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持っている物を売り払い、
それから、
わたしに従いなさい
〜 年間第28主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マルコによる福音
10章17−27節
イエスと富める男
(17−22節)
富める男がイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問いかけます(17節)。富める男の関心は「永遠の命を受け継ぐ」ことです。「永遠の命」は、共観福音書でよく見られる用語「神の国」(23節)の同義語であり、「救われる」(26節)の同義語でもあります。つまり、富める男は「神の国に入るには、何をすればよいでしょうか」または「救われるには、何をすればよいでしょうか」と尋ねているのです。
富める男にイエスは「善い」と呼ばれることを拒みます(18節)。これはわかりにくい発言です。なぜなら、イエスが神と一つであることあるいは罪無き者であることを否定していると解釈されかねないからです。ここではひたすら神のみ旨(むね)を求め、教え、それに絶対的に従うイエスの姿勢を見るべきです。19節でイエスが直ちに富める男の注意を十戒に向けさせているのもこの姿勢に一致します。
富める男は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えます(20節)。イエスはこの富める男を「慈しみます」(原語アガパオー 愛します)。すなわち、彼を助け、救いに導き入れようとします。イエスは「あなたに欠けているものが一つある」と指摘し、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と教えてから、「私に従いなさい」と招きます(21節)。
富める男はイエスのこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります(22節)。こうしてマルコは、信仰にとって富の危険がどんなに大きいかを印象づけます。
イエスと弟子たち
(23−27節)
イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と語ります(23節)。弟子たちはこの言葉に驚きます(24節a)。財産「クテーマタ」(クテーマの複数)は複数の土地をも意味します。元来ユダヤ人は、現世の財産を「神の祝福のしるし」としていました。それで弟子たちは、現世の財産を危険視するイエスの言葉に驚きます。
イエスは更に「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語ります(25節)。らくだが針の穴を通ることはできません。同じように、イエスは金持ちが神の国に入ることは不可能だと言います。この言葉に弟子たちはますます驚いて(26節a)、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに論じ合います(26節b)。弟子たちはイエスの言葉の意味を悟らず、富を「神の祝福のしるし」だといまだに考えています。彼らは、金持ちでない者はなおのこと、神の国に入れないと考えていたのです。
金持ちだけでなく、弟子たちにとっても神の国に入るのは「難しい(直訳 苦労する)」ことです(24節)。それは人が神の力に信頼できず、この世の力にすがるからです。富はこの世にあって最も頼りになると思われているだけに、それは捨てがたいものとなります。イエスは「だれが救われるのだろうか」(26節)と問う弟子たちを見つめて「神は何でもできる」と答えます(27節)。万事が可能である神からの力に身を委ねるとき、人間に不可能なことも神の力によって可能になるのです。
今日の福音のまとめ
富める男はイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます(17節)。そのためには、モーセの十戒の倫理的要求(19節)に従うだけでは不十分です。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」とイエスは言います(21節)。しかし富める男はこの答えを聞いて「悲しみながら立ち去ります」(22節)。
「私に従いなさい」という結尾の命令はマルコが付加したものと考えられています。イエスは富の処分以上のこと、即ち十字架への道で彼に従うことを求める、とマルコは言うのです。「イエスが旅に出ようとされる」(17節)もマルコの編集句です。マルコは、イエスは受難への道を歩んでいることをこうして読者に想い起こさせようとします。
「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」というイエスの言葉(23節・25節)に弟子たちは驚き(24節a・26節a)、「それではだれが救われるのだろうか」と論じ合いますが(26節b)、イエスは「人間にできることではないが、神にはできる」と答えます(27節)。24節bは富める男だけではなく、すべての人にとって、神の国に入ることは難しいという注釈です。
イエスに従ったことのない富める男にとって、富の処分は弟子となるためにまず必要な条件でした。今日の福音を読んでいる後の弟子たちにとって、富の処分は必要な条件ではなく結果として生じます。即ち、人はまず条件として何かをする、何かを捨てることによってイエスに従うことができる、というのではないのです。無理に捨て去ったものは、まだ捨てていないものよりも、より強くその人の心を支配します。従って真に捨てるということには決してなりません。神の愛の大きさを感じ、神の力においてはじめて、(神以外の)他のものが小さくなるのです。しかしだからと言って、ひとたびこれが始まったときでも、人がそれを捨てる場合、そこに苦労を感じないわけではありません。しかし根源的には、イエスに従うということは、神からの力によって与えられるということに変わりはありません。いかなる努力も、献げや禁欲も、これを可能にすることはできません。神は何でもできます(27節)。神からの力に身を委ねるとき、イエスに従うということが神の力によって可能になるのです。
2024年10月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教