主の祈りの、この“願い”については、教皇ベネディクト16世の最近のベストセラーとなった、著書『ナザレのイエス』の中で、これについて述べておられます。その中で、この部分にかなりのページを費やして説明されていますので、分かりやすくて大切なところを抜粋して紹介したいとおもいます。

 この“願い”の表現の仕方は多くの人にとってショッキングなものでしょう。神は確かに私達を誘惑に陥らせるようなことはなさいません。実際、聖ヤコブが言うように、「誘惑に遭うとき、だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブの手紙1-13) 

 私達は福音書の言葉を思い出すことによってさらに助けられます。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイ 4-1)
 誘惑は悪魔から来ますが、イエスの救い主としての使命のひとつは、神から人を離れさせ、そしていまだに離れさせている、おもな誘惑から人を守ることであり、そしてその仕事を続けることです。
 イエスは十字架の死に至るまでこれらの誘惑に耐えなければなりませんでした。そして、これこそが私達への救いの道が開かれることなのです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ人への手紙2-18)

  ヨブ記は、試練と誘惑の違いを理解するのを助けてくれます。成熟するため、即ち、表面的な信心から、神の意志との深い一致に至るまでの道程において真に進歩するためには、人は試練を受ける必要があります。ちょうど、ぶどうの汁が良質のワインになるために発酵しなければならないのと同じように、人も浄化され、変容されなければなりません。それは人にとっては失敗する可能性もあり、危険なこともあります。しかし、それは自分自身になるため、そして神に近づくための道程に、なくてはならないものです。愛は常に浄化へと向かわせ、邪悪な欲望を断念させるという、自分自身への辛い変容を伴う過程です。そして、これが成熟への旅となるのです。
 神は、砂漠の隠修士アントニウスから、カルメル会の修道院の敬虔な世界に生きたリジューのテレジアに至るまで、神に近い人に特に重い荷を負わせられた、という事実を覚えておくべきではないでしょうか? 彼らこそ、私達の誘惑に死に至るまで苦しみを受けたイエス・キリストとの特別な交わりを楽しんだのです。

 従って、主の祈りの6番目の願いを祈るとき、私達は一方で私達に与えられた試みの重荷を受ける準備ができていなければなりませんが、他方、願いの目的は、神に私達が耐えることができる以上の重荷を与えないでください、あなたの掌から私達を零(こぼ)さないでください、と願うことなのです。この祈りを、聖パウロが私達に伝えてくれたように、確固とした信頼のうちに唱えましょう。「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への第1の手紙11-13)†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ