はそれを食べる人を死から救います。なぜならそれは世の命のためにささげられたイエスの肉だからです。つまり、「天からの降って生きたパン」が人々に与えられるためには、イエス自身の贖い(あがない)の死が必要です。「天から降って来た生きたパン」が信じる者に与えられることと、イエス自身の肉と血が犠牲としてささげられることとの間には、不可欠なつながりがあるのです。
今日の福音のまとめ
つぶやきをやめ、「引き寄せる」神の愛に応答し、イエスのもとに来た者は命のパンを受けます。このパンを食べる者は永遠に生きます。なぜならこのパンは「世を生かす」ためにイエスが差し出した自らの肉であり、人々を罪から贖った方(あがなったかた)の肉だからです。
こうして、今日の福音(イエスの命のパンについての説教)は、知らず知らずのうちに、イエス自身が「天から降って来た生きたパン」であるということから、イエスの肉を食べる必要に変わっています。イエスは「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)と言います。
最近の聖書学の研究は、この51節のイエスの言葉に、共観福音書の最後の晩餐の食卓におけるイエスの言葉「これはあなたがたに与えられたわたしの体である」を見ています。ヨハネ福音書は「体」の代わりに「肉」と言い換えています。つまり、今日の福音は、言(ロゴス)は肉となり(1章14節)、その肉と血を命の食べ物としてささげたということを強調しているのです。
信仰には二つの面があります。引き寄せる神の愛と私たちの決断です。神の愛は私たちをイエスのもとに引き寄せます。私たちはその愛に身を開き、その方のもとに行こうと決断します。イエスは父を見た唯一の方であり、私たちにその肉を与える方でもあります。このイエスの肉(ご聖体)が神と私たちの出会いの場となります。洗礼が、御父が御子と共有する永遠の命を私たちに与えるのなら、ご聖体はそれをさらに養い育てる食物なのです。
レクティオ・ディヴィナより
ご聖体を拝領することは、私たちの霊的な生活と、神と私たちの関わりを支え、深めます。あなたがイエスを信じ、愛する決意をしたのがいつだったのか、思い出せますか? あなたはまた、御父である神と聖霊とも同じように関わりを持っていますか?
2024年8月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 「司祭不在のときの主日の集会祭儀」
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