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人の子は、
多くの人の身代金として
自分の命を献げるために来た
(副題 仕える姿勢)
〜 年間第29主日B年 〜
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マルコによる福音
10章35−45節
今日の福音は第三回目の受難予告に続く箇所です。苦難の道に無理解な弟子たちに対して、イエスはどんな機会も逃さず「弟子とは何であるか」について教えようとしています。
苦難と栄光の関係
(35−40節)
ヤコブとヨハネは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)とイエスに言います。ヤコブとヨハネは、イエスがエルサレムに行き、この世の王となることを期待しています。「右」「左」はその時に与えられる特別な地位のことを指します。イエスは「このわたしの飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)とこの二人に言います。二人は「できます」(39節)と答えます。「杯を飲み」は、ここでは「苦難」を受けることを意味しています。「洗礼を受ける」も、ここでは「杯を飲む」と同じく、「苦難」や「死」を暗示しています。ですから、二人はエルサレムで待ち受ける「苦難」の厳しさに気づいています。「苦難」は覚悟するけれども、その後には「栄光」が待ってほしいと願っています。「栄光」のイエスの隣に座れるという「報い」を拠り所として「苦難」を乗り切ろうとしているのです。
しかし、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と二人に言います。そして、38−39節で「杯を飲み」と「洗礼を受ける」に言及します。「苦難」の後に与えられる「栄光」へと向かう二人の視線を、イエスは「苦難」そのものへと引き戻そうとしているのです。
イエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(40節)と言います。「栄光」の座は「定められた人々」(直訳 準備された人々)に与えられます。「栄光」を与えるかどうかを決定するのは父なる神です。だから、「苦難」を忍んだからといって自動的に「栄光」が与えられるわけではないのです。こうして、「苦難」と「栄光」の必然的な関係が否定されますが、それを裏返せば、「苦難」はそのままで価値を持つということでもあります。ヤコブとヨハネにとって、「苦難」は無価値で、「苦難」を忍んだ後の「栄光」(報い)を願って歩みますが、イエスは十字架という「苦難」の頂点を目指して歩みます。この「苦難」自体に意味があるからです。
弟子とは何であるか
(41−45節)
ほかの十人の者はヤコブとヨハネの言動に腹を立て始めます(41節)。彼らもまた人の上に立ちたいという本音では二人と変わりはありません。イエスはそのような彼らを呼び寄せて諭します(さとします)。「異邦人の間では、支配者と見なされる人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの身代金として自分の命を献げるために来たのである」(42−45節)。
人の上に立つことを求めて上昇志向に走る生き方と、人に「仕える」ために自分の命を投げ出すという二つの対極的な生き方の間に置かれた43節で、弟子たちの取るべき態度(仕える姿勢)が語られます。異邦人、つまり父なる神に出会っていない人々は人の上に立つことを求めます。しかしイエスに出会っているキリスト者は、人の下に身を低くし、「仕える」ことを追い求めるべきです。人に「仕える」ために十字架に向かうイエスに出会った者は、生き方が変わるはずだからです。
今日の福音のまとめ
イエスは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と言います。イエスは弟子たちに対し、彼と共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことを求めます。しかし、それに対する報い(栄光)は、イエスの権限の中にではなく、父なる神に属するものです(40節)。従って、弟子たちに必要なのは、いかなる報い(栄光)が与えられるかということよりも、いかに、イエスに従い、人に仕えることができるかということです。報い(栄光)を望む者に、純粋な奉仕はできないのです。今日の福音は、「栄光」ではなく「苦難」そのものに意味があると告げる前半(35−40節)と、「仕える」生き方へと招く後半(41−45節)とをマルコは結び合わせています。こうすることによって、真の「栄光」はイエスと共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことにあることが示されているのです。
私たちは問いかけられます。(1) 年をとっていく親や気難しい配偶者であっても、問題児であっても、教会の交わりの中にある非常に困窮(こんきゅう)している者であっても、どんな人であっても、イエスは仕えます。あなたは「仕える」ことができますか? (2) 「仕える」生き方はこの世の成功の基準と対立するものです。「仕える」生き方は社会の少数派です。このような社会の中にあって、イエスは、彼と共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことを決断するように求めます。あなたは決断することができますか?
勿論、私たちはイエスがしたように人に「仕える」ことができません。しかし、私たちはイエスのしたように人に「仕える」ことが求められているのです。イエスのように人に「仕える」姿勢を持てるように父なる神に祈りましょう。
2024年10月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教