主任司祭メッセージ

ミサ説教「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る」待降節第2主日 2021年12月5日

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曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る
―待降節第2主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音3章1−6節

 第一段落:その時の状況(1−2節a)
 「皇帝ティベリウスの治世第15年」は当時のパレスチナの政治状況を思い起こさせます。この地方はローマの支配下に置かれている上に、何人もの領主に分かれており、人間的な野心が複雑に交差する場所になっていたことが、このような文章構成によって示されています。大祭司アンナスは紀元15年にローマ総督に解任されましたが、ユダヤ人は彼の職が継続しているとみなし、女婿である義理の子カイアファが大祭司在位中(紀元18−36年)もかなりの実権をふるったので、ルカは二人の大祭司がいたように記しています。
 ルカ福音書は、ヨハネの宣教活動をイエスの民を準備する使命、しかもこの使命をイエスに「先立って行く者」として表現しています。「彼(ヨハネ)はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1章17節)。「幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え(る)」(ルカ1章76節)。ルカ3章19−20節では、ヘロデによるヨハネの投獄が記されています。こうしてルカはイエスの活動の始まる前にヨハネの活動を終わらせます。彼の死によって旧約の終わりを示し、イエスの時の秩序が始まるからです。ヨハネの「先立って行く者」の使命は、洗礼者としてよりも宣教者としてでした。彼の最後の活動も「民衆に福音を告げ知らせる」ことです(ルカ3章18節)。
 しかしヨハネがイエスに先立って行くのは、イエスの民を準備するため(ルカ1章17節)です。イエスが救うべき民とは、ユダヤ民族だけでなく、異邦人を含めた「すべての民」(ルカ2章31節、24章47節)であり、「地の果てまで」の民(使徒言行録1章8節)です。したがって、イエスに先立って行くヨハネは、荒れ野で叫ぶ者の声として(ルカ3章4節)、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3章6節)と宣べ伝えます。そしてルカは、「すべての民」の救いを強調するために、ヨハネの宣教活動を、当時の地中海周辺の人々にとって全世界であると認識していたローマ帝国内の歴史的事件として、「皇帝ティベリウスの治世第15年」(ルカ3章1節)に位置づけ、描くのです。

 第二段落:洗礼者ヨハネは来た(2節b−4節a)
 第二段落を直訳すると、神の言葉が荒れ野のヨハネに降った。彼は来た ヨルダン川周辺へ 宣べ伝えながら 悔い改めの洗礼を 罪の赦しのために、イザヤの言葉の書に書かれているように となります(一部分を削除)。この段落は「言葉」で囲い込まれています。洗礼者ヨハネの到来は「神の言葉」の支配下で起こった出来事であり、しかも「イザヤの言葉の書」に預言されていたことの成就だったのです。このように言葉に守られて「来た」洗礼者ヨハネは、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えます。
 聖書の述べる「悔い改め」は生活の一部を手直しすることではなく、生きる姿勢全体を神へと方向転換することを意味します。このような方向転換が可能となるのは、「神の救い」(ルカ3章6節)がそこに来ようとしているからです。だから「悔い改めの洗礼」とは、悔い改めを与える洗礼という意味ではなく、悔い改め、つまり生きる姿勢の全面的な方向転換を表すしるしとしての洗礼という意味です。

 預言の言葉(4節b−6節)
 マタイとマルコの並行箇所でもイザヤ書40章を引用しますが、両者はイザヤ書40章3節(今日の福音では4節にあたります)だけの引用にとどめています。ルカがイザヤ書40章4−5節(今日の福音では5−6節にあたります)をも引用したのには理由があります。
 第三段落はイザヤ書40章3−5節からの引用です。直訳すると、叫ぶ者の声が 荒れ野に、あなたがたは準備しなさい 主の道を、真っ直ぐにしなさい 彼の小道を。どの渓谷も 満たされるだろう どの山も丘も 低くされるだろう となります。「あなたがたは準備しなさい、真っ直ぐにしなさい」とありますから、人間の参加が求められているのは、確かです。しかし、「満たされるだろう、低くされるだろう」というように、神が行動の主体であることを表す神的受動形が続きます。神もまた参加します。
 ヨハネの呼びかけに応えて、主を迎える道を準備し始めるのは「あなたがた」ですが、それを完成させるのは、神です。私たちが準備しようと決断しても、深い谷や越えにくい山、どこまでも続く丘やでこぼこで歩きにくい道にぶつかれば、決意も鈍ってしまいます。しかし、悔い改めて準備を開始すれば、神が手助けして、主の道を完成させてくれます。ルカがイザヤ書40章4節を引用したのはそれを述べるためです。
 さらに、ルカがイザヤ書40章5節をも引用したのは、「主の栄光がこうして現れるのを(すべての)肉なる者は共に見る」という句があるからです。ルカ2章30節以下「シメオンの賛歌」にも「万民のために整えてくださった救い」とあるように、ルカはすべての民が「神の救い」(ルカ3章6節)にあずかることを好んで強調しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」とされ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(4節)と告知します。この呼びかけに応えて主を迎える道を準備するのは私たちですが、神もまた参与する作業です。そのとき、曲がった、でこぼこである「主の道」が平らな道となり、その上を「神の救い」を運ぶイエスが私たちのもとにやって来るのです。
2021年12月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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教会便り巻頭言「クリスマス・プレゼント」(2021年12月号)


クリスマス・プレゼント
その1

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 神はアブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22章2節)と命じます。親にとって、自分の子どもを見捨てることは自分の命を捨てるよりも高価な犠牲です。神はその独り子であるキリストを私たちにプレゼントしてくださいました。聖書はこの箇所(創世記22章1−24節)で、神の独り子であるキリストのいけにえを見ています。
 クリスマスの本当のプレゼントはキリスト自身です。この真実は次の一句に書かれています。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)。これだけです。「これだけ」とは言っても、これこそ歴史上、最上の出来事です。クリスマスは神から送られた最高の「プレゼント」なのです。
 クリスマス・プレゼントを運んだ元祖サンタクロースは、4世紀、小アジアの司教だった聖ニコラオです。ある夜、彼はある貧しい人の家の煙突に登り、そこから財布をこっそり落としました。するとその財布は、その家の女の子が暖炉に干していた、くつしたの中に入ってしまいました。これがくつしたの中に、クリスマス・プレゼントを入れる習慣の始まりです。
 クリスマス・プレゼントは、お金をかけるだけが高価ではありません。思いやりのある一言、暖かい笑顔、親切、愛の心こそ、一番うれしいプレゼントです。聖ニコラオが貧しい人々にプレゼントしたように。そして、神が大切な独り子であるキリストを私たちにプレゼントしてくださったように。


クリスマス・プレゼント
その2

  次のようなマザー・テレサの言葉があります。
 本当に愛したいと思うなら、痛みを覚えるまでに与えなければなりません。
 そうすれば、私たちの愛は、私たち自身から自由になり、
 他の人々にとって、信じるに足りるものとなります。
 少し前、私たちの『子どもの家』で、お砂糖がなくなってしまいました。
 それを聞いた四歳の坊やが家に帰って、両親に言ったのです。
 「ぼく、三日間お砂糖はいらないよ。その分、マザー・テレサにあげるんだ。」
 三日後、坊やは両親と一緒に、そのお砂糖をもって来てくれました。
 その坊やは、やっと私の名前を言えるくらいの幼い子どもでしたが、
 それでも、彼は、私に、人間とは本当に大きな愛をもっているものだということを教えてくれたのです。
 大切なのは、いくつあげたかということではなく、愛をもって与えることです。
 小さな坊やは、自らが痛むまでに与えたのでした。
※大切なことは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心を込めてしたかです。

「マザー・テレサ 100の言葉」
(ヴォルフガング・バーダー編 山本文子訳 女子パウロ会)
マザー・テレサの言葉55・56

 鍛冶ヶ谷教会の皆様、今年も愛のクリスマス・プレゼントを隣人に運んであげてください。
 クリスマスおめでとうございます。


※ 注(Web担当者より)
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教会文集「ひろば」巻頭言「イエスは手を差し伸べています」(2021年11月、57号)


イエスは
手を差し伸べています

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 湖の上を歩く(マタイ14章22−33節)

 22節 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23節 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24節 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25節 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26節 弟子たちは、イエスが湖上を歩かれておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27節 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。28節 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。29節 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30節 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31節 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32節 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33節 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 新型コロナウイルス感染症は、私たちに様々な「恐れ」を抱かせます。,泙沙爐紡个垢覿欧譴任后この恐れは、集団感染を起こした病院の看護師が子どもと一緒に公園で遊んでいると、別の子ども連れの母親から「公園で遊ばないでほしい」という差別や偏見を生み出します。⊆,蓮⊂来への不安です。自分の蓄えた物を少しずつなくなっていく。緊急事態宣言の期間には、多くの人が失業し、財産を失いました。将来への不安から恐れを抱えることになります。また、罪の問題もあります。隠していた行為が世間に知られることへの恐れです。私の田舎の知人に電話をかけると「感染者にはなりたくない」と言います。「あそこの家から出た!」。田舎で感染者や濃厚接触者になると、町中に噂がすぐに拡がります。
 私たちは「水の上を歩く」ペトロと同じように、願いと情熱をもっていますが、その一方で弱さと恐れを抱えています(28−30節)。この「恐れ」は別の角度から捉えると「痛み」や「疲れ」になります。
 コロナウイルスとの戦いの中で、恐れや不安に押しつぶされると、私たちは疲れ果て、すぐにイエスから目をそらして、ペトロのように沈んでしまうでしょう(30節)。その反対に、弱さや恐れがあっても、しっかりとイエスを見ていれば、喜びと熱意をもって生活をするために必要な意欲を与えてくださいます。イエスは今日も手を差し伸べているのです(31節)。

※ 注(Web担当者より)
●本文の前半、太字になっている部分は、原文ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。

ミサ説教「人の子の前に立つことができるようにいつも祈りなさい」待降節第1主日C年 2021年11月28日

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人の子の前に
立つことができるように
いつも祈りなさい
―待降節第1主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音
   21章25−28節・34−36節


 典礼暦年に関する一般原則および一般ローマ暦(21頁)では、待降節を次のように説明しています。「待降節は二重の性質をもつ。,修譴呂泙此⊃世了劼梁莪譴陵萠廚鯆媛韻垢觜瀉造虜彭気里燭瓩僚猗期間であり、△泙親瓜に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間である。この二つの理由から、待降節は『愛と喜び』に包まれた待望の時であることが明らかになってくる」。
 待降節の初めに教会は終末におけるキリストの第二の来臨を記念します。英国教会のある典礼グループは、待降節を9主日にわたって、10月半ばから開始することを提案しています。第一主日は天地の創造、次いで人祖の罪、ノア、アブラハム、モーセというふうに、救いの歴史において重大な出来事を順を追って祝い、メシアの来臨を待ち望んだ旧約の民を記念し、それにあやかるというのです。この聖書配分は、/世了劼梁莪譴陵萠廚鯆媛韻垢觜瀉造里燭瓩僚猗期間として祝うという利点がありますが、その反面、⊇末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間としては欠点があります。

 主の日
 神がイスラエルの歴史の中に現れる日を預言者たちは「ヤーウェの日」と名付けました。この日は、神に逆らう者には滅びになりますが、神を敬い、神を愛する人には救いの日となります。新約聖書では、この「ヤーウェの日」に代わるものとして「主の日(イエスの来臨の日)」が登場します(今日の福音34節・35節のその日は「主の日」のことを指します)。
 イエスがご自分の受難と復活によって、終末の時代の幕を切って落とされたということは、初代教会全体の確信でした(ヘブライ書1章2節)。この確信に基づいて、新約の著者たちは終末に関する当時の表現を借用して、この信仰を表明しました。信者には、警戒して主を待つこと(A年待降節第一主日福音)、愛徳の実践によって主の来臨に備えること(マタイ25章14−46節)、清い生活を送ること(B年待降節第二主日第二朗読)が強く勧められ、典礼の場では、救いの完成である主の再臨を強く求める祈り、「マラナ・タ(主よ、来てください」がささげられていました(汽灰螢鵐判16章22節)。待降節は、まさにイエスの地上における現れ(終末時代の開始)と、栄光に満ちた再臨(終末の完成)を準備する期間なのです。
 「解放」(アポリュトローシス 今日の福音28節)は、奴隷や捕虜を自由の身にするために支払う「身代金・買戻し金」を意味しています。神学的には、神がキリストの死と復活によって罪や死から人を「解放する・あがなうこと」、または人が「解放されること、あがなわれること」を表します。今日の福音では「あがない・解放」は終末論的な意味で使われています。このときには、「あがない」はキリストの死と復活によって既に開始され、来たるべき終末の時キリストの再臨とともに完成される救いを表します。

 人の子が来るのを見る(25−28節)
 25−26節では、最初と最後に起こる異変が、「太陽と月と星に徴が現れる」と「天体が揺り動かされる」という表現で言い表されています。その間には、それを目にする「地上」の反応が描かれています。「諸国の民」は不安に陥り、「人々」は気を失うことになります。マルコの並行箇所(13章24−25節)では、天変地異を書くだけで、地上の人々が陥る不安については一言も触れていません。このことから考え、ルカは「諸国の民や人々」と「あなたがた」(28節)との対比を強調しています。
 27節の「人々は見る」の「人々」には、「諸国の民や人々」だけではなく、「あなたがた」も含まれています。人の子を受け入れ、その関わりを大事に生きて来た人は、人の子の到来を見るときに、「あなたがた」であることがあらわになります。「あなたがた」は、「諸国の民や人々」とは違って、頭を上げることができます。それが「解放(アポリュトローシス)」の時であることを知っているからです(28節)。

 いつも目を覚まして祈りなさい(34−36節)
 34節では「あなたがた」が取ってはならない生き方が語られます。放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くなるなら、人の子との関わりが断たれていることのしるしですから、「その日」が不意に襲うことになります。聖書にとって「心」とは、感情の座というよりは、理性や意志の座です。心が鈍くなるなら、理性が石のように固くなって活発に働かなくなります。それで、天に「徴」が現れ(25節)、「解放(アポリュトローシス)」(28節)の時が近づいたことを見て取ることができず、「諸国の民や人々」と同じように、不安に陥り、恐ろしさのあまり気を失うことになります(25−26節)。
 一方、36節では「あなたがた」が取るべき生き方が語られます。起ころうとしていることから逃れ、「人の子の前に立つことができるように」生きるべきであり、そのためには「祈りなさい」ということが不可欠です。

 今日の福音のまとめ
 今日から私たちは待降節を迎えます。待降節は「愛と喜び」に包まれた待望の時です。お金がなくて苦しんでいる時に、「心配しなくてもいいよ。あなたのことなら、何でも喜んでするから」と言ってくれる友人がいれば、ありがたいことです。しかし、その時「楽しんでするから」とは言いません。ここではっきりすることは、「喜び」と「楽しみ」との区別です。「喜び」というのは、「楽しみ」を犠牲にして友人を助ける愛の行為から生じます。別の固い言い方をすれば、「楽しみ」は自己所有の満足感から生じるのに対して、「喜び」は友のための自己放棄に由来します。イエスは「人の子の前で立つことができるようにいつも祈りなさい」(36節)と命じます。待降節―「愛と喜び」をもってすべての人に祈りをささげ、神のひとり子の現れを待ち望みましょう。
2021年11月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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ミサ説教「わたしの国は、この世には属していない」王であるキリストB年 2021年11月21日

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わたしの国は、
この世には属していない
―王であるキリストB年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音18章33b−37節

 ヨハネ福音書の枠組み
1章1−18節: 序文
 受肉したみ言葉(イエス)の道程についての紹介とその概要。
1章19−12章50節: 第一部 しるしの書
 み言葉は、自らを世と自分のものとされた人々に啓示しますが、彼らは彼を受け入れません。
13章1−20章31節: 第二部 栄光の書
 み言葉は、自分を受け入れる人々に、彼の死、復活、昇天をもって御父の元へ帰ることで自らの栄光を示します。彼は、完全に栄光にあげられて、命の霊を送ります。
21章1−25節: 結び
 神学的重要性をもちます。復活後のガリラヤにおける一連の出現。

 王であるキリストのB年の主日には、イエスがローマ総督ピラトの前で自分が王であることを宣言する箇所が朗読されます。ヨハネ福音書の第13章の荘厳な導入の句で始まる受難記は「栄光の書」と名付けられています。
 「王」という語は、ヨハネ福音書の第一部(「しるしの書」と名付けられています)では四回しか使われていないのに(1章49節、6章15節、12章13節・15節)、第二部の「栄光の書」では十二回、しかもピラトの裁判から十字架につけられる箇所に集中して使用されています。これを見ても、ヨハネは第二部で、「王としてのイエス」を描こうとしていたことが分かります。

 威厳に満ちた「王」
 ヨハネ福音書の中で、イエスの「啓示」が受け入れられ、救いをもたらす信仰、永遠の命にいたらせる信仰が人々の中に根づくとき、それを著者は「栄光」と呼びます。
 過越の祭りに来ていた群衆が、エルサレム入りするイエスを、なつめやしの枝をかざして歓迎します。ヨハネ福音書はこの歓迎の状況を、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」という、ゼカリア書9章9節の預言の成就とみなし、次の言葉をつけ加えています。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき(受難・十字架上の死・復活)、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」(12章16節)。
 ヨハネ福音書の示す「受難物語中のイエス像」は、明白な自覚と意識―メシアであり、「受難・十字架上の死・復活」を通しての「あがない」の使命を遂行するのが御父のみ旨(みむね)であるとの―をもった、「強い、栄光に満ちた、神的な王」です。福音書は、18章・19章の「受難物語」の中で明白に「イエスが王である」というテーマを展開します。むろんヨハネ福音書のイエスも、逮捕され、裁判にかけられ、処刑されますから、「弱いイエス」に違いありません。しかし、そのイエスが同時に「栄光の王」であるところに、この福音書の掲げる(かかげる)イエス像の特色が見られます。従って、この福音書では、共観福音書に記述されているいくつかの情景が意識的に省かれています。それは、「王」の威厳にかかわる「屈辱的」な要素です。

 真理による王
 今日の福音のピラトとイエスの問答のテーマは「王権」です。ピラトにとって、「王」とは、政治的な王以外に何者でもありません。イエスにとっては「真理による王」なのです。
 「わたしの国はこの世には属していない」(36節)。イエスの王国、つまり「支配権の及ぶ対象」は、特定の領土、国民、政府、軍隊をもつこの世の国ではありません。次元の異なる国です。「それでは、やはり王なのか」(37節)。イエスの説明がよく分からない、要するにお前は王なのか王でないのかズバリ言ってみろと、もどかしげに尋ねるピラトに、イエスは答えます。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(37節)。イエスのこのあいまいな表現は、「わたしは確かに王であるが、ただ、『王』に付与する意味合いが、あなたとわたしでは違っている」という意味です。
 それでは、イエスの意味する「王」と何でしょうか。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37節)。ここでいう真理はイエスによってもたらされた啓示、イエスの教えを意味しています。ひいては「イエス自身」です。
 しかし、イエスの啓示行為だけでは、彼の王権は成立しません。啓示を受け入れる人々が必要です。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。イエスの声(啓示)を聞く(受け入れ、信じる)ことによって、「真理に属する」ようになる人が必要です。「臣下あっての王」ですから、イエスが王となるためには、「従属者(臣下、国民)」がいなければならず、臣下となるためには、イエスの啓示と愛の支配に身を置く、つまり、信じる人々がいなければなりません。その時初めて、「真理(の支配)による王権」が成立するのです。
 この「真理による王」は「受難(十字架上の死)による王」でもあります。ヨハネ福音書は、「真理(啓示)は、十字架上で最高度に実現した」と理解しています。だから、十字架を通して「栄光の王」となったイエスは、同時に真理を通しての「王」なのです。

 今日の福音のまとめ
 「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。イエスの声(啓示)を受け入れる人だけが、イエスに「聞く者」、つまり、その王国の構成員となります。「真理とは何か」(38節)とピラトはイエスに質問します。「真理そのもの」(14章6節)が目の前にいるのに……。「わたしの国はこの世には属していない」(36節)。この世に属するものにのみ目が向かうピラトは、結局はこの「真理」に触れることができないのです。
2021年11月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●冒頭の「ヨハネ福音書の枠組み」は、原文(Wordファイル)では四角で囲われ、複数のフォントを使い分けて構造的に書かれていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、簡略化した書式にさせていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」年間第33主日B年 2021年11月14日

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人の子が
戸口に近づいていると
悟りなさい
―年間第33主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音13章24−32節

 マルコ13章は「小黙示録」とも呼ばれ、終わりの日の到来と、それに向けての弟子の態度を教えています。5節後半から37節まで、長い説教が語られます。この説教の構成を考えると、四つの段落からなることが分かります。

 第一段落(5節後半−23節):テーマ 弟子が取るべき態度「気をつけていなさい」。
 「気をつけなさい」(5節後半)。
  惑わす者・戦争・災害(6−8節)、 迫害(9−13節)、 破壊者・偽キリスト(14−22節)。
 「気をつけていなさい」(23節)。

 第二段落(24−27節):テーマ 人の子の到来が救いであること。←今日の福音。
   天体に徴(しるし)がある(24−25節)。
 そのとき、人の子が来る(26節)。
 そのとき、選ばれた人たちを呼び集める(27節)

 第三段落(28−32節):テーマ 人の子の到来の確実さ。←今日の福音。
 人の子が戸口に近づいている(29節)
 これらのことがみな起こるまでは、この時代は滅びない(30節)。

 第四段落(33−37節):テーマ 弟子の取るべき態度「目を覚ましていなさい」。
 「目を覚ましていなさい」(33節)。
   その時がいつなのか、あなたがたには分からない(33節)。
 「目を覚ましていなさい」(37節)。

 解説
 第一段落(5節後半−23節):テーマ 弟子が取るべき態度「気をつけていなさい」。
 この段落は「気をつけなさい」(5節後半・23節)で囲い込まれています。この段落のテーマはこの囲い込みが示すように、惑わされない(まどわされない)ように「気をつけている」ことです。惑わされないように警戒すべきものが三つあります。まず、惑わす者・戦争・自然災害(6−8節)であり、続いて弟子への迫害(9−13節)であり、最後に憎むべき破壊者と偽キリストの出現(14−22節)です。戦争や災害は「起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」し、「これらは産みの苦しみの始まり」です(7、8節)。

 第二段落(24−27節):テーマ 人の子の到来が救いであること。←今日の福音。
 24−27節は人の子の到来が救いであることを語ります。まず、23節までに語られた様々な苦難の最後を締めくくるように太陽や月に大変動が起こると述べた後に、「そのとき」を冒頭に持つ二つの文章が続き、人の子が「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」ことと「選ばれた人たち」が四方から呼び集められることが述べられます。「選ばれた人たち」とは迫害に耐え、神を信じ続ける人々のことです(ルカ18章7節)。神を信じて堪え(たえ)忍ぶ者は、苦難で終わることはなく、力と栄光を帯びた人の子によって、必ず救い出されます。終末(人の子の到来)は神を信じる者にとって救いの時なのです。

 第三段落(28−32節):テーマ 人の子の到来の確実さ。←今日の福音。
 イエスは、自分の来臨(人の子の到来)を決めるのは父だけだと明言しますが(32節)、それと同時にその日の近づくことを知るようにと「いちじくの木のたとえ」を話します。パレスチナでは、ほとんどの樹木が冬も落葉しないのに、いちじくだけは落葉します。そのいちじくが芽をふき、大きな葉を茂らすとき、夏の近いことが分かります(28節)。そのようないろいろな徴(しるし)によって終末の時が始まると、人の子はすでに近づき、いわば戸口に立っています(29節)。さらに「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」、つまり人の子の到来がないままにこの世が終わりはしないと述べ(30−31節)、最後に「その日、その時」は父だけが知るだけで、天使も子も知らないと述べます(32節)。
 人の子の到来の正確な日は神を除いて誰も知りませんが、その日の到来は確実であり、しかもその日は近い。だから、その日を熱心に待つべきです。その日は弟子には滅びの日ではなく、救いの日なのです。

 第四段落(33−37節):テーマ 弟子の取るべき態度「目を覚ましていなさい」。
 33−37節は「目を覚ましていなさい」(33節・37節)で囲い込まれており、再び弟子の取るべき態度を述べます。「その時がいつなのか、あなたがたには分からない」(33節)のだから、家の主人がいつ帰ってもよいように、目を覚まして待っているべきだ(34−37節)、と。

 今日の福音のまとめ
 初代教会の人々は、終末(人の子の到来)はそれほど先のことではない、この二、三年、十年、二十年先にはもう終末が来ると思っていました。当時の人々は、もうすぐ来るという、ものすごい緊迫感の中で生きていました。だから、弟子たちはイエスに「そのことはいつ起こるのですか」(13章4節)と尋ねます。終末が遅れすぎていて本当に来るのだろうかと疑いたくなるからです。大切なのは「その日」がいつ来るかではありません。なぜなら、「その日」を決めるのは父だけだからです(32節)。しかし、その到来は確実であり、それは救いの日です。だから、何も心配せずに、を懸命に生きればよい。を大事に生きるとき、人の子がすでに近づき、戸口に立っていると言えるのです(29節)。
2021年11月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●太字の小見出しで字がやや小さくなっている部分(「第一段落」〜「第四段落」が2ヵ所ずつ、計8ヵ所)は、原文(Wordファイル)ではフォントがゴシックだが太字にはなっていない部分であり、フォントがゴシックかつ太字になっている見出しよりも一段下の扱いですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、字をやや小さくすることで代用させていただきました。ご容赦を。
正しいフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「この貧しいやもめは、賽銭箱(さいせんばこ)に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。…………」年間第32主日B年 2021年11月7日

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この貧しいやもめは、賽銭箱(さいせんばこ)に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである
―年間第32主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音12章38−44節

 律法学者とやもめ(38−40節)
〔ギリシア語原文の直訳〕
【38節】 そして 彼の教えにおいて、彼は言っていた、
「あなたがたは気をつけなさい 律法学者たち、つまり欲している者たち
長い衣服で 歩くことを、 そして 挨拶を 市場で、
【39節】 そして 上席を 会堂で  そして 上座を 宴会で。
【40節】 食い尽くす者たち、やもめたちの家々を
そして 見せかけで 長く 祈る者たち
これらの人々は 受け取るだろう より以上の有罪判決を」。

 38節の三行目から39節の表現は、38節の「欲している者たち」が欲している事柄を表しています。「長い衣服」(ストレー)はここでは学者の身分をあらわす衣(ヘブライ語「タリート」)。特に長く、ゆるやかにたれていました。「挨拶」は丁重な挨拶の意味。「上席」は聖書が納められている聖櫃(せいひつ)の前方の長椅子。会衆に向かい合って座ります。「宴会で上座を欲すること」についてはルカ14章7−11節を参照してください。
 傍線をつけた三つの表現「欲している者たち」「食い尽くす者たち」「祈る者たち」は、いずれも律法学者のあり様を説明しています。「見せかけ」と訳した語には「言い逃れ・口実」という意味もあるので、「やもめの家を食い尽くしていることを隠すための言い逃れとして、長い祈りをする」という意味に取ることもできます。いずれにしても、この段落での「やもめ」は社会的に見て食い物にされやすい弱者として描かれています。

 金持ちとやもめ(41−44節)
 この段落では、大勢の金持ちの行為と比して、「貧しいやもめ」の態度が賞賛されます。この対比は、やもめが賽銭箱に入れたレプトン銅貨が当時流通した最小の通貨であることによってまず示されます。ルカ12章6節によると、当時五羽の雀(すずめ)が二アサリオン、換算しますと四レプトンですから、この貧しいやもめは、雀一羽を買えるほどの献金をしたことになります。献金の多寡(たか)でいえば、彼女の納めた「レプトン銅貨二枚」は誰よりも少ない額であったに違いありませんが、イエスは彼女を賞賛します。
 その理由が44節に述べられています。この節の前半と後半は見事に対応する文章になっています。
【節前半】 皆は有り余る中から入れた。
【節後半】 この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて(入れた)、
生活費を全部入れた

 節前半では何を入れたのか、それを示す目的語がありません。しかし、節後半ではそれを「自分の持っているものをすべて(入れた)」とまず述べ、最後に念を押すように、「生活費を全部入れた」と繰り返します。
 貧しいやもめが入れたものは、生活を成り立たせる物質的なもの(お金)だけではありません。生活そのもの、生涯そのものをも投げ入れています。神が求めるのは金額の多寡ではありません。生活そのものであり、神に信頼して生きるその姿勢なのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音はイエスの公生活における最後の教えです。
 マルコ福音書において、イエスの主要な敵対者はファリサイ派の人々ではなく、祭司長や律法学者たち、すなわちユダヤ教の指導者たちです(14章1節)。今日の福音は「やもめの家を食い物にする」(40節)律法学者と、持ち物すべてを賽銭箱に入れるやもめを対比し、ユダヤ教の指導者たちと貧しいやもめによって代表される民衆とをはっきり区別します。
 さらにマルコは、「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」(43節a)と記述し、43節b−44節のイエスの言葉を弟子たち(教会)に対する教えとして提示します。
 レプトン銅貨をやもめが二枚献げたということは、重要な意味を持ちます。なぜなら、彼女はこれを二つに分けて、一レプトンを手もとに保存することがしようと思えばできたからです。彼女の献げ物が意味していたことは、自分が次に食べる物でさえ神が与えてくださると神に信頼しなければならないということでした。彼女の献げ物は、今まさにイエスが献げようとしている献げ物を予め(あらかじめ)示しています。それは彼の命(十字架上の死)そのものです。やもめは「主は豊かであったのに、(私たち)のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、(私たち)が豊かになるために」(競灰螢鵐判8章9節)というイエスを示す者となっています。
 聖書の語る貧しさは、確かに物を持たない貧乏を意味しますが、それだけではありません。貧乏であるから人間的な力に頼ることができず、神に頼ります。これが聖書の語る貧しさです。
 だから、イエスの語る教えの新しさは教えの内容にあるのではなく、自分の教えをイエス自身が生きたことです。イエスは、神を信頼してすべてを、命そのものまでも献げます。「貧しい中からすべて」を献げたやもめは、イエスの弟子たち(教会)の模範です。人の力に頼れない貧しいやもめが、かえって神の目にかなうものとなったのです。
2021年11月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
●斜字部分は、原文では字下げが入っていますが、ここでは画面の幅が狭いスマートフォンでも読みやすいよう、墨つきカッコを使った書き方に変えております。
●また、その中で太字になっている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、太字で代用させていただきました。

原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

「聖体授与の臨時の奉仕者の推薦のお知らせ 及び 家族による病人への聖体授与について」:鍛冶ヶ谷教会便り2021年11月号 巻頭言

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聖体授与の臨時の奉仕者の推薦
のお知らせ 及び
家族による病人への聖体授与
について

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


1.聖体授与の臨時の奉仕者の推薦のお知らせ
 教会法第910条(1)聖体授与の通常の奉仕者は、司教、司祭及び助祭である。
(2)聖体授与の臨時の奉仕者は、祭壇奉仕者及び第230条第3項の規定に従って委任された他のキリスト信者である。

 祭壇奉仕者とは教会法の言い方で、典礼の言葉で言えば教会奉仕者または聖体奉仕者のことです。聖体奉仕者は主任司祭が推薦し、教区長によって任命されます。聖体奉仕者は臨時の奉仕者(通常の奉仕者は司教、司祭及び助祭)なので、恒常的ではなく一定期間の期限付きの奉仕職です。
 下記の9名の信徒につきまして、教会委員会より推薦があり、全員私の指導に基づいた講座に参加し、聖体授与の臨時の奉仕者としての養成を行いました。そこで主任司祭として推薦書を送り、梅村司教様より新たな任命を頂けますようお願いしました。ここに、信徒の皆様に報告致します。任命書が届き次第、主日のミサの中で任命式を行います。

 (敬称略)
  • 小さき花のテレジア 浅川 敦子
  • ヨハネ 一瀬 浩司
  • ローザ・クララ 影山 豊子
  • ボアズ 加藤 哲也
  • ジェラルド・マイエラ・ダビド 久下 洋
  • フランシスカ 西田 妙子
  • マリア 深堀 トモ子
  • テレサ・フランチェスカ 岸 英子
  • アンドレア 堤 祐史

2.家族による病人への聖体拝領について
 ,修靴洞飢駛,任藁彁の奉仕者をもう一つ定めています。教会法第230条第3項の規定に従って委任された他のキリスト信者です。
 教会法230条(3)信徒は、奉仕者が不足し教会に必要と認められる場合には、法の規定に従い、朗読奉仕者又は祭壇奉仕者ではなくても、その若干の職務、すなわちことばの奉仕職を果たし、典礼の祈りをし、洗礼を授け、聖体を分配する職務を果たすことができる。
 病気でミサにあずかることができない信徒のかたがいます。しかし司祭が度々病床訪問をすることができません。そのような場合、使徒の後継者である司教から権限を委任された主任司祭は、家族のかた(カトリック信者)を、その病人だけに、その場限りの一回限り、臨時の奉仕者に選任し、委任することができます。そしてその奉仕者は病人へ聖体授与をすることができます。これはミサのときの朗読者や侍者も教会法では同じ手続きです。その場限りの一回限り、臨時の奉仕者に選任し、委任しているわけです。
 でも実際は、ミサごとに主任司祭に委任の許可を得ることは面倒です。だから、家族による病人への聖体授与を一度許可したならば、その主任司祭がその小教区を担当している間、臨時の奉仕者への委任は教会法の手続き上更新されます。では、その許可をした主任司祭が転任し、新しい主任司祭が着任したらどうすればよいのでしょうか。新しい主任司祭に再度許可を得る必要が生じます。

◆_搬欧砲茲詆多佑悗寮斬亮与の注意点
 家族による病人への聖体授与を許可した信徒のかたには、主任司祭として下記のことをお願いしています。
  1. 病人への聖体授与をする家族の方は、必ずミサに参加してください。
  2. 聖体は必ずピクシスに入れてください。ピクシスは家族の方で準備したものでも構いませんが、香部屋に貸し出し用のピクシスがあります。必要な方は申し出てください。
  3. 病人へ授与する聖体は、ミサの聖体拝領のときにピクシスに入れます。聖体拝領の際に、ピクシスを開けて差し出してください。
  4. 聖体を入れたピクシスは必ずコルポラーレの上に置いてください。コルポラーレ以外の上には置くことはできません。コルポラーレは貸し出し用のピクシスには備え付けています。
  5. 買い物等寄り道をしないで直ちに病人のもとに行き、聖体授与をおこなってください。
  6. 横浜教区典礼委員会発行「病者の聖体拝領の式次第」に従って、聖体授与をおこなってください。その際、「主の祈り」は必ず聖体授与をする前に祈るようにしてください。

 病人への聖体授与が簡単にできると考えないで
 私が鍛冶ヶ谷教会に着任し、家族による病人への聖体授与を許可したため、病人への聖体授与に関して誤解をする信徒のかたが出てくる可能性があります。また、聖体授与の臨時の奉仕者の養成を受けないで、病人への聖体授与が誰でもできる、病人への聖体授与が簡単にできる、というような安易な言動をする信徒のかたも出てくる可能性があります。だから、家族による病人への聖体授与を許可する場合は、主任司祭から上記のような指導のもとにおこなっていることを十分ご理解ください。
 また、鍛冶ヶ谷教会では「聖体授与の臨時の奉仕者」が任命されています。そこで、共同体として、「家族による病人への聖体授与」から「聖体授与の臨時の奉仕者による聖体授与」へと、徐々に移行することが望ましいと、私は考えています。

※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
●後半の注意点の箇条書きは「1, 2, 3,……」にしておりますが、原文ではカタカナで「ア, イ, ウ,……」です。が、Web上で箇条書きという指定をする際、頭をカタカナにはできないため(世界共通規格なので)、「1, 2, 3,……」で代用させていただきました。
●前半の信徒9人のお名前は、原文では1行に2〜3人ですが、幅が狭いスマートフォンの画面でも見やすいよう、1行に1人に変えております。

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ミサ説教「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟(おきて)はほかにない。」年間第31主日B年 2021年10月31日

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あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。
この二つにまさる掟(おきて)は
ほかにない。
― 年間第31主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音12章28−34節

 イエスのエルサレム入城と受難の間には、敵と交わした四つの論争(マルコ12章13−37節)、終末についての預言(マルコ13章)、最後の晩餐についての記述(マルコ14章12節以下)などがあり、今日の福音は、敵と交わした四つの論争の三番目「最も重要な掟」についての論争です。

 質問者の問い(28節)
 28節aは前の二つの論争とのつながりをつくるためのマルコの編集句です。律法学者は、イエスがファリサイ派やヘロデ派の人々(13節)、あるいはサドカイ派の人々(18節)との議論を巧みに答えたのを見て、重要な律法問題について尋ねます。しかしマタイ22章35節、ルカ10章25節の並行箇所では、質問者である律法学者はイエスを「試そうとして」尋ねたとありますが、マルコにはそれがありません。
 ユダヤ教には613もの掟がありました。これだけ多くあると「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節b)という問いが生じて当然です。こうして掟をランクづけようとする努力がなされましたが、すべての掟を守るべき義務はなくなりませんでした。

 イエスの答え(29−31節)
 神への愛が「第一」とされ、隣人愛が「第二」とされていますが、この区別は掟の優越を示すのではなく、単純に順序を示し、「(同じように重要な掟の)一つ目は……二つ目は……」の意味です。イエスにとって大事なのは「この二つ(神への愛と隣人愛)よりも大きい、他の掟はない」ということです。
 このように神への愛と隣人愛を一つに合わせますが、この一体化はイエスの意図に合います。なぜなら、28節の質問者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問いますが、イエスはそれに答えて、神への愛と隣人愛という二つの掟を挙げているからです。イエスがそうしたのは、二つの愛は関係のない別々の愛ですが価値において同等だからではなく、二つの愛は一つと言えるほど深く関わるからです。汽茱魯佑亮蟷4章20節が、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」と述べるように、二つの愛を一つのものと見るのが聖書の見方です。

 質問者の賛意(32−33節)
 質問者はイエスの考えに賛意を表します。しかし、二つの点でイエスの考えを補強しています。まず32節で「神は唯一である。ほかに神はない」と加え、神の唯一性を強調します。唯一の神の支配は全宇宙を覆っているから、その支配の及ばぬ所はどこにもない。だから、神を唯一の神と信じることは、神が多数か、それとも一つか、と数を問題にするというよりも、どこにいても、どんなときにも、救い・解放があるという宣言です。神への愛と隣人愛の根底にはこの宣言があります。次に、33節で神への愛と隣人愛が「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言い、愛の欠いた祭儀のむなしさを主張しています。

 論争に終止符(34節)
 質問者が加えた二つの事にイエスは同意し、「あなたは神の国から遠くない」と述べます。「遠くない」と言われたのは、まだすべきことが一つ残っているからです。それはイエスの福音を信じることです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、愛の三つの対象を示します。すなわち、神と隣人、そして自分自身です。
 第一の神への愛は、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りの言葉(申命記6章4−5節)から、マルコは「聞け、イスラエルよ、私たちの神」という部分をも引用します。「私たちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を促すためです。その愛に感謝する者に「あなた」の神を愛しなさい、と呼びかけます。「心」「精神」「思い」「力」など、全人格をあげて神を愛せるのは、神が先に人を愛したからです。
 イエスが第二の掟としたのは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟です(レビ記19章18節)。「自分自身を愛する」とありますが、これはイエスが全面的に自己愛を認めたという意味ではありません。
 自己愛には二つの考え方があります。一つは、隣人を正しく愛するためにはまず自分自身を正しく愛さねばならないと考え、この掟を「あなたが自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という意味だとします。この場合、自己愛はある程度認められています。
 もう一つの考えは、この掟が命じるのは隣人愛だけであって、自己愛は命じられていないとします。「自分自身のように」と言われる「自分自身」は、自己愛に振りまわされる者の「自分自身」です。私たちは罪人であり、無意識のうちに自分を愛そうとするので、そのような仕方で隣人を愛せよ、というのが掟の意味だとされます。この場合には、自己愛そのものは命じられておらず、自己愛が自己に向ける「熱心さ」が比較の対象とされています。
 今日の福音では、イエスは神への愛(神に仕える)と隣人愛(人に奉仕する)というキリスト者の生活を教えます。だが、その生活は救いの条件なのではなく、先に私たち一人ひとりを愛し、救いを約束してくださった神への感謝から起こる(始まる)のです。
2021年10月31日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「目が見えるようになりたいのです」年間第30主日B年 2021年10月24日

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目が見えるようになりたいのです
― 年間第30主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音10章46−52節

 奇跡物語なのか?
 マタイの並行記事(20章29−34節)では、「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると」(34節)と、癒し(いやし)の実行に伴う身振りが書かれており、典型的な治癒(ちゆ)物語になっています。しかし、マルコでは癒しを引き起こす際の身振りすら記されていません。だから、今日の福音は単なる奇跡物語と見ることはできません。
 マルコの意図を探る手がかりは、バルティマイの動きを見ることです。彼はまず「その道の傍ら(直訳)に座っています」(46節)。人々の制止を振り切って叫び続けると(47−48節)、イエスの言葉があり(49節)、踊り上がって「イエスの前に来ます(直訳)」(50節)。そして、癒された後、「その道をイエスに従います(直訳)」(52節)。興味を引くのは傍線をつけた「その道」です。冠詞のつけられた「道」であるから、特別な道を指しています。
 今日の福音の直後に「一行がエルサレムに近づいて」(11章1節)とありますから、「その道」はエルサレムへの道です。しかも今日の福音の前には「一行がエルサレムへ上って行く途中」(10章32節)でイエスが行った三度目の受難予告(10章33−34節)を述べていますから、「その道」は受難への道であり、十字架への道です。
 道の傍らに目が見えずに座っていたバルティマイが、見えるようになり十字架への道をイエスに従う者となります。つまり、今日の福音は癒しを述べる奇跡物語に終わるのではなく、むしろ召命の物語なのです。

 叫びに応える呼び声
 マルコはまず出来事が、イエスが「弟子たち」や「大勢の群衆」と一緒に、「エリコを出て行こうとされたとき」のことだったと明記します。続いて、癒された人の名前を記した後、彼が「盲人の物乞い」であったと書き、本人の悲惨な状態を際立たせます(46節)。並行記事のマタイでは「盲人」(20章30節)だけ、ルカでは「盲人が物乞いをしていた」(18章35節)だけです。
 この人は、それがナザレのイエスだと聞くと、イエスに向かって叫び出し(47節)、それによって「道端」(46節)から「イエスのところに」(50節)来ます。「多くの人々」(マルコだけ)が彼を叱りつけ黙らせようとしましたが、彼はますます「ダビデの子よ」と信仰の叫びをあげます(48節)。一回目の「ダビデの子イエスよ」という叫びは、二回目には「ダビデの子よ」となっていてイエスのメシア的称号が強調されています。
 この信仰の叫びに対するイエス側からの反応を一番よく描くのもマルコです。イエスは立ち止まって、自ら「あの男を呼んで来なさい」と言います(49節)。「呼んで来なさい」は「声をかける」が原意で、この動詞は49節だけで三回も使用されています。人々は盲人に声をかけ、「安心しなさい、立ちなさい。お呼びだ」と言います。
 盲人は、施し物をしまいこむためになくてはならなかった「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来ます」(50節)。上着はこの人の古い生き方の象徴であり、それを「脱ぎ捨てた」のは新しい生き方への転換を表します。
 イエスは「何をしてほしいのか」(51節)とバルティマイに尋ねます。同じ問いかけが、先週の福音では、栄光を求めたヤコブとヨハネに向けられています(マルコ10章36節)。栄光を求める彼らの願いは、「私の決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(10章40節)と退けられましたが、「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)と答えた盲人(マルコだけ)の願いは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)と受け入れられます。マルコは奇跡を「信仰」に帰しています。つまりマルコでは、イエスに叫び続けた信仰によって、目が見えるようになったというテーマになっているのです。
 目が見えるようになったバルティマイは、「その道(直訳)」をイエスに従うことになります。ここでの「道(ホドス)」はただイエスの歩む道を指すだけでなく、パウロが「キリスト・イエスに結ばれたわたしの道」と述べるときのように、人の「生き方」やキリスト教の「教え」をも表しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は、受難物語(マルコ11章1節以下)に入る直前に、「信仰とは?」及び「イエスに従うとは?」、それらがどういうことなのかということを、もう一度この出来事において例証しています。
 盲人の信仰はあきらめ退くことなく叫び続けたこと、あらゆる抵抗にもめげずに叫び続けることで示されています。「叫び続ける」盲人に対して、「呼ぶ」イエスがいます。神は一方的に人間を呼びつけはしません。盲人のように助けを必要とし叫び続ける人々に対して、神は呼びます。詩編107・6に「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」とありますが、このような「叫び」は神への信頼を表す叫びです。「叫び」が信頼となるとき、神は呼びかけ、イエスに従う「道」の意味を示します。
 「盲人はすぐ見えるようになり」という句は、「なお道を進まれるイエスに従った」と並行関係があります(52節)。今日の福音は、イエスのもとに来て見えるようになるのと、そして、見えるようになってイエスに従うようにと招きます。マルコは「イエスに従う」には、イエスに叫び続け、目を見えるようにしていただく必要のあることをこの出来事を通して私たちに教えています。見えるようになった者だけが、受難に至るイエスの道を理解することができるのです。「何をしてほしいのか」。「目が見えるようになりたいのです」(51節)。
2021年10月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教


ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・日曜 8:3010:30
  (2021年4月から
   10:00⇒10:30に変更)
  第2日曜10:30は手話付き
 ・土曜 18:00

カトリック鍛冶ケ谷教会
(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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