昨年末の12月25日の夕方早く、一週間の静修をするために、鎌倉の十二所にある「黙想の家」に参りまして、沈黙を守って、心の緊張がほぐれる術として音楽を聴くことにしました。主にウォークマンをもってそこにあったカセットのバロック音楽をゆっくりと楽しみました。
その中にJ.S.バッハの「マタイ受難曲」を見つけて喜びました。なぜかというと、昔、広島のエリザベト音楽大学の先生ルチアノ・ベルタニョリオ神父と音楽について色々と話をするなかで次の単純な質問をしました。『音楽の一番すばらしい曲とは?』と。
それに対して『もちろん個人的な好き嫌いがあるのですが、自分としてはバッハの「マタイ受難曲」』と答えられました。
聴いてみると確かに深い、深い悲しみに溢れる曲だとは思いながらも今ひとつでした。幸にもそこのCDのケースにはドイツ語と日本語のパンフレットがあって、もう一度歌詞を読みながら聴いてみると驚きました。ああ今歌っているのはイエス、あるいは、ペトロ、ユダなどと、そして、今歌っているのは、これ、これだと分りました。イエス様とペトロ、マタイなどに心をひとつにして聴くときは、ご受難の底知れない愛と悲痛の悲劇に自分もかかわっているように感じました。すばらしい体験でした。
鍛冶ヶ谷教会にもどると、たまたま栄光学園でイギリスのカトリック週刊誌「The Tablet」の面白い社説が目に入りました。BBCラジオ3は数ヶ月前から12月25日の日まで初めてJ.S.バッハの全曲を放送することにしていたのです。そして、そういう経験にたいして聴取者から非常に奥深い反響がありました。
たとえば、進んだ癌の化学療法を受けている方は、バッハの音楽によって助けられたという典型的なものでした。ラジオ3の局長の言葉で言うと『喪失にせよ、死別にせよ、孤独にせよ、なによりも人生の意味についてのものです』。
バッハの音楽は大部分宗教的なものですから、人生の意味との関係は偶然ではないでしょう。そればかりか、バッハの世俗的な音楽でさえも、それとなしに、彼のキリスト者の強い信仰によって、聴く耳があれば、どんな人の人生をも、高める力を持っているといっても言い過ぎではないでしょう。きっと優れたピアニストで、バッハの大好きなベネディクトXVI世はこの音楽と宗教の関係について色々と話をして下さるときが来ると思います。ご期待ください。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
それに対して『もちろん個人的な好き嫌いがあるのですが、自分としてはバッハの「マタイ受難曲」』と答えられました。
聴いてみると確かに深い、深い悲しみに溢れる曲だとは思いながらも今ひとつでした。幸にもそこのCDのケースにはドイツ語と日本語のパンフレットがあって、もう一度歌詞を読みながら聴いてみると驚きました。ああ今歌っているのはイエス、あるいは、ペトロ、ユダなどと、そして、今歌っているのは、これ、これだと分りました。イエス様とペトロ、マタイなどに心をひとつにして聴くときは、ご受難の底知れない愛と悲痛の悲劇に自分もかかわっているように感じました。すばらしい体験でした。
鍛冶ヶ谷教会にもどると、たまたま栄光学園でイギリスのカトリック週刊誌「The Tablet」の面白い社説が目に入りました。BBCラジオ3は数ヶ月前から12月25日の日まで初めてJ.S.バッハの全曲を放送することにしていたのです。そして、そういう経験にたいして聴取者から非常に奥深い反響がありました。
たとえば、進んだ癌の化学療法を受けている方は、バッハの音楽によって助けられたという典型的なものでした。ラジオ3の局長の言葉で言うと『喪失にせよ、死別にせよ、孤独にせよ、なによりも人生の意味についてのものです』。
バッハの音楽は大部分宗教的なものですから、人生の意味との関係は偶然ではないでしょう。そればかりか、バッハの世俗的な音楽でさえも、それとなしに、彼のキリスト者の強い信仰によって、聴く耳があれば、どんな人の人生をも、高める力を持っているといっても言い過ぎではないでしょう。きっと優れたピアニストで、バッハの大好きなベネディクトXVI世はこの音楽と宗教の関係について色々と話をして下さるときが来ると思います。ご期待ください。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ