永井隆博士は1908年2月3日の生まれで、来年は生誕100年を迎えます。島根県松江市に生まれ、中学・高校と優秀な成績で進み、周囲は当然東京帝国大学に行くに違いないと思いましたが、自ら選択して1928年に長崎医大に入学しました。彼は自称無神論者でしたが、信仰厚い長崎殉教者の子孫である森山緑に出会い、1934年6月に洗礼を受けた後、8月に結婚しました。
去る10月23日、私は上智大学カトリックセンター主催の永井隆博士生誕100年記念国際シンポジウムに出席しました。片山はるひ教授による永井博士の生涯と、恐ろしい原爆、そしてその後遺症に関するパワーポイントを用いた感動的な講演の後、いくつかの講演がありました。中でも永井博士の解釈に基づく、世界に平和をもたらした燔祭(ホロコースト、すなわち、古代ユダヤ教で、供えられた動物を祭壇で全部焼いて神に捧げたこと)の生けにえとしての長崎の犠牲者の「長崎の祈り」と「広島の叫び」の間の対照が印象的でした。
私は特に永井隆の主治医であった朝永充氏の子息、長崎大学教授の朝永万左男氏の講演に興味を持ちました。長崎の原爆投下によって緑の死をもたらした戦争の直後、朝永家は家族ぐるみで永井隆の長男 誠一(まこと)を万左男の「兄」のように親切に世話したのでした。誠一は後に上智大学の新聞学科に入り、卒業後は時事通信社に勤め、退職後、2001年4月4日の誕生日に66歳で亡くなりました。上智大学では小笠原啓祐氏の同級生でした。
朝永万左男博士はキリスト者ではありませんが、当時の多くの鮮明な思い出について語りました。ただし、彼は講演の中で、「燔祭」の考えは多くの長崎市民には受け入れられなかったことも語りました。彼らにとってはそのような解釈は無実の人々の上に落とされた原子爆弾の使用を肯定するものと受け取られたのです。
シンポジウムの後の会場で、私は、先輩のウイリアム・ジョンストン神父が英訳した永井博士の『長崎の鐘』を手に入れました。帰りの電車の中でその本を読みながら、これは私がこれまでの生涯で読んだ最も素晴らしい本の一つであることに気づきました。この本は戦争直後に書かれ、1946年の夏で終わっています。1984年の英訳は世界に広くインパクトを与えました。ロンドンタイムズは「すべての人間が読むべき本」と評しました。読者は永井博士の人格を感じとり、その美しいスタイルに驚かされます。ジョンストン神父の序論は永井博士が今日の真の預言者に変容する過程に関する多くの洞察を含んでいます。ジョンストン神父の序論から特に印象深かった点をいくつか引用しましょう。この序論は日本語に訳されるべきものです。
「長崎の原爆の物語を語る中で、永井は無意識のうちに自分自身の物語を語っています。それは極度の苦悩を通して成し遂げられた転向と変容の物語です。永井はすべてを失いました。彼は愛する妻を失い、家を失い、全ての財産と健康さえも失ったのです。そして、彼の子どもたちが孤児となるであろうことを知りながら横たわり、死を迎えたのです。そして、この苦悩を通して、新しい預言者としての永井が生まれたのです。以前、永井隆は日本の戦争に従事するものとして病者に熱心に奉仕しました。いまや、彼は病者が人間であるが故に彼らに熱心に奉仕しているのです。以前、永井隆は日本の戦争の勝利のために奉仕していましたが、いまや、世界の平和のために奉仕しています。彼は今でも祖国を愛していますが、いまや、平和のために働く日本の精神的な再建のために奉仕しています。彼の全生命は最も大きな神の掟、即ち愛の掟に中心が置かれているのです(pp. xv-xvi)。
彼のメッセージは単純なものです。隣人を自分のごとく愛せよ、ということなのです。これこそ世界平和への道であり、唯一の道です。このメッセージを生きることによって、永井隆はアジアの、そして世界の名誉ある場所を占めるのです(p. xvii)。
彼の神学は「信」です。長崎への原爆の投下は偶然ではありませんでした。原子爆弾がカテドラルの上に落ちたことは偶然ではなかったのです。これら全てのことはいつくしみ深い神によって何らかの意味で計画されたことであり、全てに意味があるのです。
そして、永井にとって、苦悩は価値あるものであって、単に人間としての変容であるばかりでなく、この世の贖罪のためでもあったのです。原爆の燔祭で亡くなった人達(特にカテドラルで祈りつつ亡くなった人達)は第二次大戦における罪の贖罪のために神に献げられた子羊でした。死はなくてはならなかったのです。贖罪はなければならなかったのです。そして長崎の死者達はこの役割と使命のために選ばれたのです。彼らの犠牲によって世界に平和が訪れました。
これら全てのことから永井が長崎のキリスト者として語っていることが明らかです。彼の小さな小屋はかの二十六殉教者が十字架につけられた場所に近いところにあります。殉教は長崎のキリスト者が誇るべき栄誉ある行為でした。そして、原爆の燔祭によって亡くなった人達は山で十字架にかけられたり、雲仙の硫黄の穴の上で絞首刑にかけられた輝かしい先祖達の殉教に決して劣るものではありません(pp.xix-xx)。
この小文を、胸を刺すような永井の叫びを引用することによって閉じたいと思います。
『人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがあるが故に戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従がって相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原始野たらしめたまえと』(「長崎の鐘」)。
政治家も一般市民も、この叫びを聴き、私たちの謙虚な祈りと致しましょう。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
私は特に永井隆の主治医であった朝永充氏の子息、長崎大学教授の朝永万左男氏の講演に興味を持ちました。長崎の原爆投下によって緑の死をもたらした戦争の直後、朝永家は家族ぐるみで永井隆の長男 誠一(まこと)を万左男の「兄」のように親切に世話したのでした。誠一は後に上智大学の新聞学科に入り、卒業後は時事通信社に勤め、退職後、2001年4月4日の誕生日に66歳で亡くなりました。上智大学では小笠原啓祐氏の同級生でした。
朝永万左男博士はキリスト者ではありませんが、当時の多くの鮮明な思い出について語りました。ただし、彼は講演の中で、「燔祭」の考えは多くの長崎市民には受け入れられなかったことも語りました。彼らにとってはそのような解釈は無実の人々の上に落とされた原子爆弾の使用を肯定するものと受け取られたのです。
シンポジウムの後の会場で、私は、先輩のウイリアム・ジョンストン神父が英訳した永井博士の『長崎の鐘』を手に入れました。帰りの電車の中でその本を読みながら、これは私がこれまでの生涯で読んだ最も素晴らしい本の一つであることに気づきました。この本は戦争直後に書かれ、1946年の夏で終わっています。1984年の英訳は世界に広くインパクトを与えました。ロンドンタイムズは「すべての人間が読むべき本」と評しました。読者は永井博士の人格を感じとり、その美しいスタイルに驚かされます。ジョンストン神父の序論は永井博士が今日の真の預言者に変容する過程に関する多くの洞察を含んでいます。ジョンストン神父の序論から特に印象深かった点をいくつか引用しましょう。この序論は日本語に訳されるべきものです。
「長崎の原爆の物語を語る中で、永井は無意識のうちに自分自身の物語を語っています。それは極度の苦悩を通して成し遂げられた転向と変容の物語です。永井はすべてを失いました。彼は愛する妻を失い、家を失い、全ての財産と健康さえも失ったのです。そして、彼の子どもたちが孤児となるであろうことを知りながら横たわり、死を迎えたのです。そして、この苦悩を通して、新しい預言者としての永井が生まれたのです。以前、永井隆は日本の戦争に従事するものとして病者に熱心に奉仕しました。いまや、彼は病者が人間であるが故に彼らに熱心に奉仕しているのです。以前、永井隆は日本の戦争の勝利のために奉仕していましたが、いまや、世界の平和のために奉仕しています。彼は今でも祖国を愛していますが、いまや、平和のために働く日本の精神的な再建のために奉仕しています。彼の全生命は最も大きな神の掟、即ち愛の掟に中心が置かれているのです(pp. xv-xvi)。
彼のメッセージは単純なものです。隣人を自分のごとく愛せよ、ということなのです。これこそ世界平和への道であり、唯一の道です。このメッセージを生きることによって、永井隆はアジアの、そして世界の名誉ある場所を占めるのです(p. xvii)。
彼の神学は「信」です。長崎への原爆の投下は偶然ではありませんでした。原子爆弾がカテドラルの上に落ちたことは偶然ではなかったのです。これら全てのことはいつくしみ深い神によって何らかの意味で計画されたことであり、全てに意味があるのです。
そして、永井にとって、苦悩は価値あるものであって、単に人間としての変容であるばかりでなく、この世の贖罪のためでもあったのです。原爆の燔祭で亡くなった人達(特にカテドラルで祈りつつ亡くなった人達)は第二次大戦における罪の贖罪のために神に献げられた子羊でした。死はなくてはならなかったのです。贖罪はなければならなかったのです。そして長崎の死者達はこの役割と使命のために選ばれたのです。彼らの犠牲によって世界に平和が訪れました。
これら全てのことから永井が長崎のキリスト者として語っていることが明らかです。彼の小さな小屋はかの二十六殉教者が十字架につけられた場所に近いところにあります。殉教は長崎のキリスト者が誇るべき栄誉ある行為でした。そして、原爆の燔祭によって亡くなった人達は山で十字架にかけられたり、雲仙の硫黄の穴の上で絞首刑にかけられた輝かしい先祖達の殉教に決して劣るものではありません(pp.xix-xx)。
この小文を、胸を刺すような永井の叫びを引用することによって閉じたいと思います。
『人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがあるが故に戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従がって相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原始野たらしめたまえと』(「長崎の鐘」)。
政治家も一般市民も、この叫びを聴き、私たちの謙虚な祈りと致しましょう。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ