主任司祭メッセージ

ミサ説教「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。…………」復活節第5主日C年 2022年5月15日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


今や、人の子は栄光を受けた。
神も人の子によって
栄光をお受けになった。
神が人の子によって
栄光をお受けになったのであれば、
神も御自身によって
人の子にお与えになる。
―復活節第5主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音13章31−35節

 ヨハネ福音書は、「序文」(1章1−18節)のあと、第一部「しるしの書」(1章19節−12章50節)、第二部「栄光の書」(13章1節−20章31節)、「結び」(21章1−25節)に分かれています。今日の福音は、13章1節から始まる「栄光の書」に属します。
 「さて、過越祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。……」(13章1−2節)。「栄光」の「時」とは、ここで言われている「この世から父のもとへ移る御自分の時」のことです。これは具体的に、受難・死・復活による「あがないの業(わざ)」を指します。
 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」(13章30節)。ユダが裏切るために出て行ったとき、イエスは「今や人の子は栄光を受けた」(13章31節)と宣言します。イエスは裏切られ十字架にかけられますが、それはイエスに「栄光」が現されるときなのです。「栄光を受けた」と宣言したときにイエスがなさったことは、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」ことでした(13章1節)。「この上なく愛し抜かれた」の、「この上なく(究極まで)」という表現は、イエスが十字架上で息を取られる直前に口にされた、「成し遂げられた」(19章30節)という語と語幹が同じですので、イエスの十字架上の死(=栄光)が、「極みまでの愛」の実現であったことを示しています。
 また、ヨハネ福音書13章31節−16章33節は「告別説教」とも呼ばれ、イエスは十字架上の死を前にして弟子たちに語ったとされています。今日の福音は別離を予告する33節をはさんで、前半(31−32節)では栄光を語られ、後半(34−35節)ではイエスの愛を土台とする相互愛が語られます。この栄光と愛がイエスとの別離を乗り越える力となります。

 行き交う栄光(31−32節)
 イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)と宣言します。受動形「栄光を受けた」が使われていますが、これは神が動作の主体を婉曲的(えんきょくてき 意味……遠回しに言う)に表す受動形ですから、神がイエスに栄光を与えたことになります。
 これに続いて「神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節)と述べています。神がイエスに栄光を与え、そのイエスにおいて神が栄光を受けます。いわば栄光が神とイエスの間を行き交っています。ちなみに、31節の二つの「栄光を受けた」はいずれもアオリスト形(過去の動作の事実性を強調する時制)です。
 神とイエスの間を行き交う栄光は32節でも述べられています。「栄光をお与えになる」と「すぐにお与えになる」です。これらは未来形で書かれていますから、32節の栄光は将来に現されるはずの栄光です。
 この31節と32節の時制の不一致は次のように説明することができます。告別説教が語られた時点に基準を置くと(32節)、十字架とその栄光はまだ未来のことですが、福音書を書いている時点から見ると(31節)、それは実現した出来事です。ヨハネ福音書では、この二つの視点を混じり合わせながら、叙述が進められてゆきます。神はイエスの生涯を通してイエスの栄光を現し、イエスは神への従順によって神の栄光を現しました。十字架上の死はこの互いに行き交う「栄光」の頂点とされています。

 新しい掟(34−35節)
 隣人愛はモーセの律法に見られますが(レビ記19章18節)、イエスが与える掟には、まったく新しい意味があります。それは、互いに愛し合うべきことの理由が「わたしがあなたがたを愛したように」(13章34節)と、イエスを根拠として示されていることです。「新しい掟」の権威の根拠はイエスです。「互いに愛し合う」ことは新しくありません。十字架に自分のいのちを投げ出すほどに「あなたがたを愛した」イエスに根拠を持つ新しさなのです。
 「互いに愛し合いなさい」という教えに対して、私たちはそのように努力しますが、だいたいは自分の無力さへの失望で終わります。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのは、イエスの愛を忘れて、自分の力だけで愛し合おうと努力しても限界があるからかも知れません。イエスの愛に目を向けるとき、自分の力を超えた力を受けるということなのでしょう。

 今日の福音のまとめ
 辞典で「栄光」を引くと、々いを表す光。輝かしい誉れ(ほまれ)。光栄。キリスト教で、神の顕現・臨在を表すのに用いる語。私たちが「栄光」といえば、普通には,鉢△里呂困任后31節の「今や、人の子は栄光を受けた」は十字架上の死を示すので、,鉢△琉嫐とは合いません。しかし、△痢峙韻しい誉れ」というとき、誰の目から見た誉れなのでしょうか。人間の目から見ての「誉れ」であれば、十字架上の死はどう考えても「誉れ」にはなりません。しかし、神の目から見る「誉れ」と同じでないとすれば、十字架上の死も「輝かしい誉れ」にもなります。人の子は人々によって十字架にかけられ、殺されましたが、神はそれを利用して、すべての人の罪を取り除く「あがないの業」を行いました。それを知る人の子は十字架を拒まずに受け取りました。こうして、人の子は神の誉れ(栄光)を現し、神は人の子に神の誉れ(栄光)を与えることになります。
2022年5月15日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは、彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」復活節第4主日C年 2022年5月8日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


わたしの羊は
わたしの声を聞き分ける。
わたしは、彼らを知っており、
彼らはわたしに従う。
―復活節第4主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音10章27−30節

 聞き従う(27−28節1行目)
 イエスは「わたしの羊」(27節)と言います。「羊」は、家畜としての「羊」、いけにえの動物としての「羊」の意味でも使いますが、ここでは、導き手が必要な私たち人間を指します。人間は、良い羊飼いであるイエスに従う「羊」(ヨハネ10章で12回)として用いられています。
 このような用例の背景には、羊という動物の特性があげられます。羊は自分からえさを探すことができず、常に野獣や強盗の危険にさらされていますから、牧草地に導いて養い、さまざまな危険から保護し、自分の命を支えてくれる「羊飼い」を必要とする動物だからです。
 イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える」(27−28節1行目)と言います。「羊」に求められていることは「聞く」ことと「従う」ことです。そして、その目標は「永遠のいのちを与える」ことにあります。
 「永遠のいのち」は「永続する生命」といった意味合いを含みますが、ヨハネにとって大事なことは、永遠である神と触れているという要素です。「永遠のいのち」とは、人間がその生涯の中で神に支配されて生きるときに得る「いのち」のことです。私たちは、イエスを通して神に触れるとき、生命が刷新され、新たな真実の「いのち」が与えられるのです。

 手から奪うことはできない
  (28節2行目−29節)

 「永遠のいのち」が与えられた者は決して滅びることがありません。「わたしの手」(28節)と「父の手」(29節)が守り、手放さないからです。詩編95・7では「主(しゅ)はわたしたちの神、わたしたちは主の民。主に養われる群れ、御手(みて)の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」と言われています。神は自らの手で羊を養い、「強い手」をもってこれをエジプトから導き、いたわり、聞き従う者の上に偉大な業を行われるのです(イザヤ書41章20節、出エジプト記3章19節、出エジプト記15章6節など)。このような「手」は神の愛と力を示しています。
 「奪う」(28節・29節)が二度繰り返されているように、羊は常に奪われる危険にさらされています。羊は自分を守る手だてを持たない弱い動物です。それでも羊が奪われないのは、イエスと御父が愛と力によって守っているからなのです。

 わたしと父とは一つ(30節)
 イエスは「わたしの羊」を力と愛をもって守ります。イエス自身「父と一つ」なので、父ご自身からその力と愛とを受け、良い羊飼いとして私たちに通じてくださるのです。

 今日の福音のまとめ
 復活節の第4主日には、A年もB年もC年も「よい牧者」のたとえ話が読まれますので、この主日は「よい牧者の主日」と言われています。また、「世界召命祈願の日」でもあります。
 今日の福音が語られたのは、神殿奉献記念祭のときでした。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」(22節)。神殿奉献記念祭は、現在のユダヤ教のハヌカーの祭で、バビロン捕囚から帰った人々が第二神殿を再建して奉献した日が憶えられ、更にマカバイの独立運動の際にシリア王アンティオコス四世エピファネスによって汚された神殿がもう一度再奉献されたことの記念祭です。
 ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりとそう言いなさい」(24節)と質問をしたとき、イエスが指摘したのは彼らの不信仰です。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。しかし、あなたたちは信じない。……わたしの羊ではないからである」(25−26節)。今日の福音では、イエスは「メシア」という用語を使ってはいませんが、父と一つだと断言することによって(30節)、イエスを取り囲んだユダヤ人たちにメシアであることを示します。
 また、ヨハネの福音書が編集された頃、ユダヤ教徒はキリスト教を異端と宣言し、キリスト者を会堂から排除しました。このような処置は、ヨハネの教会共同体内部に動揺を引き起こしました。ヨハネの教会共同体は、教会とは何か?ということを考え、再建する必要が生じたのです。
 ヨハネの教会共同体のこのような状況がある中で、今日の福音は神殿奉献記念祭のときに語られます。今日の福音は、教会とは、良い羊飼いであるイエスの声に聞き従う羊の群れであることを宣言します(27節)。教会は、イエスをキリストと信じ、キリストに聞き従い、キリストにあって永遠のいのちを受ける者たちの新しい共同体として、神の手によって聖別され、再建されたのです。
 イエスは「わたしと父とは一つである」(30節)と言います。そのことを、イエスは業によって(行動によって)証しします。今日の福音が、私たちに求めていることは、羊飼い(イエス)に聞き従い、それを行動によって証しすることです。そして「羊飼いに聞き従う」を行動によって証しするということを、個人的な意味だけではなく、共同体的意味、教会的意味としても捉えていきましょう。そのとき、私たちの教会共同体は、神の手によって、ますますキリストの教会共同体として聖別され、再建されるのです。
2022年5月8日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

教会便り巻頭言「新しい『ミサ式次第』の変更箇所 その2」(2022年5月号)


印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


新しい「ミサ式次第」の変更箇所
その2

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


2022年11月27日(待降節第1主日)から、ミサの式文が移行期間を設けず、一斉に変更します。その変更箇所の一部をまとめました。

 開祭
1 会衆へのあいさつ
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。
  または
父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が皆さんとともに。
  会衆は答える。
またあなたとともに。
 ※現行版の「また司祭とともに」の「司祭」は、「祭儀を司る(つかさどる)者」の意味で採用された訳でした。しかしながら、司教や助祭に対して唱えるときは違和感があるという意見があり、再検討されました。ラテン語規範版の直訳では「またあなたの霊とともに」となりますが、「あなたの霊」では身体を離れた霊魂を連想させるなど意味がつかみにくいため、諸外国や他教派の式文も参考にして、これを聖書的語法に基づく全人的な表現と受け止め、「あなた」とする訳が採用されました。同様の変更は、福音朗読の前、叙唱の前、平和のあいさつ、派遣の祝福にもあります。

2 回心の祈り
_鷽瓦竜Г螳
  司祭は信者を回心へと招き、短い沈黙の後、一同は手を合わせ、頭を下げて、一般告白の式文を一緒に唱える。
全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
  続いて、司祭は罪のゆるしを祈る。←今までは宣言する。
全能の神、いつくしみ深い父がわたしたちの罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
  会衆は答える。
アーメン。
 ※現行版の典礼注記では「司祭は罪のゆるしを宣言する」と訳されていますが、ミサの回心の祈りはゆるしの秘跡の効果をもつものではないので、規範版に基づいて「司祭は……を祈る」に変更されました。

回心の祈り三
  司祭は信者を回心へと招く。短い沈黙の後、司祭あるいは助祭または他の奉仕者は、次のようなことばを先唱し、会衆は応唱する。
先唱 打ち砕かれた心をいやすために遣わされた主よ、いつくしみを。
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに。
先唱 罪びとを招くために来られたキリスト、いつくしみを。
会衆 キリスト、いつくしみをわたしたちに。
先唱 父の右の座にあって、わたしたちのためにとりなしてくださる主よ、いつくしみを。
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに。

3 いつくしみの賛歌←「あわれみ」から「いつくしみ」に変更しました。
(一)
先唱 主よ、いつくしみを。
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに。
先唱 キリスト、いつくしみを。
会衆 キリスト、いつくしみをわたしたちに。
先唱 主よ、いつくしみを。
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに。
 ※この賛歌のもつ、いつくしみに満ちた主をほめたたえるという特徴をふまえ、現行版の「あわれみ」を「いつくしみ」に変更しました。
(二)
先唱 キリエ、エレイソン。
会衆 キリエ、エレイソン。
先唱 クリステ、エレイソン。
会衆 クリステ、エレイソン。
先唱 キリエ、エレイソン。
会衆 キリエ、エレイソン。
 ※(二)として原文のまま唱えることのできる式文を加えました。ラテン語規範版にもギリシア語のまま記されており、近年の諸外国版でも原文で唱える可能性を残していることで考慮されました。また今回の変更では、回心の祈りは典礼暦に合わせた祈りが準備されています。鍛冶ヶ谷教会のミサでは、まず主日「回心の祈り一」「いつくしみの賛歌(一)」「いつくしみの賛歌(二)」、週日「回心の祈り三」を用い、その祈りに慣れた頃に典礼暦に合わせたものを徐々に使用したいと思います。

4 集会祈願
  栄光の賛歌(グロリア)が終わると、司祭は手を合わせたまま言う。
祈りましょう。
  一同は司祭ともにしばらく沈黙のうちに祈る。続いて、司祭は手を広げて集会祈願を唱え、会衆は結びにはっきりと唱える。
アーメン。
※栄光の賛歌(グロリア)は、訳が変更され、賛歌の表題にラテン語の表題「グロリア」を加えました。

※ 注(Web担当者より)
原文(Wordファイル)ではフォントは明朝とゴシックを使い分けていますが、Web上ではこの使い分けは難しいので、フォントの指定は特になしとさせていただきました。ご容赦を。
また、「3 いつくしみの賛歌」では、スマートフォンのような小さな画面を考慮し、改行部分を一部変更しております。

原文どおりの書式でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教:イエスは『朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちは『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。2022年5月1日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


復活節第3主日C年―
イエスは
「朝の食事をしなさい」
と言われた。
弟子たちは
「あなたはどなたですか」と
問いただそうとはしなかった。
主であることを
知っていたからである。

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音21章1―14節

 今日の福音の構成
 全体の枠(1節と14節)
 イエスは、全く自発的に「自分を現します」(1節)。「現す」(ファネロー)は、顕現するという意味で、復活したイエスの出現についてこの語が用いられているのは、ヨハネではここだけです(他にマルコ16章12節、14節)。14節では同じ動詞が「現された(直訳)」というように受動形で使われています。
 1節と14節は今日の福音の枠となっており、この枠によって示されているように、今日の福音はイエスの三度目の顕現を述べています。

 四つのテーマ(2−13節)
 2−13節は三つの段落に分かれますが、四つのテーマがこの三つの段落(第一段落2−6節、第二段落7−9節、第三段落10−13節)に沿って次のように展開されています。
 テーマ(1) シモン・ペトロの態度
 第一段落 「私は漁に行く」と言った(3節)。
 第二段落 「主だ」と聞くと、湖に飛び込んだ(7節)。
 第三段落 舟に乗り込んで網(153匹もの大きな魚)を陸に引き上げた(11節)。
 テーマ(2) イエスに対する弟子たちの態度
 第一段落 イエスだとは分からなかった(4節)
 第二段落 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った(7節)。
 第三段落 問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである(12節)。
 テーマ(3) 食べ物の有無
 第一段落 彼らは、「(食べる物が)ありません」と答えた(5節)。
 第二段落 魚がのせてあり、パンもあった(9節)。
 第三段落 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた(13節)。
 テーマ(4) 「網」に起こる変化
 第一段落 その夜は何も獲れなかったが、イエスの言葉に促されて網を打ってみた(6節)。
 第二段落 魚のかかった網を引いた(8節)。
 第三段落 多く(153匹もの大きな魚が)獲れたのに、網は破れていなかった(11節)。

 第一段落 イエスだと分からなかった(2−6節)
 シモン・ペトロは「私は漁に行く」と仲間を誘い、一緒に漁に乗り込みます。ここで「行く」と訳された動詞(ヒュパゴー)は「離れる・立ち去る」の意味にもなりますから、ペトロは神やイエスとの関わりを閉じて漁師としての日常生活に「戻る」と宣言したのかも知れません。彼らは早朝まで働きましたが、何も獲れません(3節)。
 復活したイエスとの関わりをまだ持たない彼らは、岸に立つ人を「分からなかった」し、「食べる物」も持っていません(4−5節)。しかし、イエスに促されて、「網」を舟の右側に打つと、網を引き上げることができないほどの大漁に出会います(6節)。不漁から大漁への変化を引き起こしたのは、イエスの言葉です。

 第二段落 「主だ」と言った(7−9節)
 この大漁を目の当たりにした「イエスの愛しておられたあの弟子」は、岸に立つ人がイエスだと気づきます(7節)。愛され、受け入れられているという信頼が、大漁という出来事に込められた「しるし」を見抜く力を与え、指示を与えた人物の正体に気づかせます。
 この弟子は「主だ」とペトロに告げると、裸同然だった彼は上着を巻きつけ、湖に飛び込みました(7節)。復活したイエスとの関わりをまだ持たない「私は漁に行く」ペトロから(3節)、イエスだと聞いて「湖に飛び込んだ」ペトロへと変わります。
 しかし、他の弟子たちは「魚のかかった網を引いて」、舟で陸に戻って来ると(8節)、炭火の上に「魚がのせてあり、パンもある」のを見ます(9節)。

 第三段落 だれも問いただそうとはしない弟子たち(10−13節)
 イエスに「朝の食事をしなさい」と言われた弟子たちは、復活したイエスを気づき、だれも問いただそうとはしませんでした(12節)。このような表現から考えると、網を陸に引き上げる時点では、まだイエスだと気づいていなかったのかも知れません。彼らは獲れた魚に気を取られ、この出来事の指し示す「しるし」を理解できずにいました。しかし、食事に招かれたとき、もはや尋ねる必要がないほど明確にイエスだと分かったのです。

 今日の福音のまとめ
 復活したイエスは肉眼では見ることができません。イエスの愛に出会うとき、復活したイエスに気づきます。最初にイエスに気づいたのは「イエスの愛しておられたあの弟子」であり(7節)、ペトロを除く他の弟子たちが気づいたのも彼らのために準備された食べ物に愛を見たときです(12節)。イエスは弟子たちのもとに「来て」、パンを「取り」、食べ物を「与えます」(13節)。これらの動詞はすべて現在形です。教会が今も行っている祭儀(ミサ)をほのめかしています。イエスが与えるパン(聖体)を食べ、パン(聖体)を与えてくださるイエスの愛に心が向かうとき、私たちのうちに、イエスは復活しています。
2022年5月1日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●太字の小見出しで字がやや小さくなっている部分(テーマ(1)〜(4)の4ヵ所)は、原文(Wordファイル)ではフォントがゴシックだが太字にはなっていない部分であり、フォントがゴシックかつ太字になっている見出しよりも一段下の扱いですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、字をやや小さくすることで代用させていただきました。ご容赦を。
正しいフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「あなたがたに平和(シャローム)があるように」復活節第2主日C年 2022年4月24日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


あなたがたに
平和(シャローム)があるように
―復活節第2主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音20章19−31節

 今日の福音の構成
 今日の福音では、19−23節でイエスの顕現(けんげん)がテーマとされ、24−29節ではトマスの信仰告白がテーマとされますが、両者は次の点で類似しています。
〔語句の意味〕 顕現(けんげん)……(復活したイエスが)はっきりとした形で現れること。
(1) 出来事の起こった曜日。「週の初めの日」(19節)とは私たちの言う日曜日ですが、トマスにイエスが現れた日も「八日の後」(26節)、つまり日曜日です。
(2) イエスが弟子たちに語りかける最初の言葉はいずれも「平和(シャローム)」です(19節・26節)。
(3) 出来事が起こった場所。イエスが現れたのは、戸を閉ざした家(19節・26節)です。ただし、19節では戸を閉めた理由を「ユダヤ人を恐れて」と述べますが、26節はそのような理由づけは何もありません。
 まず、(1)についてですが、なぜ二つの出来事―そしてヨハネ20章のすべての出来事もそうですが―日曜日に起こったとされるのでしょうか。やはり、初代教会が日曜日ごとに祝った祭儀(使徒言行録20章7節)との関連で考えるのがよいと思います。その場合、ヨハネの意図は教会が日曜日に祭儀を祝うたびに、イエスの復活(顕現)とトマスの信仰告白とを信者に思い起こさせることにあったと言えます。
 次にイエスが弟子に呼びかける(2)の「平和(シャローム)」です。シャロームはユダヤ人間のごく普通の挨拶であるのは事実ですが、ここではそれ以上の意味を込めて使っています。そうでなければ、19節以外に21節でも繰り返すのが不自然です。ここでの平和はヨハネ14章27節、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」に約束されている平和です(エゼキエル書34章25節)。
 次に(3)の出来事の起こった家の戸が閉ざされていたと言われることです。19節に「ユダヤ人を恐れて」とあるので戸を閉めていた理由のひとつは明らかですが、それに尽きはしません。なぜなら、26節では「戸にはみな鍵がかけてあったのに」と、何の理由も述べずにただ戸が閉ざされている事実だけを述べているからです。こう述べることによってヨハネが意図するねらいは、イエスの復活がいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別のからだへのよみがえりであることを示すことです。同時に、望む時に人の目に見ることができ、人の手に触れることのできる体ともなりえるのです。

 今日の福音のまとめ
 「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。トマスは、復活したイエスを目の当たりにしたとき、それまでの疑いを忘れて、復活者のうちに「彼の主」、「彼の神」を見いだします。
 旧約聖書における「平和(シャローム)」は宗教的意味合いを持ったものであり、それは状態よりも関係を示すもので、契約関係を伴って用いられます(ヨシュア記9章15節、エゼキエル書34章25節)。そこから旧約の神が契約の神でもあるので、平和が神の賜物と受け取られました(士師記6章24節、ヨブ記25章2節、詩編35・27、122・6)。そして、神の与えられる平和は、祝福と幸せをもたらします(エレミヤ書29章11節、エゼキエル書34章25節、イザヤ書48章18節、54章13節)。
 新約聖書における「平和」の持つ語義は、明らかにギリシア語のエイレーネー(平和)ではなく(戦争のない状態など)、神と人との関係及び一致の意味を含み、宗教的な救いを表すものです。「神が信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)。新約聖書の平和は、喜びや信仰と不可分に結びついた状態です。これはただ単に人の内面的(精神的)平和を示すものではありません。
 21節でもう一度イエスは「平和」と呼びかけて、父から受けた任務を弟子たちに分け与えます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたに遣わす」。傍線をつけた動詞は現在完了で書かれています。つまり、父がイエスを遣わしたのは過去ですが、今もなお継続しています。そのイエスの任務が弟子たちに分け与えられています。その任務は、イエスから与えられた平和、真の平和をこの世に伝えることです。
 さらに弟子たちは息を吹きかけられ、聖霊を受けます(22節)。「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2章7節)。この霊は弟子たちを新たに創造しなおす霊であり、その使命を全うできるようにと与えられた力ですが、と同時に、エゼキエル書36章25−27節に預言された、人を罪から清める霊でもあります。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル書36章25−27節)。こうしてイエスは「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)と弟子たちに約束されます。
 私たちは日曜日ごとに感謝の祭儀(ミサ聖祭)を祝い、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰告白をするとき、イエスは私たちに「平和(シャローム)」を与え、父からの任務を分け与え(21節)、聖霊を吹きかけて新たに生かし、私たちのうちに生きます(22節)。復活とはそういう私たちの現実なのです。
2022年4月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「父よ、彼らをお赦しください」受難の主日(枝の主日)C年 2022年4月10日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


父よ、彼らをお赦しください
―受難の主日(枝の主日)C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 今日は受難の主日(枝の主日)であり、受難物語を朗読します。私たちは会衆として、ある時はイエスを否定したペトロの立場になりますし、ある時はピラトのように善悪の決定から逃れる立場になることを意味しています。また、受難の主日(枝の主日)には、A年マタイ、B年マルコ、C年ルカ、そして聖金曜日ヨハネ、毎年二つの福音書の受難物語が私たちに提供されています。そこで、今日の説教ではそれぞれの福音書の受難物語の特徴を述べます。

 マルコ福音書(B年の朗読箇所:
  マルコ15章1−39節)の受難物語

 マタイ福音書(A年の朗読箇所:
  マタイ27章11−54節)の受難物語

 マルコ福音書の受難物語のイエスの姿は、弟子たち(=人間)から見捨てられた孤独のイメージです。ゲッセマネでイエスが祈る間、弟子たちは三回も眠ります。ユダは裏切り、ペトロは呪って(のろって)イエスを知らないと言います。マルコは、弟子たちはすべてを捨ててイエスに従ったと伝えますが、逆に受難物語を読むと、すべてを捨ててイエスから逃げ去ったと感じます。イエスは六時間にわたり十字架にさらされますが、はじめの三時間は人々の侮辱(ぶじょく)、残りの三時間は全地が暗闇に包まれます。自然さえもイエスを捨て去った印象を与えます。十字架上の言葉は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)です。
 マルコ福音書の受難物語の背景として、マルコの属する教会の信者が厳しい迫害にあっていました。マルコは残忍な殉教に遭遇(そうぐう)した多くの人々を知っていました。そのような厳しい迫害に耐えていた共同体を勇気づける必要がありました。迫害による試練と苦悩は決して挫折ではなく、共同体が背負う十字架(=迫害に耐えること)は、イエスがそうであったように、のちにイエスに従う人々への模範であることを示したかったのです。
 マタイ福音書の受難物語は、基本的にマルコ福音書の伝えた受難物語と同じです。イエスが弟子たちからも会衆からも見捨てられます。ただマタイ福音書では、イエスの死後、地震について報告し、岩が裂け、死人が生き返ると伝えます。弟子たちや会衆が見捨てても、神はイエスを見捨てていない「しるし」が現されています。

 ルカ福音書の受難物語
 (C年の朗読箇所:
  ルカ23章1−49節 今日の福音)

 ルカ福音書の受難物語から受けるメッセージはイエスの癒し(いやし)、赦し(ゆるし)です。マルコ福音書に比べて、ルカは弟子たちに同情的で、ゲッセマネで眠っても一回のみであり、それは悲しみからです。民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは偽(にせ)証人を立てず、三度にわたってピラトはイエスを無実だと認めます。十字架の道では婦人たちの未来が心配され、十字架に付けた人々を赦します「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。回心した犯罪人には楽園を約束します。十字架は癒し、赦しの場となっています。

 ヨハネ福音書の受難物語
 (聖金曜日の朗読箇所)

 ヨハネ福音書の受難物語が伝えるイエスのメッセージは王であるキリストです。聖書の神の名「ヤーウェ」は、日本語直訳では「わたしはある」です。ローマ兵とユダヤ人がイエスを捕らえた時、「わたしである」(ヨハネ18章5節)と語られると、彼らは後ずさりして地に倒れます。ゲッセマネの園では「試練と死の時から救ってください」と祈りません。キレネ人のシモンも登場せず、イエスは自ら十字架を背負います。「ユダヤ人の王」という言葉は、ヘブライ語の他、当時ローマ帝国の主要な言語であるラテン語、ギリシア語で書かれ、ピラトが認めます。イエスは十字架の下(もと)でも孤独ではなく、愛する弟子とイエスの母が立っています。埋葬も王としてふさわしく百リトラばかりの香料に包まれています。
 ヨハネ福音書の受難物語の背景として、ヨハネの属する教会が、迫害、特にローマ帝国からの取調べや罰により死にさらされていた現実がありました。ローマ帝国の絶大なこの世の権力、権威に迫害されていました。「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18章36節)。受難物語を通して、この世のものには何の力もないことをヨハネは伝えているのです。

 受難物語のまとめ
 私たちは生活の中で、マルコ・マタイ福音書のように、イエスと共に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫びたい時があり、イエスがそうであったように、神が私たちの叫びをお見捨てにならないで現実をくつがえしてくださることを信じて生きることがあります。ルカ福音書のように、イエスと共に「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23章34節)と言う時があり、信頼をこめて自分自身をイエスに委ねて苦しみの意味を結び合わせる時もあります。またヨハネ福音書のように、この世の力、そこから出る悪や苦しみは、神のみ前では何の力もないことを理解すべき時もあります。
 受難物語は、ある時は落胆して頭をたれておられるイエスの姿に救いを見ることであり、ある時は赦しのために手を広げておられるイエスの姿に救いを見ることであり、ある時は王であるイエスの姿にこの世のはかなさを読み取ることでもあるのです。
 受難の主日(枝の主日)と聖金曜日には、毎年異なった二つの受難物語が私たちに提供されています。受難物語(特に十字架上のイエスの姿)にそれぞれの意味を見いだし、私たちの信仰生活に活かすことが求められているのです。
2022年4月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 受難の主日 説教

※多忙により、主日の説教の印刷・配布とホームページへの掲載は、4月24日(日)まで休みます。5月1日(日)より開始します。

ミサ説教「これからは、もう罪を犯してはならない」四旬節第5主日C年 2022年4月3日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


これからは、
もう罪を犯してはならない
―四旬節第5主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音8章1−11節

 教師イエス(1−2節)
 この物語は仮庵祭(かりいおさい)のときの論争(ヨハネ7章10節以下)を中断しているので、ヨハネ福音書の本来の記事ではなく、後(のち)の加筆と考えられています。このことを示すため、新共同訳その他もこの箇所を括弧〔かっこ〕に入れています。事実、この箇所は多くの主要なギリシア語写本になく、また、用語、文体、描写は、ヨハネ福音書よりも共観福音書、特にルカ福音書のそれと似ています。ルカの年(C年)にヨハネのこの箇所が使われるのはそのためだと思われます。共観福音書に見られる「朝早く」、「オリーブ山」、「民衆」、「律法学者たち」、「先生」などの用語は、ヨハネ福音書ではここだけに出てきます。なお、この箇所をルカ21章38節の後(あと)に置いている写本もあります。
 この物語は、当時の教会で姦通者に課せられていた厳しい償い(つぐない)の習慣に反するので、ルカ福音書から取り除かれ、後(のち)に、ヨハネ8章15節「あなたたちは肉によって裁くが、私は誰をも裁かない」という言葉の具体例として挿入(そうにゅう)されたのだろうという説もあります。
 8章1−2節「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く……」は、この物語は最後の受難週における出来事であったことを示しています。夜ごとにイエスは城外に出られて朝に、エルサレム城内に帰って来られるという書き方が共観福音書に見られるからです。
 動詞「教えていた」は「宣べ伝える」と共にイエスの宣教活動を表す言葉です。この言葉は未完了過去形なので、「教え始めた」と訳されています。イエスの使命は神が誰であるかを教え示すことにあります。

 敵対者の罠(3−6節前半)
 姦通を犯した女性が律法学者たちやファリサイ派の人々に引き立てられ、イエスのもとに連れて来られます。彼女を真ん中に立たせてさらし者とし、軽蔑(けいべつ)して「この女」と呼びます。さらにイエスを問い詰め、「律法の中で」は姦通者の石殺しが指示されていますが(申命記22章22−24節)、この律法の規定を「あなたは」どう考えになりますかと尋ねます。
 この問いは実に巧妙な罠(わな)です。イエスは日頃の教えに従って女性を赦せば、モーセの律法に背くことになります。逆に石殺しにせよと言えば、日頃の教えと矛盾し、イエスを偽(にせ)教師と喧伝(けんでん)できます。また当時のエルサレムはローマの支配下にあり、死刑執行権はユダヤ人には与えられていなかったと思われますから(ヨハネ18章31節)、石殺しを命じれば、ローマに訴える口実を得ることができるからです。イエスがどのように答えるにせよ、律法学者たちが仕掛けた罠にかかるはずです。

 イエスの対応(6節後半−7節)
 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始めます。一体、何を書いたのか、と気にする向きもありますが、結局、「分からない」というのが唯一の答えです。
 やがて、イエスは身を起こし、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言います。申命記17章7節は「死刑の執行にあたっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除けねばならない」とあります。イエスはこの申命記の言葉に条件をつけ、「罪の犯したことのない者が」を付け加えます。なぜなら律法の目的は、「あなたの中から悪(=罪)を取り除く」ことにあるからです。イエスは「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と語ることによって、自分と神との関係に目を向けるようにと促します。

 律法学者たちの対応(8−10節)、
  イエスによる励まし(11節)

 イエスの言葉を聞いた者は、「一人また一人と、立ち去った」と書かれています。各人が、神との関わりを振り返ったことが暗示されています。女性の罪を問うためにやって来た人々は、自らの罪を問いつつ立ち去って行きます。
 イエスは罪を犯した女性に「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と語りかけます。女性が「主よ、誰も」と答えると、イエスは5節での律法学者たちの問いに答えて、「私もあなたを罪に定めない」と宣言します。女性はイエスの慈しみに出会い、再びいのちを取り戻します。イエスは「これからは、もう罪を犯してはならない」と励まし、女性を送り出します。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の前半(3−7節前半)は、罪を起こした女性に対する律法学者たち、ファリサイ派の人々の訴えです。イエスが答えないので、彼らは律法の規定という面だけで女性を訴え続けます。後半(7節後半−11節)は、イエスの答えと女性に対する語りかけです。イエスは、律法学者たちと同じ面で人の罪を見ようとしません。イエスは人間を律法の前ではなく、神の前に立たせ、魂の奥底にスポットライトを当てます。他の人に対する私たちの態度はそこから生じるからです。
 そして、最後には罪を犯した女性とイエスの二人だけが残されます。聖アウグスチヌスの言葉を借りれば、「憐れな者と憐れみ深いかたの二人だけが後(あと)に残された」。イエスは彼女の罪を赦すとともに、「これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)と言って、この女性の心を癒します。彼女はイエスの愛に出会い、それにとらえられ、罪(死)からイエスの愛に応える世界へ移されて、まったく新しい命(生)に生きるようになったのです。
2022年4月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

教会便り巻頭言「新しい『ミサ式次第』の変更箇所 その1」(2022年4月号)

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


新しい「ミサ式次第」の変更箇所
その1

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 2022年11月27日(待降節第1主日)から、ミサの式文が移行期間を設けず、一斉に変更します。その変更箇所の一部をまとめました。

 1.改訂の基本方針
 現行「ミサ典礼書」の改訂作業は、以下のような基本方針に基づいて行われています。
1 「ローマ・ミサ典礼書」規範版第3版(2002年)に基づいて、日本語版「ミサ典礼書」(1978年、暫定認証)を完成させる。そのため、規範版第3版を全訳し、典礼秘跡省から正式な認証を受ける必要があります。

2 典礼式文の翻訳に関する指針「リトゥルジアム・アウテンティカム」(2001年)が求める原文(ラテン語)に「忠実な翻訳」を目指す。
・日本語の特性から「忠実な翻訳」が難しい場合は必要な適応を行う。
・現行「ミサ典礼書」発行後の典礼用語や式文の翻訳表現に合わせる。
※1978年に現行「ミサ典礼書」が発行された後、さまざまな儀式書をはじめ、「新教会法典」、「カトリック教会のカテキズム」、「第二バチカン公会議公文書改訂公式訳」、「教会の社会教説綱要」などの重要な文書が翻訳されました。これらの翻訳作業を進めるにあたって、教会用語や典礼用語も再検討されてきたので、改訂版においても用語の見直しを行いました。

3 式文は口語体にすることを原則とするが、一部、文語的表現も許容する。
※現行版が用いている「聖なる」「神なる」などの表現は残されています。

4 現行「ミサ典礼書」に採用された日本のための適応を再検討し、必要な場合は修正を加える。

5 教会管区ごとの典礼研究会や全国典礼担当者会議などを通じて寄せられた意見を可能な範囲で反映させる。

 2.式文の唱え方の区別
 ミサの式文は、一律に同じように唱えるのではありません。
1 唱える
 最も一般的な発声で、会衆に聞こえるように唱える場合の唱え方です。
例えば、十字架のしるしと挨拶、回心の祈り、栄光の賛歌、公式祈願、信仰宣言、主の祈り、平和の賛歌、派遣の祝福など。
2 はっきりと唱える
 ことばと祈りを強調する場合の唱え方です。
例えば、公式祈願の「アーメン」、聖書朗読の後、感謝の賛歌、秘跡制定句、奉献文の結びの「アーメン」、教会に平和を願う祈りなど。
3 歌う
 特に司祭が唱え会衆がそれに答える部分、或いは司祭と会衆が同時に唱えるべき部分が優先的に歌われます。例えば、開祭の挨拶、ミサの賛歌、答唱詩編、アレルヤ唱(詠唱)など。
4 小声で唱える
 近くの助祭や奉仕者に聞こえるようにする唱え方です。
例えば、福音朗読前の助祭への祝福、パンとぶどう酒を供える祈り(奉納の歌の間)、共同司式者が奉献文を唱えるときなど。
5 静かに唱える
 心を込めて奉仕の務めを果たせるよう自分のために祈る場合の唱え方です。
例えば、福音朗読後、パンとぶどう酒を供える祈りの後、清め、ホスティアの小片をカリスに入れるとき、拝領前など。
6 沈黙
 現在の典礼では「聖なる沈黙も、祭儀の一部として、守るべきときに守る」ことが勧められています。例えば、「ミサの式次第」の典礼注記で指示されている沈黙、日本のための適応として導入された沈黙など。

 3.公式祈願
 3つの公式祈願、すなわち集会祈願、奉納祈願、拝領祈願は、2022年11月27日からの「ミサ式次第」改訂版の実施とともに、当分の間「毎日のミサ」に載ったものを唱えることになります。


※ 注(Web担当者より)
●本文後半の「1 唱える」から「6 沈黙」までの小見出しは、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「いなくなっていたのに見つかったのだ。喜ぶのは当たり前ではないか。」四旬節第4主日C年 2022年3月27日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


いなくなっていたのに
見つかったのだ。
喜ぶのは当たり前ではないか。
―四旬節第4主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音
   15章1−3節、11−32節


 愛する父親の譬え
 新共同訳聖書が日本語訳のために用いた底本は、聖書協会世界連盟(UBS)が校訂したギリシア語新約聖書です。校訂(こうてい)……本文を異文と比べること。このギリシア語聖書には英語で表題がつけられており、新共同訳につけられた表題は、この英語の表題の日本語訳をほぼ用いています。
 例えば、ルカ福音書15章1−7節の表題は「『見失った羊』の譬え」であり、15章8−10節は「『無くした銀貨』の譬え」です。これは、UBSのギリシア語新約聖書の表題「The Parable Of the Lost Sheep」と「The Parable Of the Lost Coin」と同じです。
 しかし、15章11節以下は、UBSでは「The Parable Of the Lost Son」ですから、「いなくなった息子の譬え」となるはずですが、新共同訳は「『放蕩息子』の譬え」としています。おそらく、「放蕩息子の譬え」が定着していることが、英訳を採用しなかった理由だと思われます。
 しかし、「いなくなった息子の譬え」と「放蕩息子の譬え」では、譬えを見る視点がまったく異なります。この譬えでは、「いなくなった息子」が戻ったときに、父親から「子ども」として温かく迎えられます。だとすれば、「放蕩息子の譬え」は避けるべきです。
 また、この譬えの中心点は、父親が二人の息子をもっていただけでなく、二人を愛していたのであり、二人を出迎え(20節、28節)、二人に対して寛容なことです(12節、22節、31節)。
 何人かの学者は、11−32節は、二つの譬え(11−24節、25−32節)が合体したという説を述べています。しかし、このような判断は次のことを見逃しています。この譬えは「ある人に息子が二人いた」(11節)で始まっています。ということは、それぞれの息子たちとある人(=父親)の関係を、この物語の要素にしています。これは、弟の譬えでも、兄の譬えでもなく、二人の息子を愛する父親の譬えなのです。弟の譬え(放蕩息子の譬え)としてしかこの物語を見ないならば、兄の場面は付け足しだと考えてしまうことになります。

 寛大さと正義との緊張関係
 今日の福音の譬えは、読者をその―「寛大さと正義との」―緊張関係に引き込んで、それと格闘させます。兄を刺激したのは音楽と踊りです(25節)。もちろん、弟は家に戻ることは許されてもよい。しかし、音楽や踊りのある宴会までひらく必要があるのだろうか。放蕩者に食べ物や水を与えてもよいが、肥えた子牛(23節)を与えるべきではない。この宴会は、放蕩者の罪や悔い改めを否定し、浮かれ騒ぎが行われ、それが兄の正義を刺激します。
 しかし、この譬えは、この譬えそのものの価値の枠組みにおいて一貫しています。「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」ということが二度言われています(24節、32節)。人間的に考えれば、死より悪い状態はなく、生よりも良い状態はないと考えます。しかし、この二度言われた言葉は、死より悪い状態があります。それは「(父親の前から)いなくなる」ことです。生より良い状態があります。それは「(父親に)見つかる」ことです。この譬えの価値の枠組みに従えばそのように読み取ることができます。

 喜ぶのは当たり前ではないか
 私たちは弟の罪は「放蕩」にあると考えがちです。規範を破る行為を「罪」と考えるからです。この見方に立てば、25節以下に登場する兄は罪のない「正しい」人になります。しかし、この兄は父親の指示(規範)を守っていましたが、我慢して守っていたにすぎず、父親(=神)との真の交わりには気づいていなかったのです。聖書の述べる罪は神との「関係」を破ることにほかなりません。「放蕩の限りを尽くして」(13節)を直訳すれば、「救いの望みなく生きて」となります。ここで大事なのは放蕩の善し悪しではなく、救いにつながらない生き方にあります。
 命の危険に陥ってはじめて弟は、「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(18節、21節)と気づくことができました。父親(=神)から離れ、父親(=神)との関係を損なったことこそ罪であり、それが死を招いているのです。
 父親は息子の帰りを待ちわびています。「いなくなっていたのに見つかった」。息子を取り戻した父親の喜びは「喜ぶのは当たり前ではないか」という言葉に端的に表れています。

 今日の福音のまとめ
 譬えの後半部(25−32節)には、父親の愛に抗議する兄が登場します。「主日の聖書 高橋重幸著 オリエンス研究所 129頁」は、「神は言葉のなかへ E・シュヴァイツァー著 ヨルダン社 155頁以下」を用いて、次のように解説しています。
 「ここで最も印象的なのは、父親のよるべなさであります。彼は戸の外に立っております。そして彼の息子を招き入れようとする言葉以外の何物をも持っていないのであります。……神は私たちの心を欲しておられるがゆえに、また私たちの愛と喜びとを欲しておられるがゆえに、ただ外に立って私たちを待つということしかおできにならないのであります。
 ……神ご自身が、今日私たちのところへやって来ようとされていることを示す小さな文章、それは父親の最後の言葉であります。『あなたも喜ぶべきなのだ』。……私たちは言うでありましょう。こんな人と、こんな上役と、こんな子どもたちと一緒に喜べ、と言われるのですか、と。しかしそこで神の決定的な問いがやってまいります。それは、一体私たちは神のそばにいようとしているのか否か、という問いであります。この兄は、父親から50cmを離れずに立っていたにもかかわらず、実際には何kmも、……父親から離れていたのであります」。
2022年3月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「来年は実がなるかもしれません」四旬節第3主日C年 2022年3月20日

印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


来年は実がなるかもしれません
―四旬節第3主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音13章1−9節

 悔い改めの勧め(1−5節)
 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(1節)という事件の原因は、ローマ支配に対するユダヤ人の反逆行為でした。ただし、この事件についての史実はなく、いつどこで起きたのか、これ以上は不明です。ただしこの記述から読み取れることは、いけにえをささげる場所はエルサレムの神殿だけであり、過越の祭りのときには一般人(ガリラヤ人)もそこに入ることができたので、神殿でこの事件が起こったことが分かります。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」は比喩的(ひゆてき)な表現で、「ガリラヤ人を血祭りにあげた」を意味しますが、殺害時刻といけにえの時刻の同時性を指していると思われます。
 シロアムはエルサレムの東南に丘のある地域で、そこには池がありました(ヨハネ9章7節)。ヒゼキヤ王(列王記下20章20節)はトンネルのような水道を作ってこの池に水を注ぎました。塔はこの水道に沿った所に建てられていました。ピラトはこの水道からの水の補給改善のため、新たに水道を作ったようです。塔が倒れた(4節)というのは、この工事と関係があったかも知れません。
 1−5節では、ピラトによるガリラヤ人虐殺がイエスに伝えられたとき、イエスが語った言葉が2−3節と4−5節のどちらも「……罪深い者だった(からだ)と思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と述べられており、同じことの繰り返しと言えます。この繰り返しの中で最も強く響く表現は「決してそうではない」です。
 当時のユダヤ人は、ある人に不幸が降りかかれば、それはその人の罪のせいだと考えていました。不幸を天罰と見るこの考え方は、ややもすれば、不幸が襲わず平和に暮らす「私」には罪がないということになります。
 しかし、イエスはそのような考え方を否定して「決してそうではない」と言います。二つの可能性があります。”垤にあった人だけが「罪人」なのではなく、あなたたちも掟を完全に守っていないから、同じ「罪人」だ。▲ぅ┘垢療来によって、罪の内実がまったく変わったのだ。罪はイエスを通して赦しを与える神の愛に信頼できないことだ。
 罪がないと思い込んだり、神の愛に信頼せずにいたりすれば、「皆同じように滅びます」(4・5節)。「滅びる」は原文では「滅びるだろう」という未来形ですが、これは終末の時の裁きが念頭に置かれているからです。罪を赦す神の愛に信頼できずに罪に留まるなら、例外なく「皆が同じように」神との決定的な断絶を招くことになります。
 イエスは悔い改めを勧めています。イエスが勧める「悔い改め」は行いを改めることというよりは、イエスにおいて罪を赦した神の愛に気づき、その神のまなざしへと向き直る方向転換のことなのです。

 いちじくの譬え(6−9節)
 パレスチナ地方のぶどう畑には、他の実のなる木、特にいちじくを植えるのが普通で、ぶどうの木をいちじくに結び付けて支えとしました。
 この譬えに登場する「主人」は神であり、「園丁」はイエスと読むことができますが、むしろ、主人と園丁との対照的な態度によって、神の忍耐と葛藤(かっとう)が描き出されています。いちじくの木に実を探すために「もう三年もの間」来ているのに、見つけたためしがないのですから、「切り倒せ」とも考えますが、しかし「来年は実がなるかもしれない」と思えばそれもできません。神は不安と期待が交差する中で、あと一年、あと一年と待ち続けます。この一年を私たちがどのように使うのか、それが問われています。

 今日の福音のまとめ
 第一朗読では、モーセがイスラエルの人々に「あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされた」と言えば、彼らは「その名は一体何か」と問うに違いないけれども、何と答えるべきかと神に尋ねました(出エジプト記3章13節)。そのとき神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と答え、神ご自身の本質を明らかにしました。
 神のこの言葉を直訳すると、「私は、私があるであろうところの者であるだろう」となりますが、これは「私は常になろうとする者になることができるのであり、何になるかは私が決めることであって、人間が関与できることではない。私はどこでも、誰に対してもなるもの、つまり生きて働くものだ」という意味だと思われます。これが呼び名でないことは明らかです。
 モーセが受けた十戒では「あなたの神の名、主の名をみだりに唱えてはならない」と命じます(出エジプト記20章7節)。神の名を呼ぶことによって神を支配し、人間の意のままにしようとすることは、「わたしはある」という神の本質を否定することにつながるからです。
 イエスはこの神を父(アッバ)と呼び、呼び求める者を見捨てることのない神の本質を、目に見える形で示してくださいました。「アッバ」という言葉は、ほとんど口がきけないような赤ん坊が最初に発する言葉です。つまり、この言葉が意味しているものは、強い信頼関係です。赤ん坊は自分では何も出来ません。ただ最初に世話をしてくれる親にたいしてまったく委ねて「アッバ」と呼ぶことが出来るだけです。
 今日の福音の「いちじくの譬え」では、父なる神の忍耐と葛藤が描き出されています。そこに父なる神の愛が示されています。実がなるとは、この葛藤に気づき、そこに愛を見て、それに信頼することです。この信頼が私たちの行いの原動力となるのです。
2022年3月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。


ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・前晩(土曜)18:00
  (4月16日19:00
 ・日曜 9:30
  (4月10日10:30
  毎月第3日曜は手話つき
【週日のミサ】
*・火・金 10:30
(変更する場合がございます。
当サイトの予定表でご確認を)
* 5月9日以降月曜なし

[Mass Schedule]
Sundays at 9:30, but April 10th (Palm Sunday) at 10:30
Saturdays at 18:00, but April 16th (Holy Saturday) at 19:00

電話(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
詳しい地図はこちら > >

WWW を検索
サイト内を検索