主の祈り、この第四の願いについての文章を書くにあたって偶然前に読んでコピーした遠藤周作氏の記事が目に入りました。今回またゆっくりと読んでみましたら、私が言いたかったこととぴったりで、しかも面白く、なめらかに述べられていましたので紹介します。
1:私たちのための祈り

 ある原稿が締め切りの日まで、間に合いそうもなくなったので、祈祷会の人々に、そのことをリクエスト(お願い)したことがある。そのために、48時間中の4時間を眠っただけで間に合わせたことがあった。3か月前のことである。祈りの大切さを、もう一度あらたに思わされた。
 主イエスは「2人または3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)といわれた。ひとりで祈るよりも、2人がよい。多ければさらによい。したがってクリソストムは、「主の祈り」の中の「わたしたち」について、これは、「兄弟たちとともに祈るためである」と述べている。祈祷会の意味はそこにある。
 「主の祈り」の中のはじめの3つは、神、つまり天国に関するものとなっている。すなわち、「み名が聖とされますように」、「み国が来ますように」、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」である。これらは、3つでありながら、ひとつになっている。なぜならば、神の「み名」があがめられることによって、神の「み国」が到来し、「み国」が来ることによって、神の「み心」が完全に行われるようになるからである。
 後半の3つは「わたしたち」すなわち「地」に関するものとなっている。私たちの生活のために祈ることを、主イエスは教えられたのである。キリスト教の信仰は、思想の知的な理解ではない。生活に関する具体的なものである。

2:日ごとの糧

 22歳で結婚した家内は、そのころ、どうして人間は、1日に3度も食事をするのだろうと、食事用意のときに、よく笑っていた。それと同時に「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と、心から本当に祈ることができるようになった、とも話していた。米を買えないで、当時、十円のうどんの玉を毎日買っていたからである。そのころの伝道生活は、まさに「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4・4)の実験であった。しかし、少しの不平も聞くことはなかった。主の祈りのおかげである。信仰生活は実験を通して身についてくる。
 「日ごと」は、今日の、さしあたっての、目前の生活に必要な、ということをさしている。「糧」はパンのことであり、広く地上の生活をするのに必要な衣食住を意味する。「今日も」の原意は「きょう」ということであり、日本語の表現として、「も」をつけただけである。「お与えください」は、神からいただくことを意味している。
 この世的な祈りは、パンや生活に必要なものを貯えるための祈りである。しかし、聖書の祈りは、必要な分を「今日」与えて下さい、という祈りである。「今日まで、生かされてきたのだから、だいじょうぶですョ」というのが、そのころの家内の口ぐせでもあった。昨日まで、必要なすべてのものを与え、生かして下さった神さまは、今日も「日ごとの糧」を与えて下さるのだ、というのが、聖書の信仰にほかならない。

3:そうすれば

 創世記2章16、17節には、「園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない」とある。そしてマタイ6章33節には、「まず神の国と神の儀とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と記されている。
 そして「主の祈り」では、まず神のことを祈り、次に、わたしたちのために祈るように、教えられている。これらは、すべて同じ信仰の原理、聖書の示す信仰による生活の原理なのである。それは、神を第一にして生きるときに、神がその人に必要なものを備えて下さるということである。そんなことはない、神が何だ、という人がいたとしても、それは、その程度の生き方なのだから仕方がない。
 しかし、本気で信じる者には、神が備えて下さるのだから、損得を考えないで、使命的な生き方をすることができるようになる。使命的な生き方とは、他の人が人間の本来あるべき姿になるために、益となるような生き方のことである。それは「本来のあるべき姿(アイデンティティ)」への「助け(ヘルペ)」となるような生き方をさしている。†

「キリスト教・ハンドブック」、遠藤周作{編}、エピローグ、pp.225-228.三省堂)

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ