この文章を書き始めようとしていた私は、思いがけない知らせに大打撃を受けました。心から愛している家庭の息子さんが、友達と二人乗りのバイク事故で早世されたとの報に接したのです。息子さんは間もなく大学2年になる19歳の頼もしくて元気いっぱいの好青年でした。
 さまざまな事柄に出会うたび、特に災難のときや、風俗の退廃やひどい権利の侵害などの場合、この世の物事を司るのは、いったい何なのでしょうと自分に問いかけることがあります。別に何もないのか、偶然か、運命か、天命か、金、能力、権力、悪の力、愛の力…などの答えが頭に浮かんできます。

 イエスのもっとも中心的なメッセージは、「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)というものです。「神の国」とは、神が、父としての無限の憐れみ深い愛の力によって、我々人間を、崇高な最上の幸せに導き、決定的に救ってくださる状態のことです。
 神の救いは私たちへの功徳やご利益のようなものではなく、親切心からくる真実(まこと)の贈り物です。したがって、イエスは、この贈り物を素直によろこんで頂く子どものような人々を、神の国に招き入れます。み国に入るということは、神を王として、神の治世、支配、統治を受け入れるということなのです。

 イエスはこの神の国に仕えるために自分のすべてを託しました。神の国は、イエス・キリストが神の子として人間となった瞬間に始まり、彼の公生活と受難と死と復活によって、成長して行きます。そして、いつの日かキリストが栄光に輝いて来るとき、神の国が最終的に最高潮に達するのです。
 このように、神の国は、すでに種が蒔かれ徐々に成長していますが、収穫はまだ終えていません。今も、これからも、みことばを聴く人が悔い改めてキリストの救いの喜ばしい知らせを信じ、あまねく神の愛の支配を受け入れることができるように、活動を続けていかなければなりません。
 
 「み国が来ますように」とお願いするとき、できるだけ早く世界の終末の日が来て、キリストが再びこの世に現れて(再臨して)すべてを片付けて下さるのを願うということよりも、ミサの中で皆が唱えているように、わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望みながら、今、現在、この時、一人でも多くの人々が神の愛の道に入るように祈ることが大切でしょう。

 現在、キリストの勝利はどこに現れているのですかと、誰かが疑いをもって尋ねるかもしれません。キリストの愛は確かに勝利しています。今の世界にあって、愛は、目に見える形ばかりではなく、目には見えないさまざまなものの中に、実は豊かにはぐくまれてきています。神の国の種を蒔き、土地を耕し、作物を収穫する働きは絶えることがありません。これらすべては、人間となったキリストの最初の到来から続いており、最後の結果、つまり、再臨に備えているのです。そのとき、この世は神と一緒になります。

 主の祈りを心から唱えるとき、ただ単に、その仕事が成されますようにと願うだけではなく、同時に、この願いが実現されるために愛と正義と連帯の業の中で働いている人々に、自分自身も関わらせていただくことを熱心に乞い求めるのです。
 
 み国が来ますように!†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ