主はあなたと共におられます。

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 5月、日曜学校の子供たちはマリア様へのお祈りの会を行いました。アヴェマリアの祈りと歌で、日ごろのマリア様のとりつぎへの感謝と願いをお捧げしました。幼稚園でも「聖母祭」を祝います。子供たちがマリア様を担いで行列をし、聖堂ではマリア様とした約束を発表しお祈りしました。子供たちの純粋な思いは聖母を喜ばせ、子供たちの保護を願う保護者の皆さまの祈りは聞き届けられたことでしょう。
 マリア様はイエス様が捧げてくださった「教会の母」ですが、「キリストと教会」という事に思いを向ける時、この意味は更に深まります。キリストによって教会は誕生しました。そのイエスを聖霊によって身ごもり生んだのはマリアです。彼女の「お言葉通りにこの身になりますように」といった従順によって、救いが始まりました。創世記の頃からイエスと共に約束されていた救いです。その身に、イエスを宿されたマリアのように私たちも聖体の秘跡によって、イエスを迎えています。赤子のイエスを抱く像と最後の亡骸を抱くマリアは、常にイエスと一体でした。我が子の十字架の死、という重い苦しみの時でさえ。
 教会では伝統的に6月を「イエスのみ心の月」としています。主の昇天から始まり、聖霊降臨、三位一体の主日、キリストの聖体、イエスのみ心……と大きな祭日が続き、年間の典礼に入っていきます。
 主の昇天にイエスが約束して下さったように、私たちも天に引き上げられるのだという希望を見つめ直しましょう。聖霊降臨を祝い「聖霊来てください…」と唱える私たちの上には、弟子たちが受けたように愛である神ご自身の霊である聖霊が注がれます。豊かに。頭からつま先まで全身が愛に浸され私たちを癒し、勇気づけ強めて下さいます。聖霊は「優しい心のとも、さわやかな憩い、揺るぐことのないよりどころ」なのです。三位一体の主日に、父と子と聖霊の交わりのうちに私たちも、イエスの共同の相続人として招かれているのだと知りましょう。人々の繋がりの中に、イエスが共にいて下さいますように。聖霊来てください。と願うならば、人々の間に神の国は実現するのです。
 初金のミサ、イエスの御心への信心とは、私たち人間の罪を担い十字架で替わって死んだイエスの御業と、私たちを愛されるイエスの御心を思い返しましょうという意味があります。忘恩の徒とならず、ひとり子を与えるほど世を愛された主に感謝をむけましょう。
 時として愛とは弱さです。我(エゴ)を振り回すのではなく、他者を思いやるがゆえに自分の命すら犠牲にします。我(エゴ)を貫き通す己のしたいようにすることが「強さ」であると思う者にとっては、十字架は敗北としてその目に映りますが、愛を知る者にとっては勝利の証しであり、「ひとり子を与えるほど世を愛された」神の偉大な業、人の目には愚かと思える神の知恵なのです。
 子供を育てるという事は、犠牲の毎日です。たくさんの労力を必要としますし、時間もエネルギーも膨大に消費します。何もできない、何も持たない、見返りを期待できるものではありませんが、子供たちの明るい笑顔は値千金です。共に過ごす時間は新たな発見や経験があり輝くような思い出をくれます。
 「与える」という事により「受ける」イエスが示された愛の手本が、そこにあるのではないでしょうか。