子どものように

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

1 マルコ10章13−16節
 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 「子どものように」は二つの解釈があります。皆さんは次のどちらが正しいと考えますか?
(1)「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」
(2)「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」
 (1)が正しいと考えた方は、「子どものように」の意味を、単純に、素直に神の国を受け入れる人が神の国を入ることができると考えています。
 (2)の「子どもを受け入れるように」となると意味が違ってきます。(2)が正しいのです。なぜなら、「(イエスは)子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(16節)からです。イエスは子どもたちを受け入れたのです。だから「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」と考えなければいけないのです。
 当時のユダヤ人の考えでは、子どもは律法について無知であり、それゆえに律法を守ることをできないし、神の前に何の功績も持っていません。イエスはそのような子どもに神の国を約束します。神の国は子どもに限らず、まさしくこのような人々に与えられるのです。それは神からの一方的な恵みです。
 これは律法学者やファリサイ派の人々と反対の考え方です。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を守ればその分、功績をあげればその分、神から恵みを与えられると思っていました。イエスはそのような報酬の思想を除外されたのです。

2 ヨハネ3章3節
 イエスはニコデモに言った。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」。
 「子どものように」とは弱く、貧しく、無きに等しい者であり、自分には全く功績や誇るべきものがないことを意味しています。
 ヨハネ3章3節では、「新たに生まれる」ことが神の国に入る条件だ、と言われています。ニコデモは宗教的指導者であり、教養のある教師であったのに、そのままでは神の国に入ることはできなかったことと考え合わせてみると、興味深いことです。自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認め、神に信頼する者のみが神の国に入ることができるのです。

3 マタイ5章45節
 父(なる神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
 イエスの神理解は、神を父とすること、「父なる神」という特徴があります。「父なる神」を理解するために、人間の親子関係を考えてみましょう。親は、子どもが生まれる前から生まれることを待ち望み、生まれる前から愛しています。同じように、「父なる神」は、私たちが神を知る前から先に私たちを愛してくださっています。それは、私たちが「父なる神」に愛されるための働きをしたので愛されたのではなく、無償の愛で愛してくださっているのです。

4 まとめ
 子どもを受け入れるということによって、イエスは何を言いたかったのでしょうか? 資格や能力があるので、律法を守ったので、善業を行ったので、その見返りに、報いとして神の国に入ることができるという発想を壊したということです。
 しかし、投資、取引、報酬の発想、費用対効果の生き方―見返りがなければ祈りや奉仕をする意味がない―このようなイエスが否定した考え方に私たちはどれほど深く浸りきっているでしょうか。それを否定して「新たに(子どもとして)生まれなさい」とヨハネ福音書は書いています(3章3節)。それを神の子と言います。「父なる神」は無条件、無償で神の子どもである私たちを先に愛してくださっているのです。
 つまり、「私は父なる神を知っている、私は父なる神を愛する」ことよりも「父なる神が私を愛しておられることを知っている」ほうが大切です。そうした私たちの父なる神に対する心が、祈りと奉仕の原動力となるのです。
 参考文献「聖書講座シリーズ8 今、キリストを証しする ・子ども……西経一神父著(神言修道会)」(カトリック京都司教区聖書委員会企画・編集、サンパウロ社発行)161−178頁