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「あなたはメシアです」。
人の子は必ず
多くの苦しみを受ける
〜 年間第24主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   8章27−35節


 イエスは何者であるかという問いは、彼がキリストであるとのペトロの告白によって答えられます(29節)。そしてすぐに今日の福音の神学的な焦点は、イエスにとってキリストであることは何を意味し(31節)、キリスト者にとって彼に従う者であるということは何を意味するのか(34節)という問いに移ります。

 あなたはメシアです(29節)
 当時、二つのメシア像がユダヤ人の考えの中にありました。
 (1) 政治的・地上的な王として、ローマ帝国の支配から武力でユダヤを解放し、ユダヤ人たちを政治的、経済的に救ってくれる勝利者のメシア像。
 (2) 今日の第一朗読には、真実に神の国をもたらすものは、人々のために苦しみ、人々に捨てられ、苦しみと孤独のうちに罪人のごとくあしらわれ、殺され、葬りさられる、という「苦難の僕」の姿が書かれています。彼の苦難は何のためかというと、神と人との関係を回復し、贖う(あがなう)ためのものです。
 贖う(あがなう)…お金や品物を出して(イエスの場合は自分の命とからだをいけにえとしてささげて)罪が赦される、うめあわせをする、という意味です。贖う(あがなう)は神の業、償う(つぐなう)は人間の業を指します。旧約の民は神から罪が赦されるために(罪とは神から離れること、つまり神と人間が結ばれるために)動物を償いとしてささげました。新約では、イエスの贖いの業によって、動物をささげる必要がなくなりました。
 ペトロはイエスに「あなたは、メシアです」(29節)と告白します。(メシアはヘブライ語。メシアはギリシア語ではキリストです。)弟子たちは、イエスはメシアだと知っています。だが、イエスは御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちに言います(30節)。イエスは確かにメシアですが、人々が期待していた政治的・地上的な勝利者ではなく、十字架に上るメシアです。弟子たちはまだそれを理解していません。イエスは人々の誤解を避けるために、口外しないようにと命じます。

 人の子は
 …することになっている
  (31節)

 イエスは、「人の子は…苦しみを受け…捨てられ…殺され…復活されることになっている」(31節)と弟子たちに教え始められます。「…することになっている(原文では必ず…しなければならない)」(ギリシア語 デイ)が強調されており、人の子の苦難は偶然ではなく、必然的な神の計画に基づくものであることが示されています。「人の子」はダニエル書では栄光の雲に乗ってくる支配者として描かれています。
 「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない」(ダニエル書7章13−14節)。
 ところが、31節では「人の子」の苦難について語られています。苦難という思想は、イザヤ書の「苦難の僕」(今日の第一朗読)に見いだすことができます。栄光、権威、審判、支配などと結びついていた「人の子」の思想は、イエスにおいて、「苦難の僕」の思想が結び合わされ、新たに受難と死という意味内容を得ているのです。

 自分を捨て、
  自分の十字架を背負って、
   わたしに従いなさい
    (34節)

 イエスは群衆と弟子たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と言います。「捨てる」と訳されているギリシア語アパルネイスタイは「否定する」「否認する」という意味です。不定過去命令法なので、一回的にキッパリと捨てることを意味しています。
 「自分の十字架を背負う」は、十字架刑を言い渡された犯罪者が十字架の横木を刑場まで背負っていく慣習に由来する表現です。ここでは、いつでも殉教(死)の覚悟をしてイエスに従うことを意味しています。だから、この34節のイエスの言葉は、迫害と殉教の危機に直面していた当時の教会の信徒を励ますために編集された、と考えられています。

 今日の福音のまとめ
 ペトロの告白の後の「イエスは、御自分のことをだれにも話さないように弟子たちを戒められた」(30節)という言葉と、受難予告の終わりにある「そのことをはっきりとお話しになった」(32節)という言葉が対照的です。イエスをメシアであるという告白については沈黙を命じます。しかし、彼は拒絶と苦難と死と復活の道については「はっきり」と話します。
 つまり、イエスに従う決意を欠いた告白は、言葉そのものは正しくても、無意味な告白に終わります。自分は信仰を持っていると告白する者がいても、イエスに従うという行いが伴っていなければ、何の役にも立たないのです。
 「…することになっている」(ギリシア語 デイ)で説明したように、イエスの苦難は神の計画に基づくものです。イエスは神の計画・神の意思に徹底的に従ったゆえに、長老、祭司長、律法学者(ユダヤの議会サンヘドリンを形成する三つのグループで、当時のユダヤ教の指導者たち)と対立し、殺されます。現代の日本の教会は、迫害と殉教の危機に直面していた当時の教会と違って死を覚悟する必要はありませんが、イエスに従って十字架の道を歩むとき、地上的な価値観と対立する場合があることを覚悟する必要があるのです。
2024年9月15日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教