この第三の願いをもって主の祈りの前半が終わります。この三つの願いとも、父なる神の慈しみ深い優しさを忘れずに、その超越的な主権を認めて断言しています。神に仕えるということは、神を称えて、全世界に神の愛の支配が広まるようにキリストとともに協力して、いつでも神の御心を行うということ以外に何ひとつありません。
 イエスの理想と意気込みは唯一つ、御父の、み旨を果たすことだけでした。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4・34)。聖母マリアも同じでした。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)。「わが神よ、わたしは御心を行うことを喜びます」(詩編40・8)という賛歌の祈りは、昔から今までずっとすべての信心深いヘブライ人の憧れを示します。真にキリスト者でありたいと願う人は、イエスの次の言葉を胸に刻むべきでしょう、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3・35)。
 最後に忘れてならないことは、自分で知っていても、知らなくても、良心に忠実に従おうと努める数えきれない人々も、神の御心を行っているということです。「神は各々行いによってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をおあたえになり、…たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2・6-7+14-15)
 御心とは、もっと具体的に言えば何であるかとの質問に、次のイエスの言葉はぴったり答えていると思います。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。…隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22・37・39・40)
 ルカの福音書の「主の祈り」にはこの願いが含まれていません。ただ「み国が来ますように」しかありません。おそらくマタイにとって「み国」をもっとユダヤ教徒にわかりやすくするために第三の願いを付け加えたに違いありません。その中に「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」という言葉には、天と地、言い換えれば、天国とこの世界は、いくらか似通っている面があるような気もします。というのは、この願いは、今この世でも神のみ旨は、まだ不完全にせよ、ますます実際に行うことができるばかりでなく、それを強く望んでいるということを現しています。天においては皆、感謝しながら神の喜びに与ります.この世でも正義と平和を求めて神に仕えるときに喜びを感じることは当然でしょう。この関係で聖パウロの二つの箇所が心に浮かんできました。

 「神の国は…聖霊によって与えられる儀と平和と喜びなのです」(ローマ14・17)と、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(二コリント9・7)。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ