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わたしの肉は
まことの食べ物、
わたしの血は
まことの飲み物である
〜 年間第20主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音
   6章51−58節


 今日の福音で、イエスは「天から降って来た生きたパン」だと語ります。51節前半の「天から降って来た生きたパンである」は、50節以前の結びとなっています。ここでの「天から降って来た生きたパン」はイエスの「御言葉」を表しています(天からのパン=御言葉 知恵文学のテーマ 第一朗読)。51節後半でイエスは「天から降って来た生きたパン」は「わたしの肉」と語ります。ここで「パン」の意味が「ご聖体」に変わります(天からのパン=ご聖体 秘跡のテーマ)。

 ■今日の福音のまとめ

 知恵文学のテーマ
  (51節前半まで)

 第一朗読では、食卓を用意した知恵が「浅はかな者」や「意志の弱い者」を招き、「わたしのパン」を食べ、「わたしの調合した酒」を飲むように勧めます。第二朗読では、「愚か者としてではなく…細かく気を配って歩みなさい…今は悪い時代なのです」と諭します。
 今は悪い時代ですから、浅はかであったり、意志を弱くしたり、愚か者となることがあります。そこから抜け出すためには確かに「知恵」が必要です。しかし、第一朗読での「パンを食べ」と「酒を飲む」は、知恵を受け入れ、その指導に身を任せることを意味する比喩(ひゆ)的な表現であって、知恵が差し出した、物としての形を取った「パン」や「酒」があるわけではありません。つまり、第一朗読の「パン」と「酒」は、神の「御言葉」を表しているのです。
 今日の福音の51節前半の「わたしは天から降って来た生きたパンである」は、人が生きて従うべき「御言葉」を象徴する「パン」を表しています。だから「(その)パンを食べる者」とは、イエスの「御言葉」を受け入れ、深く心に留めることを意味します。
 今日の福音に登場するユダヤ人たちは、知恵文学の伝統により、人を生かす「天からのパン=御言葉」があることは認めますが、イエス自身がパン=神の御言葉だ、ということは、彼らには受け入れがたい主張なのです。
 イエスの「御言葉」は人々を養います。「五千人に食べ物を与える」(ヨハネ6章1−15節)でパン屑(くず)が少しも無駄にならないようにと、イエスが気をつかっているように、ここでも「御言葉」によって養われた者が誰も失われないようにと彼は気をつかっています。神の「御言葉」である「天からのパン」は、神の「御言葉」である「生きた水」(ヨハネ4章 サマリアの女 参照)と同じ結果をもたらすのです。
 「生きた水」或いは流れる水、湧き出る水は、パレスチナでは非常に大切にされていました。なぜなら、パレスチナでは、長く雨が降らない数か月の乾期の間、雨期の間に蓄えた雨水の水槽に頼らなければならなかったからです。「水」がないと人間は死にます。「水」は「命」を与えるものです。旧約聖書では、この貴重な「水」は、神の「御言葉」のシンボルでした。
 ヨハネ福音書4章のサマリアの女性は、「水」をただ単に「自然水」と理解したのですが、イエスは「生きた水」として私たちに与えられる「聖霊」のこととして語ります。そして、ヨハネの教会は、この「生きた水」を「聖霊」によって授けられる洗礼の「水」として理解したのです。

 秘跡のテーマ
  (51節後半から)

 今日の福音では「(パンを)食べる」が54節以降55節除くすべての節に現れます。「パンを食べる」は、「わたしの肉、わたしの血」という表現が使われていることから分かるように、もはや「御言葉のうちに差し出されたイエスを信じる」と言った意味ではなく、実際に口に入れて食べる食べ物を意味しています。
 最近の聖書学の研究は、イエスの「わたしの肉、わたしの血」という表現に、共観福音書の最後の晩餐の食卓におけるイエスの言葉「これはあなたがたに与えられたわたしの体である」を見ています。ヨハネ福音書は「体」の代わりに「肉」と言い換えているのです。つまり、ヨハネ福音書は、御言葉(ロゴス)は肉となって(1章14節)、その「肉」と「血」を「命」の食べ物としてささげたということを強調します。これは救いをもたらす御言葉が肉となった=「受肉」の宣言です。洗礼(生きた水)が、御父が御子と共有する命(永遠の命)を私たちに与えるなら、ご聖体(生きたパン)は、それを養い育てる食べ物なのです。
 今日の福音でイエスは「命のパンについての説教」を語ります。ユダヤ人は、知恵文学の伝統により、人を生かす「天からのパン=御言葉」があることは理解していました。「天からのパン=御言葉」、即ち「知恵文学のテーマ」がイエスの説教の最初の話題でした。それが、今日の福音では、天からのパンのより深い秘跡的意味(それは教会で通常にミサが行われるようになった後にキリスト者は初めて理解したことですが)を明らかにするために、ここで「天からのパン」と最後の晩餐に源泉をもつ「ご聖体の秘跡」の題材を組み合わせて説明しているのです。
 「パン」即ち食べ物を食べないと人間は死にます。「パン」は人間の「命」を養い育てます。つまり、御言葉としてのパン=知恵文学のテーマが、さらに肉と血のパン=秘跡のテーマとなって人々に「命」を与えます。
 私たちは今日も秘跡である「ご聖体」を拝領します。私たちは「御言葉」を聞くだけでなく、(もっと具体的に)「ご聖体」を拝領することによって、イエスからまことの「命」の恵みを頂いていることが分かるのです。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である」(55節)。
2024年8月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教