主任司祭メッセージ

教会便り巻頭言「復活体験―復活したイエスとの新しい出会いの体験―」(2023年4月号)

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復活体験
―復活したイエスとの
新しい出会いの体験―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 イエスの十字架のとき怖くて逃げた弟子たちは、復活体験の後、イエスに命をささげる者として生きかたが変わっていきます。なぜ弟子たちは変わったのでしょうか? 結論から言うと、復活したイエスと新たに出会ったからです。弟子たちは、復活したイエスとの新しい出会いの体験によって、イエスが本当に自分のことを愛してくださったということを知ったのです。そして、愛されたことを知った者は、愛する者へと変えられていきます。復活体験は「復活したイエスとの新しい出会いの体験」と言って良いでしょう。
 イエスに「三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マルコ14章30節)と離反を予告されたペトロは、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14章31節)と力を込めて言い張ります。そのペトロが、イエスの予告どおり、三度否みます。ルカ福音書では、ペトロがイエスを三度否んで鶏が鳴いたとき、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22章61節)と伝えられています。イエスはどのような目でペトロを見つめられたのでしょうか? ペトロは激しく泣きます(ルカ22章62節)。三度否んだペトロに、復活したイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21章15−17節)と、三度言われます。ペトロはこのとき、復活したイエスと新たに出会います。ペトロは、イエスに赦され、愛されたことを知ったのです。
 十二使徒の一人でディディモと呼ばれるトマスは、「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20章25節)と言うほかの弟子たちに言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20章25節)。八日後、復活したイエスはトマスに言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)。トマスが復活したイエスと新しく出会った場面です。トマスは答えて言います。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)。信じない者から信じる者へと変わったトマスの信仰告白です。
 エルサレムからエマオという村に向かって歩いていた二人の弟子は、復活したイエスと一緒に歩き始めます。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分かりません(ルカ24章13−16節)。目指す村に近づき、イエスは二人の弟子と共に泊まるため家に入られます。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると、二人の目が開け、イエスだと分かりましたが、その姿は見えなくなりました(ルカ24章28−31節)。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と復活したイエスとの新しい出会いの体験を語り合います(ルカ24章32節)。そして、イエスの姿を肉眼では見えなくなっても、二人は、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」と、復活体験を証言する者に変わっていきます(ルカ24章35節)。
 復活体験は「復活したイエスとの新しい出会いの体験」です。このように考えますと、信徒の皆さんにも今までそのような霊的な体験があったと思います。またこれからも「大きい」「小さい」がありますが、霊的な体験をすることでしょう。そのときキリスト者として目が開かれ、もっと愛する者へ、もっと信じる者へ、もっと証しする者へ、と変えられていきます。多くの復活体験がありますように。「復活祭、おめでとうございます」。

ミサ説教プリント「わたしは復活であり命である(ヨハネによる福音11章)」四旬節第5主日A年 2023年3月26日

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わたしは復活であり命である
(ヨハネによる福音11章)
―四旬節第5主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 イエス、ラザロを生き返らせる
 人生を考えるとき、避けて通れない最大の課題が「死」です。確かに、「人は死ねば骨だけになる」「人は死ねば土にかえる」も、感覚的次元では事実です。そして、それとともに何もかも消滅し、人生も、その課題も消え失せるといって、割り切っている人もいるようです。でも、そのような人生観では決して承服できない人もいるわけで、ヨハネ福音書のこの11章は、そういう人々に語りかけ、訴える強烈なメッセージを味あわせる箇所です。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(11章14−15節)。
 この言葉にもあるとおり、イエスがこれから行おうとする最もドラマチックな「しるし」(=ラザロの蘇生)も、まさに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11章25−26節)という言葉の中の、イエスが「復活であり、命である」という啓示を信じさせる目的でなされた「しるし」でした。

 マルタの信仰告白
 イエスと会って、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(21−22節)と言ったマルタの言葉は、彼女が兄弟ラザロの蘇生を期待していた事実を示しているのでしょうか。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)という当時の一般的な復活信仰への言及や、「主よ(葬られて)四日も経っていますから、もうにおいます」(39節)という言葉からすると、目の前で兄弟の「生き返り」を期待していたのではないようです。※パレスチナでは、死んだ日に葬式が行われました。ユダヤ人の俗信によれば、死者の魂は死後三日間、死体の周りにうろついていますが、四日目に立ち去り、肉体の腐敗が目に付くようになって、その後はもはや、死者の蘇生の希望はないと考えられていました。
 ただし、「復活であり、命である」イエスを「信じる者は、死んでも生きる」ということを「信じるか」と問われて、マルタが口にした言葉は、マルタの理解がどうであったにせよ、福音記者ヨハネと彼の共同体、また、現代の教会共同体にとっても、真の「信仰告白」になるものです。ペトロの信仰告白(6章68−69節)と同じように、今、私たちもマルタと共に次の信仰を抱くように招かれています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11章27節)。
 つまり、ヨハネはラザロの蘇生を、信じる者にとってイエスその人こそ「復活であり、命である」というための背景として用いています。そしてイエスとは、ヨハネと彼の共同体にとって、すでに半世紀以上も前に生き、死なれた方であるだけではなく、今、ヨハネと彼の共同体の宣教の言葉、彼らの「証し」を通して自ら語り続けている復活のイエスでもあります。このイエスを今ここで信じるか信じないかに応じて、人それぞれの運命が決まってゆくのであって、いつかわからない未来の「終わりの日」のことではないのです。

 ラザロの蘇生とイエスの復活
 布や覆いにまとわれたまま墓から出て来た(この地方の墓は洞穴式です)ラザロの蘇生(11章44節)と、人手を借りずにそういうものから離れて墓を出た(20章7節)イエスの復活とは、何と違うことでしょう。生き返ったラザロは再び死ぬ運命にありました。「永遠の命」そのものであるイエスの復活の「しるし」に過ぎないからです。
 イエスの動作の中で注目すべきなのは、「心に憤りを覚える」(直訳 鼻を鳴らす。怒りや憤懣〔ふんまん〕をこめて鼻を鳴らすことを意味します)が二度使われていることです。一度目は弟ラザロの死を悼んで泣くマリアを目にしたときであり(33節)、二度目は、ラザロの墓に向かうときです(38節)。イエスの憤りは、サタンの働きに対する怒りや人間をやり場のない悲しみに突き落とす死に対する怒りであると同時に、永遠の命を信じ切れない不信仰に対しても向けられています。マルタが「主よ(葬られて)四日も経っていますから、もうにおいます」(39節)と言ったのは、死の四日後には、魂が死体の周辺から完全に離れ去ると考えられていたからであり、ラザロは完全に死んだと考えています。
 人々が墓に見るものは悲しみと絶望ですが、イエスは神の栄光を見ています。※イエスの「受難・死・復活」という救いの行為は、ヨハネ福音書では「栄光」と呼ばれます。

 今日の福音のまとめ
 ラザロの蘇生という復活の「しるし」は、祭司長やファリサイ派の人々の間に、「イエス殺害計画」というネガティブな結果を引き起こしました(46節以下)。イエスはラザロに命を与えたことによって、十字架の死への道へと向かうことになります。命を与える者が命を落とすというパラドックスをヨハネは意識しています。イエスの十字架は、命を与えたゆえに引き起こされますが、その結果、私たちに真の命が与えられることになります。
 ところで、奇跡を見てイエスを信じた人々が数多くいました(45節)。この奇跡の最大の成果は、ラザロの蘇生という「しるし」そのものというよりは、この奇跡を見た人々が信じるようになったということです。しかし、その種の信仰は、結局は初歩的で、不完全なもので終わってしまいます。イエスの言葉によって信じた(8章30節)人々も、イエスから、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(8章31節)と、「弟子の信仰」にまで深まっていくべき信仰を求められています。私たちも今日の福音を読みながら、絶えざる信仰の成熟へと招かれているのを感じるのです。
2023年3月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の前半で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「生まれつき目の見えない人は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た(ヨハネによる福音9章)」四旬節第4主日A年 2023年3月19日

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生まれつき目の見えない人は
行って洗い、
目が見えるようになって、
帰って来た
(ヨハネによる福音9章)
―四旬節第4主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 生まれつきの盲人のいやしは
  洗礼の象徴

 今日の福音は、洗礼志願者を闇から光へと招き入れる伝統的な箇所です。古代の教父たちも生まれつき目の見えない人を洗礼志願者に当てはめています。
 生まれたときから目が見えなかったということを強調していることに注目すべきでしょう。ここでは洗礼のことを述べている可能性があると理解されることもあります。アウグスティヌスは、目が見えないということを原罪に関連づけました(「生まれつきの盲人は人類のことです」と)。
 奇跡に先立つイエスの二つの行動は、安息日に対するラビの規定に違反しています。唾でいやすことと泥をこねることです(6節)。ヨハネ福音書において、泥を両目に注ぐ(塗る)ということが、洗礼の時に油を注ぐことと関係があるではないかと考える学者もいます。
 いやしはシロアムの池の中で「洗う」という行為で完了します(7節)。「遣わされた者」という名前をもつこの池は、イエスが神から遣わされた者であること、あるいは盲人が遣わされた者になっていくことが象徴的に表されています。洗礼のことをテルテゥリアヌスとアウグスティヌスに思いつかせたのは、この池の名前の意味をヨハネ福音書が象徴的に強調しているからです。カタコンベ(地下墓所)の初期の芸術作品においては、生まれつきの盲人のいやしは、洗礼の象徴となっています。

 イエスは視力をもたらす方
 光はものを照らし、見えるようにします。つまり、「啓示」します。〔啓示……神が人に見える形で教え示すこと〕。「わたしは世の光である」(8章12節)と言われたイエスは、実際に生まれつきの盲人に物理的な視力を与える「しるし」を行うことによって、「信仰の視力」をもたらす「光」であることを地上で行って示しました。
 目が見えなかったけれども、イエスのおかげで見えるようになった人と、ファリサイ派の人々あるいは「ユダヤ人たち」(見えると主張する人々の霊的盲目=彼らは見ることができたのに、イエスのゆえに目が見えなくなってしまった)との間に大きな皮肉があります。
 ファリサイ派の人々あるいは「ユダヤ人たち」にとってイエスは、「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(16節)、「罪ある人間」(24節)、「あの者がどこから来たのかは知らない」(29節)。彼らにとってイエスは最後まで、神とは無縁の、または、神に背く「あの者」に過ぎません。ファリサイ派の人々は、詳細な知識を学んでいるのに、イエスがどこから来たのか、知る(見る)ことができませんでした。
 それにひきかえ、盲人は「イエスという方」(11節)、「預言者」(17節)、「神をあがめ、その御心を行う人」(31節)、「神のもとから来られた方」(33節)、「主」(38節)といった具合です。盲人は、ほとんど何も分からなかったにもかかわらず、多くの称号を学びます(最後の「主」〔信仰の対象としてのメシア〕は最高の称号です)。今日の福音は触れていませんが、見えない者として生まれ、今初めて見えるようになったこの人の、想像を絶する驚きと喜びを、読者としての私たちは感じとってよいでしょう。それだけに、信仰の目でイエスの中に「メシア」を見たときの感激と喜びはいかばかりであったことでしょう。
 今日の福音で、イエスに出会った盲人は4つの質問(15、17、24、26節)を受けますが、これは一世紀末のユダヤ教(ファリサイ派)による宗教裁判の様子を反映しています。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであることを公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)。その時代、ユダヤ教徒(ファリサイ派)とキリスト者との対立は深刻化し、後者は迫害を受けていたのでした。
 迫害は、イエスとの関わりが吟味されるときであり、そのことを通して、真にイエスと出会うことになる、とヨハネは主張します。闇に留まっているのは頑なな人々のほうであり、その彼らから追放を受けることは、闇からの決別であり、イエスに出会い、まことの礼拝をささげるための解放だと考えているのです。

 イエスのもたらした区分
 当時、目が見えないということは、罪を犯していることを意味する罰であったと考えていた弟子たちに対して、「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言います。「罪」の捉え方が、当時の常識とイエスとの間では大きく異なっています。
 イエスは41節で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と述べているように、人間の不完全さ(例 目が見えない)それ自体は罪ではありません。イエスにとって大事なことは、罪の原因を詮索することではなく、不幸からの解放(いやし)に目を向けることです。しかし、「今、見えている」=(自分は完全だ、自分の罪は認めない)と言い張るとき、いやすために遣わされたイエスを拒絶してしまいます。この頑なさが「罪」なのです。
 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(9章39節)。
 「裁くため」と訳すより、「区分をもたらすため」とする方が適切かも知れません。あるいは、「わたしが来た。その結果、区分が生じた」と。ギリシア原文も、この場合は「裁き」とは異なる語を用いています。事実、イエスという光を前にして、見ようとする者と、見ようとしない者、すなわち、信じる者と信じない者の区別が生じます。後者は、不信によって、みずからを「裁かれる立場」に置くのです。そういう意味で裁きが生じます。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」(41節)というイエスの言葉も、そういう観点から理解されるのです。
2023年3月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の終盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「永遠の命に至る水がわき出る」四旬節第3主日A年 2023年3月12日

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永遠の命に至る水がわき出る
―四旬節第3主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:不平を言う民
  (出エジプト記17章3−7節)

 荒れ野を出てシナイに至るまで、民は二度も飲み水のことでモーセに不平を言います。最初は「マラの苦い水」(15章22−27節)であり、荒れ野を三日間歩いて、ようやく見つけた水が「苦い水」だった時のことです。その時には、モーセの叫びに答えて、主(しゅ)が一本の木を示し、それを水に投げ込むと、甘くなりました。
 しかし、今日の第一朗読の箇所となった「岩からほとばしる水」では、「苦い水」すら見つかりませんでした。そこで民は、早速、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と不平を言います(3節)。この不平は出エジプト記16章の「マナの出来事」の時と同様に、食べる物や飲み水に苦しむことのなかったエジプトでの生活をなつかしむ気持ちと一つになっています。
 ここで「不平を言う」と訳された動詞は「ぶつぶつ文句を言う」というだけでなく、モーセの指導力に疑問を投げかけ、「指導者として不適格だと見なす」といった意味合いをも持っています。民の不平が強まれば、それだけ神が行う奇跡も尋常ではなくなります。「マラの苦い水」の時には、木を水に投げ込むだけでしたが、今度は主(しゅ)が立つ「岩」を「ナイル川を打った杖」で打つと水がわき出てきました(5−6節)。
 この奇跡が起こった地をモーセは「マサ(試し)」と「メリバ(争い)」と名付けます。水をめぐる争いは荒れ野では深刻です。「争い」という名前が付けられたのは、その地で水をめぐる争いが何度も起こったことを想像させます。しかも、水をめぐる「争い」は人間の間の紛争では終わらず、神の導きに対する不信感にもなりえます。荒れ野の民の不平は、モーセに「争い」を向け、さらに神を「試す」ことになったのだと、この物語は伝えています。

 福音朗読:永遠の命に至る水
  (ヨハネ4章5−15節、19b−26節、
    39節a、40−42節)

 3節にイエスは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。ユダヤからガリラヤに行くにはサマリアを通るのが一番近道ですが、ユダヤ人たちはサマリアを避けて、ヨルダン渓谷を迂回していました。しかし4節は「サマリアを通らねばならなかった」と述べており、イエスがサマリアに入ることが、神の計画であったことが示されています。
 シカルはエバル山の東麓の町で、ヤコブがヨセフに与えた土地の近くとされています。ヤコブの井戸のそばにイエスが座っていると、サマリアの婦人が水をくみにやって来ます。水をくむ通常の時刻は朝と夕方です。彼女は誰も井戸に来ようとしない「正午ごろ」に出てきました。このような行動には、16−18節で言われるようなこの婦人の奔放(ほんぽう)な性格が反映しているのかも知れません。こうして福音は、イエスが「不信心な者」や「罪人」のためにサマリアで宣教したことを伝えるのです。
 「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える(未来形)水を飲む者は決して渇かない(未来形)。わたしが与える(未来形)水はその人の内で泉となり(未来形)、永遠の命に至る水がわき出る」(13−14節)。
 この対話の中で、婦人の念頭にあるのは、ふつうの水、井戸の水です。それにひきかえ、イエスは「水」という語に、イエスが栄光を受けるとき信者に与える聖霊について言及しています。引用文中の動詞を、現在形と未来形に使い分けている事実がそれを示しています。
 水は人を「洗い清めます」(13章5節以下)。洗礼によって与えられる聖霊も私たちを清め、神の子としての新しい誕生を与えます。次に水は私たちの「渇き」をいやします。イエスは「五人の夫を持った」(18節)サマリアの婦人さえも「生きた水」を飲むように招きます。しかし、このような霊的現実を理解するにはあまりにも即物的な婦人(そして私たち)に、イエスは「もしあなたが、神の賜物を知っているなら……。(ぜひ知ってほしいのだが)」(10節)と、胸のうちを切々と述べます。

 第二朗読:
  希望の源泉は神の愛にある
  (ローマ5章1−2節、5−8節)

 第一朗読ではイスラエルの民が荒れ野でのどをからし、水を求めます。ますます人の住まない荒れ野に分け入るのですから、飲み水や食べ物に目を奪われている限り、不安から脱出できません。目を変える先を変えなければ、根本的な解決とはなりません。
 ヘブライ語で「希望」を表す一つの名詞は、「目を向ける」という動詞から派生しています。目を向ける先が間違っていれば、確かな希望を持つことができません。パウロは第二朗読で、キリスト者の希望の根拠を神の愛においています。
 パウロは「このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます(2節)。今、私たちが立っている「恵み」への導入路は、私たちの行いではなく「信仰」です。その信仰の内容について、5b−6節では、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」と述べ、8節は「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するを示されました」と述べています。
 この両者に挟まれた7節では、人が他者のために死ぬことはほとんどなく、あっても「善い人=利益をもたらした人」のための死でしかない、と述べ、「不信心な者」や「罪人」のために死んだキリストの愛と、キリストを通して示された神の愛に目を向けさせています。
 岩からほとばしり出た水がただ渇いたのどをうるおすだけで終わるなら、すぐに不安が頭をもたげます。聖霊の働きによって、のど元を通り過ぎて「心に注がれ」、水に込められた愛が心を満たすとき、目を向ける先が変わり、確かな希望を持つことができます。サマリアの婦人は、イエスと向かい合って、語り合ううちに、宣教する者に変えられてゆきます。この変化は「不信心な者」や「罪人」を切り捨てない愛に出会ったことから始まります。
2023年3月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「イエスの顔は太陽のように輝いた」四旬節第2主日A年 2023年3月5日

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イエスの顔は
太陽のように輝いた
―四旬節第2主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  父の家から離れて
  (創世記12章1−4節a)

 創世記1−11章は原初史と呼ばれ、聖書の民イスラエルとは直接的な関係を持たない、人類全体に適用される出来事を語っています。この原初史は人間の「神のようになりたい」という罪を記述しています。
 創世記12章からは、この罪から人類を救済しようとする神の遠大な計画(救済史)が語り始められます。この計画の最初の一歩は、生まれ故郷からアブラムを離し、神が示す地に向かわせることによって始まります。地縁とか血縁とかによる共同体から、神が導く共同体へとアブラムを出発させたのは、神なしに人間社会はあり得ないことを私たちに示すためです。イスラエルはそのような使命を帯びた民なのです。
 1節を直訳すると
  そして言った主は アブラムに
  「行きなさい あなたのために
  あなたの地から
  あなたの親族から
  あなたの父の家から(離れて)
  わたしがあなたに示す地へと」。

となります。アブラムにとって「あなたの地」は慣れ親しんだ土地であり、危険の少ない場所ですし、「あなたの親族」は安心して協力することのできる仲間であり、「あなたの父の家」は心のゆるすことのできる憩いの場です。
 しかし、神は故郷が保証するぬくもりから離れ、見知らぬ土地に向かうようにと指示を与えます。いわば自然に成立している共同体から決別し、神が示す新たな共同体に身をあずけるようにと求めます。
 4節aを直訳すると、
  そして行った アブラムは
  主が彼に語ったように

となります。ここで「行った」と訳した動詞は、1節の神の指示に使われた「行きなさい」と同じです。同じ動詞を使うことで神の指示に従う忠実なアブラムの姿を浮き彫りにしています。「あなたの地・あなたの親族・あなたの父の家」を離れて形成された共同体は、今も私たちのうちに生きています。

 第二朗読:
  不滅の命を現した
  (競謄皀1章8節b−10節)

 人類に救いの意志を示すためにイスラエルを誕生させた神の計画(救済史)は、平坦な道を歩んだのではありません。原初史がそうであったように、神は人間の自由意志を尊重し、対話を通して導こうとしますが、人間はそれを拒み、勝手な道に入りがちだからです。
 人間がどんなに愚かに振る舞おうと、神の救いの意志はみじんも揺らぐことがありません。なぜなら、今日の第二朗読が述べるように、「この恵みは、(創造以前の)永遠の昔にキリスト・イエスにおいて私たちのために与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスの出現(=受肉)によって明らかにされた」からです。(9−10節)。
 聖書では、罪とは神と離れることであり、神から離れたところに命はありません。神の救いは、イエスが十字架上で死んであがないの業を成し遂げ、復活することによって明らかにされました。「父(神)の家を離れた」イエスは、神が導く新たな共同体(教会)のために、「不滅の命を現して」くださったのです。

 福音朗読:これに聞け
  (マタイ17章1−9節)

 アブラムは「行きなさい」という神のことばで旅立ちましたが(創世記12章4節a)、イエスは彼以上に神のことばに従いました。なぜなら、イエスは「死を滅ぼし、不滅の命を現す」ために(競謄皀1章10節)、自分の体を差し出したからです。
 しかし、イエスの死と復活は、弟子たちの理解を越えたことでした。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をした後、イエスは初めて弟子たちに自分の死と復活を予告します(マタイ16章21節)。ペトロは、イエスが「苦しみを受けて殺される」ことなどあってはならないと思い、イエスをわきへ連れていさめました。イエスはそのペトロに「サタン、引き下がれ」と言います。イエスは自分の「死と復活」を予告したのですが、ペトロたちが具体的に思い描くことができたのは、イエスの「死」という惨めな最期だけであり、「復活」は思いも及ばない出来事でした。そこでイエスは「不滅の命」を知らせるために、山の上で「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」姿を弟子たちに示します(2節)。
 神は弟子たちに「これ(=イエス)に聞け」と指示します(5節)。ペトロは律法の代表者モーセと預言者の代表者エリヤとイエスが話すのを見て、イエスに「主よ」と呼びかけています。ペトロのイエスに対する理解は間違っていません。しかし、三人にひとつずつ仮小屋を作ろうと提案したことは、イエスをモーセとエリヤと同列に置くことを意味します(4節)。ペトロの理解が不足しているので、神が「これ(=イエス)に聞け」と教えます。この神のことばは、イエスこそが旧約聖書を完成する者であることを明らかにしています。
 今日の朗読をまとめると、イエスは弟子たちに「死と復活」を予告しますが、それは弟子たちの理解を越えることでした。そこで「不滅の命」を知らせるために、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」姿を彼らに示します。それを垣間見たペトロはその喜びを地上に留めようとして、仮小屋の建設を提案しますが、雲の中からの声は「これに聞け」と述べ、「父の家から離れて」、「不滅の命を現した」イエスに聞くことの大事さを教えます。
2023年3月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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教会便り巻頭言「神さま、なぜですか」(2023年3月号)

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神さま、なぜですか

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 昨年末、いわゆる宗教二世の問題がありました。私は、「宗教」や「信仰」に対して、誤解する人たちや拒否する人たちが出て来るかも知れないと思いました。
 神学生の頃、「自然神学」という授業を受けました。神への信仰を否定する人たちの意見を反論する講義です。例えば、「あなた(がた)は、心が弱いから宗教なんかを信じているのだ」という考えがあります。普通のキリスト者は心が弱いから信仰を続けているとは思ってはいません。この考えに対する答えは、「私(たち)は、自分ではどうすることもできないかた(=神)を受け入れています。それは心が広いから、心が強いから、受け入れることができる」です。
 旧約聖書を勉強していたとき、ある教授が言いました。日本人は「願いをかなえてください」という現世利益的な祈りをよくします。願いがかなったならば、自分の力を誇り、神への感謝を忘れがちです。願いがかなわなかったならば、「神も仏(ほとけ)もない」と言って、神のほうに心を向けなくなる人がいます(キリスト者であっても、たまに「祈っても願いをかなえてくれなかった」という理由で、教会に来なくなる人がいます)。
 ユダヤ人は悲しい、苦しい出来事が起こると、「神さま、なぜですか」という問いかけの祈りをしたと、教授は教えてくれました。私たちの信仰生活は、よいことばかりではありません。悪いこと、つらいこと、がたくさんあります。「神さま、なぜですか」という問いかけを繰り返すうちに、神のみ旨(みむね)を知ることができ、信仰が深くなってゆきます。例えば、どんなに人間が頑張っても、「神の時」― 時が満ちなければ、物事は実現しません。私たちは、ある事を成し遂げようと努力することは大切ですが、自分の能力や力に頼ってしまい、信仰者であることを見失っていることがあります。
 「信じる」は、ギリシア語では「ピステウエイン」です。名詞は「ピスティス」で、普通「信仰」と訳されていますが、「信頼」という意味もあります。聖書の中で「神を信じる」というのは、頭で考えて「神がいると思っている」というようなことではありません。そもそも聖書の世界では、神がいるのはあたりまえです。その上で、ピステウエイン、ピスティスというときは、その神を信頼して生きるかどうか、ということを問われているのです。
 信頼には二種類あります。ひとつは絶対的信頼です。ゆるぎない信仰です。(このような人はめったにいません)。もうひとつは、アウグスティヌスが言う「疑いつつ信じる」ということです。日常生活の中で、「神さま、なぜですか」と問いかけて祈るうちに、出来事と御ことばとが重なることによって出来事の意味がわかり、神への信仰(信頼)を深めることができます。そこに「信仰」の喜びがあると、私は思うのです。

ミサ説教プリント「イエスは四十日間断食した後、誘惑を受けた」四旬節第1主日A年 2023年2月26日

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イエスは四十日間断食した後、
誘惑を受けた
―四旬節第1主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 四旬節第1主日には、ABC年とも、洗礼後直ちにイエスが聖霊によって荒れ野に導かれ、そこで悪魔から試みられ、それに打ち勝った記事が読まれます。洗礼は荒れ野(=試練の場)の意味をもっています洗礼の準備期間として定められた四旬節の初めに、イエスの受けた試練の記事が朗読される理由は、洗礼によって信者一人ひとりが荒れ野(=試練の場)に導き入れられイエスを通して導かれる民となるということを認識させるためです。
 日本語の「誘惑」は「人の心をまどわし、悪いことに誘いこむこと」ですから、悪い意味合いを含んだ言葉です。しかし「試練」「試み」は、「直面している困難に積極的な意味を見いだし、それに立ち向かおうとする前向きな態度」を表しますから、悪い言葉ではありません。だから、大事なのは、どうすれば困難や苦しみを「誘惑」とせずに「試練」とすることができるか、その方法です。そこで今日の朗読は、アダムの受けた誘惑(第一朗読)、神のことばに聞き従ったイエス(第二朗読)、イエスの受けた試練(福音朗読)を語ります。

 福音朗読:
  神の子であることを示す
  (マタイ4章1−11節)

 イエスは四十日の断食の後、空腹を感じます。これは体を持つ人間として避けることのできない現実です。箴言28・21に「だれでも一片のパンのために罪を犯しうる」と記されています。私たちは、誘惑の原因となるものを私たち自身のうちに持っているのです。悪魔は、神の子なら石をパンに変えるように誘惑しますが、これは、あてにならない神よりも、パンのような物質を求めたらどうだという誘惑です。イエスはそのような神の子となることを拒絶し、神の力を自分のために利用しようとはしません。むしろ「神の口を通して出て来ることば」に自らを委ねます(3−4節)。
 第二の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降り、神を試そうとすることです。もし神がイエスを愛しておられるなら、神は天使を送って守ってくださるのだ、と悪魔は詩編91・11−12を引用して、巧みに誘惑します。愛を見える形で確かめたいという誘惑はとくに女性のかかりやすい誘惑だと言われていますが、宗教的には律法を守ること、つまり奇跡によって救いの保証を得ようとする自己義認などの形で現れて来ます。祭司長たちが十字架のもとで「神の子なら、自分を救ってみろ」とののしり、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と侮辱し(マタイ27章39−44節)、見える形で神の愛の実証を求めたのも、同種の誘惑です。イエスが示す神の子は、神を試すことなく、神が示す道をひたすら歩み続ける人です。イエスが神の子としての栄光を指し示すのは、華々しい奇跡ではなく、神の思いに従う十字架の道です(5−7節)。
 第三の誘惑は、世の宣教師が「中年の誘惑」と呼ばれたもので、何でも手っ取り早い手段(イエスの場合には、悪魔を拝む)を弄して(ろうして)、つまり神の栄光ではなく、世の栄光(「繁栄ぶり」と訳された語は栄光を意味する言葉です)を選ぼう、とする誘惑です。神以外のものを神とすることです。なかなか「うだつ」があがらず、早く目的を達しようとして、正義の道を踏み外してまでも、一攫千金の夢を追うのは中年の人に多いからです〔各種のギャンブルや収賄〔しゅうわい〕、果ては銀行強盗などがその例〕(8−10節)。
 このように、悪魔の誘惑は、すべて誤った神の子観(メシア観)に基づいています。イエスに従おうとする者もそれに陥る可能性があります。

 第一朗読:人が陥った罪
  (創世記2章7−9節・3章1−7節)

 神は園の中央に「善悪の知識」の木を生えいでさせます。「善悪の知識」とは「全知全能」のことです。だとすると、女を誘惑する蛇が「……神のように善悪を知るものとなる……」と述べたのは、木の実を食べれば「全知全能の神」になれると考えているからです。女は実を取って食べ、男にも渡したので、男も食べました。すると、確かに目が開かれましたが、目にしたのは全知全能の自分ではなく、隠さねばならない裸でした。裸は不完全さの象徴です。
 その不完全さは神のことばを聞くことによって埋め合わされるべき欠けです。そうであれば、人が陥った罪とは完全な者が不完全になったことではなく、不完全な者が自分の力で完全になろうとして失敗したことにあります。

 第二朗読:
  一人の従順によって
  (ローマ5章12−19節)

 12節と18節で比較されているのは、「一人の人によって死が及んだ」ことと「一人の正しい行為によってすべての人が命を得る」ということです。アダムは死を、キリストは命をもたらしましたが、それらは「普遍的な影響力」を持っており、すべての人に波及するものだと述べられています。
 パウロはここで、アダムが罪を犯したから人は罪から逃れられないという宿命論を述べているのではありません。なぜなら、13節で「律法が与えられる前にも罪は世にあった」と認めているからです。14節では罪を表すのに「パラバシス」が用いられています。この語には「掟に対する違犯」という強い意味があります。アダムは「パラバシス」の罪を犯しました。なぜなら、「してはならない」という神のことばに背いたからです。他方、アダムからモーセまでの人々が犯した罪は「パラバシス」ではありません。律法はそのとき存在していなかったからです。しかし、それでも、死が彼らを支配したのは、アダムのパラバシスが普遍的なものだったからです。アダムが犯した神のことばに背くという罪はすべての人が犯す可能性のある罪なのです。
 アダムの罪は神のことばを「踏み越え、迷い出た」ことにあります。この「罪」を吹き払うために、イエス・キリストは神のことばに「聞き従い」ました。神のことばへの従順こそ誘惑を試練に変える切り札です。イエスの十字架上の死によって、私たちを罪から救いだした神は、神のことばへの心からの従順を求めているのです。
2023年2月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「敵を愛しなさい」年間第7主日A年 2023年2月19日

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敵を愛しなさい
―年間第7主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  聖なる者となりなさい
  (レビ記19章1−2・7−18節)

 今日の朗読から割愛されているレビ記19章3−16節はモーセの十戒(出エジプト記20章1−17節)に基づいています(十戒の区分はカトリックの教えに従います)。
3節 「父と母とを敬いなさい」→第四戒。「安息日を守りなさい」→第三戒。
4節 「偶像を仰いではならない」→第一戒。
11節 「盗んではならない」→第七戒。「うそをついてはならない(神名の冒涜)→第二戒。
16節 「偽証をしてはならない」→第八戒。

 今日の朗読を含むレビ記17−26(27)章は「神聖法集(しんせいほうしゅう)」と呼ばれる掟集であり、長い年月をかけ、しかも律法の朗読が行われた集会との関わりの中で磨き上げられていった掟集だとされます。
 レビ記17−26(27)章が「神聖法集」と呼ばれるのは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」(19章2節)といった表現が繰り返されるからです。今日の朗読では、この表現に続いて、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と述べています。しかも、新共同訳は訳出していませんが、神の聖性を根拠にして、「聖なる者となりなさい」と求めています。
 しかし、「聖なる者」となるための努力は人間ひとりで行われるのではありません。レビ記20章8節に「わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする」とあるからです。人間と神との共同作業によって、聖なる者となります。

 第二朗読:
  あなたがたは神の神殿
  (汽灰螢鵐判3章16−23節)

 コリントの教会では分派争いが起こっていました(1章10−17節、3章3−4節)。パウロは分派争いをする人々に向かって、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と述べています(3章16節)。「神殿」は単数形を用いていますから、ここでの「神の神殿」は教会共同体のことです。パウロはコリントの教会の人々の目を「神の神殿」に向けさせることによって、教会内の分派争いは無意味であることに気づかせようとします。
 キリスト者とは、キリストによって救われた「神の神殿」です。分派争いをするのは、自分が誰であるかを忘れているからであり、だからこそパウロは、「自分を欺いてはなりません」と命じ、「人間(=自分が属する党派の党首であるパウロ、アポロ、ケファ)を誇ってはなりません」と説きます(18・21節)。
 神の神殿である「あなたがた」は「キリストのもの」なのであって、「パウロのもの」でも、「アポロのもの」でも、「ケファのもの」でもありません。むしろ、「パウロもアポロもケファも……一切はあなたがたのもの」です(22節)。パウロは、使徒たちは「神の神殿」に仕える者であって、教会を所有する者ではない、と考えています。だからパウロは、21−22節で、「すべては、あなたがたものです……一切はあなたがたのもの」と繰り返し、さらに「一切を所有するあなたがた」は「キリストのもの、キリストは神のもの」と述べて、最終的にすべてを所有するのは「神」であることを示しています(23節)。
 自分を知恵ある者と自負せず、すべてを支配(所有)する神(キリストの十字架に示された神の知恵)に目を向けるなら(3章18節)、分裂は起こらないはずです。

 福音朗読:
  イエスのことばの根底にある
  天の父の愛(マタイ5章38−48節)

 イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言います。そのことの成就のために、イエスは、六つのアンチテーゼを提示します。(△鯲ててはならない、姦淫してはならない、Nケ錣靴討呂覆蕕覆ぁ↓だ世辰討呂覆蕕覆ぁ↓ド讐してはならない、そして、ε┐魄Δ靴覆気ぁ△任后今日の福音は、そのイ鉢Δ砲弔い童譴辰討い泙后
 イエスの要請は、私たちに、根本的な転換を求めます。「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)。ただ仕返しを我慢するだけでなく、相手が望む以上に与えなさいというイエスの教えは私たちには難しすぎる課題です。しかも、相手が自分より強い有力者であれば、我慢もできなくはないでしょうが、「借りようとする者に、背を向けてはならない」(42節)と述べているように、イエスの教えは弱者に対しても同じ態度を要求しています。人間の自然な感情から言えば、弱者に対する忍耐はいっそう難しいことです。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。このようなことは、自分の力に頼っていてはとうてい実現できません。46−47節に登場する「徴税人」とは自分の利益を大事にするあまり神を忘れる人であり、「異邦人」とは真の神に出会っていない人をあらわしています。彼らのような生き方を乗り越えるには、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる天の父の愛(45節)に立ち戻ることです。
 イエスは「律法を完成する」と言いますが、それは「律法を一字一句違えず(たがえず)守る」という意味ではありません。「完成する」の対語(ついご)である「廃止する」は、もともと「ばらばらにする」を意味します。捕囚からの帰還後、ユダヤ教は硬直化し、律法本来の精神を忘れ去りました。ユダヤ教は律法をばらばらにしてしまいましたが、イエスはむしろその精神が現れるようにと新たな息吹を吹き込みました。ばらばらに分解されていた戒めは、イエスによって神と隣人とへの愛で一点に結ばれたのです(マタイ22章40節)。
 だから、山上の説教はあれこれせよという命令でもなく、できるだけそれを守れという勧めでもなく、いざ決戦に備えよという進軍ラッパでもありません。イエスの(山上の説教の)ことばの前提には、天の父の愛が流れています。それはイエスの喜ばしい便りなのです。まず、イエスのことばの根底にある天の父の愛に目を向けることが大切なのです。
2023年2月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の序盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ……」年間第6主日A年 2023年2月12日

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あなたがたの義が
律法学者やファリサイ派の
人々の義に
まさっていなければ……
―年間第6主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  人間の自由とは
  (シラ書15章15−20節)

 この書は紀元前190年頃にエルサレムで書かれたと思われますが、その頃のエルサレムは押し寄せるヘレニズム・ギリシア文化にさらされ、ユダヤ人の中にもその賛同者が現れる時代でした。この書の著者(シラの子イエスス)は決して偏狭な伝統主義ではありませんが、伝統的な宗教心が衰えることに危機感をもち、信仰を堅持するようにと説くためにこの書を著したと思われます。
 人間は自由意志を与えられた存在として、自分の行為に責任を持つべきだと、シラの子イエススは考えています。自由意志の強調は、ヘレニズム(ギリシア文化)の波に洗われたこの時代にあって、律法を中心とする伝統的な価値観の効力が弱まったことと関係しているかも知れません。これまでは無条件に受け入れられていた伝統的な価値観が揺らぐ中で、行為への責任を強調し、命への道がどこにあるかを自ら選択するようにと訴えています。
 16節の「火と水」が17節では「生と死」に置き換えられています。自分の行為に責任を持たねばならないのは、死に至る道もあれば、命に通じる道もあるからです。18節以降、「すべてを見通される」主は、主を畏れる人たちに「目を注がれる」というように、人間の心も行為をも見通す神が強調されます。神の目を強調するのは、ヘレニズム文明の波を受け、イスラエル社会が未曾有の動揺を体験しているからです。20節では、主は「不信仰」や「罪を犯すこと」を命じたことはないし、許しもしないと述べます。シラの子イエススは自由意志を認める一方で、掟の意義を強調しますから、彼の考える人間の自由は「何でもできる」という自由ではなく、「選び」のための自由だと言えます。人間の自由は、何に従って生きるかを決める自由なのです。決めた後は、それに結ばれて生きることになります。

 第二朗読:
  神の知恵を語る
  (汽灰螢鵐2章6−10節)

 パウロは自分の宣教は「優れた言葉や知恵」によらないと述べ、人間の知恵に対して否定的な態度を示していました(2章1−5節)。しかし、パウロは「信仰に成熟した人たちの間では」知恵を語ります(6節)。パウロが語る「知恵」とは、成熟したキリスト者が持つべきものであり、それはこの世の知恵と全く異なっています。そこで7節以下では、真の「知恵」がどこから来るのかを述べます。
 パウロは「私たちが語るのは、……神の知恵である」(7節)と述べ、彼が語る知恵の特徴を述べます。「神の知恵」は「神秘」であり、「隠された」ものです(7節)。隠された神秘ですから、神の知恵は「神が明らかに示す」(10節)ということがなければ、私たちはそれを知る手段はありません。神は、「神の深みさえも究める霊」(10節)を私たちに与えました。この知恵は「人の心に思い浮かびもしなかった」知恵ですから(9節)、霊の働きがなければ、誰も知ることができない知恵です。
 「私たち(パウロたち)」は神の知恵を語りますが、それは神から霊の力を受けているからです(10節)。ですから、パウロが言う「信仰に成熟した人たち」(6節)とは、神の知恵は霊の働きによって明らかにされることを知っている人たち、ということを指しています。

 福音朗読:
  律法を完成するために来た
  (マタイ5章17−37節)

 今日の福音では、まずイエスの使命、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17節)という宣言が行われ、次に「あなたがた(キリスト者)の義が律法学者やファリサイ派の人々にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(20節)とされ、いくつかのキリスト者の義の例が詳しく述べられています(全部で6例あげられますが、終わりの2つは次の主日にまわされています)。その内容が真に厳しいことは誰の目にも明らかですが(例えば目をえぐり出すことなど)、イエスの真意はどこにあったのでしょうか。
 ある解釈では、山上の説教は遵守(じゅんしゅ)不可能な命令で、ただ人間に自分の無力さを自覚させ、神の前に貧しい者として生活させるために与えられたものだ、とします。「心の中でもいけない」というのは厳しすぎるかも知れませんが、これは宗教と法律というものを考えなくてはいけません。今私たちが、日常触れている法律は、民法にしても刑法にしても、私たちの誰もが守れるものです。大学の先生のように知識がないと守れないとか、体力がないと守れないとか、というようなものなら、それは市民の法律にはなりません。けれども、宗教の法は、普通の人が守れないほど高く輝くものであっても構いません。厳しいことを言って、それをひとつのレベルとして保っているのです。つまり、守れないほど強い厳しいものでなければ、宗教の法としての意味が成り立ちません。だから、守らなくてもいいと言うと具合が悪いですが、守れないことがあります。そこに人間は自分の分際を知るのです。
 しかし、これら全部を遵守不可能と言って片づけることはできません。イエス自身「狭い門と広い門、良い木と悪い木、岩または砂の上に家を建てた人」(7章13−27節)のたとえをもって、御言葉を守るように勧めています。

 今日の朗読のまとめ
 イエスは「あなたがた(キリスト者)の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ……」(20節)と述べ、キリスト者の義を示します。それは遵守するのは不可能と思われますが、キリスト者の根源となる掟です。教会が信仰に成熟した人たちの集まりであれば何も問題はありません。しかし、現実は、いつの時代にもいろいろな問題を抱えていました。今もそうかもしれません。そのとき、自由意志をもって御言葉に裏付けられた判断基準を選択し、神の知恵をもって問題の解決を図ることができればと思います。
2023年2月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教

ミサ説教プリント「あなたがたは地の塩……世の光である」年間第5主日A年 2023年2月5日

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あなたがたは地の塩……
世の光である
―年間第5主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   5章13−16節


 第一段落:
  あなたがたは地の塩である
  (13節)

 イエスは「山上の説教」(マタイ5−7章)を聴いている弟子たちと群衆(=すなわち、イエスのもとに集まり、彼の言葉に従って生きようとするすべての人)に、「あなたがたは地の塩である」と宣言します。「地の塩であれ」とは言わずに、「地の塩である」と言い切っていますから、彼らはすでに「地の塩」なのです。
 塩は食物に微妙な味をつけ、また腐敗を防いで、清潔さを保ちます。イエスに関わる人々は、地上に塩味をつけるという役割を担っています。しかし、忘れてはならないことはその塩味はイエスを通して神から与えられるということです。イエスに従うことなしに、塩は塩となることができません。
 イエスはこの事実に基づいて「塩に塩気がなくなれば」と仮定します。この表現を直訳すると「塩が馬鹿になるなら」となります。当時の塩は現代のように精製された白い塩ではなく、不純物も多く混じっていて、湿気を吸って塩味が抜けてしまうことがよくありました。マルコは「塩気をなくす(アナロス)」という言葉を使いますが、ルカとマタイは「馬鹿になる(モーライノー)」を使います。「モーライノー」に変えたのは、時のしるしを見逃す弟子たちや人々の愚かさをほのめかすためです。
 塩が味を失って本来の働きをなくすなら、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」こと以外に道はありません。世に対して神から委ねられた「地の塩」としての役割を果たせなくなったキリスト者も同じことです。

 第二段落:
  あなたがたは世の光である
  (14−15節)

 イエスのもとに集まった人々は「世の光」であります(14節)。この光の特徴は「隠れることができない」ことです。パレスチナに特徴的な「山の上にある町」は、どこにも姿を隠すことができません。また、人は「ともし火」を升の下ではなく燭台の上に置いて、家中を照らすようにします。同じようにイエスから与えられた、キリスト者が身に帯びる光は隠れることができず、また隠してしまったら何の役にも立ちません。イエスに従う者は、言葉と行動によって、イエスの光を外に輝かします。

 第三段落:
  天の父をあがめるようになるために
  (16節)

 すでに塩であり、光である「あなたがた」に「光を輝かしなさい」という命令が与えられます。これを直訳すると「あなたがたの光輝きなさい」となります。イエスは「あなたがたの光」とは言いません。イエスが期待するのは、自ら光を輝かせるのではなく、すでに与えられている光を覆って隠してしまわずに人々の前に示し、その光の出所を指し示すことです。そのとき、人々は「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめる」ことができます。

 今日の福音のまとめ:
  塩であり光である

 塩には味付け、清め、腐敗防止といった働きがあります。レビ記2章13節によれば奉納物には塩がふりかけられます。エリシャはエリコの町の水源に塩を投げ入れて良い水に変えました(列王記下2章19−22節)。ラビの伝統では、塩は知恵のシンボルです。
 今日の第二朗読では、キリストの十字架に示された神の知恵と人間の知恵が対比されています。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も心に知るまいと心に決めていたからです」とパウロの決意が述べられます(2節)。十字架につけられたキリストに示された知恵ではなく、人間の知恵に頼ろうとする愚かさが誰の中にもあります。この言葉は、十字架につけられた救い主のほかに、何かを知りたいと思う私たちへの警告のように聞こえます。
 3節の「衰弱していて」を直訳すると「弱さの中に」となります。コリントの教会では、分派争いが起こり、自分たちを「知恵ある者」と誇る者が教会内に現れました。「神の力」は人の言葉や知恵から見れば「愚かな」と映る十字架のキリストに現されました。パウロが「弱さの中に」留まるのは、それが「地の塩」として「神の力」を伝える唯一の方法だからです。人の言葉や知恵を誇る者に対して、パウロは、神に召されたときにいかに自分たちが無力であったかを思い起こさせ、「地の塩」として人々に働きかけ、神の力に目をむけさせようとしています。
 塩は見映えがせず、溶けてしまえば人の目に触れることはありませんが、塩は物の内にあって働くもの、光はその反対に外部にあって、内のものを外に現す力を持っています。だから、「地の塩」はイエスの弟子たちが世界に働きかける遠心的動き(外に向かって働く力)を述べ、「世の光」は、その光を目指して世の人々が近づいてくる求心的な動きを表します。また、ヨハネ福音書で語られるような「真の光」としてのイエス=キリストとの関連で考えるなら、イエスに従う者が光である根拠は「真の光」を反射する者、あるいは「真の光」がその内に住んでいることです。
 イエスに従う者は世から隔離させるのではありません。彼らは「地の塩」であり、「世の光」であり、人々に踏みつけられることがないように、人々の前に光が輝くように配慮します。それは人々が彼らの「立派な行い」を見て、神をたたえるようになるからです。 立派な行いとは、(具体的には)旅人をもてなし、困っている人を助け、病人を見舞うことなどです。けれども、これらの立派な行いは、人が誇るためでも、そのこと自体に意味があるのではありません。その行いを見た人が天の父をあがめるようになるためなのです。
2023年2月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教


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