印刷など用に
Wordファイル
ダウンロードしたい方は
こちら

神が結び合わせて
くださったものを、
人は離してはならない
(副題 神の国に入る条件)
〜 年間第27主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   10章2−16節


 離婚について教える
  (2−12節)

 ファリサイ派の人々は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と、イエスは離婚についてどのように考えているのか、を尋ねます。「試そうとした」(2節)というのは、イエスが律法に反することを言ったなら、それを根拠にして、非難しようと、機会をねらっていたからです。
 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。
 5節でイエスは、モーセが上記の「離婚状による離婚」(申命記24章1節)を認める指示を書いたのは「あなたたちの心が頑固(がんこ)なので」と答えます。この句を直訳すると、「あなたたちの心の頑なさ(かたくなさ)に向けて」となります。「心の頑なさ(かたくなさ)」とは、神の指示への不従順が習慣化し、感覚のにぶった心を指します。「心の頑なな(かたくなな)」男性にモーセが離縁状を求めたのは、それを書く間に、離縁を考えたのは男性の勝手気ままな理由からではないか、と再考させるためなのです。
 そこで、イエスは「創造の初め」に注意を向けます。人間の「心の頑なさ(かたくなさ)」に目を向ければ、人間の身勝手さに引き寄せられ、「創造の初め」に思いを向けるなら、神の心に思いを寄せることになります。6節は創世記1章27節からの、また7−8節は創世記2章24節からの引用です。イエスが創世記から読み取ったことは、「神が人を男と女を造った。そういうわけで、人は父と母を残して、妻と結ばれ、一つの肉となる(直訳)。一つの肉(直訳)となったのは神がつないだからであり、それを人が引き離すことは神の思いにふさわしくない」ということなのです。

 子どもを祝福する
  (13−16節)

 イエスは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものである」(14節)と言います。当時のユダヤ人の一般的な判断によると、子どもは律法について無知であり、それゆえに律法に照らして神の前に功績は持ちえません。神の国は子どもに限らず、まさしくそのような人々に与えられます。それは神の一方的な恵みにほかなりません。律法を守ることによって自分の正しさを主張するファリサイ派の人々への根本的な批判をここに見ることができるのです。
 また、イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)と弟子たちに言います。マルコの文脈では、この勧めは弟子たちに対する批判を意味しています。彼らは、神の国へ招かれた者として、地位争い(9章34−35節、10章35−37節)をやめ、神と人とに対して子どものように小さな者、低い者とならなければならない。支配欲を捨て、仕える者となるべきなのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、マルコ10章の前半部が論じられています。結婚生活(2−12節)、子ども(13−16節)、富める者(17−27節)、すべてを捨ててイエスに従う者(28−31節)という四つのテーマのうち最初の二つです(後の二つのテーマは次の主日の福音)。
 この四つのテーマの底に流れている共通の思想は、「イエスその人が神の国である」ということです。「神の国」はイエスのうちに現存し、イエス自身に対する私たちの態度いかんによって「神の国」に入るかどうかが決定されるのです。
 イエスが「神の国」であることは、皮肉なことに、「イエスを試そうとした」(2節)ファリサイ派の人々の悪意によってまず明らかにされます。イエスは、律法に適っているかどうかという問い(2節)に対して本来の神の意思は何であったかを宣言し(7−9節)、次いで「神の国」に入る条件として、子どものようになって仕える者、受け入れる者となることを求めます(14−15節)。
 イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)と言います。イエスは離婚に関して最も厳格なファリサイ派の立場よりもさらに厳しい立場をとっています。しかし、イエスはここでより厳しい律法主義を扇動しているのではありません。そうではなく、イエスは議論の根拠をモーセが書いたこと(3−4節)から、神が男と女を造り、神が意図したこと(6−9節)に移しているのです。即ち、離婚から結婚への転換です。離婚は律法に基づきますが、結婚は創造に基づきます。イエスは議論を律法の解釈の領域から賜物と恵みの領域に移しているのです。
 また今日の福音では、「子どもを祝福する」(13−16節)が、「離婚について教える」(2−12節)に並置されています。イエスの「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)という言葉は、律法主義に対する警告です。もし、私たちが「神の国」に入ろうとするならば、神と人とに対して、子どものように小さな者、低い者とならなければならないのです。そのことは、例えば私たちが離婚禁止という律法を守っても確実に「神の国」に入ることを約束していないということです。教会が結婚を聖なるものとするのは、夫と妻が一緒に生活する中で互いに仕え合い、そして神の与える子どもを両者が喜びをもって受け入れる、ということにあります。今日の福音は、「神の国」は、このように仕え、受け入れる者たちのものなのだ、と宣言しているのです。
2024年10月6日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教