前回は、熱心なキリスト者であった J.S.バッハの音楽のすばらしい影響力について簡単に書きました。今回はモーツァルトの音楽について少しでも感じたことを皆様と分かち合あって見たいと思います。
あえていえば、モーツァルトは、バッハと比べて、宗教的作品は数少なく、信仰は、曖昧なところもあったかもしれません。しかし、御聖体をたたえるモテットの「アヴェ・ベルム・コルプス」と、いくつものミサ曲などに深い感銘を与える力が溢れていると言ってもけっして言いすぎではないでしょう。たとえば、その一つは、ある貴族の人から頼まれた「死者のミサ曲」が挙げられます。それを作曲しているうちに、たった35歳であったモーツァルトは、この曲が自分の死の際に使われるであろうと予感したようです。実際には完成することができなくて急死しましたが、今でも確かに、モーツァルト自身が書いた入祭の歌「レクイエム・エテルナンム(永遠の安息)」と「キリエ・エレイソン(主、哀れみたまえ)」を聴くと、彼の罪びとの惨めさからの叫びと信仰から生まれる希望の光を感じることができます。具体的には、私は昨年の10月9日(日)にグロリア少年合唱団が鎌倉芸術館で歌ったコンサートでこのミサ曲を、生まれて初めて聴いたのですが、心からそのように感じたのでした。
おそらくそういう経験もあったので、私は宗教音楽を本当に鑑賞するためには、当然のことながら、信仰はどうしても必要だと率直に考えていました。
クリスマスの季節に入って、NHK FMラジオの音楽の番組の語り手の『ヘンデルのオラトリオ「メサイア」を味わうためには、特に信仰がなくてもよろしい』というコメントを聞いたとき、私の中に反発というか、まさか、そんなことはない筈だという思いを持ちました。おそらくその理由は、正に「メサイア」の名作の真髄を為しているのは、信仰によってのみ知られる神の人類の救いの雄大さと力強さであるので、信じない人は分らないだろうという、かなりおこがましい推測だったのかも知れません。
いずれにせよ、モーツァルトの音楽を聴きますと、彼のようなすばらしい音楽と宗教の結びつきは、ただ典礼や宗教的な事柄だけに限られていません。前回参考にしたイギリスのカトリック週刊誌 The Tablet に書かれているように、宗教的なテーマであっても、無くても、モーツァルトの多くの作品には、はっきりした秩序の中で、自発的に、次々と、いともたやすく湧き出る音楽に神の創造がこだまするようなものを感じます。それは、具体的な宗教的な教訓でなくても、人生は不条理で無意味であるとか、私たち人間は、見捨てられた孤独な存在であるというような考え方とは相容れないものです。モーツァルトの音楽も、私たちを無限の力と精神的な美の世界に引き上げる精力をもっています。作者、演奏者、聴き手、皆、この霊的な体験に係わる可能性が備えられています。自分でははっきりとは分らなくても神の世界に心が開かれることがあります。
昨年の教皇の選挙の前にマスメディアには選ばれる可能性のある枢機卿のリストが作られました。その中にべネディクトXVI世は、'Mozart man'、「モーツァルトの男」として入っていました。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
おそらくそういう経験もあったので、私は宗教音楽を本当に鑑賞するためには、当然のことながら、信仰はどうしても必要だと率直に考えていました。
クリスマスの季節に入って、NHK FMラジオの音楽の番組の語り手の『ヘンデルのオラトリオ「メサイア」を味わうためには、特に信仰がなくてもよろしい』というコメントを聞いたとき、私の中に反発というか、まさか、そんなことはない筈だという思いを持ちました。おそらくその理由は、正に「メサイア」の名作の真髄を為しているのは、信仰によってのみ知られる神の人類の救いの雄大さと力強さであるので、信じない人は分らないだろうという、かなりおこがましい推測だったのかも知れません。
いずれにせよ、モーツァルトの音楽を聴きますと、彼のようなすばらしい音楽と宗教の結びつきは、ただ典礼や宗教的な事柄だけに限られていません。前回参考にしたイギリスのカトリック週刊誌 The Tablet に書かれているように、宗教的なテーマであっても、無くても、モーツァルトの多くの作品には、はっきりした秩序の中で、自発的に、次々と、いともたやすく湧き出る音楽に神の創造がこだまするようなものを感じます。それは、具体的な宗教的な教訓でなくても、人生は不条理で無意味であるとか、私たち人間は、見捨てられた孤独な存在であるというような考え方とは相容れないものです。モーツァルトの音楽も、私たちを無限の力と精神的な美の世界に引き上げる精力をもっています。作者、演奏者、聴き手、皆、この霊的な体験に係わる可能性が備えられています。自分でははっきりとは分らなくても神の世界に心が開かれることがあります。
昨年の教皇の選挙の前にマスメディアには選ばれる可能性のある枢機卿のリストが作られました。その中にべネディクトXVI世は、'Mozart man'、「モーツァルトの男」として入っていました。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ