罪悪感にさいなまれることは、果たして良いことでしょうか。はっきりした具体的な罪がなくて、あるいは、過去に犯した過ちを何回後悔しても、それでもまだ何となく良心の呵責を感じたままで生きることは、決して健全な状態とは言えないと思います。しかし、それと反対に、良心のささやきに鈍感になる危険性は珍しくないと言えるでしょう。
 もし自分自身をじっと見つめるならば、おそらく自分の身勝手な態度によって人を傷つけたり、悲しませたり、人の信頼や自分自身の信念を裏切ったりしたことに気づくかもしれません。たとえば、世界の苦しみや貧困やひどい不正をテレビで見ていても無関心で、自分は、盗みも殺しもしていないから罪びとではないのだと言えるでしょうか。もし、いままでの人生を振り返ってみて自分自身がどれほど恵まれているかを認め、さらにキリスト者であって神の愛を信じるならば、もっともっと温かい、公平無私の人間社会を築き上げるために、いただいた才能をまだまだ発揮していないという事実に兜を脱いで、ダビデ王と同じように「私は主に罪を犯した」(サムエル記下12・13)と、私たちも告白しなければならないのではないでしょうか。聖書の言葉にもあります。旧約には、「罪を犯さない者は一人もいません」(詩篇143・2)、新約には、「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(ヨハネの手紙一1・8)
 否めない現実はその通りです。私たちは罪びとです。そればかりか、自分の罪を自分の力で清めることができません。わたしたちは終末完成の日に最後の審判に向かって旅しています。「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいる」とミサに主の祈りの後で唱えます。ここには二つの大切なことが含まれています。一つは、自分の人生の決定的な裁きなので自分の罪を認めながらキリストの愛とゆるしを信じることです。もう一つは、謙遜に願ってゆるしをいただいた者として、自分に対して負い目がある人をゆるしてあげることです。
 自分と自分が愛している者にわざと大きな害を与えて謝らない人をゆるすのは不可能に近い。不正に対してお返しをするのは自分の権利であり、自分の義務であるとさえ人間はとかく思いがちです。神にゆるされたいと思っているわたしたちは、仇を討つのではなく、聖パウロの助言に従って相手を神の怒りに委ねましょう。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ、12・19&21)。
 神にゆるされた体験をもった人は、他の人に要求をする立場にある者ではないということを感じるでしょう。言うまでもないことですが善を目指して生きる人は幸せです。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ