「主の祈り」とは、"主よ、わたしたちに祈りを教えてください"(ルカ11章の1)という一人の弟子の願いに答えてイエス様が教えてくださった祈りです。今回は、この祈りを取り上げる前に、イエス様ご自身の祈り方について重要な事柄を浮き彫りにすることにしましょう。
 前回指摘しましたように、イエスは、他の人々と共に食前でも、会堂でも、"祈りの家"である神殿でも祈りました。そればかりか、もっとも敬虔なユダヤ人の間に大切にされていたように、イエスは、神殿とそこで行われる儀式の他に、神への個人的な接近方法も使ったのです。それは、イエスのたとえ話やいろいろないい回しに表わされているように、宇宙万物を創造して支えていらっしゃる父なる神に、日常の生活と仕事のなかでも、私たちは出会うことなのです。言い換えれば、神の現存は実に身近なものです。

 福音書を読みますと、イエスの祈り方はさまざまでありながらも、非常に独特の個性がある祈りでした。特にルカの福音書には御父と祈るイエスのすがたが鮮明に刻まれています。決まったときの他に、どのようなときに祈ったかを調べてみますと、不思議なわざと奇跡(パンを増やすことやラザロを復活させること等)を行う際や大事な決定(十二人の使徒たちの選び)をするときばかりでなく、静かな夜のときがあればさびしい夜明けのときもあり、わくわくするときもあれば悲痛のときもあります。
 私たちにとってもっとも身近である祈るキリストの姿は、受難を迎えるゲッセマネの園のときと十字架上のときではないでしょうか。ヘブライ人への手紙の中には次の胸を打つ言葉があります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ人への手紙5章の7)。

 いずれにしても、聖書、とりわけヨハネによる福音書に記されているように、イエス様は絶え間ない祈りのうち、子としての父との交わりに生きていて、その御心を行い、その業を成し遂げることは自分の命であるといつも思っておられたのです(ヨハネ5章の34と17章を参照)。私たちも、あの無名の弟子のように、"主よ、わたしたちに祈りを教えてください"とたゆまず願い求めましょう。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ

(鍛冶ケ谷教会便り2006年11月号掲載)