主任司祭メッセージ

ミサ説教プリント「イエスはサタンから誘惑を受けられた。天使たちがイエスに仕えていた」四旬節第1主日B年 2024年2月18日

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イエスはサタンから
誘惑を受けられた。
天使たちが
イエスに仕えていた
〜 四旬節第1主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章12−15節


 今日は四旬節第1主日です。四旬節は当初、復活徹夜祭で受洗する人たちの準備期間として設けられました。今日の福音は、受洗者がこれから試練や誘惑に会うことが予想されるので、試練を乗り越えるよう励ますために、誘惑に打ち勝ったイエスの姿が示されています。四旬節はその後、既に洗礼を受けた人たちも、復活祭への準備期間として「悔い改め(回心)」が求められるようになりました。

 サタンの誘惑(12−13節)
 12節で、霊がイエスを荒れ野に「送り出し」ます。この「送り出す」の原語は「追い出す」という動詞(エクバッロー)ですが、イエスが悪霊を「追い出す」ときにも使われる言葉で、「力ずくで追い出す」といった強い意味を含んでいます。ここでもその意味を持っているなら、イエスは聖霊に強く促され、追い立てられるように荒れ野に向かったことになります。「荒れ野」は、聖書では、神と出会う場所とされ、そこからサタンを追放しようとする神の決意の堅さを表すために、イエスを荒れ野に「力ずくで追い出す」といった強い表現を使っています。いずれにせよ、イエスを荒れ野に「追い出す」力は神からきます。
 イエスを守ろうとする「天使」と、イエスを滅ぼそうとする「サタン」の戦いの激しさを12−13節の構成が如実に示しています。イエスはここで誘惑を受けます。イエスは誘惑を受けることによって、神との関わりを確認し、その使命を自覚します。それはサタンに打ち勝ち、神の国の到来を示すことです。「野獣と一緒におられた」というのは、預言者たちによって描写されている楽園時代の再現と考えられています(創世記1章26節以下、2章19−20節、イザヤ書11章6−9節)。

 イエスの宣教の開始
  (14−15節)

 14節での洗礼者ヨハネの逮捕は、準備の時が終わり、新しい時代が開かれたという、時代の転換を示す出来事でした。そこでイエスはガリラヤに行き、神の国の到来を告げ知らせます。
 「時は満ち、神の国は近づいた」。
 洗礼者ヨハネの逮捕が示すように、新しい時代が来ており、神の国はすでに始まったといえるほどに接近しています。この新しい時代にふさわしい生き方は、
 「悔い改めて福音を信じなさい」。
ということなのです。

 今日の福音のまとめ
 12節で、聖霊がイエスを力ずくで荒れ野に追い出します。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(ヤコブの手紙1章13節)と語られている神が、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)と神の声を聞いたばかりの者を、どうしてそのように扱うのでしょうか。ヤコブの手紙1章13節の「誘惑」は「罪の誘惑」という意味ですが、マルコ1章13節の「誘惑」は「試みる(試練)」という意味です。ヘブライ人への手紙12章6節では「主は愛する者を鍛える」と述べられています。「試練」と理解すると、誘惑は神の試練の一部となります。
 サタンが人を試みるのは、無能さをあばき罪へと誘うためですが、神がそれを許すのは、人が神との関わりを確認し、その使命を自覚し、神への信仰を告白する機会となるからです。神が人に試練の時をあたえるのは、神がその人の能力を知るためではなく、人が信仰を証しすること(福音宣教)ができるようにするためなのです。
 荒れ野はサタンが「試みる」場でありますが、同時に天使が「仕える(守る)」場でもあります。荒れ野は試みる者と仕える(守る)者とが共存する場です。現代の「荒れ野」も同じです。サタンが働くと同時に、私たちに仕える(守る)者も活動しています。私たちに仕える(守る)のは天使だけではありません。イエスも私たちに仕えて(守って)います。今日の福音は、現代の「荒れ野」に生きる私たちにとって警告「サタンが誘惑する」と約束「イエスと天使たちが仕える(守る)」とを含んでいるのです。
 現代の「荒れ野」とはどこにありますか? 私たちが神と出会う場所、それは人間が住む日常生活です。
 そして今日、私たちは四旬節を迎えています。四旬節で、私たちが求められていることは、「悔い改めて福音を信じなさい」ということです。「悔い改め」はギリシア語「メタノイア」の訳です。この言葉は「心を変える」という意味で、道徳的な意味(反省する)ではありません。旧約聖書では同じことを「主に立ち帰る」と表現しますが、「(心の)目を転じて神の方を向き直る」という意味です。そこで「メタノイア」の訳としては「改心」ではなく、「回心」と書きます。
 現代の「荒れ野」―私たちの日常生活で今日もサタンが誘惑します。誘惑と戦い、打ち勝つよう回心―(心の)目を転じて神の方に向き直しましょう。現代の「荒れ野」では、サタンが誘惑するだけでなく、イエスが仕えています(守っています)。サタンの誘惑と戦うことは同時に、私たちがイエスと出会うということとつながっています。誘惑は試練の時です。イエスがサタンの誘惑を打ち勝った後、福音宣教を開始したように、私たちも試練を乗り越えた時、信仰を証しする(福音宣教をする)こととなるのです。
2024年2月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「重い皮膚病は去り、その人は清くなった」年間第6主日B年 2024年2月11日

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重い皮膚病は去り、
その人は清くなった
〜 年間第6主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章40−45節


 今日の福音で、「重い皮膚病」と言われているのは、今日私たちが言う「ハンセン病(らい病)」であったか、他の治療が困難な皮膚病であったか明らかではありません。いずれにせよ、このような病気にかかった者は汚れた者と宣言され、イスラエルの民から隔離されました。そして、病人は他人が近づいたならば触れないよう(触れると病気がうつるので)、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼んで警告しなければいけなかったのです(レビ記13章参照)。40節の「清くする」は「癒す(いやす)」を意味しています。

 癒しの奇跡(40−42節)
 41節の「深く憐れんで」は、本来「はらわた」を示す「スプランクナ」という名詞から派生した動詞で、「深い感情を示す」ことを意味します。マルコ福音書では、6章34節「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、8章2節「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」、9章22節「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(てんかんを病む子どもの父親の言葉)、という四箇所に使われています。西方系のある写本では、この動詞の代わりに「怒った」となっており、この読み方を採用する学者もかなりあります。イエスの怒りの対象は何でしょうか。病気を生み出し、人間を惨めな境遇に突き落とす悪霊へと向けられているのでしょう。
 イエスは、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」ます。たとえイエスが「怒った」としても、彼の憐れみは怒りを克服し、彼は重い皮膚病を患っている人を癒します。その当時は、重い皮膚病を患っている人に触れればその人も汚れる(=病気がうつる)と考えられていました。しかしイエスはあえて病人に触れます。それは、同情と勇気に満ちた行為であることを表しています。

 沈黙を厳しく求めるイエス
  (43−44節)

 「厳しく注意する」(43節)は、「鼻を鳴らす」「がみがみ言う」「怒鳴りつける」という意味です。これらの強い表現は「だれにも、話さないように気をつけなさい」(44節)という禁止命令の厳しさを際立たせています。ある学者は、この動詞を、悪魔払いの用語とみなしています。すると、次に続く「その人を立ち去らせた」とよく繋がることになります。即ち、イエスが「悪魔払いをして、悪霊を立ち去らせた」ことになるのです。
 その当時、重い皮膚病が癒されたかどうかは祭司が判断しました(レビ記14章2−4節)。そこで、イエスは律法の規定に従って「行って祭司に体を見せなさい」(44節)と命じます。さらに、重い皮膚病が癒された者は「清めのための献げ物」をささげなければなりません(レビ記14章1−32節)。イエスは律法の規定を重んじています。「人々へ証明しなさい」とは、重い皮膚病が癒されたという証しなのです。

 イエスの孤独(45節)
 マルコ福音書では、重い皮膚病を癒された人は、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始め」、イエスの力ある業の最初の宣教者となります。「告げ」と訳されている動詞ケーリュッセインは福音宣教にも用いられている言葉です。今日の福音は、重い皮膚病を癒された人がイエスと同じように福音を伝える宣教者になったのだ、そしてこれはイエスから恵みを受けたすべてのキリスト者の務めなのだ、というメッセージが織り込まれています。
 しかし、イエスが「公然と町に入ることができ」なかったのは、人々が、イエスを単なる奇跡行為者としか見ていないからです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)と言うイエスの禁止命令は、「神の国の福音を宣教する」という本来の彼の務めを正しく理解することができなくなることを避けるためでした。「人々は四方からイエスのところに集まって来」て、イエスのうわさは、ますます広まっていきます。奇跡を行えば、誤解も広がります。孤独な思いをイエスは噛み殺していたかもしれません。

 今日の福音のまとめ
  新約聖書 マルコによる福音
   幸田和夫司教
    日本放送出版協会
     53−54頁から

 「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とイエスは病人に禁止命令をします。このイエスの禁止命令というテーマは、マルコ福音書の中で繰り返されます。マルコは特にこの点を強調していると言えるかも知れません。マルコはイエスの様々な癒しの業を伝えますが、その点からイエスを理解するのは不十分だと考えているようです。マルコにとって、イエスを本当に知るのは十字架の死にいたるイエスの生涯全体を見たときなのです。
 おそらくイエス自身も、このような仕方で人々に知られることを好みませんでした。イエスの根本的な使命は38節にあったように、「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」ということでした。イエスにとって大切なのは、「神の国の到来を告げる」ことなのです。マルコ福音書では、いつもこの神の国のメッセージと癒しの出来事がつながっています。イエスの呼びかけは人々の中に確かに何かを引き起こしていきます。打ち捨てられ、あきらめと絶望の中にあった人々にイエスが近づき、触れていくことをとおして、その人たちは内面的に変えられていくのです。その人々は自分たちが神から見捨てられていないということを受け取っていくのだといってもいいでしょう。そこに希望が見えてきます。そこから人々は立ち上げる力を得ていったのです。
 イエスは病人を捜し出してできるだけ多くの人を癒そうとはしていません。イエスにとって癒しとは、たまたま出会った目の前の人の苦しみに共感するところから沸き起こってくるものだったといったらいいでしょうか。
2024年2月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒した」年間第5主日B年 2024年2月4日

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イエスは、
いろいろな病気にかかっている
大勢の人たちを癒した
〜 年間第5主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章29−39節


 今日の福音は先週(年間第4主日B年)の続きです。会堂を出たイエスがシモン・ペトロの家に行ってその姑(しゅうとめ)を、そして夕暮れになるとさらに多くの病人や悪魔つきを癒し(いやし)、ついにガリラヤの各地に宣教に出て行かれた、という内容です。第一朗読のヨブ記に記されているような、いかんともなしがたい人生の労苦を癒す救い主がついに現れたのです。

 ペトロの家での癒し
  (29−31節)

 イエスはペトロの家で、熱に苦しむ姑を癒します。癒しの奇跡は次の様式があります。
要素(1) 病者の模写。 例「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」(30節)。
要素(2) 癒しの行為、身振りとか言葉による癒しの行為。 例「イエスがそばに行き、手を取って起こされると」(31節)、
要素(3) 治療の証明。治療が起こったことを患者自身の行動や目撃者が証明する。 例「熱は去り、彼女は一同をもてなした」(31節)。
 ここでも要素(1)(2)(3)のパターンに従っていますが、要素(3)では目撃者の驚きが描かれるはずなのに、ここでは癒された者自身の「もてなし」が述べられているところに特徴があります。ペトロの姑はイエスたちを「もてなす」ことによって、癒しが実現したことを示し、癒された者の喜びと、イエスを中心とする共同体に生き始めたことを表します。「もてなす」と訳された言葉は「仕える」ことを意味し、キリスト者の基本姿勢を表す言葉です。シモンの姑はただ病気の癒しにあずかっただけでなく、イエスを中心とする共同体(教会)へと招き入れられたのです。

 ペトロの家の戸口での癒し
  (32−34節)

「病人」は直訳では「悪い状態にある者」つまり「加減の悪い者」という意味で、32節と34節で繰り返されています。32節で「病人…を、イエスのもとに連れて来た」と言いながら、34節で「病気にかかっている大勢の人たちを癒し(た)」というのは、「皆」の中から選んで「大勢の人たち」を治したという意味ではなく、治された人がとても大勢であったという、癒された人の大勢さを強調しているセム語的表現です。
 当時の人たちは、悪霊は生命力を弱めて病気を引き起こすだけでなく、神との正常な関係を妨げると考えていました。だから、病気が癒されることは単なる心身の疾患の治療だけに終わらず、神との交わりの回復(現代風に言えば教会への復帰)でもあったのです。マルコは病人と悪霊に取りつかれた者を区別しています(22節)。すべての病気が悪霊によって引き起こされるわけではないからです。

 巡回して宣教する
  (35−39節)

 弟子たちはイエスに奇跡を求める人々に応えようとして、イエスを捜しまわりますが(36−37節)、祈りをささげたイエスは、「近くのほかの町や村へ行こう」(38節)と、予想に反した答えを口にします。イエスの使命は「宣教する」ことにあり、癒しや悪霊追放はそれを示す「しるし」にすぎないからです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)、そして「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)と宣言します。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒し、また多くの悪霊を押し出しますが(34節)、神の国の到来を告げ知らせることがイエスの活動の中心であり、病人を癒し、悪霊の追い出すのは、その「しるし」です。
 今日の福音は、先週に続いて「カファルナウムの一日」と呼ばれている箇所です。この一日は会堂の中に入っていくことで始まり、次いでペトロの家と戸口を通って、町の外の寂しい所へ、そして最後にガリラヤの各地へと、次第に外の広い世界へと福音宣教の輪を広げて行きます。イエスは「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)と言われ、この輪の拡大を肯定しています。
 35節「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」の情景を語る話し手の視点は、ペトロの家と人里離れた所の中間にあります。夜がまだ明けぬ暗い町で、イエスは「起きて」、ペトロの家から話し手の方へと「出て来て」、その目の前を通り過ぎ、郊外の寂しい所へと「出て行き(ました)」。このような丁寧の描写によって、出て行った先へと読者の注意が引きつけられ、そこで「祈るイエスの姿」に焦点が合わされています。人々や弟子たちの目は奇跡の華々しさに向かいますが、読者の目は「イエスの祈る姿」に向けようとしています。
 今日の福音はイエスの祈りの内容については何も述べていません。神との深い交わりこそが祈りだからです。この交わりに支えられて働くイエスは、業(わざ)と言葉によって、宣教し、福音の輪が拡大します。
 今横浜教区では「共同宣教司牧」を推進しています。その中で「司牧中心」の教会から「宣教中心」の教会への変革が求められています。福音宣教のために何をすれば良いのでしょうか。まず、祈ることです。今日の福音の「イエスの祈る姿」はそれを私たちに教えているのです。
2024年2月4日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で太字にしている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

教会便り巻頭言「子どもを受け入れるということ」(2024年2月号)

子どもを受け入れるということ

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 律法を守りました、だから神の国に入ります。このような費用対効果のパターンが私たちの心に染み込んでいます。使った費用とその効果です。効果がなければ費用を使った意味がない。「わたしはこれだけ祈り、バザーも手伝い、なけなしの金をはたいて、教会に奉仕している。当然天国へ行く。あの人はまともに来もせず、費用も使わず、さっさと天国に入って」というパターンの発想がどれだけ多いでしょう。
 祈っても聞き入れない、何の甲斐(かい)もない。それでもまた次の日も、次の週も祈りに行く。それが神を愛しているということです。何か恵みがある、効き目がある、ご利益がある、だから行きます、という祈りの仕方は取引です。「費用対効果」を求めています。
 これだけやったのだからたくさん返ってくるはずだという「費用対効果」の発想は、競争を生み出します。例えば、わたしはこれだけ貧しい生活を送ってきたから、天国での報いはきっと大きいだろうと思う。これは貧しさを拝み始めています。貧という神を礼拝しています。わたしは薬を二種類飲んでいると言う人がいれば、あら、わたしは六種類と言う。それは薬の数を礼拝しているのです。
 みんな、物差しを当てて、どっちが上だ下だ、これだけやったからこれだけ報いがくるという発想になっていく。そして比べて競争し合い、妬み(ねたみ)とひがみが出てくる。それをわたしたちが感じ、そういう自分の現実を見るときに、「イエスは子どもを抱き上げて、手を置いて祝福された」というところを黙想すればいいのです。

 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10章13−16節)

 「子どものように」は二つの解釈があります。皆様は次のどちらが正しいと考えますか?
(1)「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」
(2)「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」
 (1)が正しいと考えた方は、「子どものように」の意味を、単純に、素直に神の国を受け入れる人が神の国を入ることができると考えています。
 (2)の「子ども受け入れるように」となると意味が違ってきます。(2)のほうの解釈が正しく、なぜなら、「(イエスは)子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(16節)からです。イエスは子どもたちを受け入れたのです。だから「子ども受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」と考えなければいけないのです。
 新約聖書に出てくる「子ども」は、律法を守る資格、身分、能力もない存在です。そのような存在を受け入れるように神の国を受け入れる人は、神の国に入ることができます。イエスは何を言いたかったのでしょう。資格や能力があるので、律法を守ったので、善行を行ったので、その見返りに、報いとして神の国に入ることができるという発想を壊したということです。
 何の力もなく、律法を守る資格のない子どもを、イエスは抱き上げて祝福されたのです。イエスは、「費用対効果」の生き方を否定して、霊(愛)による生き方を伝えています。比較、妬み、ひがみは肉の生き方から出てきます。このような「費用対効果」の考え方にわたしたちはどれほど深く浸りきっているでしょうか、それを否定して、霊による生き方(神の愛に応える生き方)に生きなさいと、聖書に書かれています。
 霊によって新たな子どもとして生まれなさい(ヨハネ3章5節)。それを神の子と言います。神は無条件、無償で神の子どもであるわたしたちを愛してくださっているのです。

参考文献
「聖書講座シリーズ8 今、キリストを証しする「子ども 西経一神父(神言修道会)著」(カトリック京都司教区聖書委員会企画・編集、サンパウロ社発行)161−178頁

※ 注(Web担当者より)
 本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「イエスは権威ある者としてお教えになった」年間第4主日B年 2024年1月28日

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イエスは
権威ある者として
お教えになった
〜 年間第4主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章21−28節


 今日の福音は「汚れた霊を追い出す」(23−26節)奇跡を、「権威ある者としてお教えになった」(21−22節)と「権威ある新しい教えだ」(27−28節)によって囲い込んでいます。「汚れた霊を追い出す」(23−26節)奇跡はイエスの「権威ある教え」の証明となっています。

 権威ある者として
  お教えになった(21−22節)

 律法学者の主要な職務は、律法の戒めを新しい状況に適用するための解釈、弟子の律法教育、法廷における判決でした。彼らは会堂における民衆の教師でもありました。これらのことを律法学者は伝承と律法の権威に基づいて行いました。
 イエスは、神の国の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章14−15節)と述べます。イエスの教えは「神の支配(神の国)」の教えです。この「神の支配(神の国)」が、イエスを通して働いているから、先週の福音では四人の漁師がイエスに従い(マルコ1章16−20節)、今日の福音では汚れた霊が会堂から追い出されます。
 「神の支配(神の国)」についての教えであるから、そこには権威が備わっています。律法学者のようにではなく、「権威ある者として」教えることができるのは、イエスが「神の支配(神の国)」の教えを宣べ伝え、神の力に基づいていたからです。

 汚れた霊を追い出す
  (23−26節)

 汚れた霊は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)と叫びます。汚れた霊はイエスの正体を暴露して、神の国の宣教を妨害しようとします。ある解説書では次のように説明しています。「古代社会において名前というものは、単なる符牒(ふちょう 符号という意味)ではなく、相手の名前を知り、相手の名前を呼ぶということは相手に対して力をふるうことになる。従って悪霊は自分たちの敵イエスを前にして、イエスに対して抵抗し、身を守るためにイエスの名を呼んで逆にイエスのほうを無力にしてやろうと試みたのである。にもかかわらずイエスの沈黙命令の呪縛のほうが力が大きく、悪霊は追い出されてしまう」。このイエスの沈黙命令は「叱った」という語で表されています。これは従うことを強要する用語です。このようにイエスの神の国の宣教は、一つの力ある出来事、権威ある新しい教えとして、すべての人に語りかけてきます。

 権威ある新しい教え
  (27−28節)

 人々は「権威ある新しい教えだ」(27節)と論じ合います。マルコはイエスの教えと「汚れた霊を追い出す」奇跡の結びつきを強調します。「(イエスは)ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(マルコ1章39節)。イエスは「権威ある者として」教え、彼の教えが「(権威ある)新しい教え」であるのは、「汚れた霊を追い出す」という行為が伴っているからです。行為を伴っているからこそ、イエスの教えは真の権威をもった、後にも先にもない「権威ある新しい教え」となるのです。

 今日の福音のまとめ
 「汚れた霊を追い出す」(23−26節)の聖書箇所は、マルコの福音書が編集される以前に出来上がっていた伝承であると推測されています。マルコはこの伝承の前に「権威ある者としてお教えになった」(21−22節)を置くことによって、イエスの行った奇跡の意味を新たに捉え直しました。「汚れた霊を追い出す」(23−26節)の聖書箇所だけを読むならば、イエスは霊能者の一人で終わってしまいます。だが、マルコは「権威ある者としてお教えになった」(21−22節)を前に置き、「権威ある新しい教え」(27−28節)を挿入することによって、この奇跡を「神の支配(神の国)」の到来を告げる出来事として述べています。「神の支配(神の国)」の到来を告げるイエスの教えの正しさは「汚れた霊を追い出す」という行為によって証明されます。
 「汚れた霊」は「悪霊」を表すユダヤ教的表現。「汚れた」という形容詞は人間を宗教的に汚れた者にし、神への祈り、神との交わりを不可能にする悪霊の働きを指します。「権威ある者」とは神によって直接任命され、直接神からのメッセージを語る神の代理者であることを意味しています。「神の聖者」(24節)はメシアの称号ではなく、イエスが超越的・神的存在であることを意味しています。今日の福音は「汚れた霊」と「神の聖者」の対照が目立っています。
 イエスは「権威ある者」・「神の聖者」として、会堂から「汚れた霊」を追い出します。24節の「かまわないでくれ」の直訳は「何が 私たちに そして あなたに」で「私たちとあなたにどんな関係があるのか」の意味で、ここではイエスを否定する抗議の叫びです。「汚れた霊」は、イエスの名前を唱えることによって、イエスを支配しようとしますが、イエスの叱りつける言葉によって、人から追い出されます。
 とにかく、ここでイエスは「神の支配(神の国)」―神が王となり、私たちを救ってくださるというメッセージを語りますが、目の前で今、この悪霊を追い出すことをとおして伝えていきます。これこそが、マルコ福音書が描こうとすることです。
 イエスは今も「権威ある者」・「神の聖者」として、私たちを清め、私たちに力を与えることができます。会堂で「汚れた霊を追い出す」場面を目撃した人々のように、その力を認めようとするかどうか、今日の福音は私たちに信仰の決断をせまっているのです。
2024年1月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「悔い改めて福音を信じなさい」年間第3主日B年 2024年1月21日

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悔い改めて福音を信じなさい
〜 年間第3主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章14−20節


 今日の第一朗読では、ヨナの宣教によってニネベの町の人が真心から回心した次第が語られています。第二朗読の「妻のある人はない人のように」とは、既婚の男性に結婚の解消を求めているのではありません。まったく新たな次元の生き方(=イエスに従う)がキリスト者の前に開かれていることに目を向けさせようとしています。泣くことも、喜ぶことも、買うことも否定されていません。今日の福音では、イエスの宣教の開始が語られ、その中心的メッセージが掲げられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。これがイエスの宣教生活の第一声です。

 「新約聖書 マルコによる福音書」(幸田 和生 著 日本放送出版協会)36−40頁から抜粋
■ イエスの活動開始
 (1)まず、「時は満ち」と言います。この表現は、神の計画ということを考えないと分かりにくいでしょう。歴史というのはただ無目的に進んでいくのでもなく、螺旋(らせん)階段のように同じことの繰り返しでもなく、その中で神が人間を最終的に救いに導いていく舞台なのだ、というのが聖書の歴史観でした。その神の計画の中で決定的に神がこの歴史の中に介入してくる時が到来したということ、それが「時が満ちた」ということばの意味です。  
 イエスの時代、神は長い間に沈黙しているように感じられていました。旧約聖書の最後の預言者からもう何百年もたっていました。神はもはや直接人間に働きかけることはない、もう預言者の口をとおして語りかけることはないのだ、と人々は感じていました。ローマ帝国がユダヤを支配していようと、その中で貧しい人が苦しんでいようと、神は何もしてくれない。もちろん、最終的にいつかは神の力と支配が現されるだろう、しかし、それはあまりに遠い。そんな雰囲気の中でイエスは「神の計画の時は満ちたのだ」と宣言します。
 (2)次に「神の国は近づいた」。この表現も現代人には分かりにくいものです。「国」は「バシレイア」の訳ですが、このことばは「王」を意味する「バシレウス」ということばから来ています。「王国」とも訳されます。バシレイアは「王が支配すること」「王となること」を意味することばです。現代人の考えでは「国」と「王」というのは必ずしも結びつきません。しかし、古代の中東の人々にとっては、自分たちの国がある、ということと、自分たちが自分たちの王を持つということは同じ意味を持っていました。「神の国」とは「神が王となること」なのです
 イスラエルがバビロニア帝国によって滅ぼされ、主(おも)だった人たちがバビロンに強制連行されていった時代(紀元前6世紀)、「神が王となる」というのは最高の救いの表現でした。ローマ帝国の支配下にあったユダヤで、イエスはまさにそのことを伝えます。
 (3)「近づいた」のニュアンスも大切です。原文は完了形で書かれていますが、これは「近づいたけれど、まだ来ていない」という意味ではなく、「近づいて、もうそこに来ている」という意味です。
 (4)そして「悔い改めよ」。「悔い改め」は「メタノイア」の訳です。このことばは「心を変える」という意味で、必ずしも道徳的な意味ではありません。旧約聖書では同じことを「主(しゅ)に立ち帰る」と表現しますが、目を転じて神のほうを向き直るというのが根本的な意味です。そこで「メタノイア」の訳としては「改心」ではなく、「回心」と書きます。イエスにとっては、神から見放されているように感じていた人々、その中で希望を失っていた人々に、もう一度神に目を上げ、神を仰ぎ見ることを呼びかけることばでした。
 (5)「福音を信じなさい」というときの「福音」はイエスがこれからの活動で語っていくさまざまな教えのことを指すのではなく、ここでいう「神の国は近づいた」というメッセージそのものです。その「神が王となって救ってくださる」という良い知らせを信じる。この「信じる」も、ただ「それを本当だと思う」という意味だけでなく、「そこに信頼をおく。信じて自分をゆだねていく」という意味のことばです。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)というイエスのメッセージはまとめると次のようになります。
 「神は私たちを救いに近づいておられる。その決定的な時が今まさに来ている。失意やあきらめから立ち上がって神に目を向けなさい。そして、このメッセージに信頼し、自分をゆだねていきなさい」。

■ イエスの弟子であること
 イエスのメッセージは、聞く者たちに決断を迫ります。
そしてこのメッセージに信頼し自分をゆだねた例として、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟の召命物語(16−20節)が述べられます。イエスは呼びかけます。「わたしについて来なさい」(17節)。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの生涯は、イエスの呼びかけに一大転換を遂げます。家族や生活の手段(網や舟)を捨てて従うことは、彼らにとって大きな決断でした。しかし、彼らは躊躇(ちゅうちょ)することなくすぐに従います。この服従は、人の生涯における神の国の到来を現します。私たちがイエスの弟子であること、私たちの生涯を通して神の国を証しすることは、イエスに従うことから始まります
 今日の福音は、イエスのメッセージを今新たに聞く私たちに決断を迫ります。生涯を通してイエスに従うためには、そのことの邪魔をする何かを新たに捨てなければいけないのです
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。
 「わたしについて来なさい。」(17節)。

2024年1月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で太字にしている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
 また、スマートフォンでも読みやすいよう、小見出しに「■」や下線を加えております。
 原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」待降節第3主日B年 2023年12月17日

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あなたがたの中には、
あなたがたの知らない方が
おられる
(直訳
あなたがたの間に立っている、
その方を、
あなたがたは知らない)
〜 待降節第3主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ヨハネによる福音
   1章6−8節、19−28節


 今日の福音の中心は、洗礼者ヨハネが行った「証し」にあります。6−8節では、洗礼者ヨハネの役割が「証し」にあったことが明らかにされ、19−28節では、その「証し」がどのようなものであったかを語ります。

 第一段落(6−8節)
 この段落では「証しをする」という言葉が、合計3回用いられており、洗礼者ヨハネの役割が「証し」という一点に絞られています。
 ヨハネ福音書では、受肉した神の子(=イエス)の業と働きが「光」にたとえられていますが、洗礼者ヨハネはそのような光ではありません。むしろ、この光について「証しする」ために来たのであり、「すべての人が…信じるように」と証しすることが彼の役割です。

 第二段落(19−21節)
 ここでは、「あなたは誰ですか」という問いが三度も洗礼者ヨハネに向けられていますが、彼の答えはいずれも否定形です。

 「あなたはどなたですか」
 →「私はメシアではない」
 「エリヤですか」
 →「違う」
 「あの預言者なのですか」
 →「そうではない」

 「エリヤ」も「あの預言者」も、メシア(救い主)と並び、終末時に到来が期待されていた特別な人物ですが、洗礼者ヨハネは自分がそれであることをきっぱりと否定しています。それは「公言して隠さず」(20節)という言葉に表れています。彼は人々の期待や予想の間違いをはっきりと「公言した」のです。

 第三段落(22−23節)
 三度の否定の答えにいらだった人々が、「それではいったい、誰なのです」と問いかけると、洗礼者ヨハネはイザヤ書40章3節を用いて、「私は『主の道をまっすぐにせよ、と荒れ野で叫ぶ声(直訳)』」だと告白し(23節)、自らが「声」にすぎないと言います。洗礼者ヨハネの任務は、主の到来に備えるようと告げる「声」に徹することだったのです。
 イザヤ書40章3節「私は『主の道をまっすぐにせよ、と荒れ野で叫ぶ声』」は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)でも洗礼者ヨハネを指すものとされますが、ヨハネ福音書だけがこの引用の前に「私は」を置いています。つまり、共観福音書では、イザヤ書40章3節の「声」を洗礼者ヨハネであろうと理解していますが、ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネ自身が直接「声」であると告白しています。こうして、洗礼者ヨハネの「声」としての役割がいっそう強調されることになり、その結果、この「声」が証しする「あなたがたの知らない方」の影に注意が向けられてゆきます。

 第四段落(24−28節)
 洗礼者ヨハネが人々の期待や予想を否定し、「荒れ野に叫ぶ声」にすぎないと答えたので、派遣された人々は、なぜ特別な人物でもない洗礼者ヨハネが洗礼を授けるのか、とあらたな問いを投げかけます。
 それに答えて、「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と述べます。ヨハネ福音書は、共観福音書と同様に、ヨハネの洗礼は「水による洗礼」だと述べますが、「聖霊による洗礼」についてはいっさい言及していません。ヨハネ福音書の興味は「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」の対比ではなく、むしろ「私の後から来られる方」の力強さと偉大さを力説することにあるからです。その方は「あなたがたの知らない方」、つまり人間の経験や知識を越えた方です。その方を「証しする」ことが洗礼者ヨハネの使命なのです。

 今日の福音のまとめ
 「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(26節)。直訳は、「あなたがたの間に立っている、その方を、あなたがたは知らない」です。洗礼者ヨハネの使命は、「あなたがたの知らない方」を証しすることでした。洗礼者ヨハネはまだイエスに会っていませんが、自分を遣わした方によってイエスを知っています。
 洗礼者ヨハネは神によって教えられたことを証しします。したがって、彼の証しの内容は、体験に基づくイエスの人柄や振る舞いではなく、遣わされた方に教えられたその本質です。彼は知らないことを神から教えられて知っています。ここに洗礼者ヨハネの特別な役割があります。だから彼はこの方の本質を指し示し、すべての人が信じるようにと呼びかけます。
 洗礼者ヨハネは、自分ではないと否定し(第二段落)、むしろ声となって指し示した方は「私の後から来られる方」であり、「あなたがたの間に立っている方」だと述べ、洗礼者ヨハネが「その履物のひもを解く資格もない」ほどの方です、と証しします。
 彼はイエスが誰であるかを証しする「声」なのであり、その声に促されて、洗礼者ヨハネの弟子たちはイエスのもとに向かい、イエスの弟子となります(1章37節)。さらに弟子たちだけでなく、人々が彼の証しによって、イエスのもとに集まっています(3章22節以下)。
 彼の「声」は、2千年前のユダヤに響くだけでなく、歴史を越え、待降節第3主日を生きる私たちにまで届く「声」です。それを聞く耳にめぐまれるなら、希望が芽生えてきます。
2023年12月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●スマートフォンでも読みやすいよう、「第二段落(19−21節)」での問いと答えにおいて、改行を加えたり字下げをしたりしております。
 原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「主の道筋をまっすぐにせよ」待降節第2主日B年 2023年12月10日

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主の道筋をまっすぐにせよ
〜 待降節第2主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   1章1−8節


■ 表題(1節)
 表題(1節)の「初め」は、創世記冒頭の「初めに」と同じ言葉ですが、マルコ福音に関する物語の開始を意味するだけでなく、待ちに待った福音が今、始まるという緊張感を表し、神が救いのために歴史に介入する、その「今」を強調しています。
 マルコはイエスの伝記ではなく、「神の子イエス・キリストの福音」を書こうとしています。ですから、伝記作家だったら興味を抱く、イエスの誕生や成長に関する記事を書きはしません。しかし、イエスの十字架と復活に焦点を絞るパウロの福音理解とは違って、イエスにまつわる様々な出来事を報告します。病気に代表される悪の力や、人間を抑圧するものとなった宗教的伝統から人を解放する出来事の中にも、イエスの福音が光っているからです。

■ 神の言葉(2−3節)
 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ書3章1節)。
 「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたの道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」(出エジプト記23章20節)。
 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40章3節)。

 2節後半はマラキ書3章1節と出エジプト記23章20節からの引用であり、3節はイザヤ書40章3節からの引用です。この引用には「わたし」と「あなた」と「使者」の三人の人物が登場します。「わたし」は神であり、「使者」は洗礼者ヨハネです。そうであれば、「あなた」は1節の「神の子イエス・キリスト」です。
 荒れ野に洗礼者ヨハネが現れようとするとき、神がイエスに語りかけます。「わたしはお前に先だって使者を送る。彼は『荒れ野で叫ぶ者』であって、お前の道を準備する者である」。神はイエスにこう語りかけて、行動の時が来たことを告げます。こうして、「福音の初め」が、神の完全な主導のもとに開始されます。

■ 洗礼者ヨハネの活動(4−5節)
 神の声に呼応して、洗礼者ヨハネが「現れます」。彼が「罪の」赦しのための悔い改めの「洗礼」を宣べ伝えると、それに応じて、ユダヤからもエルサレムからも人々が続々出て来て、「罪を」告白して「洗礼を受けます」。神に呼応して活動を起こした洗礼者ヨハネ(4節)に応じて、人々が行動を起こし(5節)、主の道を整えます(3節)。しかし、マルコは人々の心の思いを一言も述べずに、行動だけを淡々と模写します。すべてを引き起こす神の言葉に注目しているからです。
 マルコが述べる洗礼者ヨハネは、厳しい裁き(ルカ3章7節以下)ではなく、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えています。彼の施す洗礼はイエスがもたらす「悔い改め」の前ぶれであり、それによって、イエスが私たちのもとに来る道が「まっすぐにされます」。

■ 洗礼者ヨハネの風貌(6節)
 「(イスラエル王アハズヤは、『お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か』と彼らに尋ねた。)『毛衣を着て、腰には革帯を締めていました』と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った(列王記下1章7−8節)。 
 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ書3章1節)。
 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ書3章23節)。

 洗礼者ヨハネの風貌は預言者エリヤの姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。当時、マラキ書3章1節とマラキ書3章23節を組み合わせ、預言者エリヤが終わりの日の前に再来すると考えられていました。待ち望んでいた預言者エリヤはすでに来ています。決定的な時はすぐそこに迫っています。

■ 洗礼者ヨハネの言葉(7−8節)
 7−8節は、洗礼者ヨハネの登場を述べる2−3節の神の言葉と対応し、ヨハネ自身の言葉を明らかにします。洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えることによって、再来のエリヤとしての役割を果たし、神の決定的な介入を告げ知らせた人ですが、その彼も「後から来られる方」と比べれば、「その方の履物のひもを解く値打ちもない」人物だとされます。
 当時の社会では、履物のひもを解くのは奴隷の仕事とされていましたから、洗礼者ヨハネと「後から来る方」との相違が非常に強調されていることになります。その方が「優れた方」であり、洗礼者ヨハネを凌駕する理由は、「聖霊で洗礼をお授けになる」ということにあります。ここでの聖霊は個人というよりは、時代全体を新たにする力です。時代が変わり、新しい救いの時代が聖霊と共に到来しようとしています。

■ 今日の福音のまとめ
 長い間沈黙していた神が、その沈黙を破り、神による福音の胎動が始まりました。神が歴史に介入し、救いのために行動を起こします。長く待ち望んでいた救いが、目前に迫っている「今」、洗礼者ヨハネは叫びます。「主の道筋をまっすぐにせよ」と。聖書の述べる「悔い改め」は、「神の業にあわせて向きを変えること」、つまり「神に立ち帰ること」を表します。主の降誕が近づいている「今」、私たちも悔い改めて、主の道筋をまっすぐにしましょう。
2023年12月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で太字にしている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
 また、スマートフォンでも読みやすいよう、小見出しに「■」や下線を加えております。
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ミサ説教プリント「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたには分からないからである」待降節第1主日B年 2023年12月3日

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目を覚ましていなさい。
いつ家の主人が帰って来るのか、
あなたがたには
分からないからである
〜 待降節第1主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マルコによる福音
   13章33−37節


 待降節は
  愛と喜びに包まれた
  待望(希望)の時


 待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この2つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)。

 「待降節」には「来臨」という言葉が使われます。「待つ」ということであれば、人間を中心に考えています。「(降りて)来られる」というのであれば、神(=「来られる」キリスト)を中心に考えています。私たちが「待つ」ことに重点を置くならば、待降節はよい準備ができたか、できていないか、ということをどうしても考えてしまいます。準備をすることも大切ですが、神(キリスト)が来たいから「来られる」ということであれば、期待と希望を持てます。愛と喜びに包まれた待降節を過ごすことができます。

 今日の福音の骨子は、「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか(いつキリストが来臨するのか)、あなたがたには分からないからである」ということです。キーワードの「目を覚ましている」とはどのような状態でしょう。

 目を覚ましている
  (グレーゴレオー)NO,1

 目を覚ましているといっても、※(1)文字通りに「目を開けて眠りこまずにいる」状態のこともあれば、※(2)体ではなく心の状態を表し、どのような事態にも対処できる油断のなさを表して「覚めている」ということもあります。両者の境目は必ずしも明確ではありませんが、意味の上では区別することができます。

 目を覚ましている
  (グレーゴレオー)NO,2

 死を間近に控えたイエスはゲッセマネの園に行き、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言い残し、少し離れたところで祈っています(マタイ26章38節とその並行箇所)。ここの「目を覚ましている」は※(1)「目を開け眠らずにいる」の意味です。しかし、神に祈った後、弟子たちのもとに戻り、彼らが寝ているのを見てイエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と諭すときには(マタイ26章41節とその並行箇所)、※(2)心の姿勢について語っています。イエスを覆う闇は十字架によって勝利を得たかのように勝ち誇りますが、その闇につまずかないためには、弟子たちの心は「目を覚まして」祈らねばなりません。祈りながら目を開けて、よく見るなら、イエスの受難が救いのためであると理解できます。

 目を覚ましている
  (グレーゴレオー)NO,3

 今日の福音では「目を覚ましていなさい」が三度使われます(34節・35節・37節)。33節の「目を覚ましていなさい」は原語が違っています。
34節「目を覚ましているように」。僕たちに仕事を割り当て、門番に目を覚ましているようにと命じて旅に出た人のたとえです。ここでの「目を覚ましている」は、たとえの次元に留まるかぎり、※(1)「目を開けて眠らぬ」ことを意味しています。
35節「目を覚ましている」。すでにたとえの次元を離れ、たとえが指し示す意味そのものに進んでおり、※(2)のキリスト者の取るべき心構えを表しています。
37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。35節と同じようにすでにたとえの次元を離れており、※(2)の人々が取るべき心構えを表しています。ここでの「すべての人」とはペトロなど一部の弟子を越えたすべてのキリスト者です。神の最終的な介入がいつ起こるのか誰も知らないのだから、油断せずに「目を覚ましている」ようにと「すべての人」にイエスは呼びかけています。

 目を覚ましている
  (グレーゴレオー)NO,4

 共観福音書以外の用例はすべて、使徒が教会に与える勧告に使われ、キリスト者や教会が保つべき根本姿勢を表しています。
(1)「しっかり立ちなさい」―「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(汽灰螢鵐判16章13−14節)。
(2)「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」―「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください」(コロサイ書4章2−3節)。
(3)「身を慎んでいなさい」―「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(汽撻肇軆5章8−9節)。

 眠っている
  (カセウドー)NO,1

 「目を覚ましている」に対比される態度は、36節の「眠っている」(カセウドー)です。この語もグレーゴレオーと同じように、(1)文字通りに「目を閉じて、眠る」ことを表すこともできるし、(2)転じて「死ぬ」ことを表し(汽謄汽蹈縫噂5章10節)、霊的に怠惰で無関心な状態を表して「眠っている」と言われることもあります(汽謄汽蹈縫5章6節)。36節の「眠っている」(カセウドー)は、目を覚ましていなさいという指示を忘れ、主人の帰宅を目覚めて迎えられなかった者を表しています。
 目を覚ましていられずに「眠って」しまうのは、主の来臨が愛と喜びに包まれた待望(希望)の時であることを忘れるからです。希望がなければ、主人のことばはただの言いつけとなり、時が経つとともに守るのが億劫になり、やがて「眠ってしまう」のは当然です。
2023年12月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の最初の段落を太字にしております。この部分は原文(Wordファイル)では、段落が四角で囲まれている上、フォントが明朝からゴシックに変更されています。が、いずれもWeb上では難しいので、囲みは省かせていただき、ゴシックは太字で代用させていただきました。ご容赦を。
 そのほか、機種依存文字である丸数字をカッコつき数字に変更したなど、細かい変更を加えております。
 原文どおりのレイアウトやフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

教会便り巻頭言「マリオとアンセルモ」(2023年12月号)

マリオとアンセルモ

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 今から250年前、南イタリアの田舎町にマリオとアンセルモという2人のとても仲の良い少年がいました。小さいときから二人はいつも毎日のように誘い合って野原や小川で楽しく遊んでいました。
 マリオはお金持ちの地主の息子で、大きくなったら神学校にいって教会に仕える立派な神父になりたいと思っていました。アンセルモは貧しい靴屋(くつや)の息子でしたので、マリオの希望を自分のことのように心から喜んで「僕(ぼく)は君(きみ)のために早く願いがかなうようにいつでも祈っているよ」と言うのでした。
 やがて、マリオは神学校に入り立派な成績で卒業し修道院にはいりました。貧しい靴屋のアンセルモも神さまに仕えるために同じ修道院に召使いとなって働くことになりました。
 いよいよマリオが叙階され司祭となって最初の説教をする前夜、眠れないままに廊下を歩き回っていると、召使いのアンセルモが近づいてきて「マリオ神父、君のために祈っているよ」と低くささやいて去っていきました。
 翌日、マリオが説教台に立つと、アンセルモが聖堂の隅(すみ)の柱のかげにひざまずいて一心(いっしん)に祈り見守っていてくれる姿が見えました。
 マリオは初めての説教を立派にすることができました。そして、次第に大説教家として有名になり、方々(ほうぼう)の教会から招かれて旅をしました。そんな時、何時(なんどき)もアンセルモはマリオの従者(じゅうしゃ)として付いていき、いつも聖堂の柱のかげでマリオのために祈っていてくれるのでした。しかし、マリオが出世するにつれて、2人は今までのように親しく話しをする機会がどんどん少なくなっていきました。
 ついにマリオは大司教となり、ローマの聖ペトロ大聖堂で説教する光栄の日が来ました。そして、マリオは大会衆の前で誇らか(ほこらか)に説教台に立ったのでした。
 ところが、フッと柱のかげを見ると、いつも祈っていてくれているはずのアンセルモの姿が見えません。とたんにマリオの顔から脂汗(あぶらあせ)がにじみだし、どうしたことかいつもの調子がでません。説教はさんざんでした。
 ミサが終わってアンセルモのことを尋ねると、アンセルモは今朝、付き添っていけないマリオのことを思い祈りつつ天に召されていったことを聞かされました。
 それから後(のち)のある日、アンセルモの墓の前で一心に祈っているマリオ大司教の姿がありました。それを見た修道院長はマリオのそばに立って「あなたは再び以前のような名説教ができるよう祈っているのですか」と尋ねると、マリオは泣きぬれた顔を静かにあげて答えました。「いいえ、私は神さまに、アンセルモのような美しい謙虚(けんきょ)な心を私にもどうか与えて下さいと祈っていたのです……」と。
「聖書のたとえばなし」(草間重義著 8−9頁から)。


 聖書のことば
 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカ2章11−12節)。
 〔乳飲み子〕は仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために〔生まれて〕来たのである(マルコ10章45節)。
 互いに〔仕え〕合いなさい。私があなたがた〔に仕えた〕ように、あなたがたも互いに〔仕え〕合いなさい(ヨハネ13章34節)。

ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・前晩(土曜)18:00
 ・日曜 9:30
  毎月第3日曜は手話つき
【週日のミサ】
火・金 10:30
(変更する場合がございます。
当サイトの予定表でご確認を)

[Mass Schedule]
Saturdays at 18:00
Sundays at 9:30
Tuesdays and Fridays at 10:30(Subject to change. Please check the monthly schedule table on this web site.)

電話(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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