主の祈りを唱えるとき、最初に善き、いつくしみ深き、光と真理である父なる神に呼びかけますが、最後には、神の正反対である悪、つまり、高慢と憎しみ、偽りとすべての暗い欲望から私たちを救ってくださるようにと願って祈りを終えます。
 『悪』とは、誰ですか、あるいは、何ですか。悪そのものですか、それとも、もろもろの悪いもののことですか。このような問いかけにはいろいろな答えがありますが、まず、聖書によれば悪いものがあるばかりでなく、『悪い者』(「この世全体が悪い者の支配下にあるのです」ヨハネの第一の手紙 5-19)とか、『悪魔』(イエスの「毒麦のたとえ」の説明の中に、「良い種を蒔く者は人の子、毒麦を蒔いた敵は悪魔」マタイ13-37と39)などがあります。ルカの福音書(11-4)の『主の祈り』の中にはこの七番目の願いがなくて、「わたしたちを誘惑に遭わせないで下さい」で祈りが終わりますが、マタイ(6-13)では、悪いものではなく、新共同訳どおりに「『悪い者』から救ってください」となっています。

 結論として、『主の祈り』の「悪からお救いください」の「悪」は、ただ‘悪'であるか‘悪い者'であるかが未解決の問題として残っています。しかしながら、ベネディクト十六世は、『ナザレのイエス』の中で、「二つとも最終的に不可分のものである」(英語版165ページ)とお書きになっています。その説明がたいへんに意味深く、美しいと思いますので、ここでまとめて見ることにします。

 黙示録の12章と13章には、私たちの目の前に火のように赤い大きな『竜』が、海から、つまり、暗いどん底から、ローマ帝国の力の象徴を帯びて悪が現れてきます。それには当時の迫害のとき、キリスト信者がどのような危険に立ち向かっていたかが、具体的に画かれています。人間をむさぼり食おうとする皇帝崇拝と政治・軍・経済の力が、絶対的な力としての「悪」の化身として表わされています。さらに空虚的優越感による道徳原理の衰えている雰囲気を考えますと、その悪の恐ろしさは明らかです。このような危険なときに迫害されていたキリスト者は、自分たちが救われるのは、たった一つの力を持っていらっしゃる主に『悪からお救い下さい』と呼びかけることだったのです。

 この状況は現代にもぴったり当てはまります。今日の一方的な市場の力、武器や麻薬や人間の取引のすべての力が全世界に影響を与えており、抵抗できないほど人間性が奪われています。他方ではどうしても出世や楽な生活のイデオロギーとして「神なんかは作りごとに過ぎない。人生の喜びを奪い取るだけです。神のことを気にしないで、ただ、できるだけ人生を楽しんでやりなさい。」という、このような誘惑を抑えるのも不可能のようです。

 この最後の願いは、最初の三つの願いに私たちを戻します。悪の力から開放されるようにと願うことにおいて、結局のところ神の国の到来と、みこころに一致することと、み名が聖とされることが求められています。しかし教会は、長い年月をとおしてこの願いをもっと広い意味で解釈してきました。この世の多くの苦難の中で、神の民は自分たちの生活を悩ますもろもろの悪を抑えるように、神様に願って止みませんでした。ミサの典礼にも『主の祈り』の最後の願いは別の祈りに展開させられました。「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。」と。

 この最後の『主の祈り』の願いを大きく広げて、自分の良心の究明と反省を促すべきでしょう。悪いものの圧倒的影響力に反対する動きに、私たちも協力するよう召されています。しかし忘れてならないのは、良いものの正しい価値の優先順位と、悪いものと『悪』との関係です。私たちの願いは薄っぺらなものになってはいけません。願いの中心は、罪から救われて、悪いものの真髄は「悪」であると認識しながら、生ける神を真っ直ぐ見つめて生きることです。†

鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ

2008.2.1