『雨ニモマケズ』
〜平和の使者として〜

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 8月6日から15日まで、“日本カトリック平和旬間”となります。先の大戦の痛ましい犠牲と、戦争へと突き進んでしまった反省に心を向けると共に、不穏な社会情勢の中、一部の権力者のため、戦争という暴力に苦しむ人々のために祈る期間といたしましょう。

 これを機会に『平和』とは何か?を考えるのもよいでしょう。私たち人間は、大なり小なり心のどこかで『平和』を追い求めています。単に戦争や暴力のない状態だけを指して、『平和』ということもあれば、問題のないすべてがうまくいっている状態を指して『平和』という場合もあるでしょう。私たちの小さな日常において、そりの合わない人と共に過ごす時間や、他者からされた非好意的な態度などに気を取られ、心の平安が乱されるということはよくあることではありますが、その人個人にとっては、戦争より大きな問題となり得ます。
 イエス様は、復活し弟子たちの前に現れた時『あなたがたに、平和があるように』と祈られます。本当の意味で『平和とは何か?』を改めて考えなおすならば、それは「外的な状態」を表すのではなく「内的な状態」を指すのではないでしょうか?一般的に私たちが追い求める『平和』とは、争う人がいない状態、問題がない状態、気に入らない、そりの合わない人がいない状態を求めてしまいがちです。しかし、真に『平和』であることは、「内的状態」すなわち私たちの心のうちに平和があるかどうかなのではないでしょうか?もし「外的状態」において平和を求めるならば、環境はよくなることもあれば、自分の力ではどうすることもできないこともあるでしょう。問題を取り除くことにのみ注力するならば、「ないものねだり」になってしまうことすら、しばしばです。「外的な状態」がどうであれ、私たちの心のうちに平和を築くことが出来るならば、それは「誰にも奪うことが出来ない平和」となるでしょう。

 宮沢賢治の『雨ニモマケズ』という詩は、あまりにも有名ですが、彼がなりたい『サウイフモノニ』とは、『慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ』『アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ』怒るに遅く慈しみ深い姿です。そうした人は平和の使者とも言えるでしょう。『南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイ』う人は、分裂のある所に和合を、絶望のある所に、希望を取り戻す人となるでしょう。謙遜で他の評価によって左右されない『ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレ』ない者の姿は、『フランシスコの平和の祈り』に通じるものがあるのではないでしょうか。

 心の平和を維持すること、それは決して簡単なことではないかもしれません。しかし私たちは「慰め主」であり「解放者」である神の子イエス・キリストの命を生き、慈しみ深く、和解させる主がともにいます。祈る私たちが、平和の種子となり『慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求め』る者として、主が、わたしをあなたの平和の道具としてくださいますように。『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』と思います。