ヤコブとヨハネの願い

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 マルコ10章35−37・41−45節
 35節 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。36節 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。41節 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42節 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43節 しかし、あなたがたの間では、そうでない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44節 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45節 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 イエスの興味の中心は、個々の人間と神のみ旨(=神の心)にありました。ですから、政治の話や社会批判にはそれほど関心がなかったようです。ないですけれども、「ヤコブとヨハネの願い」の聖書箇所のように、イエスから出る言葉は、根本的な社会批判、政治批判となっている場合があります。
 「ヤコブとヨハネの願い」の場面は、イエスの受難が近づいたときに起こっています。イエスがもうすぐ死ぬというときに、弟子たちが喧嘩をするのです。ヤコブとヨハネは、イエスが栄光の座すなわちこの世の王になると考えていました。そこで、イエスが王になったとき、主要な地位に着かせてほしいとイエスに願いました(35−37節)。それを聞いて他の十人の弟子たちも腹を立てます(41節)。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言います。
 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」(42節)。
 異邦人の支配者とはローマ帝国であり、周りのいろいろな国であり、或いはユダヤ社会の指導者かも知れません。しかしなんとなく漠然とした言い方になっています。現代風に考えれば、この世の偉い人たち、お金を持っている人、指導者階級にいる人たちかも知れません。イエスは、そうしたところに変わらずある「力の法則」を指摘しています。それは支配―抑圧という関係です。そのからくりはイエスの時代から2000年経た現代にもあります。
 「しかし、あなたがたの間では、そうでない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(43−45節)。
 イエスはここで人が自分の力を使う場合、力を使う方向性が変わらないといけないということを言います。支配し抑圧し押さえつける力の使い方は、決してあってはいけない。あなたがたの間では、そうであってはいけない。力は仕えるためにあるのだと言っているのです。そうした形で力が用いられたときに、そこに新しい社会のあり方、新しい人間関係のあり方が見えてくるのだということです。
 教会では、司教・司祭・助祭などの叙階制度による役職を置いています。これは教会を効率的に運営するために設けられたもので支配―抑圧するためのものではありません。しかし、役職にある者は責任者として状況によっては毅然とした態度をとらねばなりません。 
 故ステファノ濱尾枢機卿が「司祭叙階」の「尊敬と従順」の場面で、「尊敬することは無理には求めないが、(従順のほうは)従ってもらわないと困る」と言っていたのを思い出します。これは司教と司祭たちだけでなく、司祭と信徒たちの場合も同様です。
 しかし、イエスが批判した支配―抑圧のルールが、教会のそこかしこに顔を現すこともあるでしょう(司祭と信徒だけでなく、信徒と信徒の場合が多々あります)。いわば、人間は弱くそれだけ罪深いのです。だからこそ、私たちはイエスの教えた「すべての人に仕える」ルールを心に留め、努めましょう。