〜偶然か御摂理か〜

 今年は聖フランシスコ・ザビエルの生誕500年を祝います。この機会に、カトリック教会で最もよく知られ、愛されている聖人の中の一人であるこの聖人について書くことを求められました。誕生から、1552年12月3日、中国の海岸に近い小さな島、上川島で不慮の死に至るまでの46年の生涯はかなりよく知られています。
 フランシスコ・ザビエルはスペインの北西部ナヴァラのザビエル城で、領主の3男3女の末子として1507年4月7日に生まれました。2年前、初めて「ひろば」に寄稿したとき、私は、なぜあなたは日本に来られたのですか、というしばしば聞かれる質問に答えて、それは特に、スペイン人のイエズス会員であったドメンザイン神父のお陰で、マドリードのイエズス会の学校で最初の頃からザビエルについて聞かされていたからだった、ということを書きました。ドメンザイン神父は第2次大戦後、1952年、JRのポスターによって日本中で知られるようになった山口の教会を建てられた方です。残念ながら教会は1991年9月5日焼失してしまいました。

 1944年7月、私は13歳の時に生まれて初めて家を離れ、丁度1ヶ月間ピレネーで催された学校の夏のキャンプに参加しました。キャンプについてはたくさんのいい思い出があります。私と5人の同じ歳の子どもたちは60人あまりの参加者の中で最年少でした。宿泊はテントでした。みんな私たちのことを大事にしてくれましたが、もちろん私達未経験者への伝統的な悪ふざけはありました。忘れられないのは、誰かが私の枕の下にとてつもなく大きな(と私には見えました)ヒキガエルを置いておいたことです。床に就こうとして不意にこの気味の悪い招かざる客を見つけたときには肝のつぶれる思いをしたことを覚えています。私がそのときに叫び声を上げたかどうかは思い出せませんが、一旦「男らしく」これに対処できた後はこれも楽しい思い出となりました。

 もっといい思い出はザビエル城への旅でした。私達はバスで出かけ、ドメンザイン神父がそこを案内してくれました。ザビエルの生まれた場所、そして彼が聖堂内の平和な中世風の微笑をえたキリストに向かってお母さんと共に祈ったところに、今私が立っているという経験は、将来いつの日か自分も、ザビエルに従って日本に行こうという決心を固めるためのもうひとつの契機となったのでした。

 ザビエルはなぜ日本に来たのでしょうか? 彼をここにもたらしたのは偶然の連鎖だったということもできるでしょう。それは、初めから綿密に計画されたことではありませんでした。彼はたまたま末っ子として生まれ、恵まれた家庭に堅固な信仰を持った父と、敬虔な母と、後にクララ会の修道女となり、超エリート校パリ大学の学生で時に遊びほうけていた弟のために多くの祈りを捧げた姉のマグダレーナがいました。また、ザビエルには多くの友人がいて、中には評判の悪い者もいましたが、ルームメートがペトロ・ファーブルであったのは幸運でした。ファーブルは素晴らしい人格と知性を持った若者で、丁度同じ歳であり、城ではなく、幼きイエスのようにで生まれ、少年の時はフランス南東部の小さな村で羊の世話をしていました。そして、もう1つの幸運は、部屋を与えた教師がもう1人の学生としてイグナチオ・デ・ロヨラをルームメートに決めたことでした。イグナチオは当初はフランシスコに好かれたわけではありませんでしたが、彼は15歳年長で、スペイン王に仕え、宮廷で多彩な生活を送った後、全く新しい人生に回心し、いまや主イエスキリストに仕える者となっていました。

 いろいろな国からやってきた7人の学生が徐々にイグナチオと共に司祭として主イエスに従う者となり、清貧のうちに生活し、人々に仕え、可能ならば聖地にくことにしていました。こうして1534年8月15日、当時グループのただ1人の司祭であったペトロ・ファーブルによって挙げられたミサにおいて彼らは誓いを立てたのでした。彼らはまた、もし出発港であるヴェニスへの到着1年後にエルサレムに行かれなかったならば、ローマに赴いて教皇に仕え、教皇が神に仕えるためによりよいと考えて派遣されるところにどこへでも行こうと決めたのでした。1537年までにこのグループは10人の「神における友」となり、全員がヴェニスで叙階されましたが、丁度トルコとの戦争の危機が切迫していました。1538年に彼らはローマに赴き、グループがイエズス会という名の下に新しい修道会を創設することについて熟慮し、また既に戦争が始まっていたこともあり、彼らはついに11月末になって自らを教皇に献げ、教皇がキリストの教会に仕えるために遣わされるところに、どこへなりとも派遣されたいと願い出たのでした。次の年の六月末までにはグループの中の7人がイタリア内の異なる都市に派遣されました。3人だけがローマに残り、イグナチオは教皇に提出すべき、新しい修道会の目的と生活様式について記述した文書を準備するように求められました。そのとき、ザビエルは彼を助けて秘書のような役割を果たしたのでした。しかし、そのときまたもや予期しないことが起こりました。

 ポルトガル王は当時全アジアの教会の創立と発展について必要なすべてを提供する権威と責任を与えられていました。ジョアン3世は教皇に、新たに設立された修道会の司祭のうち2人を早急にインドに派遣するよう願い出たのです。この目的のために彼はローマに特任大使を送り、教皇はイグナチオに直ちにこの要請に当たるように命じました。そのうちの1人のポルトガル人シモン・ロドリゲスは熱を出していましたが、それをおして1540年3月6日にリスボンに向かいました。もう1人はスペイン出身でしたが、病気で高熱を出しており、旅行に出られる状態ではありませんでした。しかし、ポルトガルに戻る予定の大使は、もう1人を直ちに任命するよう主張し、イグナチオはこれに応えてザビエルを召還し、望むならば任地に赴くよう要請したのでした。彼のスペイン語の答えは訳すと「さあ、行きましょう。」というものでした。ザビエルは少数の身の回り品を取り、司祭の平服を繕って、2日後の1540年3月16日にポルトガルに向かって大使と旅立ちました。
 リスボンで1年以上過ごした後、ついに1541年4月7日、フランシスコ・ザビエルだけがパウロ3世にアジアとさらに遠隔の地の「すべての王子と首長」に教皇代理として任命され、シモン・ロドリゲスを残して700トンの帆船に乗り出航しました。船は喜望峰を回航して5ヶ月の後、彼によれば乗員のうちの2人は船酔いになりながらモザンビークに到着しました。そこで、秋と冬を過ごしてから1542年5月6日にようやくゴアに到着したのでした。

 ザビエルのインド及び東南アジアにおける心身を消耗させた仕事はよく知られています。 私が知らなかったのは、彼はいくつかの理由のために、仕事に対して失望感を覚えていたということでした。福音宣教の仕事はいくつかの理由により妨げられていました。インドと東南アジアに住んでいたほとんどのポルトガル人やスペイン人の不道徳な行動、拡大するイスラム勢力、他国の援助なしに自立している国におけるキリスト教の予断を許さない将来など。ちょうどそのとき、ザビエルは偶然に、初めて鹿児島出身の日本人、アンジローに出会います。この出会いがフランシスコの心に新たな希望を開いたのでした。即ち、彼が信じたところの、自立可能なキリストの教会へと育つ可能性のある新しい人々です。

「ポルトガル人が日本について私によこした手紙によると、(日本人は)非常に賢く、思慮分別があって、道理に従い、知識欲が旺盛であるので私たちの信仰を広めるためにはたいへんよい状態であるとのことです。」(ヨーロッパのイエズス会員に宛てて、1549年6月22日、マラッカより)

 この予期しなかった事態がザビエルを日本に行こうと決心させたのです。彼の気持ちは1549年にインドからポルトガル王に宛てて書かれた手紙の中にはっきりと表されています。彼はそこで、敬意を示しながらも驚くほど自由にそして大胆に、国王が実質上、物質的な利益と政治的な支配にしか興味を持たない一方で、キリスト教徒を守ることと愛と正義の福音を宣教することについての国王のすばらしい命令と、規則が守られていないことを大目に見る態度を見て、ザビエルは、もういわゆるポルトガル帝国でこれ以上時間を浪費すべきではないという結論に達しました。
「閣下よ、私はこちらで行われていることを知っておりますので、このインドにおいては、キリスト教のために閣下が命令される訓令も勅令もすべて、実施の望みはまったくありません。それで、これ以上時間を失いたくありませんので、私は日本へ脱出します。」(ポルトガル国王ジョアン3世に宛てて、1549年1月26日 コーチンより)

 その10年間を人間的な観点からのみ振り返ってみますと、そこには夢と達成と失望と強い意志と確固とした信仰だけを見ることができます。特別な目的のない単なる偶然の単なる積み重ねのようにも見えます。ある人はこれを幸運と言い、ある人は不運というかもしれません。しかし、ザビエルにとって、それはキリストを日本にもたらす神のやり方だったのです。
「今、ここに主なる神が限りないご慈悲により私たちを日本へ導いてくださいました…」(ゴアのイエズス会員に宛てて、1549年1月5日、鹿児島より)

 ザビエルはどんなことが起きようとも常に神の愛の思いやりを感じていたので並外れた仕事を成し遂げることができました。20世紀の有名なプロテスタントの神学者が述べたように、フランシスコ・ザビエルにとっては「偶然は神の摂理の別名」なのでした。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ

(2006年6月11日発行:鍛冶ケ谷教会文集ひろば29号より全文)