主任司祭メッセージ

ミサ説教「あなたがたの喜びが満たされる」復活節第6主日 2021年5月9日

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あなたがたの喜びが満たされる―復活節第6主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音15章9−17節

 二つの段落
 今日の福音はヨハネ15章9節から始まりますが、先週の福音で触れたように、ヨハネ15章1−17節は次の二つの段落に分けられます。つまり、第一の段落(1−6節)では「ぶどうの木の譬話(たとえばなし)」を述べ、第二の段落(7−17節)ではこの譬話を一層掘り下げ、その意味を説いています。

 今日の福音の構成(7−17節)
 7−17節を一つの段落として捉えると、今日の福音は次のような構成になります。
* * *

a 7−8節
 私の言葉があなたがたの内にいつもあるなら、望むものを何でも願いなさい。
 あなたがたは豊かに実を結び、私の弟子となるなら、私の父は栄光を受ける。
 b 9節
  父が私を愛したように、私もあなたがたを愛してきた。
  c 10節
   あなたがたが私の掟(おきて)を守るなら、私の愛に留まっている。
   d 11節
    これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、
    あなたがたの喜びが満たされるためである。
  c´12−14節
   これが私の掟である、互いに愛し合いなさい。
   私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。
 b´15節
  私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた。
a´16−17節
 私があなたがたを選んだ、私があなたがたを任命した、あなたがたが実を結ぶように、
 父に願うものが与えられるようにと。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。
* * *

 7−17節は、7−8節(a)と16−17節(a´)とが囲い込みを作り、11節(d)を中心とするコンチェントリック(求心的)な構成を持っています。
 9節(b)と15節(b´)とでは、「父」と「あなたがた」を結び合わせる「私」の役割が述べられています。御父がイエスを「愛した」ように、イエスは弟子たちを「愛した」のであり、御父から「聞いた」ことをイエスは弟子たちに「知らせた」ので、もはや彼らを僕(しもべ)とは呼ばずに、友と呼びます。
 10節(c)と12−14節(c´)とは「掟」で対応しています。イエスが御父の掟を守ることによって、父の愛に留まったように、イエスの「掟」を守れば、その愛に留まっていたことがあらわになります。イエスの「掟」とは「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合う」ことですが、これを行えば、イエスの友であることがあらわになります。
 コンチェントリックの中心は、11節(d)「私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」です。私たちが喜びに満たされること、それがイエスの願いです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の中心は「あなたがたの喜びが満たされる」(d)ことにあります。ヨハネ福音書には、「喜び」、それも「満ちあふれる喜び」というモチーフ(意味……主題、題材)が繰り返し現れます。いずれもイエスとの交わりがもたらす実りです。花婿イエスの声を聞く喜び(3章29節)、イエスの働きがもたらす救いの実りにあずかる喜び(4章36節)、ぶどうの木であるイエスとつながる喜び(15章11節)、イエスと再会する喜び(16章21節)、イエスの名によって祈り、願いをかなえていただく喜び(16章24節)、イエスのメッセージがもたらす喜び(17章13節)、復活したイエスを見る喜び(20章20節)。
 ヨハネ福音書では、「喜び」は別名「平和」です。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。……」(14章27節)。この平和は、喜びと同じく、イエスとの交わり(14章15節以下)から生じるものです。復活したイエスが弟子たちにもたらしたものも、喜びと平和でした(20章19−20節、16章33節も参照)。
 満ちあふれる喜びは「私の掟を守る」とき与えられますが(cとc´)、それ以前にイエスが私たちを愛しています。しかも父が愛したその愛によって愛しています(bとb´)。御父がイエスを愛したその愛が原因となって、弟子たちに対するイエスの愛が構成されます。別言すれば、イエスの弟子たちに対する愛を成立させるのは、御父のイエスに対する愛であって、父からイエス、イエスから弟子へと伝えられる愛は本質的に同一です。
 ここで、「愛」という自発的なものと「掟」という強制的なもの、つまり一見相反すると思われるものが結びつけられています。イエスは10章18節で「私は命を捨てる(=受難)こともでき、それを再び受ける(=復活)こともできる。これは、私が父から受けた掟(=御旨)である」と言います。イエスは受難と復活とを、御旨とみなし、愛によってこの掟を受け止めます。「私の愛に留まりなさい」(9節)というイエスの命令は、イエスの愛の中に入り、その交わりの中に留まって、イエスの弟子としての存在を形づくりなさい、という意味です。弟子もイエスと同様に愛がその存在の構成要素となるはずのものだからです。私たちは掟を守らねばならないが、それ以前に私たちはイエスの愛に包まれています。イエスの愛に留まるとき、私たちは豊かに実を結びます(aとa´)。イエスが働くからです。
2021年5月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文序盤の7−17節の引用部分は、原文(Wordファイル)では四角い枠で囲われていますが、Web上で枠にするのは難しいので、「* * *」で代用させていただきました。ご容赦を。

「復活する」:鍛冶ヶ谷教会便り2021年5月号 巻頭言

復活する

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 1節 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2節 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3節 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。4節 ところが、目を上げて見ると、石が既にわきに転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5節 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6節 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7節 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。8節 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである(マルコ16章1−8節)。

 墓へ向かう女性たちの心配は墓の前に置かれた大きな石でした。誰が取り除いてくれるかと心配していましたが、到着してみると、石は取り除かれていて、すぐに墓に中に入ることができます(3−4節)。ここで面白いのは、石が取り除かれていたのに、それを驚いていないことです。
 彼女たちが驚くのは、墓に入って、白い衣を着た若者を見たときです(5節)。この若者が神の使いを表すのは明らかですが、マルコは大げさな描写を避けます。このような控えめな描写は、取り除かれた石に驚かなかったことと共に、マルコの興味をよく表しています。彼にとって大事なのは、目を奪うような出来事でも、尋常では考えられない神秘的なあり様(ありよう)でもなく、神との出会いです。このことは天使の「あの方は復活なさった」(6節)という言葉からもうかがえます。この動詞は受動態で書かれており、イエスが自分の力で復活することなく、神の力によって復活させられることです。マルコの描写の仕方から考え、空(から)であった墓に重点を置いていません。むしろ神との出会いそのものです。
 女性たちは復活の使者として弟子たちのところに遣わされます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(7節)。この言葉には弟子たちに対する愛が現れています。ペトロはイエスを三度も否認し(14章66−72節)、弟子たちはイエスを見捨てますが(14章50節)、イエスは弟子たちを見捨てません。
 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。┅┅そこでお目にかかれる」(7節)。ガリラヤはイエスが宣教を開始した場所であり、弟子たちや女性たちがイエスと出会った場所です。また、マルコの教会の宣教の拠点であり、弟子たちや女性たちの出身地です。そこは弟子たちや女性たちにとって日常生活の場所です。そして、7節のこの言葉は私たちのガリラヤ(日常生活)における「イエスとの新しい出会いの体験」に私たちを招いています。  
 復活体験を現代の言葉で言い換えると「イエスとの新しい出会いの体験」です。そうであれば、復活は、聖書に書かれている出来事ですが、霊的に大小ありますが、現代でも復活体験をすることができます。「イエスは先にガリラヤへ行かれる」。私たちは、いつガリラヤ(日常生活)で彼と出会うことができるのか、決してわかりません。ただ私たちは常に先にガリラヤへ行かれた「イエスとの新しい出会いの体験」のために心の準備をすることを知っています。

追伸
 2021年復活祭後、カトリック鍛冶ヶ谷教会の主任司祭として着任した ヨハネ・ボスコ 林 大樹です。信徒の皆様、よろしくお願いします。

ミサ説教「留まっていなさい」復活節第5主日 2021年5月2日

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留まっていなさい―復活節第5主日B年


ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ヨハネによる福音15章1−8節

 ヨハネ福音書の13−17章は、受難を前にしたイエスが弟子たちだけに語った「告別説教」と呼ばれている箇所です。

 二つの段落(1−6節、7−17節)
 今日の福音も一応は「告別説教」になりますが、1−6節の「ぶどうの木の譬話(たとえばなし)」は告別説教に特徴的なテーマを含まず、7節以降になると、この譬話との関連が急に弱まります。そこで、1−6節の譬話は、もともとは独立したひとつの譬話でしたが、後(のち)に7−17節が加えられ、現在の文脈(告別説教)の中に組み込まれたと考えるのが良いかも知れません。したがって、今日の福音は1−6節と7−17節の二つの段落に分けられますが、教会の朗読としては、1−8節が復活節第5主日に朗読され、9−17節が復活節第6主日に朗読されます。

 ぶどうの木の譬話の構成(1−6節)
 1−6節の「ぶどうの木の譬話」は、1節と5節の「私はぶどうの木」と2節と6節の「枝」によって囲い込まれており、次のようになっています。
 【1−2節 父】
 私はぶどうの木私の父は農夫。
 父は→実を結ばない枝を取り除く。父は→実を結ぶものを手入れする。
 【3−4節 私(の言葉)】
 あなたがたは既に清くなっている、私の言葉によって、私につながっていなさい。私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
 【5−6節 あなたがた(人)】
 私はぶどうの木あなたがたは枝。
 人が→つながっていれば、豊かに実を結ぶ。人が→つながっていなければ、焼かれる。
 1−2節は「父」の働きを述べ、5−6節は「あなたがた(人)」の姿に視点が移りますが、その間の3−4節では「(私の言葉によって)私につながっていなさい」との呼びかけが行われており、ここに譬話の目的があります。「つながる(直訳 留まる)」は、「人が自分本来の在り方を見出したところを離れずに、そのまま留まる」の意味です。ぶどうの木に「留まっていなければ」、実を結ぶ(直訳 実を運ぶ)ことができず、むしろ取り除かれたり(2節)、焼かれたり(6節)されてしまうのだから、「留まっていなさい」と呼びかけています。

 弟子となる(7−8節)
 7節aの「あなたがたが私に留まっている(直訳)」が、次の行で「私の言葉があなたがたのうちに留まる(直訳)」と言い換えられています。イエスに留まれば、イエスの「言葉」も留まります。
 イエスは、3節で「私の言葉によって既に清くなっている」と語ります。ここで「清く」と訳された語は2節で「手入れをする」と訳された動詞と同じ語源の言葉です。実を運ぶ(結ぶ)ようにと父が「手入れをし」、イエスが「清く」します。しかも、イエスに留まる者が清くなるのは将来のことではなく、「既に清くなっている」のです。イエスに留まるとき、彼の言葉が根から吸い上げられた養分のように実に向かい、父の働きとあいまって、実を豊かにします。こうして私たちは「多くの実を運び(直訳)」、イエスの「弟子となる」ことによって、父の素晴らしさ(栄光)を現すこととなります(8節)。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は「私はぶどうの木」という自己啓示の句から始められます。「私は……です」という表現は、ギリシア語の「エゴー・エイミー(英語の「アイアム」に相当します)」という定形句です。関連定形句を並べると、「私は命のパンである」(6章35節他)、「私は世の光である」(8章12節)、「私は羊の門である」(10章7節)、「私は良い羊飼いである」(10章11節他)、「私は復活であり、命である」(11章25節)、「私は道であり、真理であり、命である」(14章6節)、「私はまことのぶどうの木」(15章1節)、以上の7種類があります。
 聖書学者は「私は……です」という定形句には2種類あることを指摘しています。一つは「同定定式」と呼ばれるもので、「私は、命のパン、光、道、命である」という表現で、これはイエスが未来的・終末的表象内容を現在の自分が担っているということを主張したもので、終末の恵みの現在化として自己を同定するものです。もう一つの種類は今日の福音に見られるもので「認定定式」と呼ばれるものです。それは「良い」とか「まことの」という用語を伴ったもので、イエスの主張の独自性を論争的に表現するものです。旧約聖書では、イスラエルがぶどうの木に譬えられますが、このぶどうの木は悪い実をならせてしまうぶどうの木です(イザヤ書5章1−7節、エレミヤ書2章21節、ホセア書10章1節他)。そこで、イスラエルに代わって、イエス自身が「まことの」ぶどうの木となるのです。
 したがって今日の福音の意味は、イエスこそが私たちがそこに留まり、つながらなければならない「まことの」ぶどうの木であって、イエス以外に真の「いのち」の源はない、というのです。イエスと神との間を行き交う豊かな「いのち」にあずかり、その人らしく生かされれば、おのずと行いは変えられ、実を運ぶ(結ぶ)者となります。だから、行いを求めるよりも、まず「いのち」を受けるために、「まことの」ぶどうの木に留まるのです。今日の福音(ギリシア語原文)で「留まる」という動詞がわずか1−8節の間に7回、「実を運ぶ(結ぶ)」という動詞が6回も使用されていることは、このことを明白にしています。
2021年5月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文中盤で「下線+太字」にしている「置く」と「取る」(計4ヵ所)は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。

ミサ説教「命を置く」復活節第4主日 2021年4月25日

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命を置く―復活節第4主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音10章11−18節

 今日の福音は14−15節を合わせ目とする二つの段落(11−15節と14−18節)からできています。

良い羊飼い(11−15節)
 11−15節では、11節と合わせ目の14−15節が「私は良い羊飼いである」と「主のために命を捨てる」で対応し、その間の12−13節は、狼を見ると羊を残して逃げ出す「雇われ人」の無責任さを述べています。彼は結局自分自身の利益、つまり生活の手段として羊を飼う雇い人となっているわけです。だから、この段落のテーマは、雇われ人とは違って、羊のために命を捨てる良い羊飼いにあります。
 14−15節には「知る」が四度繰り返されています。父なる神とイエスがお互いを「知る」ように、イエスと羊もお互いを「知る」。この「知る」は一方通行の知的な働きではありません。人格的なふれあいに基づく「知る」です。そのように羊を知る良い羊飼いは、雇われた羊飼いとは違って、羊の命に無関心ではいられません。雇われた羊飼いには「ただの羊」(13節)ですが、良い羊飼いには「自分の羊」(14節)です。このような人格的交わりに動かされて、良い羊飼いは「羊のために」命を捨てます。
 ヨハネ15章13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあるように、「知る」という人格的交わりはおのずと愛に高まってゆきます。ここでの「知る」は熟してゆけば、愛となるような「知る」です。

父の御旨(みむね)で(14−18節)
 14−18節では、合わせ目の14−15節と17−18節が「父」と「私は捨てる」によって対応し、イエスが父との関係の中で「命を捨てる(直訳 命を置く)」ことを示しています。
 17−18節は、直訳すると次のような構成となり、中心に置かれたcをa・a´とb・b´が囲い込んでいます。
 a このことのゆえに 父は私を愛する
    b というのは 私は命を置く、再び私はそれを取るようにと。
       c 誰も私から取り去らない、むしろ私はそれを自分から置く。
    b´私はそれを置く力を持つ、そして私は再びそれを取る力を持つ。
 a´この掟を私は私の父から取った。
 このような構成から分かるようにイエスは強制的に命を奪われるのではなく、自ら進んで命を捨てます(c)。
 その理由が二つの方向から述べられています。第一に、父が私を愛しており、命を置く(捨てる)ことは父の「掟」、つまり御旨(みむね)だと知っているからです(a・a´)。第二に、命を置く(捨てる)のは、「再び取る(受ける)ことができる」=復活することができる、と知っているからです(b・b´)。イエスの死と復活は神の御旨です。イエスは「父」との交わりの中で、「再び取る(=復活する)」という確かな希望に包まれて、自ら進んで十字架上に命を置くのです。
 イエスは、父なる神との深い愛の交わりの中で命を置く(捨てる)ことが14−15節と17節で述べられましたが、その間の16節では命を置く(捨てる)目的が語られていきます。「この囲いに入っていない他(ほか)の羊」とは異邦人を指します。彼らは「私(イエス)の声を聞き分ける」し、「一つの群れになります」。イエスが「命を置き(捨て)」それを「再び取る(=復活する)」後には、異邦人も救いにあずかることになります。

今日の福音のまとめ
 ペトロは足の不自由な人に「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、この人を立ち上がらせ、彼を歩けるようにします(使徒言行録3章6−7節)。この奇跡を目にした民衆は非常に驚き(10節)、彼らのもとに押し寄せますが(11節)、ペトロは彼らに説教をします(12節以下)。これを耳にした祭司たちはいらだち、ペトロを逮捕します(4章1−3節)。その翌日、大祭司やユダヤ人指導者たちは彼を取り調べますが、今日の第一朗読はこの尋問へのペトロの回答です。
 ペトロは「この人(足の不自由な人)が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)と演説します。
 ここでの「名」は呼び名のことではなく、「人の名に伴う聞こえ・名声・評判」を指しています。イエス・キリストは「名声」を博していますが、その根拠は彼自身の行いや言葉にではなく、「あなたたちが十字架につけた彼を、神が死者から復活させた」という出来事に基づいています。イエスの名は神の働きを現す「名」なのです。
 イエス・キリストの「名」によって洗礼を受けた者は、「神の子と呼ばれるほどに愛された者だ」と第二朗読は教えます。だから、イエス・キリストの「名」を信じる私たちは、この世の無理解や迫害にさらされても、くじけることなく、歩むことができるのです。
 今日の福音では、「命を置く(捨てる)」が繰り返されることから分かるように、イエスの死がテーマとなっています。ヨハネ共同体は、イエスへの信仰ゆえにユダヤ教の会堂から追放されました(9章22節)。しかし、「強盗」(10章8節)のようなファリサイ派ユダヤ教から迫害されていようとも、ヨハネ共同体のために十字架の上に命を置き、救いの業を成し遂げられた(19章30節)イエスは、今なお「良い羊飼い」として彼らを守っている。つまり、「良い羊飼い」の講話に現れているのは、このようなヨハネ共同体の自己理解なのです。
2021年4月25日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文中盤で「下線+太字」にしている「置く」と「取る」(計4ヵ所)は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。

ミサ説教「聖書を知る力」復活節第3主日 2021年4月18日

聖書を知る力―復活節第3主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ルカによる福音24章35−48節

橋渡し(35節)
 この節はルカ24章13−34節の「エマオで二人の弟子に現れたイエス(エマオの出来事)」と36節以降を結び合わせる橋渡しの節です。

弟子たちへの顕現(36−37節)
顕現(けんげん)┅┅神が人間の目に見える姿で現れること。
 復活したイエスの顕現に、弟子たちはイエスを亡霊だと思い、恐れおののきます(37節)。彼らはエマオの出来事の報告(35節)を受けても、それを信じられずにいたのです。
 この段落はルカ24章50−53節に対応しています。この段落では「『平和があるように』と述べた」イエスに対して、「恐れおののきます」が、50−53節では「祝福する」イエスに対して、弟子たちは「伏し拝みます」。恐れていた弟子たちが伏し拝む者たちへと変わりますが、この変化が引き起こされる過程が38−48節の四つの段落によって明らかにされます。

第一段落(38−40節)
 イエスは恐がっている(こわがっている)弟子たちに対して、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)と繰り返すことによって、弟子たちの恐れや疑いが全く根拠のないものであることを示します。さらに「私の手や足を見なさい」と述べ、「まさしく私だ」と語りかけ(39節)、両手と両足を示します(40節)。これは、復活したイエスは十字架にかけられたイエスと同一だ、という主張です。

第二段落(41−43節)
 復活したイエスは、十字架にかけられたイエスと同一である、という強調にもかかわらず、弟子たちの「不信仰」が続きます(41節)。「だが」彼らはイエスの求めに応じて、一切れの魚を手渡します(42節)。「信じられなかったが、だが手渡した(原文)」という彼らの態度に、あまりのことに呆然(ぼうぜん)とする彼らの姿が表されています。
 イエスは差し出された魚を食べます(43節)。「彼らの前で食べられた」の原文は、「彼らと一緒に食べた」と同じです(ルカ13章26節)。「一緒に食べた」の意味であれば、弟子たちとの親しい交わりが再開されたことをも表しています。死を乗り越えて継続するイエスとの関わりが弟子たちの不信仰を癒します(いやします)。
 イエスは在世中、エルサレムへの旅行の初め、弟子たちを宣教に派遣するに当たって「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。┅┅出される物を食べ」なさい(ルカ10章7・8節)と指示しましたが、これを自ら実行します。

第三段落(44−45節)
 この段落の冒頭の「イエスは言われた」(44節)は、原文では「だがイエスは言われた」です。「だが」はここでは「しかし」の意味です。そうであれば、弟子たちは不信仰から完全に脱却していません。なにがしかの疑いを抱いている弟子たちですが、「だが」イエスは彼らに言われます。イエスは彼の受難と復活の必然性を思い起こさせ(44節)、聖書を悟らせるために心の目を開きます(=聖書を悟らせるために知る力を開きます)。

第四段落(46−48節)
 この段落では、冒頭の46節に「だが」が置かれずに、原文では「そして」が置かれています。亡霊を見ていると恐れた弟子たちに両手と両足を示し(40節)、喜んだがまだ信じられずにいた弟子たちの「前で」魚を食べ(43節)、それでも信じきれなかった弟子たちの心の目(知る力)を開いたことによって(45節)、疑いが完全に取り除かれます。
 イエスはキリストの受難と復活(46節)、悔い改めの宣教(47節)は聖書に予告されており、弟子たちはそのことの証人だ(48節)と言います。

今日の福音のまとめ
 イエスは両手と両足を示し(40節)、弟子たちの前で魚を食べてみせ(43節)、亡霊(37節)ではないことを分からせようとしますが、すっかり消え去るのは、ルカ24章52節です。そこには天に上げられるイエスを「伏し拝んだ」とあります。弟子たちがそこまで導かれるには、まだされなければならないことがあります。それを書くのが44−49節です。
 44−49節では「聖書による説明」がテーマとなっています。このテーマはルカにとって重要な意味があります。弟子たちが疑いを消し、イエスの復活を信じることができたのは、繰り返し聖書が説き聞かせられたからです。手足を示し、魚を食べるだけでは、復活は信じられません。聖書による説き明かしが不可欠です。出来事は言葉によって解明されなければ、ただの出来事に終わります、出来事が人間を変えるほどの力を持つ出来事となるには、聖書を知る力が不可欠なのです。
 ルカ24章の二つの顕現物語(エマオの出来事と今日の福音)は、まずどこで私たちは復活したイエスと出会うか、を教えます。ルカは今日の福音で単に弟子たちの体験という過去のことを物語るだけでなく、人生の旅路においてキリスト者の共同体が復活したイエスとの出会いを体験するのは、常に聖書の御言葉の意味を知ること(44−49節)とパンを裂く式(35節)においてであることを示しています。
 イエスはパンです。私たちはイエスの受難と復活と罪の赦しを得させる悔い改めを告げる証人です。パンを食べ、「聖書を知る力」が与えられたのは証人となるためです。

2021年4月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

神父様からのメッセージ「ミサのない四旬節に神様とのつながりを失わないために」2020年3月13日

鍛冶ヶ谷教会の皆さんへ

ミサのない四旬節に神様とのつながりを失わないために

 皆さん、夕べ、教会委員会の代表者の方々と相談の上、3月中の日曜日のミサを中止することを決めました。簡単にではなく、祈った上で、聖霊の助けを願ってこの決断をしました。そのことが日本中に広がるウィルスの感染を防ぐためになると考えました。
 つきましては3月1日から3月29日まで、まる1ヶ月、日曜日のミサがないことになります。教会の暦の上で大事な四旬節の1ヶ月間、本来は主の過ぎ越しと復活祭のために心の準備をする時です。黙想会も予定していました。今まであたり前と思っていたミサと聖体拝領がなくて、どうしたら良いかと思っている方もいらっしゃるでしょう。
 まずミサがなくても日曜日には、主日を聖化する様に、祈りの時を個人で持つようにしましょう。聖書を、とくにヨハネの福音書の後半13章からを、ゆっくりと読むことをお勧めします。ロザリオの祈りもあります。十字架の道行きの祈りもあります。個人で教会に来られたら、「聖書と典礼」はいつも置いてありますのでお持ち帰りください。洗礼志願者のためにもお祈りください。
 この前例のない苦難の時に、私は共同体全体のために祈っています。誰もいない教会はとても寂しいです。皆さんの、先輩の方々の、子ども達の顔をとても見たいです。この体験から、ミサが、また共同体が私達の生活の中に、どれだけ大事かを再自覚できたら、思いがけない恵みとなるのでしょう。
 世界中に広がっているこの病が、早く収まる様に祈りましょう。
 ゆるしの秘跡はいつでも受けられます。どうぞお越しください。特に土曜日の午後5時から6時はそのための時間としています。

ブランチフィールド神父

共同体とわたし 2019年3月

主任司祭 パトリック・ブランチフィールド


 昨年8月15日に出た「ひろば」53号に、わたしは共同体について書きましたが、今度は「共同体とわたし」について考えて書きたいと思います。

 この前に言ったように、わたしたちはいい共同体に恵まれています。温かくて、家族的な雰囲気があります。全体のために目立たないところで協力している人々は少なくない。若い家族に恵まれていますし、子どもたちは世話されています。ご年配の皆さんのために年に一度の敬老会のほかに、鶯の会もあります。

 弱点があるとすれば、わたしたちが名前で関わっていない。長い間同じ玄関を出入りして、顔をおぼえていても、名前を知らない、しかも聞くにはもう恥ずかしい。

 このような状態では、家族の中の連帯と帰属感が弱いのではないかと思います。そしてわたしも例外ではない。鍛冶ケ谷に来ましてから、もう六年がたっていますのに、皆さんの大半を名前で呼べない。毎日曜日に玄関で声掛けもせずにすれ違っているだけです。司祭として、皆さんのためにいるのにいけないと思います。

 どうしたらいいかと思うと、皆さんとの接点を設けることがほしい。地区にも地域にもこだわらずに小さい家庭集会をしたい。「うちでもどうぞ」という人のところ、それがどこであってもいい。日曜日がよりいいが平日でもいい。近くに住んでいる信者に声をかけて集まるだけで、自己紹介して、日ごろ考えていること、悩んでいることについて話し合って、一時間半ぐらいで終わり。原則として (1)お茶以外に出してはいけない。 (2)参加者は手ぶらで来ること。

 司祭として、皆さんのために祈ることはわたしの生活です。知らない人のためよりも知っている人のためのほうが祈りいいでしょ。

 わたしのこの提案はどうでしょう。ご協力をお願いします。

鍛冶ヶ谷教会共同体 2018年8月

主任司祭 パトリック・ブランチフィールド


 この頃私は、共同体についてよく話しますが、勿論教会共同体の意味で話しています。洗礼を受けて日曜日ごとに祭壇を囲む、ぶどうの木であるイエズスと一体となり、その神秘体となって、言わば「一家族」となっています。

 家族はいい言葉です。温かさもあり親しみもあります。同じ家族の者はお互いに関係を認め合って責任を感じます。そして勿論お父さん、お母さんもいれば子供達もいる。おじいさん、おばあさんもいる。こういうふうに考えると鍛冶ヶ谷教会共同体はとても幸せで恵まれているのではないかと思います。

 社会一般と同じように、ご年配の方が多いですが若い家族もいる。八時半のミサにお父さん、お母さんと一緒に子供達が来ている。ミサの典礼の役割、侍者、先唱者、朗読等は殆ど子供達に託されている。家族が理想的な形で誇るべきでしょう。是非皆さんにこれを意識して維持して頂きたい。子供達が信仰の中に育つように。

 ミサの典礼以外に私たちがこなしているすべてを挙げる必要はない。「語らいのひろば」、「ランチ」、「バザー」等、共同体の連帯を強める為に役に立っていると思います。

 弱点があるかと思うと、それは私たちがまだお互いを名前で呼べないことです。勿論出来る人もいるが限られています。「家族」となるために、この弱点を乗り越えるようにしたい。

 家族と云うものの力は連帯にあるでしょう。お互いに興味と関心を持ち、家族に対する帰属感を持っていれば、当たり前と思うものは何もありません。お花であろうと、音楽であろうと・・・。
 この頃、名札を使うようになりました、それも続けていけるよう頑張りましょう。

洗礼は私たちのよりどころ 2017年7月

主任司祭 パトリック・ブランチフィールド


 私が鍛冶ヶ谷教会に赴任してから、すでに五年以上が経っています。その間に皆さんと一緒にさまざまな行事をこなす事が出来ました。小教区発足二五周年記念のお祝いをはじめ、二回の堅信式、毎年の復活祭には多くの受洗者に恵まれました。結婚式も三回ありました。そして私自身の八十歳のお祝いもしていただきました。すべてが大勢の方々の協力によるものであって神様に感謝しています。

 しかし、五年経ったものの、私はまだ皆さんを名前で呼べません。日曜日にロビーに立って礼儀正しくお辞儀を交わすだけで終わってしまいます。個人的に話し合うことがほとんどありません。それでは淋しいので、この頃は、信徒名簿とそれぞれの地区の地図を手にしながら訪ねるようにし始めました。

 以前、家庭訪問をする時は、その人を知っていて玄関のベルを押したものですが、今は違います。ベルを押してどなたが出てこられるのか分りません。その人がつい先日教会で話をした人かも知れないし、私の全く知らない人かもしれません。このような違いがあっても私に対する反応は同じなのでびっくりします。家の中に招かれることもありますし、玄関での話で終わることもあります。私にとってはどちらでも良く、お話し合いができればうれしいのです。

 私の訪問を多くの方々は喜んでくださいますが、このことを通して気づかされたことがあります。長い間教会から遠ざかっていた方が、その理由を正直に話してくだること、その正直さには尊敬の念を覚えます。

 私はお伝えしたいのです。たとえ教会に足を運んでいなくても、みなさまは神様から離れてはいないのです。神様もお離しになっていません。

 洗礼は私達のアイデンティティです。教会はひとつの家族で、私たちは皆兄弟姉妹です。何らかの理由があって教会に行かれなくても、自分を卑下しなくても良いのです。お互いに祈りましょう。祈っていることが大事です。

 教会の敷居が高いと思わないでください。いつでも教会はあなた方のお帰りを待っています。お互いのために祈りましょう。

皆さまの奉仕に感謝し、つづく若い世代の方々に 2016年12月

主任司祭 パトリック・ブランチフィールド


 2016年もあとわずかとなりました。この一年を振り返ってみますと、たくさんのお恵みを頂いたことを感じます。復活祭や小教区発足25周年記念のミサ、8月15日のマリア様の夕べ(納涼祭)、秋には長寿を祝う会、福祉関係への寄付のためのバザーも二回行いました。そして入信の秘跡の大切な堅信式もありました。地道ながら「語らいの広場」への奉仕など、たくさんの活動に支えられてきました。これらの活動は長年にわたって多くの方々が築きあげ継承してきたものです。あらためて、いままで働いてきてくださった方々、今も働いてくださっている方々に感謝申し上げます。みなさまに神様の祝福がありますように。また、私の80歳の誕生日を祝っていただきましたこともうれしいことでした。有難うございました。10月2日、この日ミサにいらした大人も子供も一緒になって祭壇を囲みながら『ひとりの小さな手』を歌ったこと。この歌詞のように『ひとりの小さな手、なにも出来ないけど、みんなと手と手をあわせれば、なにか出来る、なにか出来る』は、ひとりひとりに、また共同体に、大切なメッセージを伝えてくれています。

 さて、教会はいつも旅を続けています。ひるがえって、私たちの教会をみてみますと、実はとても恵まれています。他の教会に比べて若い世代が多く、子供たちも大勢います。このいただいている恵みに感謝するとともに、子ども達の将来には大人の大きな責任がともなうことも自覚しなければなりません。私たち共同体がこの地にあって神様の愛を伝えていくためにも同様です。共同体の豊かな信仰の中でお互いを尊重しつつ、今後一層若いお父さん、お母さんたちに活躍して頂きたい。神様から貰っている賜物をぜひ生かしていただきたいと思っています。

 まもなく降誕祭です。私たちひとりひとりのためにお生まれになった「キリスト」の誕生を、みなさまと共にお祝いしましょう。みなさまの上に豊かな恵みがそそがれますように。
そして新しい気持ちで2017年を迎えましょう。

ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・日曜 8:3010:30
  (2021年4月から
   10:00⇒10:30に変更)
  第2日曜10:30は手話付き
 ・土曜 18:00

カトリック鍛冶ケ谷教会
(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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