私たちは日常生活の中でごくまれに、自己の存在に深く根ざす微妙な命綱に影響を与えるような、短いが強力な体験をすることがあります。
それは肯定的で、言葉に尽くせない光と力を与えるものであることもあれば、否定的で混迷と救いようのない不安を残すものであることもあります。場合によっては私たちの信仰の主柱を揺るがすように思われることさえあります。また、それは個人的なものであることもあれば、世界全体の状況に関する社会的なものであることもありえます。
それは肯定的で、言葉に尽くせない光と力を与えるものであることもあれば、否定的で混迷と救いようのない不安を残すものであることもあります。場合によっては私たちの信仰の主柱を揺るがすように思われることさえあります。また、それは個人的なものであることもあれば、世界全体の状況に関する社会的なものであることもありえます。
2005年、9月18日のとても忙しかった日曜日の夕刻でした。2つのミサの後、2つの長い会議がありそして目を輝かせた若いカップルとの心地よい結婚講座が終わりました。私は教会の扉を閉じ、いたち川の歩道に沿っていつものように散歩に出ました。
城山橋に着くと、1人の若い男性が川の上流をじっと眺めているのが私の注意を引きました。私がその方向を見上げると、なんと、そこには中秋の名月がそう遠くない川の源から上ってくるところで、大きな、暖かく輝く黄みを帯びた白桃のようでした。なんと美しいことでしょう!
私は橋の中は中程に立ち止まって、その神秘的な美と静けさの典雅な作品に思いを致しました。何人かの人が通り過ぎて行きました。少数の人は立ち止まってその感嘆すべき瞬間を楽しみ、他の人は歩きながら見上げ、ほとんどの人は特に気にもとめないように見えました。
私は道を横切り、川に沿ってさらに歩きながら、振り向きつつ、月が次第に高く上がり、より小さく、より明るくなっていくのを肩越しに見ていました。そして警察学校のところで引き返し、いまや暗い空を照らしているきれいな小さな月を見上げながら家路につきました。2、3時間後、私の寝室の窓からは、教会の屋根と司祭館の間に見える暗い夜空の薄い切片が見えるだけでしたが、丁度そこに、空高く、小さな中秋の名月がまさに永遠の希望の灯のように明るく光って見えました。
次の日は敬老の日で、私達は少人数で、カリタス女子短期大学で開催された一粒会の大会に参加しました。400人以上の人々が梅村司教と共に祈り、食べ、示唆に富む講演を聴きました。私が中川明師の話されたことに特に強い印象を受けたのはそのときでした。私は以前から、ある出来事や人に強く心を動かされながらも、数日後、時には数時間後には私も、私の生活も全く変わっていないことに気づく度に、これはどうしたことかと思っていました。
中川師は「胸が痛む」表現の使用法について研究してきました。終戦時あるいは神戸や新潟地震のような大きな災害のあったところで、人々はそういう状況について悲しみと苦痛を深く感じるのでこの言葉を使います。その気持ちはとても強いので、それを軽減するためにできることを何でもしたいと思います。そこには真の共感と人生における真の変化があります。今日では、この言葉はそれほど頻繁には使われなくなってきました。テレビのニュースでそのような大きな苦痛や悲惨な状況を見る時、私たちは目に涙さえ浮かべ、「胸が痛む」と言うかもしれません。しかし、私たちは飲んだり、食べたり、新聞を読みながらそうするのであって、それは表面的で、私たちの生活を変えるわけでもなく、具体的に問題を解決するために何かできることをするわけでもありません。中川師の言葉に確かにそうだと気づいたのは酔いを覚まされるような体験であり、私の生き方が本当に誠実であるかどうかと問われているように思いました。
それから1ヶ月半ほど後、私は10月13日付けのジャパンタイムズ紙掲載の大山史朗著「山谷がけっぷち日記」(2000年度 開高健賞受賞)の書評を読んでいました。大山史朗(筆者)はサラリーマンでしたが、辞めて15年の間、山谷の日雇い労働者として働いていました。彼にはたくさん重要な述べたいことがありましたが、書評者が肯定的に書いていた1つのことが私をとても傷つけました。「彼は宗教的なボランティア達を見て、彼らを『全くの恥知らず』だと考える。なぜならば、彼らは空腹のホームレスの人々が彼らに依存している以上に空腹のホームレスに依存しているからだ。山谷の男達は結局のところ『宗教的なボランティア達自身の霊魂の救い』のために生きた証になっているに過ぎないのだ。」というのです。このような言葉を聞くのは苦痛です。しかし、私達はこの言葉によって、私達の行動の動機について繰り返し反省し、すべての偏見と誤解が早くなくなるように祈らなければなりません。
2005年11月12日は忘れられない日となることでしょう。何年にもわたる長い準備の後、湘南短期キリスト教セミナーがついに当教会で始まりました。「小さな人々と共に生きる世界」というのが講義の共通のテーマで、よく知られたドキュメンタリー映画「マザーテレサとその世界」の監督、千葉茂樹さんが最初の講演者でした。千葉さんはどのようにしてマザーテレサをこれほどまでによく知り得たのでしょうか?
私が理解するところでは、彼がもっとも好むのは、主題の精神をカメラによって捉えながら、あくまでも真実でユニークな人間の経験を映画の題材にするということです。彼の語り口から、千葉氏は人々に静かに耳を傾け、人々を見ることにいかに長けているかが分かります。彼は、ヨーロッパの家族が自分たち自身の子供だけでなく、異なる国から何人かの子供たちを養子に取っていることを聞きました。千葉監督はそこに行き、ある個人が捨てられた子供の痛みをいかに心に感じ、その子を引き取ることを決心し、そして人の人生に新たな命を受け入れることによって、いかにその人自身が根本的に変えられ、心が豊かにされていくかを見たのでした。そして、取材した最後の子供は「マザーテレサの子供の家」から来た子だったのです。この経験が彼自身の独特なやり方でマザーテレサとその仕事についてのドキュメンタリーを作りたいという希望に拍車をかけたのでした。
それは簡単ではありませんでしたが、彼独自の忍耐と邪魔にならないやり方でマザーのインタビューを5回行い、何百万の日本人や他の人々の目と心に直接マザーを届けることが出来たのでした。千葉監督のカメラを通して、マザーテレサの限界や弱さは、彼女が人間の多様性を受け入れ、尊敬する巨大な力を曖昧にしてしまうことはありませんでした。この世のもっとも弱い者たちや忘れられた人たちに仕え、愛することを通して、主に仕え、主を愛するようにという、キリストの内なる声に対するマザーの飽くなき忠誠は、私たちの信仰の確かな証となっています。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
(2005年12月18日発行:鍛冶ケ谷教会文集ひろば28号より全文)
城山橋に着くと、1人の若い男性が川の上流をじっと眺めているのが私の注意を引きました。私がその方向を見上げると、なんと、そこには中秋の名月がそう遠くない川の源から上ってくるところで、大きな、暖かく輝く黄みを帯びた白桃のようでした。なんと美しいことでしょう!
私は橋の中は中程に立ち止まって、その神秘的な美と静けさの典雅な作品に思いを致しました。何人かの人が通り過ぎて行きました。少数の人は立ち止まってその感嘆すべき瞬間を楽しみ、他の人は歩きながら見上げ、ほとんどの人は特に気にもとめないように見えました。
私は道を横切り、川に沿ってさらに歩きながら、振り向きつつ、月が次第に高く上がり、より小さく、より明るくなっていくのを肩越しに見ていました。そして警察学校のところで引き返し、いまや暗い空を照らしているきれいな小さな月を見上げながら家路につきました。2、3時間後、私の寝室の窓からは、教会の屋根と司祭館の間に見える暗い夜空の薄い切片が見えるだけでしたが、丁度そこに、空高く、小さな中秋の名月がまさに永遠の希望の灯のように明るく光って見えました。
次の日は敬老の日で、私達は少人数で、カリタス女子短期大学で開催された一粒会の大会に参加しました。400人以上の人々が梅村司教と共に祈り、食べ、示唆に富む講演を聴きました。私が中川明師の話されたことに特に強い印象を受けたのはそのときでした。私は以前から、ある出来事や人に強く心を動かされながらも、数日後、時には数時間後には私も、私の生活も全く変わっていないことに気づく度に、これはどうしたことかと思っていました。
中川師は「胸が痛む」表現の使用法について研究してきました。終戦時あるいは神戸や新潟地震のような大きな災害のあったところで、人々はそういう状況について悲しみと苦痛を深く感じるのでこの言葉を使います。その気持ちはとても強いので、それを軽減するためにできることを何でもしたいと思います。そこには真の共感と人生における真の変化があります。今日では、この言葉はそれほど頻繁には使われなくなってきました。テレビのニュースでそのような大きな苦痛や悲惨な状況を見る時、私たちは目に涙さえ浮かべ、「胸が痛む」と言うかもしれません。しかし、私たちは飲んだり、食べたり、新聞を読みながらそうするのであって、それは表面的で、私たちの生活を変えるわけでもなく、具体的に問題を解決するために何かできることをするわけでもありません。中川師の言葉に確かにそうだと気づいたのは酔いを覚まされるような体験であり、私の生き方が本当に誠実であるかどうかと問われているように思いました。
それから1ヶ月半ほど後、私は10月13日付けのジャパンタイムズ紙掲載の大山史朗著「山谷がけっぷち日記」(2000年度 開高健賞受賞)の書評を読んでいました。大山史朗(筆者)はサラリーマンでしたが、辞めて15年の間、山谷の日雇い労働者として働いていました。彼にはたくさん重要な述べたいことがありましたが、書評者が肯定的に書いていた1つのことが私をとても傷つけました。「彼は宗教的なボランティア達を見て、彼らを『全くの恥知らず』だと考える。なぜならば、彼らは空腹のホームレスの人々が彼らに依存している以上に空腹のホームレスに依存しているからだ。山谷の男達は結局のところ『宗教的なボランティア達自身の霊魂の救い』のために生きた証になっているに過ぎないのだ。」というのです。このような言葉を聞くのは苦痛です。しかし、私達はこの言葉によって、私達の行動の動機について繰り返し反省し、すべての偏見と誤解が早くなくなるように祈らなければなりません。
2005年11月12日は忘れられない日となることでしょう。何年にもわたる長い準備の後、湘南短期キリスト教セミナーがついに当教会で始まりました。「小さな人々と共に生きる世界」というのが講義の共通のテーマで、よく知られたドキュメンタリー映画「マザーテレサとその世界」の監督、千葉茂樹さんが最初の講演者でした。千葉さんはどのようにしてマザーテレサをこれほどまでによく知り得たのでしょうか?
私が理解するところでは、彼がもっとも好むのは、主題の精神をカメラによって捉えながら、あくまでも真実でユニークな人間の経験を映画の題材にするということです。彼の語り口から、千葉氏は人々に静かに耳を傾け、人々を見ることにいかに長けているかが分かります。彼は、ヨーロッパの家族が自分たち自身の子供だけでなく、異なる国から何人かの子供たちを養子に取っていることを聞きました。千葉監督はそこに行き、ある個人が捨てられた子供の痛みをいかに心に感じ、その子を引き取ることを決心し、そして人の人生に新たな命を受け入れることによって、いかにその人自身が根本的に変えられ、心が豊かにされていくかを見たのでした。そして、取材した最後の子供は「マザーテレサの子供の家」から来た子だったのです。この経験が彼自身の独特なやり方でマザーテレサとその仕事についてのドキュメンタリーを作りたいという希望に拍車をかけたのでした。
それは簡単ではありませんでしたが、彼独自の忍耐と邪魔にならないやり方でマザーのインタビューを5回行い、何百万の日本人や他の人々の目と心に直接マザーを届けることが出来たのでした。千葉監督のカメラを通して、マザーテレサの限界や弱さは、彼女が人間の多様性を受け入れ、尊敬する巨大な力を曖昧にしてしまうことはありませんでした。この世のもっとも弱い者たちや忘れられた人たちに仕え、愛することを通して、主に仕え、主を愛するようにという、キリストの内なる声に対するマザーの飽くなき忠誠は、私たちの信仰の確かな証となっています。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
(2005年12月18日発行:鍛冶ケ谷教会文集ひろば28号より全文)