主任司祭メッセージ

西村司祭『5月を迎えるにあたり』(教会便り 2026年5月号 巻頭言)

『5月を迎えるにあたり』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 教会は、50日間、復活節の喜びと、感謝の時を過ごしイエスのご昇天とを祝った後、聖霊降臨、三位一体と祝っていきます。イエスの復活、昇天、聖霊降臨そして三位一体をという順番に、私たちキリスト者としての歩みを感じます。
 イエスの受難と死、復活によって私たちの罪は贖われました。洗礼の恵みによってキリストと結ばれている私たちは、共同のイエスと相続人、神の子となる身分を手にしました。このことを祝い感謝と共に味わうのが復活節です。主の昇天によって、この恵みに留まるだけではなく、イエスという神の右に座すとりなし手を得ますが、なおそれにもとどまらず聖霊という弁護者、そして愛である神ご自身の霊、愛の霊を送ってくださいます。今年は、31日に司教様をお迎えして堅信式を二名の方が受けることになっています。堅信の恵みによって聖霊を受け、入信の秘跡が完成し、一人前のキリスト信者として歩みだす受堅者の方々のためにお祈りください。
 聖霊の導きのうちに、神ご自身の霊性のうちに沈められた私たちは、さらに三位一体のうちにと招かれています。神ご自身のうちに私たちは招き入れられているのです。これほどまでの恵みがあるでしょうか。感謝と驚嘆のうちにこのことに目を向けましょう。
 また5月は聖母の月です。無原罪の御宿り、神の母、教会の母など、マリアの称号は様々ですが、私たちが特に注意を向けるべきなのは、「信仰者の模範」としての姿です。「お言葉通りにこの身になりますように」という従順さ「このかたのいう通りにしてください」というカナの婚礼でみせた全き信頼、「あなたの心も剣で差し貫かれるでしょう」というシメオンの預言通り、イエスの十字架の受難に最後まで付き従った姿に心を向けましょう。「おめでとう恵まれたかた」と天使に言われ、原罪を取り除かれたマリア、聖霊によって神のひとり子を宿し、また弟子たちと共に聖霊降臨を受けられるマリアの姿は「キリスト者の先見、予表」です。ロザリオの祈りを捧げつつ、教会の母であるマリア様のとりなしとご保護が、わたしたちの教会の上にありますようにと、ともに祈ってまいりましょう。

西村司祭『主のご復活おめでとうございます。』(教会便り 2026年4月号 巻頭言)

『主のご復活おめでとうございます。』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹


 昔から日本では、「暑さ寒さも彼岸まで」といいます。お彼岸は春分の日を中日(真ん中)とおいて、その前後3日を指します。そして、春分の日は「昼と夜の長さが一緒になる春の日」であり、復活祭は「春分の日を過ぎた、最初の満月になった後の日曜日」になります。
 キリスト教信徒的にいうと「(暑さ)寒さもイースターまで」といったところでしょうか。
 皆さんは、「主のご復活」について、どのようなイメージを持たれていますか?この喜びにあふれた日をどのように表現したいと思うでしょうか。
 私個人は、いつも「台風一過の晴れ渡った朝」を思い浮かべます。前日の暴風雨が嘘のような、澄み切った空がどこまでも続く光景を、皆さんも見たことがあるでしょう。台風一過後、なぜあんなに空気が澄み切っているのかというと、台風が空気中のほこりとか汚れたものを運んで行ってしまうからだと聞いたことがあります。実際経験上ですが、聖週間に天気が崩れても、復活祭の主日は決まって晴れになります。しかし、例外もあります。
 ある年の復活の主日、前日からの雨が続いていました。「復活祭でも雨になることがあるんだなあ」と、ちょっと勝手に残念に思っていました。教会から自宅に戻り、昼食をとっていると雨はいつの間にかやんでいました。ベランダに出た姉が突然「虹だ!」と叫びます。「雨があがったんだから、そりゃ虹くらい出るよ」そう思いながら、私もベランダにでると今まで見たことがない光景を目にしました。通常、虹は橋のように横につながって見えるものです。ですがその虹はなんとまん丸の真円!満月のお月様のようでした。私はその虹を見ながら、創世記のノアの洪水を思い出していました。洪水によって腐敗した人間を滅ぼそうとなさった後

 「わたしは、雲の中にわたしの虹を置く。これが、わたしと地との間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。そのとき、わたしは、わたしとあなたたちおよびすべての肉なる生き物との間に立てた契約を思い起こす。わたしはその虹を見て、わたしと地上のすべての生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こす。」創世記9:13〜16

と言われました。

 私は、なんだかとても嬉しくなりました。しかもその虹は真円でした。これは東洋人的感覚かもしれませんが、円=完璧(ぜひ完璧の語源を調べてみてください)というイメージがあります。「神様が完全な救いの約束として、この虹をかけてくださった。」そう思うと大きな喜びが胸の内に訪れたように感じたことを覚えています。
 「水」は、聖書的には「深淵」や「混沌」といった恐ろしいイメージがありますが、同時に「清め」や「いのち」といった、「新たにされる」イメージがあります。キリストイエスの十字架の死と復活は「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために御自身をお与えになった神の子に対する信仰によるものです。」という救いへと導かれます。
 頂いた「新しい命」「救いの真理」に感謝しつつ、この復活節を過ごしましょう。

西村司祭『優しさ、祈り、愛』(教会便り 2026年3月号 巻頭言)

『優しさ、祈り、愛』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 先日、今年二回目の雪が降りました。ほんの少しだけですが土や緑、クルマや建物を雪が白く染め、雪景色を楽しませてくれました。隣の本郷台公園では、雪だるまを作ろうとはしゃぐ、子供たちの元気な声が響いていました。
 最近「優しさ」について考える機会が多くなりました。ニュースを観ると世界では国と国の争いが激化しているようです。自身の利害からか、分断され、他者との違いが強調されているように思います。日本でも衆議院議員総選挙が行われるなか、難民や外国人寄留者の問題もクローズアップされていたではないでしょうか。
 社会的な仕組みはさておき、「優しさ」の力の源はいつも「誰かのため」ということがあるのではないでしょうか。「自分だけ」のための行動や、力の大きいものが小さいものを押さえつけ「自分の思い通りにしよう」とすることは、「優しさ」からほど遠いものように思います。時折、電車やスーパーのエレベーターなどで乳母車から赤ん坊が顔を覗かせています。そうした時、ついあやしてしまうのですが(不審がられていなければいいのですが)そのキョトンとした顔や笑顔や、泣き顔であってすら、暖かい気持ちが胸を包みます。「優しさ」や「愛情」は、向ける対象があって初めて成立し、それを向けたこちら側にも同じものをもたらすものです。実は、「祈り」も同じなのです。皆さんは、何に向って祈っていますか?神様に対してですが?それとも自分自身の心にですか?神は愛です。神学的には「愛」とは「意志する」ものだそうです。祈るとき、私たちの心が神に向かうのならば、それは「神に愛を向けている」そして「祈っている」のです。四旬節では、祈りと節制を求められますが、節制とは単に我慢を求められている「犠牲」の日々ではありません。神に向かう、集中するために、神以外のものを一旦端において「神に集中」する期間なのです。個人的にでも祈るとき、神に意志を向けるとき、神からの愛を感じとることが出来ると思います。こうした「神への集中」を助けるために、断食や節制を行うとともに、「十字架の道行」や「聖体礼拝」や「ゆるしの秘跡」は大いに役立つことでしょう。
 『優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと・・・』(ウルトラマンエース/脚本・市川森一)
 『何百回裏切られようと』という言葉がキリストを感じさせます。勇者は、報われない役を知っていて引き受けるものです。多く赦された人は、より多く愛する人になります。多く愛された人は多く人を愛します。
 『謙遜で愛情深い人は、皆から愛される。神からも人からも』(聖ヨハネ・ボスコ)
この四旬節が、みなさんをキリストの似姿にまで高め成長させてくれる期間になりますように。お祈りいたします。

西村司祭『訪ね求めるということ』(教会便り 2026年2月号 巻頭言)

『訪ね求めるということ』

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 新しい年を迎え、気持ちも新たに学期がスタートしました。先日、今年最初の?雪が降りました。といってもほんの数分、粉雪が舞った程度なのですが。園庭で遊ぶ園児たちからは、歓喜の声が湧き「雪だー!」とみな一様に大喜びでした。「嫌だなー、まあ積もらないだろうけど・・」と少々暗い顔で歩いていると「園長先生! ユキだよー」とキラキラと目を輝かせて報告してくれる様をみて、この純粋さを何処で置き忘れてきてしまったのだろうなーと、少し自分を見つめ直すきっかけになりました。
 わたしたちは、待降節・降誕節を迎え救い主の誕生を記念し、そして再び来られるイエスキリストと神の国の完成を待ち望む心を新たにしました。前年は「大聖年」を迎え、多くの方々は慈しみの聖門へとそれぞれの巡礼をされたことと思います。どこに何か所尋ねたか?よりも、何を求めどのような心持で訪れたのか?のほうが、前教皇フランシスコが言われたように、「希望の巡礼者」であることが、より重要であると言えます。自分自身を含めてですが、平和な暮らしが永く続いていくと心が鈍くなってしまうようです。何かに感動したり、心動かされたり、不安を覚えたり、問題を感じたりする心が今の時代、否まれているように思います。平穏であること、心穏やかな日々を過ごすことは大きな恵みです。ですが「探求する」「探し求める」のは、それが無いからという「欠乏」から、得たいと思う「強い欲求」からくるものです。
 『聖年の終わりにあたり、とくに真剣にわたしたちに問いかけることがあります。それは、わたしたちの理解をはるかに超える、わたしたちと同時代の人々の霊的な探求です。…彼らは、自分たちの旅を危険にさらす困難を受け入れ、多くの拒絶と危険な側面のゆえに現代と同じように苦難に満ちた世界の中で、歩み出し、探求する必要性を感じる人々です。』
(教皇レオ14世 『聖なる扉の閉扉と主の公現の祭日ミサ説教』)

 いま鍛冶ヶ谷教会では、堅信の準備に入っています。通常、堅信の秘跡は日本では司教団によって10-15歳(以上)が堅信にふさわしい年齢とされています。また成人洗礼の場合、洗礼と同時に受けるのですが、ここ鍛冶ヶ谷教会では歴代主任司祭の考えにより、別にしてきました。このため、成人洗礼でも堅信を受けていないケースが多数あるようです。
 カテキズムによると『堅信の秘跡は、洗礼および聖体と一緒に組み合わされて、「キリスト教入信の秘跡」を構成します。この三つは一体でなければなりません。したがって、信者には、堅信の秘跡が洗礼の恵みの完成に必要であることを説明しなければなりません』(カテキズム第1285条)とあります。
 洗礼が水と三位の御名によって授けられるのに対して、堅信は塗油と(司教様からの)按手によって授けられます。塗油という象徴は「聖霊」を表します。イエスと暮らした弟子たちも、本当の意味でイエスを理解できるようになるには、聖霊降臨を待たねばなりませんでした。同様に洗礼によって信仰の道に入り、これを固めるのは堅信の秘跡よります。海外では、成人式のようなお祝いになるところもあるくらいですが、幼児洗礼であれば、いままで親の信仰の傘のもとでいたが、これからは自分の信仰の傘をさし、神と自分との関係をより深めて人生を歩んでいくことを意味します。
 頂いた恵みを、土深くに埋めてしまうならば『タレントのたとえ』に出てくる悪い召使いと同じになってしまいます。
「あなたにとって、神とはキリストとはなんですか?」
学びなおし答えを深める、よい機会なのではないでしょうか。

教会便り2026年1月号 巻頭言

教会委員長 一瀬


皆さま、新年あけましておめでとうございます。

昨年の1月号では、2025年の聖年「希望の巡礼者」について皆さまと分かち合いました。
教皇フランシスコの導きのもと、「希望は欺かない」というテーマに沿って、それぞれの歩みの中で信仰と希望を新たにされた一年だったのではないでしょうか。
聖年の扉は閉じられましたが、信仰の旅は終わりではなく、ここからが新たな始まりです。
この2026年、私たちは聖年の実りを日常の中で育てていく時を迎えています。信仰は特別な場だけでなく、家庭の中、世代を超えた交わりの中にこそ根づいていくものだと感じています。

そのために、私たちができることを三つ挙げてみました。

<家庭での祈り>
家庭は「小さな教会」とも呼ばれます。忙しい日々の中でも、食卓の前の祈りや寝る前の感謝など、無理なく続けられる祈りを大切にしながら、主の平和が家庭に満ちることを願っています。

<若者の信仰育成>
若い世代は、教会の未来です。
彼らが信仰に触れ、問い、悩みながらも神の愛に出会えるよう、共同体として耳を傾け、共に歩んでいきたいと思います。

<高齢者とのつながり>
人生の歩みを重ねてきた高齢の方々は、信仰の知恵と祈りの深さを私たちに伝えてくれる存在です。
諸先輩の声に耳を傾け、つながりを絶やさず、交流を通して信仰の知恵を受け取り、私たち自身の成長にもつなげていけたらと思います。

これ以外にも、私たちにできることはたくさんあると思います。それぞれができることを見つめながら、共に成長していける一年となりますよう、心からお祈りいたします。

西村司祭「園長のひとこと」(教会便り 2025年12月号 巻頭言)

園長のひとこと

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 教会も待降節に入り、わたしたちは「イエス・キリストの誕生」を記念します。わたしの恩師が中国に留学していた時のことを教えてくれました。まだ今ほど経済的に開放されていない時代の中国です。街でも大きなショッピングモールへ出かけた際、大きなクリスマスツリーを見かけたそうです。「中国でもクリスマスをお祝いするんだ」と驚き、帰りのタクシーで運転手にそのことを告げると「そりゃクリスマスのお祝いくらいするよー」と返ってきたそうです。「何のお祝いか知ってますか?」「誕生日だろうー?」「誰の誕生日か知ってますか?」「もちろん知ってるよ!」「サンタのだろ?」(笑)
誰の誕生日であれ、めでたい事には変わりないのかも知れません。
 「今日僕、誕生日なんだ!」園児からいつも嬉しそうに報告されます。誕生日をお祝いすることは誰にとっても、いくつになっても嬉しいものです。その人がこの世に生まれ出たことを喜びをもって祝うのですから、それは存在を喜ぶものです。この世に生まれ出る存在は、特別で尊く、決して虚しいものではない。誕生日を祝うことは、とてもキリスト教的なことだと思います。

 フィリピンのクリスマスは、少し長いようで、9月からもう街はクリスマスのイルミネーションで飾られています。フィリピン人の神父さんに「どうしてこんなに早くお祝いするんですか?」と聞くと「そりゃ待ちきれないからだろう。たぶん..」と仰ってました。お祝いは楽しみなものですよね。
 人は「せっかくのクリスマスだから!誰かを傷つけよう」とは思わないものです。第一次世界大戦中、最前線で対峙していたドイツとイギリスの兵士たちが共にクリスマスを祝いました。英独の将兵たちは、両軍の戦死者の遺体を回収し合同埋葬式を行ったり、酒類、タバコ、チョコレートといった品物やサインの交換、記念写真の撮影などでクリスマスを祝いました。あくる日、両軍は再び戦場で対峙しますが、もうまともに戦える者はいなかったそうです。憎むべき敵兵が、同じ血の通った人間となってしまったからです。

 クリスマスはお祝いです。おそらく世界中で祝われる最も大きな誕生イベントです。ですが、誕生を祝われる側がプレゼントをもらうのではなく、祝う側がプレゼントをねだっていい、奇妙なお祝いでもあると思います。
 イエス・キリストの誕生を祝う時、皆さんが出来るお祝いは何でしょうか?どんなことをイエス様はお喜びになられるのでしょうか?どんなお祝いをしたいですか?「せっかくのクリスマス」キリスト者として相応しく、その日を待ち望みましょう。

「毎月の支援、年末寄付先について」(教会便り 2025年11月号 巻頭言)

毎月の支援、年末寄付先について

「神の愛を証しする力を育てるチーム」

 今年も残すところ2か月となりました。先日のコミュニティーバザーでは、信徒の皆様及び近隣の方々のご支援、ご協力のお蔭様で、今年も支援先への寄付をさせて頂く事が出来ますことを心より感謝しています。改めて支援先をご紹介いたします。
 毎月第1日曜の仕分けによってお届けしているのは、次の4カ所です。
 ・木曜パトロールの会(寿町を拠点にホームレスの方々へ下着や靴下その他をお渡し)
 ・山口神父様による外国人家庭支援(お米や食料品、日用品など)
 ・きずなレッジ(藤沢教会内で地域の子ども達の学習支援やお弁当配布の為に、お米、お菓子等)
 ・大船教会による高齢者福祉施設・ホームレス支援(ウエス用木綿布)
その他に昨年末には、次の団体へ寄付金をお届けいたしました。
 ・フィリピン・アフリカを助ける会(フィリピン、アフリカ・コンゴの子ども達の給食や教育支援)
 ・ミンダナオ子ども図書館
 ・ウエルサポート湘南(介助犬と聴導犬の育成と貸与を行う協会)
 ・訪問の家朋第二(障害者通所施設)
 ・アルペなんみんセンター(日本で暮らす難民支援)
 ・エヌ・ピー・オー・ノア(知的ハンディを持つ若者支援)
 今年は、鍛冶ヶ谷教会と関りを持った大船こども食堂、聖心の布教姉妹会(アフリカ現地での活動)、ムリンディ/ジャパン・ワンラブプロジェクト(アフリカのルワンダ共和国で貧しい障害者へ義手義足を無償で提供)そして、新たに皆様から希望を募り(11月9日〜30日)、その中から寄付先を検討する予定です。
 現在メンバーは5名ですが、チームとして、さらに助けを必要としている方々への支援の輪を広げていきたく、サポートして下さる方も含め、私たちと一緒に力を貸して下さるメンバーを随時募集しています。
 現状は関わりのある団体への支援にとどまっていますが、将来的には、鍛冶ヶ谷教会として直接支援できる様なチームになっていく事を目指しています。これからも皆様のご支援、ご協力をお願いいたします。

西村司祭「天正遣欧使節」(教会便り 2025年10月号 巻頭言)

天正遣欧使節

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 先般、ミサの説教の中で『MAGI 天正遣欧少年使節』というドラマについて少し触れました。内容そのものは、懐疑主義に終始しておりキリスト教的でもありませんし、どちらかというと宗教的なものへの不信感と私見でもって終始していたように思います。
 しかし、この「天正遣欧使節」そのものは日本史にとってもキリシタン史にとっても重要な事柄であるのは事実ではないかなと思います。日本史にとっては、はじめてヨーロッパに日本の若者たちが訪れ、その礼儀正しさや優秀さをもってして当時の人々を驚かせたことが挙げられるでしょう。またキリシタン史としては、時の教皇様に謁見したはじめての日本人ですし、護教の為、後の宣教のために命がけで遠い異国の地へと赴いたひたむきな信仰心が、そこに現れているとみることが出来ます。また帰国後、状況は一変しており豊臣秀吉の禁教令などの弾圧下に見舞われることは、悲哀を感じ憐憫を誘います。
 よく「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、若者が若者らしくまだ見ぬ遠い、見知らぬ世界へと羽ばたいていく姿には、夢や希望を感じさせてくれます。若い頃は大いに憧れもしたのですが、実は旅行とか観光が大の苦手で、海外旅行なども以ての外、家が一番日本が一番と思ってしまう自分に、年を取って気が付かされます。特に心配性なところがあるというか、想像力が働いてしまうたちなので、「もし何かあっても歩いて帰れる距離ではないな」とか「最悪、泳いでってわけにもいかないほど遠いな」とかそうした余計なことを考えてしまいがちなのです。
 現在の横浜教区でも、多くの外国籍の神父様、海外からの宣教師が日本の宣教に関わってくださり力を尽くしてくださっています。信徒の皆さまの中には、影響を受けたお世話になった方々も多くいらっしゃるのではないでしょうか?実際素晴らしい優秀な神父様を送ってくださっていますし、遠い海の果てで特に難しい言語とされている日本語を学び、司祭として活動されている姿には本当に頭が下がる思いです。とても真似できないなといつも思います。私も一年程度ですが初めてフィリピンに行きました。考え方や文化、言語のまるで違う土地に放り出されるわけですが、正直全くの無力感を感じずにはおれませんでした。「言葉が通じない。」たったそれだけでも、まるで赤ん坊に戻ってしまったかのように無力です。
 確かに、あの大航海時代にあってスペインなどの植民地政策もあったでしょう。そして、当時の日本人を連れて行き実際に自分たちの文化を知らしめてやろうという思いがなかったとは言えないでしょう。しかし「キリストの十字架以外に救いはない」と信じる人々が「この真理を知らなければ救いがなく、それはキリストの死への忘恩だ」という純粋な信仰心があったのも事実ではないでしょうか。
 街はすっかりハロウィン気分ですが10月は、教会では多くの聖人を記念します。いずれもその生き方をもって、キリストの恵み、神の愛を伝えた聖なる人々です。
 同時に10月はロザリオの月でもあります。ロザリオは単に聖母マリアへの信心やとりなしを願うことに留まらず、イエスの生涯、福音を黙想するものでもあります。
 今月、祈りのうちに皆さんが大切なものを大切に、尊いものを敬う心が育まれますように。若者のような純粋な心を捧げ、諸聖人と聖母にとりなしを願ってまいりましょう。

西村司祭「小さな群れよ、恐れるな。」(教会便り 2025年9月号 巻頭言)

小さな群れよ、恐れるな。

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 今月は、聖マリアの誕生、十字架称賛、大天使(聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル)などの祝日があります。また今年はC年ですので年間第22〜26主日では、ルカ福音書を読みます。ルカ福音書の『神の国』に関する主要箇所が朗読されていきます。ルカ福音書は、主にギリシャ語を使う人たちに向けられて書かれていますが、ギリシャ語でバシレイア (βασιλεία)と言います。「国」には「統治」や「支配」という意味が込められています。そしてイエス様は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』と言われました。つまり、移動手段を使っていくことのできる「場所」としての「国」ではないく、何がその人を支配しているのか。大切にしていることは何なのか?誰に人生の舵取りを預けるのかという問題です。
 わたしたちの人生を支配するものはなんでしょうか。生活の必要でしょうか?自分を大きくみせよう認められたい、必要とされたいという名誉欲でしょうか?孤独感や空しさでしょうか?それらを満たすため、或いは見ないため考えないために他の『楽しみ』でいっぱいにしようとしていないでしょうか。
 また『何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。』と言われます。もし祈りに秘訣があるとするならば、またはその秘訣を問われるならば、わたしはこの箇所を勧めたいと思います。まず神に「支配の座」を明け渡すことが重要で、明け渡した後は必要をご存知の神に「信頼を置く」ということです。祈りとは「信頼」であり「明け渡す」ことなのです。

 今年は、戦後80年であり大きな節目です。この夏、平和旬間として広島を訪れた方も多いのではないでしょうか。互いに尊重しあうこと、許し合うこと、感謝することはいつの時代であれ、幾つであれ変わらない人と人とを結ぶ大切なことです。何が大切な事なのか。新しい時代を担う子供たちに、普遍的(カトリック)な善い価値観を伝えていきたいものです。
 歌手の吉田拓郎さんの『イメージの詩』という曲で『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』という一節がありますが、聖書には「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。」マタイ9:17という箇所があります。新しい価値観や教えを受け止めるには、相応しい新しい器が必要だという意味です。教育現場でも、どんどんと新しい発想や新しい考え方が導入されていますが、新しさ=これまでの否定、では少し短絡的に過ぎるのではないかと思います。

 現在、国と国は争い人と人とは分断を煽られています。政治家は自己保身と既得権益を広げることに躍起になっています。誰しもが自分の立場を主張することに終始し、互いに受け入れ合うこと尊重し合うことを忘れているかのようです。わたしたち人間の治める「支配」とは「国」とは実に小さく限界があります。時に人はいいます。「完全ではないから、限界があるから、成長の途中だから素晴らしいのだ」と。しかし私にはそうは思えません。「完璧」とは程遠いのみならず時として「醜悪」ですらあるのですから。
 吉田拓郎の歌声は続きます。『誰かが言ってたぜ、俺は人間として自然に生きているんだと。自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう』
 暑かった夏も、そろそろ終わりを迎えにようとしています。長いようで短い休み期間でしたが、怪我や病気もなく、元気に過ごせていることを神に感謝したいと思います。
 『小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。』(ルカ12:32)

西村司祭「愛の掟について」(教会便り 2025年7月号 巻頭言)

愛の掟について

主任司祭
ルドヴィコ茨木 西村 英樹

 このところ季節がらか、毎日のように気候の変化を感じています。雨の日が続き梅雨入りを実感したかと思ったら、あっという間に梅雨が明けカンカン照りの、真夏のような日々が続いています。
 イソップ寓話の一つに『北風と太陽』という物語があります。昔から読まれ、よく知られているお話の一つです。北風と太陽が、どちらが強いか言い争い、一人の男のコートを脱がせた方が勝ちという勝負をします。北風は強い風を吹き付け男のコートをはぎ取ろうとしますが、男は益々強くコートを抑えます。太陽がサンサンと照り付けるとあまりの暑さに、男はコートどころか上着まで脱ぎ捨てます。この寓話は、厳しく強制するよりも、優しさや温かさで人を動かす方が効果的であることを教えてくれます。難しく考えるより、答えは意外と単純で近くにあるものかもしれません。
 さて、ルカによる福音10章25〜37節には「善きサマリア人」の喩え話が記されています。律法学者がイエスを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問します。イエスは質問に質問で返します「律法には何と書いてあるか。」律法学者の答えは「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」であり、それは正しい答えでした。「では、わたしの隣人とはだれですか」という問いに対してのイエスの答えです。この律法学者はイエスを試そうとしていたのですが、イエスの応対は、決して頭ごなしではなく、この人の考えを促そうとなさるものでした。
 善い友を得ようとするなら、自分がその人の善い友となる行動が求められます。自分が望むことをその人にするとき、その人は私の隣人です。同様に神であるお方に、主となってい頂きたいならば、まず主が心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、私たちを愛して下さっているように、私たちも心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛するべきなのです。
 具体的にどうすればいいのでしょうか?それは「いつも与えて下さる主に、喜びをもって感謝し、すべてのことに関わって頂けるようにどんな時も祈る」ことではないでしょうか。自分を愛せない人は「隣人を自分のように愛する」ことは出来ないでしょう。まず神が愛してくださっていることを知りましょう。私たち自身を癒して頂きましょう。洗礼の恵みによってキリストに結ばれている私たちは「神の子」なのです。しかし、この「神の子」としてのプライドにしがみつくならば、私たちは道を避けて通った祭司やレビ人と同じになってしまうのです。『友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』ヨハネ15:13
 時として神の子としての自己肯定感を捨てるほども「謙遜さ」が私たちには必要になるのです。

ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・前晩(土曜)18:00
 ・日曜 9:30
  毎月第3日曜は手話つき
【週日のミサ】
(2025年5月1日から変更
詳しくはこちら)

原則 火〜土 10:30
(変更する場合がございます。
当サイトの予定表でご確認を)

[Mass Schedule]
Saturdays at 18:00
Sundays at 9:30
Tuesdays to Saturdays
at 10:30
(after May 2025. for details)

(Subject to change. Please check the monthly schedule table on this web site.)

電話(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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