去る11月18日(日)に、鍛冶ヶ谷教会にわざわざおいで頂いた梅村司教様によって堅信式が行われました。大袈裟のように聞こえるかもしれませんが、だれかが「鍛冶ヶ谷教会の第二の聖霊降臨でした」と宣言されました。確かに、堅信の秘跡を受けた一人ひとりに聖霊が豊かに注がれて、いつまでも魂には消えないしるしが刻まれました。と同時に、3ケ月の間熱心に堅信の準備をして来られた信者の皆さまの心にも、その聖霊の豊かさと喜びが溢れているような感じがしました。
 愉快なお祝いパーティのとき、ゲームの一環として、「天国とは何ですか」という質問に色々な方から様々な面白い答が出ました。私の番になったとき、その場で急に思いついた答に「天国は、しあわせそのものです」と言いました。神様のインスピレーションであったか、気まぐれの思いつきであったのかは分かりませんが、その後気になって、ゆっくりと考えることにしました。

 天国が場所ではないことは当たっていると思います。確かに聖書は「主は天に御座を置かれる。」(詩篇11・4)と歌いますが、又、「神ははたして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたを納めすることができません。」(列王記上8・27)と言って、神の住まいはすべての場所を超えるということもはっきりしています。

 天国は結局「場所」というよりは、ある「状態」、「存在の有様」を指しています。厳密に言えば、完全なしあわせの状態にあって、神の無限の幸福に与かるということではないでしょうか。言い換えれば、天国は、神のしあわせを自分のしあわせとして、神と、神を愛する天使と人々と共にいつまでも味わうということです。心が満ち足りているので、それ以上のものはいりません。

 イエス様は、天国について話をしたときにいろいろな言葉を使われました。私は特に以下の二つが大好きです。一つは「忠実な良い僕だ。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25・21)神ご自身のしあわせそのものに加わるということです。ただ、皆が、ばらばらになって神の幸福を味わうことではありません。二つ目は、ルカがいっているように天国は「盛大な宴会」(ルカ14・16)のようなものです。親を囲みながら家族皆、一緒になった喜びは何とすばらしいことでしょう。おそらく皆様もそういう経験をお持ちでしょう。子どものとき、そういうことがよくあったでしょう。時が経つと子どもは結婚したり独立したりすることによってそんな経験が少なくなりながらも、家族が一緒になったときは、何倍も嬉しさが増すにちがいありません。

 私自身の経験について述べるなら、たった一回しか親と兄弟姉妹が集まることができませんでした。私が16歳のときに一番上の姉は結婚してアフリカに行ってそこに住むことになりました。私は5カ月の後、17歳になってイエズス会に入りました。5年後、次の弟もイエズス会に入ってすぐペルーに送られました。また3年後の1957年に私が日本に向かってスペインを出て、皆ばらばらになりました。けれども、1968年に弟がマドリードで司祭叙階されましたので、11年ぶりに私は戻りました。20年経ってやっと親と6人の姉妹兄弟が集まって、すごく楽しいご馳走の会をしました。その後はもう皆一緒に食べることがなかったのですが、あの1968年6月の食事の後で撮った写真を小さくして、いつも財布の中に持っています。皆嬉しそうですが一番しあわせそうなのは母です。この世では天国に一番近かった感じがします。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ