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先生、
目が見えるように
なりたいのです
(副題
あきらめない信仰)
〜 年間第30主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   10章46−52節


 召し出しの物語
  ―奇跡物語なのか?

 今日の福音で際立っていることは、最初と最後に「道」という言葉があり、全体の枠を形作っていることです(46・52節)。盲人バルティマイはまず「道端」に座っていました(46節)。そのバルティマイが、イエスとの出会いを通して、「なお道を進まれるイエスに従う」ことになります(52節)。この「道」は原語では冠詞がついていますから、特別な「道」を指します。それは文脈から分かるように、エルサレムへと上る道(マルコ10章32節、マルコ11章1節)、つまり十字架の道です(マルコ10章32−34節の受難予告を参照)。道の傍ら(かたわら)に目が見えずに座っていたバルティマイが、「見える」ようになり十字架の道を従う者となります。つまり、今日の福音は癒し(いやし)を述べる奇跡物語で終わるのではなく、むしろ召し出しの物語なのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 バルティマイを黙らせようとした人々をどう思いますか。また、イエスの彼への答えと比べてみましょう。このことは必要を求める人々に、私たちがどのように接するべきか、何か教えてくれているでしょうか。
 バルティマイはイエスがいると聞くと、イエスを「ダビデの子」と呼んで、叫び続けます。ここでの「ダビデの子」はメシアを表す称号です。だが、多くの人々は黙らせようとして、彼を叱りつけます(48節)。彼らが期待するメシアは政治的な勝利者ですから、道端に座る盲人の物乞いに関わる余裕がないほどに高い人です。彼らはそのようなメシアを高く崇める(あがめる)ことによって、自分たちも高くなり、道端に座る者の苦悩が見えなくなっています。
 彼らのこの盲目はメシアを見間違えることから生じています。イエスは道端に座り込む者の苦しみから目をそらすメシアではありません。イエスは、バルティマイの叫びに耳を留めて立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」(49節)と命じるのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 あなたはどのようにバルティマイの信仰を表現しますか。あなたは、彼(バルティマイ)が「イエスは誰であるか」についてどのように信じており、イエスに何ができると信じていたと思いますか。このことから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。
 今日の福音の47−48節では、「叫ぶ」が二回使われています。49節では、「呼ぶ」が三度使われています。この繰り返しは、「叫ぶ」者に対する応答の確かさを表しています。バルティマイは「叫び」、イエスは「呼ぶ」。神は一方的に人間を呼びつけはしません。人が憐れみ(あわれみ)を求めて叫ぶとき、神は呼びます。このような「叫び」は神への信頼を表す叫びです。「叫び」が信頼となるとき、神は呼びかけ、「道」を示します。51節では、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と述べ、バルティマイの願いを実現しています。ここでの「信仰」は「叫ぶ」ことの中に表されるイエスへの信頼なのです。
 呼ばれたバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来ます(50節)。この上着は古い生き方の象徴であり、それを脱ぎ捨てたのは新しい生き方への転換を表しているのかも知れません。目が見えるようになったバルティマイは、「道」を進まれるイエスに従います(52節)。ここでの「道」はただイエスの歩む道を指すだけでなく、人の「生き方」やキリストの「教え」をも表します。イエスの進まれる道は受難(十字架)への道ですが、同時にそれは復活への道です。イエスはそのような「道」を示されるメシアなのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 バルティマイが最初に癒し(いやし)よりも憐れみ(あわれみ)を求めたことにどのような意義があるのでしょうか。このことは彼の態度について何を表しているでしょうか。私たちが神に近づく際にこのことから何を学ぶことがあるでしょうか。
 イエスは「何をしてほしいのか」(51節)とバルティマイに尋ねます。同じ問いかけが、先週の福音では、栄光を求めたヤコブとヨハネに向けられています。栄光を求めた彼らの願いは「神が決めることだ」と退けられましたが、憐れみ(あわれみ)を願った叫んだバルティマイの願いは「あなたの信仰があなたを救った」(52節)と受け入れられます。神は一方的に思いを人間に押しつけずに「何をしてほしいのか」と尋ねますが、そうかといって、神を人間の思うままにコントロールすることはできません。神の思いと人間の思いとの間には、常に緊張関係があるのです。

 今日の福音のまとめ
 52節の「見える」とは、文字通り「目が開いた」ということだけでなく、召し出された者の「(心の)目が開いた」ということも表します。「見えるようになった」との句は「道を進まれるイエスに従った」と密接な並行関係にあります。マルコは、「イエスの進まれる道に従う」には、イエスを信頼し、目を開いていただく必要のあることを今日の福音を通して私たちに教えています。私たちの目をいつも開いてくださるよう、バルティマイのようにあきらめることなく祈りましょう。
2024年10月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教