主任司祭メッセージ

「ヨセフ年―聖ヨセフへの祈り―」:鍛冶ヶ谷教会便り2021年10月号 巻頭言

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ヨセフ年
―聖ヨセフへの祈り―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 ヨセフへの関心は、16世紀に高まり、17〜18世紀にフランスで盛んになったと言われています。近世に至るまで、ヨセフに対する人々の思いは、救いの歴史の中で果たす役割よりも、むしろ、忍耐と謙遜、静かな祈り、そして地上の労働など、その人格や生き方に焦点が当てられています。

 地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ(マタイ23章9節)。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ(マタイ23章8節)。
 聖書は、人間と人間の関係は皆兄弟であると言います。誰かが誰かを押さえこんだり、誰かが誰かを教えこんだり、そういうことではなく、お互いが育み合い、助け合う。そういう関係しかこの地上には理想としてはあり得ません。他のもの、つまり依存、従属、隷属といったことがあるとすれば、それは地上にあるべき関係ではなく、神に対してだけの関係です。
 今は何かにつけて権威喪失の時代です。家庭における親の権威。教育の荒廃。或いは宗教の権威。昔は本当に権威あるものが、伝統にしろ、しきたりにしろ、それなりにありましたが、今はそれがどんどん無くなっている時代です。
 しかし、これはある意味では良い面があります。つまり「地上の者を父と呼んではならない」とありますが、今では押さえつける権威、力の支配といったものが希薄になっています。これは一つのチャンスです。例えば、親子関係をとってみても、父親だったら何でも子どもが言うことを聞くはずだと思っているような時代は過ぎ去りました。これは、本当に父というものが何であるべきなのか、或いは母というのはどうであるべきなのかを考える手がかりになります。
 今、権威が欠けているのはなぜかというと、本当に信頼できるものがないからです。※実質がないからです。つまり、押さえる力でなくて、育む力をもって、自分の力を一生懸命に使って人を生かそうとする、慈しもうとする、配慮しようとするとしたら、そこには大きな恵みの力が働きます。そうすれば親の権威が別の形でもう一度確立します。教育だって何だって同じです。そういう意味で、まさに今こそ、私たち一人ひとりが天に父を持ち、そしてお互いが兄弟として生きるということが大切になってきているのです。
「イエスとその福音」(岩島忠彦神父著 教友社)179−182頁から
※〔語句の意味〕実質(じっしつ)……実際の内容・性質。例「外見より実質を重んじる」。

 父性が見失われている今、ヨセフの姿を見ながら、社会における父(母)の役割を見つめたいと思います。使徒的書簡「父の心で」の締めくくりに、フランシスコ教皇は聖ヨセフに向かって祈りをささげるよう誘っています。
 おお、贖い主の守護者、聖なる処女マリアの配偶者。神は、その独り子をあなたに託されました。マリアは、あなたを信頼しました。あなたとともにキリストは成長しました。
 祝福されたヨセフ、私たちにも、ご自分が父であることを示し、人生の旅路を導いてください。恵み、憐れみ、勇気を私たちに得させてください。そしてあらゆる悪から私たちをお守りください。アーメン。


※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「イエスの名に従い、つまずきを断つ」年間第26主日B年 2021年9月26日

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イエスの名に従い、つまずきを断つ―
年間第26主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   9章38−43節・45節・47−48節


 今日の福音は41節と42節に切れ目があります。38−41節には「名(オノマ)」が三回繰り返されます(38節、39節、41節、なお41節の「キリストの弟子だという理由で」は直訳すれば「キリストの弟子であるという名において」です)。
 一方、42−48節には、「つまずく」が四回(42節、43節、45節、47節)、「よい(カロス)」が四回(42節、43節、45節、47節)も現れます。
 こうして今日の福音は41節と42節を境にして大きく二つの段落に分けられますが、どちらの段落もさらに細分化することができます。38−40節では弟子が反対者に取るべき態度を述べますが、41節は弟子として受け入れられる理由を述べます。
 他方、42節は弟子が互いに取るべき態度を述べ、43−48節は弟子が自分に対して取るべき態度を述べます。

 第一段落 テーマ「イエスの名」(38−41節)
 弟子が反対者に取るべき態度(38−40節)
 この段落は弟子が反対者に取るべき態度を教えます。弟子たる者はまず、他の人、すなわち弟子のグループに属さない人たちに対してさえ寛容を示さねばなりません。イエスは「私たちに従わないのでやめさせようとしました」(38節)というヨハネの言い分に他人を支配しようとする傾向がひそんでいることを鋭く指摘し、イエスの恵みを弟子たちだけの独占物にすることを許しません。弟子たちは自分たちこそイエスに忠実に従う弟子だと自負し、イエスと自分たちの間にはみじんも隙間(すきま)がないと考えています。ですから、イエスの「名」を独占できると思い、彼らに従わない者がイエスの「名」を使用することは許されないと考えています。
 実際、使徒言行録19章13節以下の記事によりますと、ユダヤ人の祈祷師(きとうし)で各地を巡り歩いていた者たちが、「主イエスの名を唱えて」、パウロが宣べ伝えている「イエスによって」悪霊を追い出していた、ということを伝えています。イエスはこのような事を行っている人たちでも「私たちに反対しない者(直訳)」と呼ぶどころか、「私たちの味方(直訳 私たちのためにある者)」と定義します(40節)。

 弟子として受け入れられる理由(41節)
 ここでは、弟子として受け入れられる者の姿を語ることによって、逆に、キリストの弟子であることの根拠が述べられています。
 イエスの「名」は弟子の管理下に置かれているのではなく、むしろ弟子がイエスの「名」のもとにあります。弟子が水を飲ませてもらうとすれば、それはその弟子の能力ではありません。「キリストの弟子だという理由で」(直訳「キリストの弟子であるという名において」)です。弟子が弟子であるのは、個人的な魅力や能力ではなく、キリストに属するという「名において」なのです。

 第二段落 テーマ「つまずき」(42−48節)
 弟子が互いに取るべき態度(42節)
 弱い立場の信徒、イエスに新しく従うようになった信徒を信仰から脱落させないように厳しく警告されています。しかし、「私を信じる」は後からの付加と考える聖書学者もいます。その場合、小さな者たちが本来誰を指したかは明らかではありません。
 ある解説書では、キリスト者すべてが「小さな者」であるから、ある特定の人への警告ではなく、キリスト者全員に語られている、という立場を採用しています。たとえ意見に違いがあっても、互いに兄弟姉妹として認め、相手をつまずかせるなという教えとなります。

 弟子が自分に対して取るべき態度(43−48節)
 「つまずく」は「わな」を意味する言葉からの派生語ですが、ここでは「イエスとのつながりを妨害するわなを張ること、つまり邪魔をする」ことを表します。イエスを信じる他人の邪魔をして、イエスとの関わりを妨害するのは許されず(42節)、また自分に属する手や足や目が自分とイエスとの関わりの邪魔となるなら、それを切り離すべきです(43−47節)。
 ここでの「手」や「足」や「目」は、人間を様々に誘惑するものを象徴的に表しています。ですから、これらを切り離せ、という指示は文字通りに取る必要はなく、イエスとの関係の邪魔となる誘惑物を断ちなさいということです。

 今日の福音のまとめ
 弟子の間の仲たがいは不必要な自負心から生じます。自分こそがイエスに従っているという意識が、他人を差別する心を生み、さらに自分の立場を絶対視する特権意識を育んで行きます。
 弟子が弟子であるのは、その人の個人的な能力によるのではなく、キリストのものである「名」によってです。弟子たちはイエスを思う心から、イエスの「名」の無断使用を取り締まろうと考えました。しかし、「名」は「霊」と同様、人にとっていただくものであって、勝手に管理できるものではありません。できると思うのは傲慢であり、その傲慢が第二朗読(ヤコブの手紙5章1−6節)で批判するような自己中心的な行動を引き起こします。
 そのことをわきまえ、自分の中にあってイエスとの関わりを邪魔する「つまずき」を断ち、キリストに従う者は、神の国(47節)に入って命(43節)を得ることができるのです。
2021年9月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●太字の小見出しで字がやや小さくなっている部分(いずれも「弟子」で始まる4ヵ所)は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝のまま太字になっている部分であり、フォントがゴシックかつ太字になっている見出しよりも一段下の扱いですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、字をやや小さくすることで代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「すべての人の後になり、すべての人に仕えなさい」年間第25主日B年 2021年9月19日

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すべての人の後になり、
すべての人に仕えなさい―
年間第25主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音9章30−37節

 二回目の受難予告(30−32節)
 イエスはマルコ8章31節で一回目の受難予告を行っています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。
 今日の福音では二回目の受難予告が行われますが、群衆のいるところで行われた一回目と違って、この二回目は弟子たちだけのところで受難予告を行っています。弟子たちだけに限定したのは、イエスの受難が弟子の在り方を決定づける根本要因となるからです。
 しかし、一回目と同様に、受難が神の意志に基づくことが強調されています。ただし表現の仕方が異なっています。一回目のときは「人の子は必ず……長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され……」と述べていますが、ここで傍線をつけた「必ず……殺される」を直訳すれば、「殺されねばならない」となります。これは神の計画に基づく必然性を表す言い回しです。
 一方、二回目の予告では「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される……」(31節)と表現されますが、ここでの受動表現「引き渡される、殺される」は神が動作の主体であることを婉曲的(えんきょくてき)に表す言い回しです。〔語句の意味〕婉曲的に言う……遠まわしに言うこと。つまり、「神が引き渡す」という代わりに、神の名を口にするのを避けるために、「引き渡される」と表現する言い方です(神的受動形)。
 ですから、一回目と二回目とでは表現方法は違っていますが、どちらの場合でも、イエスの受難が神の意志の現れとして表現されていることになります。
 しかし、弟子たちはイエスの言葉が理解できませんでした。理解できなかっただけではなく、無理解があからさまになるのが怖くて、尋ねることもできませんでした(32節)。

 弟子たちの無理解(33−34節)
 カファルナウムに着いて、家に入ると、イエスは弟子たちが「途中で」議論していたことは何だったのか問いただします(33節)。しかし、彼らは黙っています。なぜなら、「途中で」議論していたことは、誰が一番偉いかということだったからです(34節)。
 二度も繰り返されている「途中で」を直訳すると、「その道において」となります。もちろん、カファルナウムへの道を表しますが、イエスが歩く「その道」、つまり神の意志としての十字架の道を意味しています。
 イエスが受難を予告した「道」で、弟子たちはイエスの言葉を理解できなかったばかりか、一番偉いのは誰かと論じ合っていました。先週の福音で述べられたように、この道を歩く「イエスの後に従う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負う」(8章34節)べきなのに、現実の弟子たちは自分を捨てることができずに、誰が偉いかを論じ合っていたのです。

 弟子のあるべき姿(35−37節)
 イエスは座って、12人を呼んで、弟子の取るべき態度を「仕える」(35節)と「受け入れる」(37節)とを用いて教えます。
 「仕える」は「食卓で給仕する」を意味する言葉ですが、他人に対するあらゆる奉仕を指すために使われるようになり、特にキリスト者の根本姿勢を表す言葉となりました。しかも、十字架は「仕えるために来た」イエスの奉仕の頂点であり、キリスト者の「仕える」はこの十字架から意味を得ることになります。「仕える」キリスト者は「最も地位の低い者」となりますが、しかしそれが「最初の者」になる道なのです。なぜなら、イエスがその道を歩んだからです。
 続いて、イエスは子どもを彼らの間に立たせて抱き、このような子どもを「受け入れる」者がイエスに受け入れられ、イエスを受け入れる者は神に受け入れられると述べます。ここでの「子ども」とは弱い立場にあって軽視されている仲間のキリスト者です。「私の名のために」(37節)は、41節の「キリストの弟子だという理由で」と同義であると考えられています。すなわち、「このような子どもの一人」(37節)は「私を信じるこれらの小さな者の一人」(42節)を指します。「抱き上げて」(エナンカリサメノス 36節)は「抱きかかえる」と訳すことができます。小さい者をこのように受け入れることが十字架の道を歩むイエスの後に従う者の態度なのです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは、弟子のあるべき姿として「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と言います(35節)。この言葉はマタイ23章11節にも見出されます。ここで、マルコがその言葉を特にイエスの受難予告(30−32節)と結びつけていることに注意しなければなりません。イエスは十字架への道を歩んでいますが、その間、弟子たちは誰が一番偉いかと地位を争っています。この対照によって、マルコは弟子の無理解を読者に印象づけます。
 弟子たちは先を争うのではなく、「すべての人に仕える者」となり、子どもによって象徴されているような、弱い立場にあって軽蔑されている仲間(「私を信じるこれらの小さな者」42節)を受け入れなければならない(37節)。それが十字架の道を歩むイエスに従う者の態度です。しかし、人間はイエスに選ばれた12人の弟子ですら、偉くなろうと欲するがゆえに、この教えに対して無理解であって、理解するためには神の恵みの業を必要とします。そしてこの神の恵みの業のみが、真にイエスの後に従うことを可能とするのです。
2021年9月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」年間第24主日B年 2021年9月12日

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私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい―年間第24主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音8章27−35節

 第一段落 イエスは誰→キリスト(27−30節)
 イエスはここで初めて弟子たちに「私を何者だと言うのか」という重大な質問をします。ペトロは弟子を代表して(教会を代表して)「あなたはキリスト(メシア=油注がれた者)です」と答えます(29節)。
 その当時の状況において、キリスト(メシア=油注がれた者)とは何を意味していたのでしょうか。イスラエルの過去の歴史では、すべての王は神ご自身によって選ばれ、聖別された「油注がれた者」でした。しかし、イエスの時代にイスラエルに王はなく、過去六世紀の間ほとんど、他国の支配者によって統治されていました。その期間、ユダヤ人たちは、未来の「油注がれた者」についての神の約束、特にダビデの子孫がイスラエルの王座を永遠に治めるであろうというナタンの預言に固執していました(サムエル記下7章12−14節)。
 イエスの時代まで、この「油注がれた者」について、多様性のある説が流布(るふ)していました。ある者たちは、その人物がダビデの家系からの戦士のごとき王で、ローマ人を駆逐(くちく)し、イスラエルに独立を回復させるだろうという説を支持していました。他の者たちは、アロンの系統の祭司的メシアを思い描いていました。さらにまた他の人々は、平和と繁栄の新時代の到来を告げる超人的な人物を予想していました。
 ペトロはキリスト(メシア=油注がれた者)の意味をまだ不完全にしか理解していません。ペトロに対するイエスの応答は「誰にも話さないように」(30節)という厳格な禁止命令です。イエスの使命は、イスラエルの敵を屈服させるために、政治力あるいは軍事力を用いることとは無関係でした。彼の使命は、十字架を通して罪の力を倒すことなのです。

 第二段落 キリストは誰→死んで復活する者(31−33節)
 イエスは弟子の理解不足を教えるために「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たち(長老、祭司長、律法学者たちは最高法院と呼ばれるユダヤ人の宗教的・政治的最高権威機関を構成する三つのグループ)から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」ことをはっきりと語り始めます(31−32節)。
 しかし、イエスが歩むメシア像をまだ理解できないでいるペトロは彼をわきへ連れて行き、叱り始めます(直訳 32節)。キリスト(メシア)という人物は、イスラエルを解放し、ダビデの王国を再建すると広く期待されており、必ず勝利を収めることになっていました。当時のユダヤ人にとって、「キリスト(メシア)」が「苦しみ」あるいは「死」と結ばれているとは、到底考えられないことでした。
 だが、イエスもペトロを叱ります(33節)。ペトロがイエスを「叱り」、イエスもペトロを「叱った」のは、両者のメシア観がまったく異なっているからです。キリスト(メシア)を地上の勝利者と思い込んでいるペトロは、イエスの前に立ちはだかって、十字架への道を阻止しようとします。しかし、そのようなペトロは神のことではなく、人間のことを考える「サタン」です。むしろ、ペトロはイエスの後ろに引き下がり、十字架の道を彼に従うべきです。それでイエスは「サタン、引き下がれ」と命じます(33節)。

 第三段落 キリスト者は誰→イエスに従う者(34−35節)
 イエスは、すべての人たちを弟子になるように招いているので、群衆を弟子と共に呼び寄せ、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います(34節)。この文章の最初と最後に「従う」が出てきます。イエスに従うこと、これがキリスト者であることを表す鍵となる表現です。ですから、この文章の主旨は、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負わなければならない。それが、私に従うということなのだ」ということです。
 「捨てる」(直訳「否定する」)ということは、完全に関係を否定することを意味する法律用語です。「否定する」とは、マルコ14章71−72節では「私はこの人を知らない」と言うことであるから、「自分を捨てる(=自己を否定する)」とは自分自身からの自由、及びそれが地上の財産であれ、天の報いに対する要求であれ、あらゆる安全保障からの自由にほかならず、この自由において、人はもはや自分の「自己」を認めない、ということです。この自由は、自己をまったく神に委ねきった人にのみ可能です。
 「自分の十字架を背負う」は、十字架にかけられて死にゆく人をイメージします。それは一世紀のマルコ共同体のキリスト者にとって、「イエスに従う」ということの具体的な姿であり、具体的な意味合いを持っていました。イエスはここで何もこうした道だけを歩むようにと弟子たちを招いているのではなく、常に自分に従うようにと招いているのです。
 イエスに従うことによって、価値の逆転が起きます。自分(自己)を主張することは損失になり、自分(自己)を捨てること(=自己をまったく神に委ねること)は命を獲得します(35節)。ここで語られているのは、イエスの後に従う生き方であり、イエスがその人の生き方の中心となっていることのみ、可能となるのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音が第一段落や第二段落で終わらず、第三段落をも含んでいるのは興味深いことです。イエスが誰であり、何をしたかを問うこと、それに続いてキリスト者であることとは何を求められているのか、それを問われています。イエスを問うことは自分の生き方を問うことでもあるのです。
2021年9月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「エッファタ(開け)」年間第23主日B年 2021年9月5日

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エッファタ(開け)―年間第23主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音7章31−37節

 聖書学者は、マルコ6章30節から8章26節までの間に、二つの並行記事のあることを指摘しています。

パンを増やす奇跡
 6章30−44節 … 8章1−9節
ガリラヤ湖を渡る
 6章45−56節 … 8章10節
ファリサイ派との論争
 7章 1−23節 … 8章11−13節
パンについての討議
 7章24−30節 … 8章14−21節
イエスの奇跡物語
 7章31−37節 … 8章22−26節
  ペトロの信仰告白 8章27−30節

 7章31−37節の今日の福音の奇跡物語では、「人々」が病人を連れて来ますが(32節)、8章22節も同様です。ただ7章では「耳の聞こえない、口の利けない人」(37節)ですが、8章では「盲人」(22節)となっています。
 今日の福音はマルコ福音書だけが伝える奇跡です。8章22−26節もマルコだけが伝え、しかもこの二つの箇所には共通する表現、例えば「群衆の中から連れ出し」(7章33節)または「村の外に連れ出し」(8章23節)、身体に手を触れると同時に、「唾(つば)をつけ」(7章33節、8章23節)、「はっきりと話すことができるようにし」(7章35節)もしくは「はっきりと見えるように」(8章25節)されます。そして、このことについて秘密を守るように命じます(7章36節、8章26節)。
 今日の福音で耳が開かれる奇跡が語られ、8章22−26節で目が開かれる奇跡が語られたのは偶然ではありません。奇跡はイエスの本性(イエスは何者であるか)を悟らせる「しるし」ですが、「目があっても見ず、耳があっても聞こえない」(8章13節)ファリサイ派の人々のようであるなら、イエスを見誤ることになります。マルコはそれを語るために、耳を開く奇跡と目を開く奇跡を対(つい)の位置に置いて語ったのです。
 マルコはこの箇所で、新約聖書と旧約聖書に、各一回しか使われていない、まれな用語を使用します。イザヤ書35章6節(今日の第一朗読)で「口の利けなかった人」と訳された語は、今日の福音で「舌の回らない(モギラロス)」と訳された語と同じです。
 イザヤ書35章(今日の第一朗読)は、神の現れが荒れ野を豊かな地に変え、病人たちに健康をもたらすという比喩(ひゆ)を使いながら、その恵みを美しく歌います。
 「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳を開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ書35章4−6節)。
 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳を聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人(アラロス)を話せるようにしてくださる」(37節)。群衆のこの感嘆もイザヤ書35章4−6節とその内容が似ています。いずれにしても、マルコにすると、イエスが行われたこの奇跡は神の現れ、つまりイエスの本性(イエスは何者であるか)を示すものです。それと同時にマルコは、イエスから目を開けられ、耳も開かれ、そして「はっきり話すことができるようになり」(7章35節)、「はっきり見えるようになった人」(8章25節)だけが、ペトロが信仰告白(8章27−30節)を宣言したように、イエスを宣言し得る者になることを主張します。また、この二人が少しずつ癒されていく過程を詳しく述べて、神の恵みだけが少しずつ人間の病(やまい)を癒し、イエスをはっきりと見させ、はっきりと話させることができることをも主張しているのです。

 今日の福音のまとめ
 「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。この37節の人々の言葉は、イザヤ書35章5−6節を思い出させます。それは救いのときの到来を告げる預言でした。この言葉を伝えるマルコは、イザヤが告げた救いがここに実現している(神の国が到来している)ということを語ります。
 34節の「深く息をつき」と訳された言葉は、いろいろな意味にとれます。ローマ書8章22・23節では「うめく」と訳されています。この「うめき」は苦しみの中から救いを求めて叫ぶことを表しています。そうだとすれば、イエスはこの人の苦しみに共感し、その苦しみと一つになったところから「うめく」といってもよいのではないでしょうか。そして「エッファタ」と言います。「エッファタ」はアラマイ語(イエスが日常生活で用いたと思われる言語)であり、イエスの声が聞く人の耳に強い印象が残したのでそのまま伝えられたのでしょう。マルコにとって、イエスの言葉の持つ力を強調する意味があったと思われます。ここで、この人の耳は聞こえないはずでした。この聞こえない耳に向かって、イエスは力強く語りかけます。
 8章18節では「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と弟子たちが叱られています。イエスによって、目と耳が開かされ、弟子たちは悟っていかなくてはならないのです。そういう弟子のあるべき姿を表すものとして、マルコはこの舌の回らない人の癒しの奇跡物語を考えています。
 今日の福音では、耳が聞こえず話すこともできない一人の人間の苦しみに、イエスは心が揺さぶられます。そして、私たちはイエスの言葉を聞きます。「エッファタ」(34節)。それは聞こえない耳に向かって語りかけた言葉でした。たぶん他の人は誰も彼に語りかけないでしょう。しかし、イエスはあきらめません。この聞こえない耳に語りかけていくのです。そのイエスの希望と信頼がこの人を変えていきます。私たちが福音書を読むということは、このようなイエスに出会い、このようなイエスの声を聞き取っていくことなのです。
2021年9月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文序盤の「二つの並行記事」を列挙した部分は、原文(Wordファイル)では「6章」や「7章」の前で改行せず、表の形になっていますが、ここでは画面の幅が狭いスマートフォンでも読みやすいよう、「6章」や「7章」の前で改行しております。
原文どおりのレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

「いのちを守る聖ヨセフ No.3」:鍛冶ヶ谷教会便り2021年9月号 巻頭言

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いのちを守る聖ヨセフ No.3

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 教皇フランシスコは、2020年12月8日〜2021年12月8日を「ヨセフ年」にすると宣言されました。聖ヨセフについて、とくに「いのちを守る聖ヨセフ」の姿を私なりに下記にまとめました(7・8月号の続編)。
4.目立たずとも、自分の役割を守る人
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台(しょくだい)の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5章13−16節)。
 光は升の下に隠れていては駄目で、表(おもて)に出て光り輝きます。灯台の光のように、高い所に立って、光があるぞと人々に知らせることが大切です。一方、塩は、その姿のままであっては、塩からいだけです。それが水にとけて姿を隠し、食べ物の中に入って、はじめて、その味が真価を発揮します。塩は表(おもて)に出ていては駄目で、隠し味として力を出します。このように、キリスト者の働きには、塩と光があり、その二つがなくてはならないものです。
 マタイ福音書1−2章で、ヨセフは目立っているように見えますが、実際の中心人物は「幼子とその母マリア」です。占星術の学者たちがベツレヘムで「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」(マタイ2章11節)と書かれていて、ヨセフの名はありません。エジプトに避難し、また戻るときにも、ヨセフは神の意のままに「幼子とその母」(マタイ2章13節、14節、20節、21節)を連れて行く役を黙々と果たすだけです。あくまでも主人公は「幼子とその母」で、ヨセフは彼らに寄り添い、彼らを守るわき役でしかないのです。
 塩と光の話に戻ると、このあたりに日本のキリスト者の問題点がありそうな気がすると指摘している人がいます。どうも、いつも光でいたがり、塩であっても、隠し味として存在することが下手で、つい、表(おもて)に、ここに塩ありと出てしまうか、消えて見えないなら、とけてしみこまない方(ほう)が良いと思ってしまうところがあるのではないでしょうか。
 ヨセフは目立たずとも、自分の役割(日々、大工の仕事で聖家族の生計を立て、イエスを教育し、マリアを支える役割)を誠実に守り、果たしました。「目立たずとも、自分の役割を守る人」ヨセフは、(塩の話が意味しているような)どんなに小さな目立たない隠れた仕事や奉仕であっても、皆のために必要だと感じて社会や教会の中での自分の役割を守り、それを誠実に果たすことが大切だと教えているのではないでしょうか。

※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」年間第22主日B年 2021年8月29日

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人の中から出て来るものが、人を汚すのである ―
年間第22主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音7章1−8節・14−15節・21−23節

 ファリサイ派の問い(1−5節)
 ファリサイ派の人々と律法学者たちは「なぜ、あなたの弟子たちは昔の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエスに問います。ここで問題になっているのは衛生的かという問題ではなく、宗教上の「汚れ(けがれ)」という問題です。
 ファリサイ派は、福音書ではイエスと対立しているので、悪者のように思われるかも知れませんが、彼らは実に真面目な人々でした。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味から来ています。彼らは律法を忠実に守ることによって、律法を知らず汚れた民(ヨハネ7章19節)から自分たちを分離したのです。しかし、彼らは決して民衆に背を向けたのではありません。律法によって民衆を指導しようとしていました。民衆の近くにいて、民衆から尊敬されていました。
 律法を忠実に守るといっても、律法(モーセ五書)は何百年も前に書かれたものですから、現実に適応させるためにはいろいろな問題があります。昔から多くの律法学者たちが、そのための解釈を続けてきました。これが「伝承」、今日の福音では「昔の人の言い伝え」(3節)といわれるものです。伝承もモーセ五書と同等に大切していたのがファリサイ派の伝統でした。いわば法律と判例のようなもので、裁判による法律の解釈は判例として、それ以降の法解釈に影響を与えていきます。そんな風に、文字に表されたモーセ五書のほかに伝統的に細かに規定されていった律法解釈も、併せて神の掟(8節)として厳しく守ろうとしました。
 しかし、イエスが見たのは、こういうファリサイ派の考えが、民衆を絶望的な状態に追いやっているということでした。多くの人々は律法やその解釈である伝承を知りませんでした。結局のところ、ファリサイ派のように律法を忠実に守るということは、一般の民衆には不可能なことでした。そして、ファリサイ派が熱心であるほど、他の人々は罪人だということになってしまっていたのです。

 昔の人の言い伝え(6−8節)
 ファリサイ派の批判(5節)に対して、イエスはイザヤ書29章13節(ギリシア語訳)を引用して答えます。イエスが直接聖書を使って答えるのは、マルコではこれが最初です。ファリサイ派の人が「昔の人の言い伝え」(5節)を基準にして批判するのに対して、イエスは「神の心」(6節)を基準にして考えていることを彼らに告知します。8節では「あなたたちは神の掟を捨てて、『人間の言い伝え』を固く守っている」と言います。一体何のための掟なのか。あなたたちは、人間の言い伝えに固執して、神の心を忘れてしまっている。だから、偽善者と言われています。

 汚れについて(14−15節・21−23節)
 14−15節では群衆に、21−23節では弟子たちに、汚れが本当にどこから生じるかを教えます。汚れは洗わぬ手から生じるのではなく、人の心から生じます。自分の内側の汚れに目をつぶり「汚れた手」で食事することを問題視する人々とは違って、イエスは内面の清さを求めます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音に続く24−30節ではティルス地方で行われた奇跡を述べ、さらに31−37節ではデカポリス側のガリラヤ湖畔での奇跡を述べます。ティルスもデカポリスも異邦人の地です。マルコが福音書を編集した頃、異邦人の処遇をめぐって初代教会内部に少なからぬ争いがありました。それを考えると、今日の福音の背景には異邦人問題があるかも知れません。マルコはイエスの言葉を思い起こしながら、異邦人であることが直ちに汚れとはならないと主張したいのです。
 「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」(14節)。今、イエスが権威をもって、ユダヤ教の人間の言い伝えにとって代わる、新しいキリスト者の掟を与えます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」(15節)。
 これが今日の福音の結論です。外から入ってくるもので人を汚すものは何もないと言ったら、何を食べてもいいということになります。ユダヤ教では、いろいろな動物を汚れたものとして食用に供することを禁じていました(レビ記11章)。イエスはそのような制限を廃止し、人の心から外に出るものこそ人を汚すものであることを指摘し、内的清さを求めます。この食物の制限の撤廃は、キリスト教に回心したユダヤ人と異教から改宗したキリスト者が同一の食卓につく障害を取り除き(使徒言行録10章1節−11章18節、ガラテヤ書2章12節)、異邦人のキリスト者にも、主の食卓につくことを可能にしたのです(マルコ7章27−28節、8章1節以下)。
 ファリサイ派と律法学者は「汚れ」を問題にしますが、2・5節の「汚れた手」は、直訳すると「世俗の手」となります。この「世俗」と直訳された語(コイノス)は「共有の・共同の」を意味しますが、そこから「普段の・世俗の」という意味になり、神聖さを欠いた汚れた状態を表す言葉となりました。聖と汚れは、元来神と人間の関係ですが、ファリサイ派はそれを日常生活の全領域に広げ、俗から遠ざかることによって清さを保とうとします。
 コイノスはファリサイ派にとって「汚れた」という意味になりますが、キリスト者にはコイノスと同じ語源を持つ名詞コイノーニアー(交わり)へとつながる言葉となります。キリストの霊との交わりが共通の基盤となって、キリスト者同士の交わりを可能とするのです。
2021年8月29日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「父からお許しがなければ……」年間第21主日B年 2021年8月22日

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父からお許しがなければ…… ― 年間第21主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音6章60−69節

 イエスにつまずく弟子(60節)
 今日の福音は、イエスの弟子の中にも、イエスの話を「実にひどい」と考える者が多くいたことから始まります。「ひどい」とは理解し難い内容だ、というのではなく、「聞くにたえない不合理な事柄」だという意味です。マタイ25章24節では「種を蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる」人を「ひどい人(直訳)」と表現しています。
 弟子といっても、イエスのごく近くにいてイエスに従う人たちもいれば、イエスを信じてはいても完全にはコミットしてはいない人たちもいたようです。ここでの「弟子」は後者のグループかも知れません。
 いずれにしても、ヨハネはイエスの出来事を過去の歴史としてではなく、ヨハネ福音書が編集された1世紀末のヨハネ共同体(ヨハネ福音書の読者)の状況とダブらせて描いています。この共同体は信仰を脅かす諸問題にぶつかり内部対立を起こしており、やがて分裂へと向かったことは汽茱魯佑亮蟷2章19節から明らかです。イエスを離れ去るこの弟子たちは、1世紀末のヨハネ共同体の危機を反映していると言えます。

 イエスの言葉(61−65節)
 イエスは弟子たちに「つまずくのか」と問い、「人の子がもといた所に上るのを見るならば……」と語ります(61−62節)。この文章は条件文だけで、帰結文が省略されています。どのような帰結文をイエスは心に抱いていたのか、二つの可能性を考えることができます。
  屬弔泙困は大きくなるだろう」。
 ◆屬弔泙困は解消するだろう」。
 イエスが帰結文を述べなかったのは、どちらもありえるからです。人の子(=イエス)がもといた所に「上る」のを見ることによって、つまずきが解消することもあれば、つまずきが拡大することもあります。なぜなら、十字架に「上る」ことは父のもとに「上る」ことだ、と見ることができなければ、つまずきは一層ひどくなるからです。
 この二つの道の分岐点となるのは「霊」と「肉」です(63節)。「肉」は(神の)霊との対比で使われる肉であって、「神との関わりを欠き、人間にすぎない自分の思いに固執する人間」のことを指します。人間が「肉」の状態に留まるなら、人の子(イエス)がもといた所に上るのを見ても、「何の役にも立たない」ことになります。イエスの言葉につまずかずに、それを受け入れることができるとすれば、それは(神の)霊に身を開いているときです。
 神の許しがあり、それを受け入れる心がなければ、人はイエスのもとに行くことができません。それほどに「肉」は重いのです。ですから、イエスと共にいた弟子たちの中でさえも信じない者が現れてしまいます。

 弟子の離反(66節)
 61−65節のイエスの説得にもかかわらず、多くの弟子が背を向けて離れ去ります。「歩む」は「生きる」と同じ意味のことであり、「イエスと共に歩む」とは弟子としてイエスに従う生き方を表します。イエスが霊によって生かされる世界を説いているそのときに、多くの弟子が「肉」という在り方に引き返してしまいます。迫害があったのではありません。「肉」にとどまり、自分の知識に閉じこもったので、イエスの言葉を聞き取れなくなったのです。人の子(イエス)を信じる者は心の目で見ることができますが、信じない者はいっそう心の目が見えなくなります。

 12人の弟子との問答(67−69節)
 残った12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけます(67節)。この疑問文は否定の答え、つまり「いいえ、離れません」を期待する形を取っています。イエスは12人を試しているのではなく、信仰を固くするように招いています。
 ペトロは弟子を代表して「誰のところへ行きましょう」と述べ、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っている」と告白します(68−69節)。こうして人間は、「肉」に留まりイエスが見えなくなる人たちと、「霊」に身を開いてイエスに従う人たちとに二分されて行きます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、イエスの言葉が多くの弟子たちの不信仰、つまずき、離反のもとになります。イエスは彼らを説得するために「人の子がもといた所に上ること」(十字架を通して天に上げられること)を述べます(62節)。なぜなら、イエスが天に上げられたとき、イエスは聖霊を与えるからです。彼らの物質的な要求は「肉」の次元のパンを求めてのことです。肉は霊に反するものです。しかし、イエスの言葉(「霊」の次元のパン)は、彼に代わって命(霊と命は、実際には二詞一意です)を与える聖霊を授けます(63節)。
 ヨハネ6章には、「信じる」ことに関して神秘的な事実が啓示されています。「父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る(=信じる)」(37節)。「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」(44節)。「父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る」(45節)。父からお許しがなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(65節)。
 総合すると、イエスは、御父からの力添えがなければ、誰もイエスを信じることができないと言います。人間の救いに関わる、御父と御子そして聖霊の「相互協力」の神秘です。
2021年8月22日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」聖母の被昇天B年 2021年8月15日

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主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう―聖母の被昇天B年―

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音1章39−56節

 山里に向かうマリア(39節)
 「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(ルカ1章36−37節)。マリアは単純に親類を訪問したのではありません。なぜなら、天使が神の計画としてエリサベトの妊娠を告げたからです。つまり、マリアが急いで山里に向かった(39節)のは、マリアが神の計画に従順に応えたという意味になります。

 マリアとエリサベトの出会い(40−44節)
 マリアとエリサベトの出会いの場面は、成人してからのイエスと洗礼者ヨハネの関係を反映しています。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは、聖霊に満たされて、声高らかに言った。『……私の主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました』」(40−44節)。
 洗礼者ヨハネはイエスの先駆者として、イエスを人々に主メシア、神の子として紹介する使命を持っています。さらに、人々がイエスを主(しゅ)であると信じるのは聖霊によってです(使徒言行録参照)。即ち、エリサベトは、洗礼者ヨハネが成人となりイエスに紹介する人々の先取りとなります。なぜなら、エリサベトがマリアの胎の子が主イエスであることを知ったのは、胎内のヨハネがおどって紹介したからです(41節・44節)。そして、エリサベトが主イエスと信じ、マリアを「私の主のお母さま」(43節)と祝福するのは、聖霊に満たされたからです(41節)。

 神の言葉を聞いて行う人(45節)
 聖母の被昇天の前晩のミサには、一人の女性がイエスに叫んだ賛辞とそれに対するイエスの返答が朗読されます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房(ちぶさ)は』。しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」(ルカ11章27−28節)。
 群衆の中から叫んだ女性と同じように、エリサベトは、マリアがイエスの血縁の母となることを祝福します。「あなたは女の中で祝福された方です」(42節)。
 しかし、イエスは群衆の中の女性の言うことを修正します。同じように、エリサベトは、イエスの血縁の母であることを祝福したあとで、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)と言います。つまり、神の言葉を聞き、それを実行することがこの上なく大切だとして、イエスがマリアを誉めたたえた言葉「私の母とは神の言葉を聞いて行う人である」(ルカ8章21節)を先取りするのです。

 マリアの賛歌(46−56節)
 マリアは「マリアの賛歌」(マグニフィカト)を歌います。この歌は、イエスが語る「幸いと不幸」(ルカ6章20−26節)を先取りしています。 
 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、……あなたがたは幸いである。……天には大きな報いがある。……。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人々にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
 「マリアの賛歌」は、歴史的には、イエスが「幸いと不幸」を告げ知らせた後に作られました。「マリアの賛歌」の中心部分「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51−53節)は、「幸いと不幸」の対比を使った表現を取り入れて作られたものです。

 今日の福音のまとめ
 「お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。お告げの場面でマリアは、イエスがダビデの王座を継ぐメシアであり(32節)、神の子である(35節)という福音を聞いて、それを受け入れ、イエスの最初の弟子となります。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。エリサベト訪問(39−45節)の場面でマリアはこの福音を他の人々と分かち合います。「神は力をあらわして、低い者を高く上げ、飢える者を満腹させる」。マリアの賛歌(46−56節)の中でマリアが解釈した福音を聞きます。
 最初のイエスの弟子となったマリアは、弟子であることの模範を私たちに示します。神の言葉を聞き、それを受け入れたならば、それを他の人と分かち合う必要があります。しかし、単に聞いた言葉を繰り返すだけではなく、解釈してそれを福音(よい知らせ)だと他の人が理解できるようにしなければならないのです。
2021年8月15日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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ミサ説教「天から降って来た生きたパン」年間第19主日B年 2021年8月8日

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天から降って来た生きたパン―年間第19主日B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音6章41−51節

 ユダヤ人のつぶやき(41−42節)
 今日の福音は、「天から降って来たパン」についてのユダヤ人たちの反応から始まります。ヨハネ福音書での「ユダヤ人」は、イエスに敵意を持つエルサレムの人々を指しますが、ここでは40節以前で「群衆」と呼ばれており、しかもイエスの父母を知っているガリラヤの人々のことです。ガリラヤの群衆がつぶやき始めたとき、イエスに敵意を持つ「ユダヤ人」へと変身したのです。
 彼らは砂漠の先祖と同様に(出エジプト記15章24節、16章2節・7節・12節、17章3節の「不平を述べる」)つぶやきます。しかし、ヨハネ福音書の場合は「イエスについて」つぶやくのですから、事態はもっと深刻です(ヨハネ6章41節・43節・61節)。つぶやきは常に不信仰のしるしとみなされています。
 彼らがつぶやくのは、イエスが「天から降って来た」と述べたからです。彼の両親を「我々」は知っているし、「これは……イエスではないか」と考える彼らには、イエスがなぜ「天から降って来た」と口にするのか、理解できません。これに対してイエスは、真の意味での「天」が何であるのかを説明します。

 私のもとに来る(43−46節)
 そこでイエスは、まず「つぶやき合うのはやめなさい」と語りかけ、「私をお遣わしになった父が引き寄せる」「私のもとに来る」(2度)ことの大事さを説きます。「引き寄せる」は、本来、舟とか車のような重い物を力いっぱい引っ張るときに使われる用語で、ヨハネ21章6節・11節では、湖に打ってたくさんの魚を取り込んだ網を引き寄せる場面で使われ、さらにヨハネ12章32節では、イエス自身が「地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という預言の中に用いられています。
 44節と45節の「私のもとに来る」の間には未来形の動詞(「私が復活させるだろう」と「神に教えられるだろう」)がはさまれています。父が引き寄せることによって「私のもとに来る」ことになった人は、将来、イエスによって復活にあずかることになり、神によって「教えられる」ことになります。このような豊かな未来が開かれるためには、今、「私のもとに来る」ということが不可欠なのです。
 結局「天」とは、父と子との親しい関係を示す用語で、私たち自身も「神によって教えられ」(イザヤ書54章13節)、「父から聞いて学ぶ」ことによってこの親しい交わりに入ります。しかし、イエス自身は、「父から聞いて学んだ者」ではなく、「神のもとから来た、父を見た方(かた)」であり、私たちのために「父がお遣わしになった方」です。
 従ってイエスは、真実に「天から降って来た方」であり、「天から降って来たパン」として、永遠の命を与える方です。私たちは、父から聞き、学び、そして引き寄せられて子(=イエス)を信じ、子のもとへ行き、子から命を受けるのです。信じる者は、永遠の命を現在すでに持っています(47節の動詞は現在形です)。

 生きたパン(47−51節)
 「モーセが天からのパンを与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる」(ヨハネ6章32節)。
 「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6章35節)。
 「私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(51節)。
 35節と48節で繰り返された「私が命のパンである」は、51節では「私は天から降って来た生きたパンである」と変えられ、イエスと命とがさらに緊密に結び付けられています。35節の「私のもとに来る者、私を信じる者」は、51節ではもっと具体的に「このパンを食べる者」と言い換えられ、「飢え渇くことがない」は「永遠に生きる」と換えられます。しかしながら32節の「父が与えるパン」は、51節では「私が与えるパン」と言い直されます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は「パン」の意味を明らかにします。ユダヤ人たちが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたとき、「神がお遣わしになった者(=イエス)を信じること、それが神の業である」とイエスは答えます(ヨハネ6章28−29節)。また、イエスは「私が命のパンである。私のもとに来る者(信じる者の意味)は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言い(ヨハネ6章35節)、「……私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章57節)とも言います。
 以上のことを総合すると、パンは「イエス自身」を指し、「このパンを食べる」とは、「イエスを信じる」ということになります。シモン・ペトロは「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(ヨハネ6章68−69節)と信仰告白をします。何を信じるのか、それは「永遠の命の言葉」です。つまり、「イエスを信じる」ことは、「イエスの言葉」を信じることであって、パンはイエスが語る(神の)言葉です。
 しかし、もう一つの解釈があります。イエスは人に命を与える神の言葉(パン)ですが、彼が命を与えられるのは彼の生きている肉(生きたパン)をこの世に差し出して死んだからです。教会はそのパンを「聖体」と呼んで、イエスの「真の体」であると告白します。
2021年8月8日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教


ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・日曜 8:3010:30
  (2021年4月から
   10:00⇒10:30に変更)
  第2日曜10:30は手話付き
 ・土曜 18:00

カトリック鍛冶ケ谷教会
(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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