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わたしたちに逆らわない者は、
わたしたちの味方なのである。
もし片方の手が
あなたをつまずかせるなら、
切り捨ててしまいなさい
〜 年間第26主日B年〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マルコによる福音
9章38−43・45・47−48節
逆らわない者は味方
(38−41節)
ヨハネはイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)と言います。使徒言行録19章13節には、ユダヤ人の祈祷師(きとうし)たちの中に、イエスの名を唱えて悪霊を追い出そうとしていた者がいたことが記されています。イエスの時代にも、そのような者がいたのでしょう。
イエスは「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39−40節)と言います。ヨハネが自分たちに従わない者がイエスの名を用いるのをやめさせようとしたのは、正当な弟子である自分たちこそイエスの「名」の管理者であり、それを独占できると考えていたからです。イエスは「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」というヨハネの言い分に他人を支配しようとする傾向がひそんでいることを鋭く指摘し、イエスの恵みをヨハネたちだけの独占物にすることはゆるしません。イエスから見れば、ヨハネに従わない者もまた弟子なのです。
弟子の間の仲たがいは不必要な自負心から生じます。自分こそがイエスに従っているという意識が、他人を差別する心を生み、さらに自分の立場を絶対視する特権階級を育んで行きます。弟子とは、考えや立場の異なる者をも、受け入れる者のことなのです。
罪への誘惑(42−48節)
42−48節には「つまずく」が四回も使われています。「つまずく」は「わな」を意味する言葉からの派生語ですが、ここでは「イエスとのつながりを妨害するわなを張ること、つまり邪魔をする」ことを表します。イエスを信じる他人の邪魔をして、イエスとの関わりを妨害するのはゆるされず、また自分に属する手や足や目が自分とイエスとの関わりの邪魔となるなら、それを切り離すべきです。
ここでの「手」や「足」や「目」は、人間をさまざまに誘惑するものを象徴的に表しています。ですから、これらを切り離せ、という指示は文字どおりに取る必要はなく、イエスとの関係の邪魔となる誘惑物を断てという意味です。
今日の福音のまとめ
先週の福音は、イエスに従う者の取るべき態度を「仕える」と「受け入れる」ことを用いて教えています。今日の福音は先週の福音の続きです。
37節(先週の福音)でイエスは「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言います。今日の福音では、37節の「受け入れる」という言葉と対照的に、「わたしたちは…やめさせようとしました」(38節)というヨハネの言葉が述べられ、それに続いてイエスが「やめさせてはならない」(39節)と言います。「わたし(あなた)の名において」(37節、38節、39節)は、41節の「キリストの弟子だという理由で」(直訳 キリストのものであるという名において)と連続して使われ、今日の福音は先週の福音の続きであることが強調されます。
41節でイエスは「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言います。旅する伝道者あるいはキリスト者で困窮している人に水一杯であっても、身体的な助けや慰めを与える者すべてに対して、祝福を宣言しています。イエスに従う道「仕える」と「受け入れる」ということは、小教区のグループの中の者たちに限定されるのではなく、キリストを信じるすべての者に行きわたるべきものなのです。
42節でイエスは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、……」と言います。この節は37節(先週の福音)に部分的に並行しています。「これらの小さな者の一人」(42節)は「このような子どもの一人」(37節)に、「わたしを信じる」(42節)は「わたしの名のために」(37節)に一致し、「つまずかせる」(42節)は「受け入れる」(37節)に対立します。このように42節の言葉と37節の言葉は対をなしています。「子ども」(37節)と「小さな者」(42節)は、ここでは新しくキリスト者となった者たち、あるいは信仰的、社会的に弱い立場にあるキリスト者を表しています。イエスに従う者の取るべき態度は「仕える」ことと「受け入れる」ことです。そのことを忘れ、自分こそがイエスに従っているという自負心が、他人を差別する心を生み、キリストを信じる者を「つまずかせる」ことがないようにしたいものです。
42節以下では、他人に対する罪への誘惑に関する警告に、自分自身の内にある罪への誘惑に関する警告が付け加えられています。切り離せ、という指示は文字どおりに取る必要はありませんが、真剣に受け止めるべき命令です。イエスに従い、「神の国に入る」(47節)という卓越した価値のゆえに、イエスとの関係の邪魔となる誘惑物を断てということなのです。
※「子ども」(37節)と「小さな者」(42節)をもっと広く捉えて(とらえて)、教会の枠を越えて、一般社会の助けを必要とする力のない弱い人々を指しているという解釈もあります。人間の一般社会では有力者を重んじ、「小さな者」は軽んじられ、しばしば社会の犠牲とされます。キリスト者までもそのような風潮に染まらないようにと警告しているのです。
2024年9月29日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教