主イエスの教えにしたがって、天におられるわたしたちの父の子どもにふさわしい、素直な信頼感と兄弟愛を呼び起こしながらお祈りに入ります。それから7つの願いが続きます。
最初の「み名が聖とされますように」という願いは、なにか不思議な感じがするかもしれません。なぜかというと、この願いは「アッバ、父よ」の呼びかけとの間に微妙な食い違いが感じられるからでしょう。たった今、子どものように祈り始めた人が、突然、聖とされますように(=崇められます、称えられます、尊まれますように)という受動的な表現形式によって強調される、崇高な旧約的ことばに、戸惑いがあるからではないでしょうか。この願いは、神の計り知れない偉大さと清さを意識した人が、本来ただひざまずいて語ることができるものなのです。※
この願いの第一の目的は、自分本位の願いになっているのではないかということを気づかせてくださるものだと思います。わたしたちは、とかく「苦しい時の神頼み」の気持ちで祈りがちなので、自分で望んだように祈りが叶えられなければがっかりして、信頼感が消えてしまって祈りを怠たることになるのはよくあることです。
この願いの内容を理解するために、まず「み名」の意味を簡単に説明しますと、神ご自身であると言っても良いと思います。「聖とされる」には、神様のすばらしさ、無限の優しさ、底知れない力強さ、清さ、永遠に、遍く現存して、なさることの正さなどはすべての人々に認められ、称えられ、賛美されますように、という望みが含まれています。
聖書において、神について語られることは、神は創造者、保護者であって、救世主、人間の救いのために働くかたである、などがありますが、簡潔に次の三つのことが伝えられています。
神は
「存在する方」(出エジプト3・14)
「聖なる方」(イザヤ6・3)
そして
「愛する方」(一ヨハネ.4・8)
です。
わたしたちは「主の祈り」を唱えるとき、ただ単に心の中で熱心にお願いするだけは足りません。わたしたちは同時に神が崇められますように、命を懸けねばなりません。
F.ウルフ神父がおっしゃるとおり、「キリスト者は、神の隠れた栄光・神の無限性・霊性・愛をこの世界につげるのである。わたしたちは神の御心を実行するならば、罪に死んで、わたしたち自身を忘れ、苦しむ兄弟姉妹を助け、そしてわたしたちに不正をする人を赦して、主に従ってわたしたちの十字架を担うならば、そのとき、わたしたちは神の御名を聖とするのである。そのとき、わたしたちの姿、わたしたちの生活、行い、わたしたちの体において、神はなんであるかが、少し現れるようになるのである」。※
み名が聖とされますように!†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
※「天におられるわたしたちの父よ」フリートリヒ・ウルフ著、鈴木宣明訳聖母文庫を参考
(鍛冶ケ谷教会便り2007年1月号掲載)
この願いの第一の目的は、自分本位の願いになっているのではないかということを気づかせてくださるものだと思います。わたしたちは、とかく「苦しい時の神頼み」の気持ちで祈りがちなので、自分で望んだように祈りが叶えられなければがっかりして、信頼感が消えてしまって祈りを怠たることになるのはよくあることです。
この願いの内容を理解するために、まず「み名」の意味を簡単に説明しますと、神ご自身であると言っても良いと思います。「聖とされる」には、神様のすばらしさ、無限の優しさ、底知れない力強さ、清さ、永遠に、遍く現存して、なさることの正さなどはすべての人々に認められ、称えられ、賛美されますように、という望みが含まれています。
聖書において、神について語られることは、神は創造者、保護者であって、救世主、人間の救いのために働くかたである、などがありますが、簡潔に次の三つのことが伝えられています。
神は
「存在する方」(出エジプト3・14)
「聖なる方」(イザヤ6・3)
そして
「愛する方」(一ヨハネ.4・8)
です。
わたしたちは「主の祈り」を唱えるとき、ただ単に心の中で熱心にお願いするだけは足りません。わたしたちは同時に神が崇められますように、命を懸けねばなりません。
F.ウルフ神父がおっしゃるとおり、「キリスト者は、神の隠れた栄光・神の無限性・霊性・愛をこの世界につげるのである。わたしたちは神の御心を実行するならば、罪に死んで、わたしたち自身を忘れ、苦しむ兄弟姉妹を助け、そしてわたしたちに不正をする人を赦して、主に従ってわたしたちの十字架を担うならば、そのとき、わたしたちは神の御名を聖とするのである。そのとき、わたしたちの姿、わたしたちの生活、行い、わたしたちの体において、神はなんであるかが、少し現れるようになるのである」。※
み名が聖とされますように!†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
※「天におられるわたしたちの父よ」フリートリヒ・ウルフ著、鈴木宣明訳聖母文庫を参考
(鍛冶ケ谷教会便り2007年1月号掲載)