主任司祭メッセージ

ミサ説教プリント「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」三位一体の主日 2024年5月26日

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すべての民に
父と子と聖霊の名によって
洗礼を授けなさい
〜 三位一体の主日 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マタイによる福音
   28章16−20節


■ガリラヤの山で(16−17節)
 弟子たちは復活したイエスにひれ伏しますが、疑いも生じます(17節)。この「疑う」は、もともとは「二つに分かれる」を意味しました。新約聖書ではここの他にただマタイ14章31節で用いられています。夜、イエスが湖を歩いて弟子たちの舟に近づいたとき、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、風を恐れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロは、イエスのもとに行きたいと思う一方で、恐怖を覚えます。しかし、「疑う」は欠点のままで終わるのではなく、叫んでイエスに助けられたペトロは、「本当にあなたは神の子です」(マタイ14章33節)と告白していますから、「疑う」が告白へと高まることがありえるのです。
 今日の福音でも同じです。弟子たちはイエスの指示(マタイ26章32節、28章10節)に従ってガリラヤの山に登りました(16節)。指示に従ってガリラヤに行った弟子たちのように、近寄るイエスの言葉(18節以下)に従うとき、「疑い」は信じることへのステップになるのです。

■イエスの言葉(18−20節)

[18−20節の直訳の構成]
18節
私にすべての権力が与えられた
天において そして地の上で。

19節
だから行って
すべての民を弟子としなさい
彼らに父と子と聖霊の名前へ洗礼を授けて

20節
彼らに私があなたがたに命じたすべてを守ることを教えて
そして見よ 私はあなたがたと共にいる
世の終わりまですべての日々。

 イエスの言葉(18−20節)は上の構成図のように、三つの文章から出来ています。最初の文章では、天と地に対する権威が「私」に与えられたと述べます。三番目の文章では、世の終わりまで、いつも弟子たちと共に「私」がいるという約束を述べます。二番目の文章では、権威を持ち、いつも共にいる「私」が弟子たちに指示を与えます。
 この指示に使われた動詞を拾い上げると、「行って―弟子としなさい―授けて―教えて」となります。主要な動詞である「弟子としなさい」以外はすべて分詞形ですから、イエスの言葉(18−20節)の要点は「弟子としなさい」です。

■今日の福音のまとめ
 「荒れ野」に入ったイスラエルは、神を疑い、神を試します。しかし、「荒れ野」はそのような危険に満ちているからこそ、かえって誰が命を与え、支えているのかを悟ることができる場所ともなりました。第一朗読(申命記4章32−34節、39−40節)では、モーセに導かれたイスラエルの民は、「荒れ野」の厳しい旅を終え、ヨルダン川の東岸に到着し、対岸を見渡す所までやって来ます。モーセはそのような民に向かって、シナイ山での律法に続き、「第二の律法」と呼ばれる申命記を語り聞かせ、約束の地での生き方を前もって教えます。
 荒れ野と約束の地の間に立ったイスラエルは、私たちの姿でもあります。彼らは「荒れ野」で神を疑い、神を試した失敗を省み、約束の地での生き方を示す「律法」が与えられました。私たちも神を知らずに、神を疑った過去を捨て、約束の地に向かって進んでいます。しかし、私たちに与えられたのは「律法」ではなく、「神の子とする霊」でした。しかも、私たちはこの霊によって、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです(第二朗読 ローマ書8章15節)。
 フランシコ訳聖書の注釈では、今日の福音16節の「父と子と聖霊の名によって」を「私たちは洗礼によって主イエスのものとなり、イエスと一致し、イエスの父を私たちの父とし、イエスの霊を私たちの霊としてもつ、という意味である」と説明しています。つまり、洗礼によって、私たちは父と子と聖霊の親しい交わりに招き入れられるのです
 今日の福音では、復活したイエスに出会った弟子たちの中には疑う者もいました(17節)。この疑いについて新共同訳の注解書では次のように説明しています。「マタイが『疑い』を記したのは、信仰が礼拝と疑いの両面をもつという心理的分析によるのではなく、マタイの時代にすでに復活顕現の伝承に自らの体験を語り得た世代はもはや過去となり、顕現を語るのみでは疑いを克服できなくなってきた事情が反映している。他の福音書でも顕現における『疑い』のモティーフは取り上げられているが(ルカ24章41節、ヨハネ20章25節)、それらの箇所では復活者イエスが具体的に自分の体を示すことによって、弟子たちの疑いを取り去るのであって、疑いは復活を逆に証明する道具となっている。これに対してマタイは、復活したイエスの体を示すことによってではなく、『言葉』によって信仰を確立する道を打ち出すのである。イエスの与える言葉とそれへの現在的服従こそが『疑い』を克服するのである」。
 今日の福音のイエスの言葉(18−20節)の要点は「弟子としなさい」です(19節)。「弟子とする」とは、父と子と聖霊(三位一体)の交わりに招き入れることです。この交わりは父と子と聖霊の名による洗礼によって始められ、イエスの言葉を守るようにと教えることによって保たれるのです
2024年5月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文前半の「18−20節の直訳の構成」の部分は、原文(Wordファイル)では濃い下線と淡い下線が使われていますが、両者の使い分けがWeb上では難しいので、濃い下線は「下線+太字」で代用させていただきました。また、スマートフォンでも読みやすいよう、原文での字下げを解除したり、改行を増やしたりしております。
 原文どおりの下線表現やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「真理の霊はあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊降臨の主日B年 2024年5月19日

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真理の霊は
あなたがたを導いて
真理をことごとく悟らせる
〜 聖霊降臨の主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音
   15章26−27節、16章12−15節


 弁護者の証し
  (15章26−27節)

 弁護者(パラクレートス)という言葉は、ヨハネ福音書には四回用いられています。この四回の用例を比較すると、弁護者を派遣する者に食い違いがあるのが分かります。今日の福音の26節では弁護者を遣わすのはイエスですが、14章16節では「父は別の弁護者を遣わして」と述べられており、父が弁護者を派遣することになっています。矛盾しているように見えますが、ヨハネの興味が聖霊の送り手の特定ではなく、むしろ聖霊の働きにあったとすれば、おかしなことではありません。
 ヨハネが強調しようとしていることは、弁護者の人間への関わりであって、弁護者の由来ではないのです。ヨハネが語るのは、人間と関わる聖霊の背後には常に父とイエスがいることを示すためであり、イエスが昇天した後、父と子が聖霊を通して人間にさらに深く関わり始めたことを示すためです。だから、イエスが父のもとから遣わす霊は、私たちの「弁護者」であり、別名「真理の霊」です。この霊は、イエス・キリストを証しすることによって(26節)、人間を助け、慰め、また真理の中へ導くのです。「真理」とは神の教え、ここではイエス・キリストを通してもたらされた神の恵みと救いを指します。
 聖霊の役割はイエスを証しすることにありますが(26節)、イエスは弟子たちの共同体にも証しすることを求めます(27節)。それは、教会の宣教と同じと言ってもよいと思います。しかし、この証しは神または聖霊の働きであって、人間はあくまでも神に用いられる道具なのです。

 真理の霊が告げること
  (16章12−15節)

 地上のイエスの時点での弟子の無理解が指摘された(12節)後、それとは、対照的に、弟子たちの共同体を真の理解へと導く聖霊の働きが述べられます。真理の霊は、「(弟子たちを)導いて真理をことごとく悟らせる」のです(13節)。それは、同時に、世の誤りを明らかにすることです(ヨハネ16章8節)。しかし、真理の霊は、イエスにおける神の啓示に全く新しいことを付け加えるのではなく、あくまでも霊の働きとして、「これから起こることをあなたがたに告げる」(13節)のです。
 「これから起こることをあなたがたに告げることである」(13節)は、フランシスコ会訳の注釈では次のように説明しています。「『これから起こることを語る』は、三つの解釈がある。ある学者は、聖霊が事の起こる前に使徒たちに予告するとの意に解する(使徒言行録21章11節)。他の学者は、聖霊が初代教会内に起こる諸問題の意味を、その都度、使徒たちに悟らせるとの意に解する(使徒言行録11章1−18節)。また、将来起きるキリストの死と復活による救いの秘儀の意味を、後に、聖霊が使徒たちに悟らせるとの意に解する者もいる(使徒言行録4章8−16節)」。
 14節では、真理の霊が「栄光を与える」ことが語られます。この言葉は、12節の弟子の無理解を前提にしています。地上においてのイエスの啓示は、弟子たちの理解が弱かったために、ある程度限定したものでした。もちろん、それは、啓示自体が限定されたものであるということではなく、啓示を受け取る側の理解が限定されたものであったということです。従って、イエスの栄光が完全に開示されるためには、聖霊が必要です。
 15節では、父と子の一体性を述べます。それこそが、聖霊が弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠なのです←このような父と子と聖霊の一致は、後の三位一体論につながっていきます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音では、弁護者(パラクレートス)はイエスが父のもとから遣わす「真理の霊」として描かれています。この「真理の霊」は、イエスについて証しします。今日の福音の15章26−27節の前後には、世がイエスの弟子たちに仕かける迫害が語られています。世はイエスとその弟子を憎み、これを迫害します(15章20節・23節)。その迫害は会堂から追放し、弟子たちのいのちを奪うほどの徹底したものです(16章2−3節)。そして弟子たちの心にも「つまずき」、つまりキリストに対する信仰を失う危険が忍び込むことすらあり得ます(16章1節)。しかし、このような信仰の危機にさらされている弟子たちの共同体に、イエスは証しすることを求めます(15章27節)。15章27節の「初め」はイエスが行った宣教の「初め」であると同時に、後の世のキリスト者が信じ始めた「初め」でもあります。いつの世のキリスト者であれ、イエスと出会う「初め」を持っています。つまり、イエスは「今」の私たちの共同体にも証しするように求めているのです。
 イエスは「まだ(語るべきことが)たくさんあるが、『今』、あなたがた(弟子たち)には理解できない(直訳 耐えることができない)」と言います(16章12節)。イエスの言葉を受け止められない「今」とは、聖霊降臨(第一朗読参照)が起こる以前の時間を指しますが、同時に聖霊による導きが必要となったすべての「今」でもあります。聖霊の助けがない「今」は、イエスの言葉を理解できないし、イエスに従うことが引き起こす困難に耐えることもできません。しかし、「真理の霊が来ると」、そのような「今」がまったく新しい「今」に変えます。「真理の霊はあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。真理の霊は、人間を助け、慰め、出来事の意味を告げるからです。父がイエスへと伝えられた真理の内奥が、今度は聖霊によって弟子たちに伝えられ、その奥深い神の恵みと救いの神秘が私たちのうちに明らかにされるのです。
2024年5月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「主イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれた 〜昇天は別れではなく、新たにイエスと私たちが『共に働く』開始の時〜」主の昇天B年 2024年5月12日

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主イエスは天に上げられ、
神の右の座に着かれた
〜 昇天は別れではなく、
新たにイエスと私たちが
「共に働く」開始の時 〜
主の昇天B年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   16章15−20節


 今日の福音は三つの段落に分けることができます。中心は19節でイエスの昇天を述べています。その前に置かれた前半部(15−18節)ではイエスの指示が述べられ、後に続く20節では指示を忠実に実行する弟子たちの姿が描かれています。

 弟子たちの不信仰を強調する
  三つの顕現物語

 今日の福音の直前(マルコ16章9−14節)には「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」が述べられています。
1.「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。…マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(9−11節)。
2.「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことを信じなかった」(12−13節)。
3.「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」(14節)。

 今日の福音は、「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」の直後に置かれていますが、弟子たちが不信仰から脱却したとはどこにも書かれていません。イエスが弟子たちを宣教に向けるのは、彼らが完全な信仰を持っていたからではありません。不信仰であっても宣教へと送り出しています。

 弟子たちの実行
 15−18節では不信仰な弟子たちに宣教という指示が与えられ、20節では弟子たちはその指示を忠実に実行しています。
 20節の日本語訳は「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで働いた。主は彼らと共に働き…」というように二つの文章に訳されていますが、原文ではこの二つの文章を独立属格構文によってひとつながりの文章にしています。文法的にはひとつながりの文章にすることで宣教する弟子たちと「共に働く」イエスの存在を強調しています。
 イエスは宣教という指示を弟子たちに与え、弟子たちはその指示を忠実に実行します。宣教は人々を信仰へと招くだけでなく、不信仰を抱えたまま宣教した弟子たちをも変えます。なぜならそこにイエスが「共に働く」からです。

 今日の福音のまとめ
 聖書学では、今日の福音は2世紀初めのマルコの教会に属する人たちによる加筆だと考えられています。当時の教会の人たちは直接肉眼でイエスを見た人たちは帰天し、多くの信仰者は宣教者の証言を信じた人たちでした。今日の福音の直前に置かれている「弟子たちの不信仰を強調する三つの顕現物語」は実際に当時の教会に起こっていた出来事なのです。
 今日の福音を加筆した人たちは自分の共同体の中に不信仰の状態、即ち復活したイエスと出会う信仰体験をすることなく、直接肉眼でイエスに会った人たちの証言を懐疑的であることから生じる不信仰を見ていたのでしょう。そして、これは今日の教会の中でも同じような不信仰が数多くの次元で見られます。
 今日の福音で驚くべきことは、イエスは弟子たちの不信仰を叱責(16章14節)しますが、その弟子たちに対して「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」(15節)と指示をします。イエスは宣教者に完全な信仰を期待していないのです。
 「第一朗読」と「福音」の昇天は、宣教という「横への広がり」を可能にし、「第二朗読」の昇天は信仰の成長という「縦の広がり」を可能した出来事です。不信仰をイエスに叱責された弟子たちは、イエスの指示を忠実に実行することで、「共に働く」イエスによって、全世界へ向かう宣教者と変えられ、またよりいっそう深く知ることができるようにされました。
 昇天という出来事はイエスが地上から遠く離れてしまったように見えます。しかし宣教の主体は弟子たちというよりも、イエス自身であることを考えれば、イエスは離れたのではなく、むしろ昇天したことによって、「神の右の座に着かれ」(19節)、地上と天とがいっそう緊密に結ばれることになったのです。昇天はイエスとの別れではなく、新たに私たちと「共に働く」開始の時なのです。

 レクティオ・ディヴィナから
 自分の周りの人々に福音を分かち合いなさい(宣べ伝えなさい)というイエスの呼びかけにどのように応答しますか。信仰を分かち合った時の経験はどのようなものでしたか。福音の証人となるために力を与えていただけるよう聖霊に祈りましょう。
2024年5月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」復活節第6主日 2024年5月5日

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友のために
自分の命を捨てること、
これ以上に大きな愛はない
〜 復活節第6主日 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音
   15章9−17節


■ レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から


 何故イエスは、一番大事な条件として愛を強調するのでしょうか。どのようにして私たちは、イエスの愛の中にとどまることができるのでしょうか。

 今日の福音は先週(復活節第5主日)の続きです。「とどまる」という語が先週に続いて何回か使用されていますが、今日の福音では「愛(の中)にとどまる」という一段と深い表現になっています。先週の福音の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)の比喩(ひゆ)に見られるように、「イエスにとどまる」とは外見的・表面的なとどまりかたではなく、イエスの存在の最深部にとどまることを意味しています。イエスの存在の最深部とは、イエスの子としての存在を形造っているもの、即ち父の子に対する愛、子の父に対する愛のことです。
 今日の福音は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(9節)という句で始まります。この「ように」という前置詞は単なる比較ではなく、そのものの原因・構成要素を表しています。つまり、「父が子を愛された」その愛が原因となって、弟子たちに対する子(イエス)の愛が構成されます。別の言い方をすれば、イエスの弟子たちに対する愛を成立させるのは、父の子に対する愛であって、父から子、子から弟子へと伝えられる愛は同一である、と言うことです。
 「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)は、イエスの愛の中に入り、その交わりにとどまって、イエスの弟子としての存在を形造りなさい、という意味です。イエスの考えでは、弟子もイエスと同じように愛がイエスの弟子の一番大事な条件となるはずのものだからです。ですからイエスは言葉をついで「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(10節)と述べます。イエスの命令した掟「互いに愛し合いなさい」(17節)を守るとき、私たちはイエスの愛の中にとどまっていることになるのです。

■ レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から


 イエスが私たちを愛する方法は、仲間のキリスト者たちを愛するためにどんな意味を持っているか、よく考えてみましょう。友のために命を捧げるということは、実際的にどういう意味なのでしょうか。

 イエスは15節で「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言います。つまり「友と呼ぶ」のは、私たちがイエスは何をしているかを知っているからです。13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉は、一般的に最大の愛について語っているのではなく、間接的にイエスの十字架上の死を指し示しています。そのようなイエスの愛を知り、イエスの愛の中にとどまり、「互いに愛し合いなさい」という愛の掟を守ることによって、イエスの「友」と呼ばれるのです。
 父から子、子から弟子へと伝えられる愛は同一です。イエスの愛を知るということは父の愛を知っているということです。父は愛によってすべてを赦します。敵対する者を率先して受け入れ、愛に値しない者を愛にふさわしい者と変えられ、選ばれます「あなたがたはわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。でも、これだけだと「友」という言葉全体を言い表していません。「友」と呼ばれるためには相互愛が起こらなければいけません。
 イエスが私たちを愛する方法は、仲間のキリスト者たちを愛するためにどんな意味を持っているのでしょうか。イエスが私たちを愛する方法は「友」の関係となるということです。つまり、「あなたがたとわたし(イエス)は、友になる。わたしが上座にいる『主人』であなたがたはそこの下座にいる『僕』、ということはもはやない。私たちは一緒に愛の苦難と痛みを受けるのだ」。同じように、仲間のキリスト者を愛することも「友」の関係、相互愛の実践なのです。

■ 今日の福音のまとめ
 イエスは17節で「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と命令について語ります。しかし愛は決して命令されるものではありません。愛は要求によって得られるものではありません。「互いに愛し合いなさい」という掟を、イエスの要求と考えるならば、それは「主人と僕」の関係であり「友」の関係ではありません。第二朗読では「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(汽茱魯佑亮蟷4章7節)と述べます。この掟は強制的な命令ではなく、愛を込めた呼びかけなのです。
 旧約聖書のアダムは神からあたえられた掟「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」(創世記3章3節)に反することによって罪を犯しましたが、イエスは愛によって「父の掟」(10節)即ち十字架上の死と復活を受け止めます。私たちも「互いに愛し合いなさい」という掟を愛によって受け止め、守ることによって、イエスの十字架上の死と復活というイエスの愛の中に「とどまる」ことができます。こうして「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)というイエスの言葉が教会共同体において体験されることになるのです。
2024年5月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部で、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、本文では太字で、小見出しでは太字・下線かつ頭に「■」を付けることで代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」復活節第5主日B年 2024年4月28日

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人がわたしにつながっており、
わたしもその人に
つながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ
〜 復活節第5主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ヨハネによる福音
  15章1−8節


 今日の福音は、最後の晩餐の席でイエスが話した長い講話(告別説教)のほぼ中心部にある「ぶどうの木のたとえ」です。今日の福音の1−6節は「ぶどうの木のたとえ」ですが、7節以降になると、たとえとの関連が急に弱まり、むしろ告別説教とのつながりが色濃く現れています。
 要約すると、1−6節の「ぶどうの木のたとえ」は次のような構成になります。

[1−2節 父]
 私はぶどうの木 私の父は農夫である。父は実を結ばない枝を取り除く、実を結ぶものは手入れをする。
    ………………………………………
    [3−4節 私]
     あなたがたはすでに清い、私の言葉で。わたしにつながっていなさい。私につながっていなければ 実を結ぶことはできない。
    ………………………………………
[5−6節 あなたがた]
 私はぶどうの木 あなたがたは枝である。人がつながっていれば、実を結ぶ。つながっていなければ、焼かれる。

 つながっていなさい
 1−6節の「ぶどうの木のたとえ」は、1−2節は「父」の働きを述べ、5−6節は「あなたがた」の姿に視点が移りますが、その間の3−4節では「私につながっていなさい」との呼びかけが行われ、これが「ぶどうの木のたとえ」の目的になっています。「つながっていなさい」(ギリシア語 メノー)は「人が自分本来の在り方を見出したところを離れずに、そのまま留まっていなさい」という意味です。

 手入れ・清め
 旧約聖書ではイスラエルがぶどうの木にたとえられていますが、このぶどうの木は悪い実をならせてしまうぶどうの木です(イザヤ書5章1−7節、エレミヤ書2章21節、ホセア書10章1節など)。そこで、イスラエルに代わって、イエス自身が「まこと」のぶどうの木となります。このぶどうの木が実を結ぶことができるのは、農夫である父なる神が「手入れをする(直訳 清くする)」(2節)からです。
 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)と言います。ここで「清く」と訳された語は2節の「手入れをする(直訳 清くする)」と訳された動詞と同じ語源です。実を結ぶように父なる神が「手入れをし(清くし)」、イエスが「清く」します。しかも、ぶどうの木であるイエスにつながる者が清くなるのは将来のことではなく、「既に清くなっている」のです。
 旧約聖書のイスラエルの失敗は農夫(父なる神)から離れ、「自分だけ」(4節)で実を結ぼうとしたからです。イエスは10節で「私が父の掟を守り、その愛に留まっているように」と述べます。「ぶどうの木」であるイエスが「農夫」である父なる神に留まっているので、イエスの話した言葉は「枝」である弟子たちを清めることができます。
 キリスト者は「ぶどうの木」であるイエスにつながっているとき、イエスの言葉が根から吸い上げた養分のように「枝」であるキリスト者を清くし、「農夫」である父なる神の手入れ(清め)の作業とあいまって、「枝」であるキリスト者は豊かな実を結びます。つまり父なる神の「手入れ」やイエスの「清め」は、キリスト者の信仰の成長、豊かな実を結ぶ者としてあるべき姿に変えられていく、ということを指しています。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音は三人の「登場人物」が際立っています。ぶどうの木であるイエス、農夫である父なる神、そしてぶどうの枝である弟子たち(教会共同体)です。農夫はぶどうの木の手入れをします。ぶどうの木は枝を支え、枝はぶどうの木とつながっていなければ実を結ぶことができません。
 8節に「あなたがたが豊かに実を結び、わたし(イエス)の弟子となるなら、……」とあります。ここでの「実」とはイエスの弟子となることです。つまり、教会共同体の結ぶ実は、イエスが示す掟「互いに愛しなさい」を守ることにあります(12節)。しかしその実は教会共同体が独力で担おうとしても、失敗に終わります。ですから、イエスは「わたしにつながっていなさい」と繰り返し呼びかけます。イエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)と言います。
 教会共同体がイエスにつながっているならば、その教会共同体が願う祈りはおのずと父なる神のみ旨に見合ったあるべきものとして変えられ(清められ)、必ず聞き届けられます。こうして教会共同体は「互いに愛し合いなさい」という実を結び、父なる神の栄光が示される教会共同体へと変えられていくのです。
2024年4月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文序盤の [ ] で囲った小見出しは、原文では文字が四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので、 [ ] で囲うことで代用させていただきました。
 原文どおりのスタイルでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」復活節第4主日B年 2024年4月21日

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良い羊飼いは
羊のために命を捨てる
〜 復活節第4主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ヨハネによる福音
  10章11−18節


■ レクティオ・ディヴィナ
 MEDITATIO…黙想する から

1.イエスはご自分を「良くない」羊飼いたちとどのように区別していますか。
 「良くない」羊飼いたちは雇い人にすぎません。雇い人が世話をする羊は自分の羊ではないので、雇い人は狼が来ると羊を置いて逃げます。しかし、イエスは羊のために命を捨てます。イエスと「良くない」羊飼いたちの区別は、羊のために命を捨てるのか、捨てないのか、にあります。

2.良い羊飼いは羊たちをどのように警護するのでしょうか。
 14−15節では「知っている」が四度も繰り返されています。父なる神とイエスがお互いを「知っている」ように、イエスと羊もお互いを「知っています」。この「知る」は一方通行の知的な働きではなく、人格的な相互の愛の交わりに基づく「知る」です。雇われた「良くない」羊飼いには「(ただの)羊」(13節)であっても、良い羊飼いには「自分の羊」(14節)ですから、羊の命に無関心ではいられません。このような人格的な交わりに動かされて、良い羊飼いは「羊のために」命を捨てます。
 つまり、イエスと「良くない」羊飼いたちの本当の区別は、イエスは父なる神を知り、父なる神がイエスを知っているように(15節)、イエスは自分の羊を知っており、羊もイエスを知っている(14節)、ということにあります。イエスは自分の羊を知っているゆえに「羊のために」命を捨てます。良い羊飼いは羊たちをどのように警護するのでしょうか。それは、良い羊飼いイエスは自分の羊を個別に知っており、それぞれの羊たちの必要を知っているので警護することができるのです。

3.イエスが、羊たちの襲う狼たちのことを言うとき、イエスは誰のことを指しているのでしょうか(マタイ10章16節参照)。
 マタイ10章16節の「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」の「狼」は、悪質狂暴な人間の意。旧約ではイスラエルを荒らす指導者たち、外敵を指し、新約では偽預言者、偽教師たちに使われています。イエスは、ここで、12人の弟子たちを派遣するにあたって、世俗的な名誉や成功を約束するのではなく、かえって苦難を約束されます。
 人間の歴史は、苦難に冒険的にいどんだ者たちによって変えられてきました。イエスは冒険的な信仰の道を示しておられますが、それが狂信的冒険でないことは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10章16節)という迫害に処す原則提示によって知られています。

4.イエスは彼の羊たちを最終的にどのように守るのでしょうか。
 14−15節と17−18節は、父なる神との交わりの中でイエスが命を捨てることが語られています。特に17−18節では、イエスは強制的に命を奪われるのではなく、自ら進んで命を捨てることが言われます。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」。
 その理由が二つの方向から述べられています。第一に、父なる神がイエスを愛しており、命を捨てることは父なる神の「掟」、つまり意思だと知っているからです。「それゆえ、父はわたしを愛してくださる」。「これは、わたしが父から受けた掟である」。
 第二に、命を捨てるのは、「再び受ける」ことができると知っているからです。「わたしは命を、再び受けるために捨てる」。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。 イエスの死と復活は神のみ旨です。イエスは父なる神との交わりの中で、「再び受ける」という確かな希望に包まれて自ら進んで十字架上で命を捨てるのです。
 14−15節と17−18節は、父なる神との交わりの中でイエスが命を捨てることが語られましたが、16節では命を捨てる理由が語られています。「この囲いに入っていないほかの羊」とは異邦人を指します。彼らは「(イエスの)声を聞き分ける」し、「一つの群れに(なります)」。イエスが十字架上で命を捨て、復活によって再び命を受けた後、異邦人も救いにあずかります。異邦人には私たちも含まれます。最終的にイエスの十字架上の死と復活によって、私たちも救われ、守られることが約束されているのです。

■ 今日の福音のまとめ
 今日の福音は羊飼いと羊たちとの深い交わりに焦点をあて、イエスは弟子たちにとって、指導者以上の者であると強調します。羊たちは羊飼いの声を聞き分けて彼について行きます。羊飼いは自分の羊を個別に知っており、それぞれの羊たちの必要を知っています。羊たちに求められているのは、羊飼いであるイエスの声を聞き分け、イエスがどこへ行こうとも後をついて行くことだけです。「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。キリスト者の共同体はふさわしく福音を歩むとき、「一人の羊飼い、一つの群れ」という理想が実現するのです。
 「狼」は羊を奪い、殺します。狼は偽預言者や偽教師です。彼らは自分自身を宣べ伝え、自分の知恵や思想を語り、良い羊飼いとして命を捨てるイエスを無視します。
 ところで、自分自身の心の中に「良い羊飼いのイエスと羊である自分」だけではなく「狼」も棲んでいませんか? この「狼」は他人のことを指していません。自分自身のことです。「狼」に心を奪われないようにしましょう。
2024年4月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部で、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、本文では「斜字(イタリック)+太字」で、小見出しでは「頭に「■」を付ける+下線」で代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。


ミサ説教プリント「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』。…あなたがたはこれらのことの証人となる」復活節第3主日B年 2024年4月14日

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次のように書いてある。
「メシアは苦しみを受け、
三日目に死者の中から復活する」
…あなたがたは
これらのことの証人となる
〜 復活節第3主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ルカによる福音
   24章35−48節


■ 1.レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から
 イエスは、弟子たちが本当にイエスが死から復活したことを受け入れることが出来るよう、どのような手助けしたでしょうか。

 36節で、弟子たちの真ん中にイエスが立ち「あなたがたに平和があるように」と言われますが、彼らは亡霊だと思い恐れおののきます(37節)。このような亡霊の出没についての俗信は当時のユダヤで珍しくありませんでした。
 ルカによる福音が編集された当時、ギリシア的霊肉二元論に基づくキリスト仮現説がはびこり始めていました。キリスト仮現説とは、キリストの魂或いは霊が、生まれたときに体に入って、死ぬときに神のところへ帰る、つまりキリストは本来神の世界に属する者で、この地上に現れたものの、それは仮の姿であった、真の人間ではなかった、とする説です。
 今日の福音は、魂の復活ではなくからだの復活であることを、第一に手足をもった復活であること(39−40節)、第二に焼いた魚を食べたこと(41−43節)をもって、こうした誤りや異端を締め出す復活の出来事として記されています。
 イエスの復活という使信に対して、当時のユダヤには様々な反論がありました。弟子が死体を持ち去って、偽りの宣伝をしているのだというのが、まずユダヤ教会に流れた説明であって(マタイ28章11―15節)、マタイはこれを論駁(ろんばく)しました。誰かが死体を移したので、行方不明になったのではないか、とも考えられました。ヨハネはこの説を論駁します(ヨハネ20章2・13・15節)。さらに、弟子の見たのは幻か霊にすぎなかったのではないか、という疑惑も、ユダヤ人の頭に浮かんだことでしょう。それをヨハネも(ヨハネ20章26−29節)、ルカも今日の福音で反論したわけです。尚、全く狂気の沙汰と見る見解は、使徒言行録26章23−29節で取り扱われています。

 イエスが手足を見せ示しても、弟子たちは「まだ信じられず」(41節)いるので、彼は焼き魚を彼らの前で食べて、体をもっていることを証明します。しかし、イエスが焼き魚を食べたから信じた、と今日の福音は記していません。弟子たちの目(心の目)が開くのは、45節に至ってからであり、それも復活したイエス自らが(聖霊によって)彼らの目を開きます。そこでは復活したイエスは聖書の説明をしています。

■ 2.レクティオ・ディヴィナ
  MEDITATIO…黙想する から
 イエスは弟子たちを 次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」。…あなたがたはこれらのことの証人となる」(48節) として描きます。彼らは目撃者なのです。今日私たちはどのような方法で証人になることができると思いますか。

 第一朗読の使徒言行録3章15節で、ペトロは「あなたがたは、(イエスを)殺してしまいましたが、神は(イエスを)死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」と言います。復活したキリストは死んだイエスです。この同一性、継続性は重要です。十字架と復活を結び付けているからです。復活のキリストに従うことは十字架を担った方(かた)に従うことです。「わたしの手と足を見なさい。」(39節)というのは、教会に対するキリストのことばであり、弟子たちはその目撃者なのです。
 44−48節は、キリストの教えと委任を含んでいます。この教えは新しいものではなく、復活のキリスト及び歴史的存在であるイエス「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)と旧約聖書「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)とのあいだの連続性を強調しています。
 弟子たちの委任は、彼らに対する教えと同じく、旧約聖書に根をもっています「次のように書いてある」(46節)。「それは書いてある」という言い方は、「それ以前からの神の計画であった」ということなのです。旧約聖書の中ですでに示されている神の計画は、教会の宣教の特質となるメッセージが含まれています。メッセージは、.リストは苦しみを受け、三日目に死から復活した(つまり復活したキリストは死んだイエス)(46節)と ∈瓩硫い改めと赦しが与えられるということです(47節)。
 このメッセージが「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)というのは、イスラエル(その全てではないが)が福音を拒絶したから、その後そのような方向に教会の宣教は発展していった、ということではありません。「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という教会の宣教は最初から神の計画であった、と今日の福音は語っているのです。
 しかし、弟子たちは初めからそのように理解したのではなく、またそのように行動していません。今日の福音で、イエスは彼らの前で焼いた魚を食べることまで行いますが、物的証拠をどんなに積み重ねても、聖書のことばの成就(神の計画)を信じる者に変わるとは限りません。イエスが彼らの心の目(知る力)を「開いた」とき、それが決め手となって、彼らを証しする者に変えます。弟子たちでさえ、証人となるためには、イエス自らが(聖霊によって)繰り返し与える開示と励ましを必要としたのです。
 今日私たちはどのような方法で証人になることができると思いますか。まず聖霊の働きを祈りましょう。
2024年4月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部で、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、本文では斜字(イタリック)で、小見出しでは頭に「■」を付けることで代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「八日の後、イエスが来られた」復活節第2主日(神のいつくしみの主日)B年 2024年4月7日

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八日の後、イエスが来られた
〜 復活節第2主日
(神のいつくしみの主日)B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ヨハネ20章19−31節

 復活節第2主日は、2003年から「神のいつくしみの主日」と付記されるようになりました。「神のいつくしみの主日」に毎年朗読される今日の福音は、平和と聖霊の授与、派遣、信じることへの呼びかけが含まれ、教会の使命、ミサの意味とも直結する重要な箇所といえます。

 イエスは罪を赦すことによって教会を建てる
 今日の福音の前(ヨハネ20章18節)で、マグダラのマリアがイエスの復活を弟子たちのところに行って告げます。弟子たちはそのことを耳にしていることを前提にすると、弟子たちはユダヤ人たちを恐れているだけでなく(19節)、もう少し内面化して彼らの心を想像すると、弟子たちは自分たちがイエスを裏切り、見捨て、見殺しにしたことの事実に脅え、恐れていたということも考えられます。つまりイエスがもう一度生きかえって弟子たちに顕れる(あらわれる)ということについて、弟子たちが脅え恐れていました。なぜならイエスが来れば、彼らの裏切りが指摘され、イエスを見捨て、見殺しにした彼らの罪が裁かれ、断罪されると思っていました。そのような状況の中で、イエスは「あなたがたに平和があるように」(19節)と弟子たちに言われます。
 イエスが用いたのは、シャローム「平和があるように」という意味の言葉です。ヘブライ語のシャローム(平和)は、神が共におられる時のことであり、その時こそが真の平和であると考えられていました。神の臨在に触れている、こんなに安心・平和なことがないというのがシャロームという言葉です。
 イエスがここで「平和があるように」と言われたのは、イエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている罪人である弟子たちに、「神が共にいてくださる」ということを宣言しています。イエスは裁く神としてではなく罪を赦す神として、弟子たちと共にいてくださる、と言います。これが「平和があるように」という言葉の本質です。この宣告をイエスから受けた時、弟子たちは自分たちのような者が神のいつくしみによって赦されたということを受け入れ、信じたのです。と同時に、イエスが弟子たちの罪の贖い(あがない)となって十字架で死んでくださったということも受け入れたことを示します。弟子たちの派遣によって教会は建てられるのですが、この教会は罪を赦しによって建てられることが示されているのです。

 見ないのに信じる人は幸い
 イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と言います。「見る」という言葉はある意味で「信じる」ということと直結している言葉です。ここでは、見て信じる信仰と見ないで信じる信仰とが対比されています。今日の福音の背景として、ヨハネの教会は生前のイエスや復活のイエスの目撃者である直弟子たちの時代は過ぎ去って、ほとんどの人々が生前のイエスを見たことがなく、また復活のキリストを直接見たことがない人たちでした。つまり、見ないのに信じた人たちばかりだったのです。

 本書の目的(30−31節)
 30節の「しるし」は、奇跡ではなく、目に見える出来事の背後に、目に見えない神の救いの業を読み取るという視点から用いられています。31節では、ヨハネ福音書の執筆の目的が明らかにされます。イエスを神の子メシアと信じることであり、その信仰により、イエスの名により(永遠の)命を受けるためです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは2度にわたって弟子たちに現れています(来ています)が、そのいずれもが週の初めの日(日曜日)のことです。週の初めの日は感謝の祭儀(ミサ)を行う日です。ヨハネの教会のほとんどの人々は生前のイエスや復活のキリストを直接見たことがない人たちでした。見ないのに信じた人たちはどこでイエスと出会ったのでしょうか。それはミサです。ミサが行われるときにはいつも、イエスは真ん中に立ち、「平和があるように」と述べます。十字架によって私たちの罪を贖った(あがなった)イエスは、復活によって死に打ち勝ち、罪を赦す神として、私たちと共にいてくださいます。見ないで信じた人々はミサの中で神のいつくしみに出会っていたのです。
 ヨハネ・パウロ2世教皇が帰天の直後に発表された最後のメッセージで「神のいつくしみの主日」について次のように述べています。「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。この愛が、回心をもたらし、平和を与えます。どれほど世界は、神のいつくしみを理解し、受け入れる必要があることでしょうか」。
 ヨハネ・パウロ2世教皇「神のいつくしみの主日のメッセージ」(カトリック中央協議会)より。
 (1) キリスト者は神のいつくしみ(赦しや平和)の大きさを信仰によってミサの中で味わうこと。
 (2) キリスト者は神の息が吹き込まれ(聖霊の授与)、神のいつくしみを世界に伝える教会の使命(派遣)が与えられていること。
 (1)と(2)が復活節第2主日「神のいつくしみの主日」を祝う目的なのです。
2024年4月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

教会便り巻頭言「エマオの弟子たち―今日(きょう)どのように主イエスに出会うことができますか―」(2024年4月号)

エマオの弟子たち
―今日(きょう)どのように
主イエスに出会うことができますか―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 エマオの弟子たち
 (ルカ24章13−35節)

 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて(さえぎられていて)、イエスだと分からなかった(2)。

 17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかった(1)のですか」。19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。

 25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自身について書かれていることを説明された。

 28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人は、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(2)が、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語りあった。

 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった(1)次第を話した。

 今日どのように主イエスに
  出会うことができますか

 クレオパともう一人の弟子は、「イエスの生涯」についてよく知っています(17−24節)。彼らはそれについて話し合い論じ合っています(15節)。ただ、彼らは「イエスの生涯」の意味が分かりません。「イエスの生涯」の意味を理解するためには「聖書」に基づいていなければいけません。そして「聖書」の説明は、復活のキリストによって行われています(25−27節)。この説明があってはじめて「秘跡」(30節 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった)のうちに、復活のキリストだと認めることができました。そして、彼らがイエスだと分かった瞬間に姿が見えなくなった(31節)ということは、これからは(そして今日も)「聖体」の秘跡のうちにこそ主イエスに出会うことができるということを、私たちに教えています。
 「エマオの弟子たち」は同じ語源を持つ二つの動詞、ギノスケイン(1)―知る、理解する、エピギノスケイン(2)―認める、分かる、が入り交じっています(上記の聖書箇所に(1)(2)の数字を付けています)。特に、最初と最後では状況が変わります。二人の弟子たちは、認めない、分からない→認める、分かる→知る、理解する、に変わります。
 初めは、二人の弟子の目は「遮られてイエスだと分かる(エピギノスケイン)ことができません」(16節)。したがって、イエスが変わったのでも、行商人に身をやつしたのでもありません。弟子たちが変わったのです。彼らは期待が裏切られたと思って失望の闇に閉じこもり、この期待がイエスにおいて思いがけない方法で実現したことを理解(ギノスケイン)していないのだから、イエスだと見分ける(エピギノスケイン)ことができなくなっています。パンが裂かれたとき、彼らの目は開けました。復活のキリストを認める(エピギノスケイン)ことができたこの心の変化は、人間から来るものではありません。彼らの目は、聖書を「開いて」説明してくれたイエスによって開かれるのです。
 弟子たちは道中ではイエスだと分かりません(エピギノスケインすることができません 2節)。だが、パンが裂かれたときに認め(エピギノスケイン 31節)、イエスが自分を知らせた(ギノスケインさせた)と言い切ります(35節)。イニシアティブを取るのは、いつもイエスなのです。
 ルカはこのように<イエスの生涯を知ること―聖書―秘跡>という、「エマオの弟子たち」の中で三つの本質的な要素の役割を指摘し、この三つの要素から「今日どのように主イエスに出会うことができますか」という問いかけに答えています。
 参考資料:「新約聖書の世界への旅」(エティエンヌ・シャルパンティエ著 井上弘子訳 鈴木信一監修 サンパウロ社発行)49−50頁

ミサ説教プリント「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」四旬節第5主日B年 2024年3月17日

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一粒の麦が
地に落ちて死ねば、
多くの実を結ぶ
〜 四旬節第5主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ヨハネによる福音
   12章20−33節


 レクティオ・ディヴィナで味わう福音(MEDITATIO 黙想する)から
 今日の福音で、イエスはどのようにご自分の十字架上の死を暗示しているでしょう。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。
 ここではイエスが十字架に付いて死ぬことによって多くの者たちに永遠の命を与えられ生かされることが象徴されています。イエスは自分の命を惜しまないで十字架に付くことによって神のみ旨(かみのみむね=神の思い)を行いました。26節でイエスは弟子たち、教会に言います。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」。
 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」(27−28節)。
 ヨハネ福音書におけるゲッセマネの園の祈りに匹敵する箇所です。「この時」とはイエスが十字架につけられる時のことです。「父よ、御名の栄光を現してください」はマルコ福音書における苦い杯を飲み干すという決断、「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14章36節)というイエスの祈りのヨハネ福音書的な表現です。
 「わたしが地上に上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(32節)。ここでは「上げられる」という言葉が二重の意味で用いられています。イエスが十字架の上に上げられるというのが第一の意味です。イエスの贖い(あがない)によって人間の罪が赦され、すべての人がイエスのもとへ引き寄せられるという意味です。第二の意味は、天に上げられるという意味で、イエスの復活と昇天を意味しています。イエス自身が神の右に座しておられるとすれば、イエスのもとにはまさにすべて神の与える人々が引き寄せられることになります。

 イエスはまた、人生を通して彼を導いた偉大な原則について述べています。この原則は何でしょうか?
 「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう』」(28節)。
 「栄光を現す」ということは神が神であるということを示します。イエスの生涯においてイエスの業を通して神の栄光が既に明らかにされてきました。これからはイエスの十字架とこれに続く復活において神はイエスが何者であることを明らかにします。このことを媒介にして神ご自身の思い、神がどのような方であるかということがまた顕現されると宣言しているのです。

 イエスが、「この世の支配者が追放される」(31節)と話した時、誰のことを言ったのだと思いますか?
 「この世の支配者」は二重の意味をもち、地上における権威者、大祭司、或いはこの後に出て来ますピラト、或いはローマ皇帝等と解釈することも可能ですが、ここでは彼らを使ってイエスを拒否する「サタン」と同一視して読まれています。

 どのような方法であなたはイエスに仕え、従いますか?
 イエスの十字架の時は栄光の時です。今日の福音は十字架と栄光とは一つであることを示しています。イエスに仕え、従う者の栄光の時は、「服従」「痛み」「僕(しもべ)であること」の時と同じです。人生がこの世の価値観に死んで執着しない時、「この世の支配者」が追放されます。イエスに仕え、従うことは最初から最後まで「執着しない」ということなのです。現代人の生活は「執着する」ということにあります。イエスが指し示すことは「(イエスに)従え」「(この世の価値観に)執着するな」「(この世の価値観に)死ね」「多くの実を結ばせるために地の中に入れ」ということなのです。確かに、イエスの十字架によって「この世の支配者」は追放されました。それにもかかわらず、「この世の支配者」はいついかなる時に入り込んで来るかもしれません。私たちが信仰に躓く(つまづく)時はいつでも「この世の支配者」が再び心の中に入り込んで来ているのです。

 レクティオ・ディヴィナで味わう主日の福音(ORATIO 祈る)から
 イエスは32節で、十字架に上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せようと約束します。今までに、イエスがあなたをより近くに引き寄せるのを経験したことがありますか?
 教会は受難(十字架)と復活とを合わせて「キリストの過越秘儀」又は「復活秘儀」と名付けています。「苦しみ(受難・十字架)を経て栄光(復活)へ」。これは四旬節の主日の福音のテーマとなっています。「イエスがあなたをより近くに引き寄せるのを経験したこと」があるならば、それは苦しみの時(十字架の時)を経てイエスとの新しい出会いの体験(復活体験)をした時でしょう。これは聖霊体験でもあります。私たちが新しくイエスと出会うためには自分の十字架を担う必要があるのです。
 時として、こういった愛に接することは、あなたに恐れを抱かせるかも知れません。イエスが目に見える形で御父を愛し信頼したように、あなたがイエスを愛し、信頼することが出来るよう助けを願いましょう。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。(レクティオ・ディヴィナで味わう主日の福音から)。
2024年3月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)では一部の小見出しで、フォントが明朝からゴシックに変更されていますが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。また、原文で「ゴシック」の直前に「ゴシックかつ太字」がある箇所では、後者を「太字かつ下線」で代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。


ミサのご案内
【主日のミサ】
 ・前晩(土曜)18:00
 ・日曜 9:30
  毎月第3日曜は手話つき
【週日のミサ】
火・金 10:30
(変更する場合がございます。
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[Mass Schedule]
Saturdays at 18:00
Sundays at 9:30
Tuesdays and Fridays at 10:30(Subject to change. Please check the monthly schedule table on this web site.)

電話(045)893-2960
JR本郷台駅徒歩7分
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