『優しさ、祈り、愛』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 先日、今年二回目の雪が降りました。ほんの少しだけですが土や緑、クルマや建物を雪が白く染め、雪景色を楽しませてくれました。隣の本郷台公園では、雪だるまを作ろうとはしゃぐ、子供たちの元気な声が響いていました。
 最近「優しさ」について考える機会が多くなりました。ニュースを観ると世界では国と国の争いが激化しているようです。自身の利害からか、分断され、他者との違いが強調されているように思います。日本でも衆議院議員総選挙が行われるなか、難民や外国人寄留者の問題もクローズアップされていたではないでしょうか。
 社会的な仕組みはさておき、「優しさ」の力の源はいつも「誰かのため」ということがあるのではないでしょうか。「自分だけ」のための行動や、力の大きいものが小さいものを押さえつけ「自分の思い通りにしよう」とすることは、「優しさ」からほど遠いものように思います。時折、電車やスーパーのエレベーターなどで乳母車から赤ん坊が顔を覗かせています。そうした時、ついあやしてしまうのですが(不審がられていなければいいのですが)そのキョトンとした顔や笑顔や、泣き顔であってすら、暖かい気持ちが胸を包みます。「優しさ」や「愛情」は、向ける対象があって初めて成立し、それを向けたこちら側にも同じものをもたらすものです。実は、「祈り」も同じなのです。皆さんは、何に向って祈っていますか?神様に対してですが?それとも自分自身の心にですか?神は愛です。神学的には「愛」とは「意志する」ものだそうです。祈るとき、私たちの心が神に向かうのならば、それは「神に愛を向けている」そして「祈っている」のです。四旬節では、祈りと節制を求められますが、節制とは単に我慢を求められている「犠牲」の日々ではありません。神に向かう、集中するために、神以外のものを一旦端において「神に集中」する期間なのです。個人的にでも祈るとき、神に意志を向けるとき、神からの愛を感じとることが出来ると思います。こうした「神への集中」を助けるために、断食や節制を行うとともに、「十字架の道行」や「聖体礼拝」や「ゆるしの秘跡」は大いに役立つことでしょう。
 『優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと・・・』(ウルトラマンエース/脚本・市川森一)
 『何百回裏切られようと』という言葉がキリストを感じさせます。勇者は、報われない役を知っていて引き受けるものです。多く赦された人は、より多く愛する人になります。多く愛された人は多く人を愛します。
 『謙遜で愛情深い人は、皆から愛される。神からも人からも』(聖ヨハネ・ボスコ)
この四旬節が、みなさんをキリストの似姿にまで高め成長させてくれる期間になりますように。お祈りいたします。