『訪ね求めるということ』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 新しい年を迎え、気持ちも新たに学期がスタートしました。先日、今年最初の?雪が降りました。といってもほんの数分、粉雪が舞った程度なのですが。園庭で遊ぶ園児たちからは、歓喜の声が湧き「雪だー!」とみな一様に大喜びでした。「嫌だなー、まあ積もらないだろうけど・・」と少々暗い顔で歩いていると「園長先生! ユキだよー」とキラキラと目を輝かせて報告してくれる様をみて、この純粋さを何処で置き忘れてきてしまったのだろうなーと、少し自分を見つめ直すきっかけになりました。
 わたしたちは、待降節・降誕節を迎え救い主の誕生を記念し、そして再び来られるイエスキリストと神の国の完成を待ち望む心を新たにしました。前年は「大聖年」を迎え、多くの方々は慈しみの聖門へとそれぞれの巡礼をされたことと思います。どこに何か所尋ねたか?よりも、何を求めどのような心持で訪れたのか?のほうが、前教皇フランシスコが言われたように、「希望の巡礼者」であることが、より重要であると言えます。自分自身を含めてですが、平和な暮らしが永く続いていくと心が鈍くなってしまうようです。何かに感動したり、心動かされたり、不安を覚えたり、問題を感じたりする心が今の時代、否まれているように思います。平穏であること、心穏やかな日々を過ごすことは大きな恵みです。ですが「探求する」「探し求める」のは、それが無いからという「欠乏」から、得たいと思う「強い欲求」からくるものです。
 『聖年の終わりにあたり、とくに真剣にわたしたちに問いかけることがあります。それは、わたしたちの理解をはるかに超える、わたしたちと同時代の人々の霊的な探求です。…彼らは、自分たちの旅を危険にさらす困難を受け入れ、多くの拒絶と危険な側面のゆえに現代と同じように苦難に満ちた世界の中で、歩み出し、探求する必要性を感じる人々です。』
(教皇レオ14世 『聖なる扉の閉扉と主の公現の祭日ミサ説教』)

 いま鍛冶ヶ谷教会では、堅信の準備に入っています。通常、堅信の秘跡は日本では司教団によって10-15歳(以上)が堅信にふさわしい年齢とされています。また成人洗礼の場合、洗礼と同時に受けるのですが、ここ鍛冶ヶ谷教会では歴代主任司祭の考えにより、別にしてきました。このため、成人洗礼でも堅信を受けていないケースが多数あるようです。
 カテキズムによると『堅信の秘跡は、洗礼および聖体と一緒に組み合わされて、「キリスト教入信の秘跡」を構成します。この三つは一体でなければなりません。したがって、信者には、堅信の秘跡が洗礼の恵みの完成に必要であることを説明しなければなりません』(カテキズム第1285条)とあります。
 洗礼が水と三位の御名によって授けられるのに対して、堅信は塗油と(司教様からの)按手によって授けられます。塗油という象徴は「聖霊」を表します。イエスと暮らした弟子たちも、本当の意味でイエスを理解できるようになるには、聖霊降臨を待たねばなりませんでした。同様に洗礼によって信仰の道に入り、これを固めるのは堅信の秘跡よります。海外では、成人式のようなお祝いになるところもあるくらいですが、幼児洗礼であれば、いままで親の信仰の傘のもとでいたが、これからは自分の信仰の傘をさし、神と自分との関係をより深めて人生を歩んでいくことを意味します。
 頂いた恵みを、土深くに埋めてしまうならば『タレントのたとえ』に出てくる悪い召使いと同じになってしまいます。
「あなたにとって、神とはキリストとはなんですか?」
学びなおし答えを深める、よい機会なのではないでしょうか。