「アーメン」(そうなりますように)という望みのこもったことばで主の祈りが固められます。
初代教会の信者が祈りや『パンを裂く』(今のミサ)や説教などのために集まったときに、ユダヤ教の習慣に従って「アーメン」を唱和するようになりました。
初代教会の信者が祈りや『パンを裂く』(今のミサ)や説教などのために集まったときに、ユダヤ教の習慣に従って「アーメン」を唱和するようになりました。
「アーメン」は、ヘブライ語で、「まことに、真実に、はい、その通り、そうなりますように」の意味で、言われたことに、賛成したり、それを承認したり、神の命令を受け入れたりするために使われた唱和のことばでした。要するに、「アーメン」は、一心に神のすばらしさを賛美し、その御胸を喜んで果たす心構えを表すことばです。短いことばですが、非常に積極的なことばであって、神と命を尊び、はっきりと肯定する的確な表現です。
教会がパレスチナから地中海の国々に広まって行き、信徒の集いの典礼が、まず、ギリシア語で、後にラテン語とスラヴ語と日本語などで行われるようになりました。その場合どこででも、もともとのヘブライ語の「アーメン」はそのまま残されました。マタイとルカの二つの福音書には「アーメン」がないのですが、このような理由で自然に最初の信者たちは『主の祈り』に付け加えたのです。
私たちは「アーメン」と締めくくって唱えるときに、お願いした恵み、つまり、神はすべての人の父であり主であることが認められること、皆、例外なく、兄弟姉妹として平和と喜びの内に生きられること、だれも人間らしくない生活を耐えなければならないということがないこと、皆、過ちを犯したとき、互いに恨みを抱かないで赦しあうこと、そして神の助けによっていつも私たちを待ち伏せている悪を退けることができること、この恵みが必ず与えられますように望むと同時に、自分自身も、命をかけて、このことが実現されるために努力することの約束もしっかり含まれています。
心から「アーメン」と言うことは、神が私に望んでおられることをお捧げし、神ご自身の奥深い知恵と慈しみによって私に起こったこと、起こるであろうことを受け入れることです。心から受け入れる。できることなら、快く受け入れることです。生きているとき、いのちに『はい』と言って、死が来るときにも『はい』ということです。なぜなら神のいのちに対する『はい』は、死より強いものだと私たちは信じているからです。
1月19日に107歳で、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター、マリア・マグダレナ有安キトは、戸塚修道院で帰天されました。最後のことばは『ハレルヤ、ハレルヤ(神をほめたたえよ、神をほめたたえよ)。』そして、『アーメン』でした。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ
教会がパレスチナから地中海の国々に広まって行き、信徒の集いの典礼が、まず、ギリシア語で、後にラテン語とスラヴ語と日本語などで行われるようになりました。その場合どこででも、もともとのヘブライ語の「アーメン」はそのまま残されました。マタイとルカの二つの福音書には「アーメン」がないのですが、このような理由で自然に最初の信者たちは『主の祈り』に付け加えたのです。
私たちは「アーメン」と締めくくって唱えるときに、お願いした恵み、つまり、神はすべての人の父であり主であることが認められること、皆、例外なく、兄弟姉妹として平和と喜びの内に生きられること、だれも人間らしくない生活を耐えなければならないということがないこと、皆、過ちを犯したとき、互いに恨みを抱かないで赦しあうこと、そして神の助けによっていつも私たちを待ち伏せている悪を退けることができること、この恵みが必ず与えられますように望むと同時に、自分自身も、命をかけて、このことが実現されるために努力することの約束もしっかり含まれています。
心から「アーメン」と言うことは、神が私に望んでおられることをお捧げし、神ご自身の奥深い知恵と慈しみによって私に起こったこと、起こるであろうことを受け入れることです。心から受け入れる。できることなら、快く受け入れることです。生きているとき、いのちに『はい』と言って、死が来るときにも『はい』ということです。なぜなら神のいのちに対する『はい』は、死より強いものだと私たちは信じているからです。
1月19日に107歳で、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター、マリア・マグダレナ有安キトは、戸塚修道院で帰天されました。最後のことばは『ハレルヤ、ハレルヤ(神をほめたたえよ、神をほめたたえよ)。』そして、『アーメン』でした。†
鍛冶ケ谷教会主任司祭:ハイメ・カスタニエダ