主任司祭メッセージ

ミサ説教「悔い改めよ。天の国は近づいた」待降節第2主日A年 2022年12月4日

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悔い改めよ。
天の国は近づいた
―待降節第2主日A年

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音3章1−12節

 洗礼者ヨハネの登場
 待降節第2主日には、ABC年とも、荒れ野に主の道を備える洗礼者ヨハネが登場します。ルカ福音書は救いの歴史におけるヨハネの位置を、マタイ福音書とマルコ福音書はメシア(=イエス)の先駆者としての使命を強調しています。しかし、マルコはヨハネを福音の初めとみなして、旧約聖書と彼の出現との対応を宣言的に叙述するのに対して(マルコ1章1−8節)、マタイは福音の初めをイエスの誕生に見ており(マタイ1章1−25節)、ヨハネの活動には主の道を備える諸要素のひとつ―イエスの受洗(3章13−17節)、イエスが悪魔から誘惑を受ける(4章1−11節)、ガリラヤで宣教を始める(4章12−17節)―としての意味しか与えていません。かくして、洗礼者ヨハネはもはや「預言の時」ではなく、イエスとともに「メシアの時」(=救いの成就の時)を生きることになります(マタイ11章12節)。
 まず福音の冒頭の「そのころ」(3章1節)の時間設定によって、終末の時(救いの成就の時)が始まっていることが宣言されます。今や救いの歴史は頂点に差しかかり、決定的な救いの時を迎えようとしています。
 マタイによると、洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者の声」として「主の道を整える」ために遣わされるというイザヤの預言を成就する者であり(3章3節)、「らくだの毛衣、革の帯、いなごと野蜜」(3章4節)という描写は、まさに預言者エリヤを彷彿(ほうふつ)とさせるものでした(列王記下1章8節)。当時の人々は、メシア(救い主)の到来に先駆けてエリヤが再来すると考えており(マラキ書3章23節)、洗礼者ヨハネの姿を見た民衆は、彼こそ再来のエリヤだと期待しました。イエス自身ヨハネのことを「来たるべきエリヤ」だと断言しています(11章14節、17章12節)。

 メシアの先駆者として
 洗礼者ヨハネはメシアの先駆者として「悔い改めよ」と回心を呼びかけますが、続いて「天の国は近づいた」と述べていますから、回心の根拠は「天の国」の到来にあります。従って、ヨハネが説く回心は、自分の内面を反省することではなく、まずは「天の国=神の支配」、つまり神が地上に及ぼそうとしている支配に目を向け、自分の生き方をそれに方向転換することです。「天の国(神の国)」とは一定の領域や組織を持った「国」ではなく、「神が王として支配する」という動的な側面を強調した表現です。マタイは他の福音書とは異なり、神の名を口にするのを避け、畏敬の念を込めて「天」と表現しました。メシアであるイエスもこの言葉で宣教を開始しています(4章17節)。
 洗礼者ヨハネは回心の具体的な表明として、民衆に罪を告白させ、洗礼を授けます。罪とは、神に背を向けて生きてきた人間と神との間に生じたずれです。聖書の考え方では、人間はどんなに努力し、どんなに善い行いを積んでも、そのままでは神に喜ばれる実を結ぶことはできません。ヨハネは、神の支配が始まろうとしている今、人間がまず為すべきことは、自分ではなく神のほうに生きる向きを変え、神との間にあるずれをなくすこと、すなわち罪の告白を伴う「洗礼」を受け、神の支配に心を向けることを呼びかけます。

 ヨハネの洗礼とメシアの洗礼との違い
 11節では、ヨハネの洗礼とメシアの洗礼との違いが明らかにされます。ヨハネの洗礼は「水」によるものであり、「悔い改めに導くため」にあります。それに対して、来たるべきメシアの洗礼は「聖霊と火」によるものです。つまり、この洗礼は回心のためではなく、人を救うため、そして同時に人を裁くためのものです。聖霊は生かし、火は焼き尽くします。ヨハネの洗礼は、この決定的な洗礼に備えるためのものなのです。
 その洗礼を、ヨハネは収穫のたとえを用いて説明します。その方は箕を手にして「麦」を倉に納め、「殻を消えることのない火で焼き払われます」(12節)。もみ殻と麦との選別は人と人との間に行われるだけではなく、むしろ一人の人間の中でも行われます。もみ殻を除かれた人は麦そのものですから、祝福のうちに生きることになります。

 今日の福音のまとめ
 待降節の二重の来臨の意味
 「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この2つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)」。

 今日の福音は待降節第2主日に割り当てられています。しかし一部の教会では、待降節はクリスマスの準備、すなわち受肉(第1の来臨)の意味を黙想する準備の期間となってしまった、という指摘をする解説書がありました。待降節は、赤ちゃんの姿でのキリストの第1の来臨だけでなく、人を救うため、そして同時に人を裁くため、「聖霊と火で洗礼を授ける」(11節)審判者としてのキリストの第2の来臨にも焦点が当てられているのです。
 そこで私たちは、待降節における二重の来臨の意味を保持することが大切です。私たちは神の愛に応えず、「悔い改めにふさわしい実を結ばない」「良い実を結ばない木」の人々に対する裁き(8節・10節)をすっかり忘れて、クリスマスにおける愛の到来ばかりを考えてはならないのです。そこで洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と宣べ伝え、悔い改めをぐずぐず引き延ばしてはならないと警告するのです。
2022年12月4日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教


※ 注(Web担当者より)
本文の終盤で斜字(イタリック)にしている部分は、原文では文字が四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのレイアウトやフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「目を覚まして用意していなさい」待降節第1主日A年 2022年11月27日

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目を覚まして用意していなさい
―待降節第1主日A年

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 「目覚め、理解し、用意して」待ち望む

 待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この2つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)。

 待降節は二つのことを待ち望みます。一つは、旧約の人々がキリストの誕生(第1の来臨)を長い間待ち望んだことを思い出すことです。もう一つは、キリストの再臨(第2の来臨)を待ち望むことです。キリストの再臨のとき、世界は終わりを迎え、その後神の国が到来します。だから、キリストの再臨は、神を信じる者にとっては「愛と喜びに包まれた時」となるのです。
 ノアの時代の人々が救いから除外されたのは、彼らが「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という普通の生活を送っていて、神の裁きの日という「その日」のことを考えなかったからだ、と今日の福音は伝えます(マタイ24章37−39節)。神のことを考えずに、普通の生活時代を送っていること自体がすでに罪なのです。
 イエスが「目を覚ましていなさい」(42節)、「用意していなさい」(44節)と命じるのは、キリストがいつ再臨するか分からず、しかも思いがけない時に来るからです。キリストがいつ再臨するかは、人はまったく知ることができません。ノアの時代の人々が滅びに追いやられるのは「いつであるかを知らない」からではありません。「知らない」ことを理解しないこと=神を畏れず、神との関わりを失った生活をしていたことが、滅びの原因となりました。
 イエスは「わきまえていなさい(直訳 理解しなさい)」と呼びかけます(43節)。神だけがキリストの来臨の日を知っているとイエスは言いました(36節)。人間はその日を知りません。すべてを始め、すべてを終わらせることのできる権威は神にあることを認めるなら、その人は常に「目覚め、理解し、用意して」待ち望む姿勢を取ることになります。

 神の愛に応えて生きる
 イエスの神理解は、神を父とすること、「父なる神」という特徴があります。世の父親(母親)は、子どもが生まれる前から生まれることを待ち望み、子どもが父親(母親)を知る前から子どもを愛していました。同じように、父なる神は、私たちが神を知る前から先に私たちを愛してくださいました。それは、私たちがどういう者であるか、私たちが立派だったから、すばらしいことをしているから、そんなことは全然関係なく、父なる神が愛したかったから愛された、つまり無償で私たちを愛してくださったのです。だから、「わたしは父なる神を知っている、わたしは父なる神を愛する」ことよりも「父なる神が先にわたしを愛しておられることを知っている」ほうが大切です。そうした私たちの父なる神に対する姿勢が、神とわたしとの心からの対話(祈り)となり、神の愛に応える生き方となって現れます。
 神はアブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22章2節)と命じます。親にとって、自分の子どもを見捨てることは自分の命を捨てるよりも高価な犠牲です。神はその独り子であるキリストを私たちにプレゼントしてくださいました。聖書はこの箇所(創世記22章1−24節)で、神の独り子であるキリストの十字架上の死を見ています。
 クリスマスの本当のプレゼントはキリスト自身です。この真実は次の一句に書かれています。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)。これだけです。「これだけ」とは言っても、これこそ歴史上、最上の愛の出来事です。クリスマスは神から送られた最高の愛の「プレゼント」なのです。

 互いに愛し合う
 主の誕生を準備する待降節の最初に、キリストの再臨を述べる箇所が読まれます。キリストの降誕を祝う者は、キリストの再臨を待ち望みながら生きて行きます。今日の福音は、キリストの再臨を待つ者は「目覚め、理解し、用意して」生きるべき存在だと教えます。
 キリストの再臨は、過行く(すぎゆく)世界の中で起こる低次元のどうでもよい出来事ではありません。それは目覚め、理解し、用意して待つべき救いの出来事なのです。換言すれば「気がつかないで」(39節)その日を迎えることもありうるほど、キリストの再臨は毎日の平凡な生活の中で着々と実現されて行くので、真に目覚めた人だけがそれに気づくことができるのです。
 待降節は、教会が復活したキリストを迎え、それに対する待望を表現する季節ですので、まさに教会の本質的な使命(=福音宣教)を生きる時と、言えるでしょう。待降節の基本的な過ごし方は「目覚め、理解し、用意して」生きることにあります。しかし、「目覚め、理解し、用意して」生きることは単なる心構えではありません。再臨のキリストの御前にふさわしい者として選び出されるように神の愛に応える行為を行いつつ用意していることです。
 パウロはローマの信徒への手紙12章1節から始まる勧告で、まず「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」と勧めます。キリスト者の生活を支えるのはこのような礼拝だからです。そして神の愛を受けた者の務めは「互いに愛し合う」ことであると教えます(12章10節)。第二朗読では、そのように生きることのできる理由を述べています。パウロが勧める行いに励むことができるのは「今がどんな時であるかをあなたがたが知っているからです」(13章11節)。
 今日から待降節を迎えます。神の愛に応えて生きる者として「互いに愛し合い」、福音宣教の証しとなり、教会の使命に生きることができますように過ごして行きましょう。
2022年11月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教


※ 注(Web担当者より)
本文冒頭で斜字(イタリック)にしている部分は、原文では文字が四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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教会便り巻頭言「来臨は『待つ』のではなく『来られる』―待降節は愛と喜びに包まれた時―」(2022年12月号)

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来臨は「待つ」のではなく「来られる」
―待降節は愛と喜びに包まれた時―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 ●待降節

 待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第1の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この2つの理由から、待降節は喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)。

 「待降節」には「来臨」という言葉が使われます。「待つ」ということであれば、人間を中心に考えています。「(降りて)来られる」というのであれば、神(=「来られる」キリスト)を中心に考えています。私たちが「待つ」ことに重点を置くならば、待降節はよい準備ができたか、できていないか、ということをどうしても考えてしまいます。準備をすることも大切ですが、神(キリスト)が来たいから「来られる」ということであれば、期待と希望を持てます。愛と喜びに包まれた待降節を過ごすことができます。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)。イエス・キリストは、神のことを「天の父」と呼び、私たちにも同じように呼ぶことを教えられました。(世の)父親は、子どもが生まれる前から生まれることを待ち望み、子どもが父親を知る前から子どもを愛していました。同じように、父なる神は、私たちが神を知る前から先に私たちを愛してくださいました。それは、私たちがどういう者であるか、私たちが立派だったから、すばらしいことをしているから、そんなことは全然関係なく、父なる神が愛したかったから愛された、つまり無償で私たちを愛されたということです。だから、神と人間との愛の関わりの中で、人間が中心ではなく、神(キリスト)が中心、これは絶対に忘れてはいけないことです。
 マタイ24章から25章まで、「来臨」についての4つのたとえ話があります。「忠実な僕と悪い僕のたとえ話」「五人の賢いおとめと五人の愚かなおとめ(新共同訳:十人のおとめ)のたとえ話」「タラントンのたとえ話」「最後の審判のたとえ話(新共同訳:すべての民族を裁く)」です。この4つのたとえ話を、私たちは、いつも私たちの側からものを見てしまいます。「十人のおとめのたとえ話」では、よく準備をしているかどうか、「タラントンのたとえ話」では、忠実であるかないか、「最後の審判のたとえ話」では、小さい人を愛したかどうかなどというように。これも確かに大切なことです。しかし、「来臨」においては、私たちの側から見るのではなく、神(=「来られる」キリスト)の側から見ます。例えば、「タラントンのたとえ話」では、帰って来た時に忠実な僕を見る主人(=キリスト)が幸いなのです。神の愛に応えることができた人を見つけたことが、「来られた」キリストにとって幸いなのです。
 「待降節」―私たちは、父なる神の愛に応えるために、降誕祭を迎える準備しなければいけません。これも大切ですが、「来られる」キリストは、すべての人を救いたい、すべての人に自分の命を与えたい、すべての人に自分の愛を、喜びを、恵みを与えたいという思いの救い主なのです。人間の側から見るのではなく、神(=「来られる」キリスト)の側から見る。その視点があれば、父なる神から私たちへの最高の愛のプレゼントであるイエス・キリストの降誕(第1の来臨)に、もっと感謝し、もっと喜びのうちに、もっとリラックスをして、降誕祭(第2の来臨:「来られる」キリスト)を迎える準備をすることができると思うのです。待降節は愛と喜びに包まれた待望の時なのです。

※ 注(Web担当者より)
本文冒頭で斜字(イタリック)にしている部分は、原文では文字が四角で囲まれていますが、Web上でそれは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「2022年11月27日(待降節第一主日)から使用される新しい『ミサ式次第』の変更箇所のまとめ―会衆用―」2022年11月20日

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2022年11月27日(待降節第一主日)
から使用される
新しい「ミサ式次第」の
変更箇所のまとめ
―会衆用―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 開祭

1 会衆へのあいさつ
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。
  または
父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が皆さんとともに。
  会衆は答える。
またあなたとともに。

2 回心の祈り
(1) 回心の祈り一
  司祭は信者を回心へと招き、短い沈黙の後、一同は手を合わせ、頭を下げて、一般告白の式文を一緒に唱える。
全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
  続いて、司祭は罪のゆるしを祈る。←今までは宣言する。
全能の神、いつくしみ深い父がわたしたちの罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
  会衆は答える。
アーメン。

(2) 回心の祈り三
  司祭は信者を回心へと招く。短い沈黙の後、司祭あるいは助祭または他の奉仕者は、次のようなことばを先唱し、会衆は応唱する。
先唱 打ち砕かれた心をいやすために遣わされた主よ、いつくしみを
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに
先唱 罪びとを招くために来られたキリスト、いつくしみを
会衆 キリスト、いつくしみをわたしたちに
先唱 父の右の座にあって、わたしたちのためにとりなしてくださる主よ、いつくしみを
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに

3 いつくしみの賛歌(キリエ←「あわれみ」から「いつくしみ」に変更しました。
(一)
先唱 主よ、いつくしみを
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに
先唱 キリスト、いつくしみを
会衆 キリスト、いつくしみをわたしたちに
先唱 主よ、いつくしみを
会衆 主よ、いつくしみをわたしたちに
 
4 集会祈願
 会衆は結びにはっきりと唱える。
アーメン。

 ことばの典礼

1 第一朗読
 朗読者は朗読台に行き、第一朗読を行う。その間、一同は着席して聞く。朗読の終わりを示すため、朗読者は手を合わせてはっきりと唱える。
神のみことば
 一同は答える。
神に感謝。
 続いて、朗読者は聖書に一礼して席に戻る。一同は沈黙のうちに、神のことばを味わう。
2 答唱詩編
3 第二朗読 第二朗読が行われる場合は、第一朗読と同じように行う。
4 アレルヤ唱(詠唱)
5 福音朗読
 司祭は朗読台へ行く。必要に応じて、奉仕者は先導する。←侍者は司祭より先に行く。
主は皆さんとともに。
 会衆は答える。
またあなたとともに。
 司祭は言う。
〇〇〇による福音。
 福音を朗読する司祭が、額、口、胸に十字架のしるしをするとき、他のすべての者も同じようにする。
 会衆ははっきりと唱える。
主に栄光。
 司祭は福音朗読が終わると、福音書を両手で掲げてはっきりと唱える。
主のみことば
 一同は答える。
キリストに賛美。

6 説教

7 信仰宣言
 説教後、すべての主日と祭日、及びより盛大に祝われる特別な祭儀に、一同はニケア・コンスタンチノープル信条、あるいは使徒信条を、歌うかまたは唱える。
 ※改訂版には、キリストの受肉の神秘を述べる部分で一同が礼をすることが明記されました。受肉の神秘において、神の恵みに深い感謝を向ける、ローマ典礼の伝統的な礼拝行為です。
 ニケア・コンスタンチノープル信条
「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました」を述べるとき、一同は礼をする
 使徒信条
「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」を述べるとき、一同は礼をする

8 共同祈願(信者の祈り)
 ※改訂版には「共同祈願すなわち信者の祈りを行う」と明記されました。←共同祈願は信者の祈り

 感謝の典礼

1 祭壇の準備
2 奉納行列
 ※パンとぶどう酒、献金などの供えものをささげることを通して、自らの参加する心を表すことが勧められています。
3 パンを供える祈り
4 ぶどう酒を供える祈り
5 清め
 司祭は祭壇の中央に立ち、会衆に向かって手を広げ、次の招きのことばを述べてから手を
合わせる。
皆さん、ともにささげるこのいけにえを、全能の父である神が受け入れてくださるように祈りましょう。
 会衆は立って答える
神の栄光と賛美のため、またわたしたちと全教会のために、あなたの手を通しておささげするいけにえを、神が受け入れてくださいますように。
 一同はその後、しばらく沈黙のうちに祈る
7 奉納祈願
 会衆は結びにはっきりと唱える。
アーメン。

 奉献文(エウカリスティアの祈り)←第二奉献文

1 続いて、司祭は奉献文を始める。司祭は手を広げて言う。
主は皆さんとともに。
 会衆は答える。
またあなたとともに。
 司祭は手を挙げて続ける。
心をこめて、
 会衆は答える。
神を仰ぎ←会衆が唱える。
 司祭は手を広げたまま続ける。
賛美と感謝をささげましょう。
 会衆は答える。
それはとうとい大切な務め(です)

 典礼注記に従って叙唱が続き、その結びに感謝の賛歌(サンクトゥスを唱える。

 この後、司祭により奉献文が唱えられる。

3 栄唱
 司祭はホスティアを載せたパテナとカリスを手に取り、高く掲げて唱える。
キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで、
 会衆ははっきりと唱える。
アーメン。←会衆はアーメンのみ唱える。

 交わりの儀(コムニオ

 コムニオとは、キリストとの交わり、キリストにおける交わりを意味しています。
1 主の祈り
2 副文
3 教会に平和を願う祈り
4 平和のあいさつ
5 平和の賛歌(アニュス・デイ

 パンを裂かれている間に、平和の賛歌(アニュス・デイ)を歌うか、または唱える。
世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに。
←ことばがかわりました。
 パンを裂くために時間がかかる場合、何度か繰り返すことができる。最後に「平和をわたしたちに」で結ぶ
※現行版では会衆の最後の応唱は「平安を」ですが、直前の「主の平和」というあいさつのことばとの一貫性を考慮して「平和を」に変更されました。

6 拝領前の信仰告白
 司祭は手を合わせて深く礼をしてから、ホスティアを取り上げ、パテナあるいはカリスを添えて、会衆に向かってはっきりと唱える。
世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。
 続いて会衆とともに唱える。
主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます(百人隊長のことば)。
 または
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう(ペトロの信仰告白)。

7 聖体拝領
8 拝領祈願

 会衆は結びにはっきりと唱える。
アーメン。

  閉祭

1 お知らせ
2 派遣の祝福

 司祭は会衆に向かって手を広げて言う。
主は皆さんとともに。
 会衆は答える。
またあなたとともに。
「荘厳な祝福」あるいは「会衆のための祈願」を用いる場合はここで行います。その場合、司祭は「祝福を受けるために頭を下げて祈りましょう」と招きのことばを述べます
 司祭は会衆を祝福して唱える。
全能の神、父と子とで聖霊の祝福が + 皆さんの上にありますように。
 会衆は答える。
アーメン。
2022年11月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教


※ 注(Web担当者より)
 原文(Wordファイル)では、フォントは明朝と2種類のゴシックを使い分けていますが、Web上ではこの使い分けは難しいので、

・原文でとても太く見える「ゴシックの太字」は、太字かつ斜字(イタリック)で代用。ただし、見出しの場合は斜字にはせず、字の大きさを少し大きめにする
・原文で太く見える「ゴシック」は、太字に
・原文で“やや太字”のように見える「明朝の太字」は、斜字(イタリック)で代用
・原文であまり太く見えない「丸ゴシック」は、通常の書体のまま
・原文で、太字でない「明朝」のうち、「※」で始まる補足的な段落(下線部の一部を除く)は、やや小さい字にすることで代用

とさせていただきました。ご容赦を。
 また、スマートフォンのような小さな画面を考慮し、字下げの形態を一部変更しております。

 原文どおりの書式でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい―年間第33主日C年」2022年11月13日

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忍耐によって、
あなたがたは命をかち取りなさい
―年間第33主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


1 黙示文学
 今日の福音は、イエスの時代に流行していた黙示文学の影響を受けています。黙示文学は、紀元前2世紀から紀元後2世紀の400年にわたって流行していました。この文学の特徴は、天体、天の軍勢、天使と悪魔の戦い、そういう神話的、宇宙論的なファンタジーやイメージを使っていることです。黙示文学の代表的なものとして、旧約聖書ではダニエル書、新約聖書ではヨハネの黙示録があります。
 イエスの時代の人々は、神の介入によって、イスラエルの秩序が回復され、この世界は完成され、そしてこの世界の終わりを迎えると思っていました。この世界が終わった後に来るのは神の支配する国です。だから、終末は裁きではなくて完成です。完成されたら、人々が喜び溢れる(あふれる)神の国が到来します。終末は、怖れることではなく、神を信じる者にとっては喜び・希望の時なのです。
 聖書の中で一番警戒されている終末的生き方は、終末は、「いつ来るのか」、「どこの場所に来るのか」を問題にすることです(ルカ21章7節)。だから、今日の福音のような黙示文学の影響を受けている聖書箇所を読むときは、終末に向けて、「今」を自分がどのように生きているのか、を語りかけ、回心することが求められています。終末のとき、主の御前にふさわしく立てるように、「今」を生きる。「今」の自分の生き方を回心することが大切です。

2 終末的生き方
 第一朗読:
  見よ、その日が来る
  (マラキ書3章19−20節a)

 マラキは紀元前5世紀前半の預言者です。紀元前515年にエルサレム神殿が再建されたのに、約束された栄光が来ません。人々は待ちくたびれ、信仰の熱意が冷め、自分の願望を中心に生きたほうが得ではないかという思いが大きな誘惑になっていました。
 一足先に自己中心に生き始めた人の幸いを目にして、人々は「高慢な者を幸いと呼ぼう」(3章15節)と考え始めていますが、神はそれに応えて、「高慢な者」がわらのように燃える日が来ると告知します。私たちが普通に「高慢な者」と言えば、「思い上がって人をあなどる者」といった意味であり、神との関係は問題になっていません。しかし、聖書では神との関係が重要であり、「神ではなく、自分の願望を中心に生きる人」のことです。そのような人は神の目に「悪を行う者」なのです(19節)。
 ですから、「高慢な者」の正反対の人が「わが名を畏れ敬う」人とされています。「高慢な者」がわらのように燃やされる日が来ますが、その同じ日に「神を畏れ敬う人」には「義の太陽」が昇ります(20節a)。ここでの「義」は救いを表しますから、この太陽には「いやす力」があります。神は翼(つばさ)のように広がる光線となって、神を待ち望む者を救いに招きます。
 マラキは確かに将来の「その日(終末の日)」について語りますが、その目的は現在をどのように生きるべきかを説くためです。「その日(終末の日)」の到来に目を向けるとき、なえやすい信仰心を奮い起こし(ふるいおこし)、神に従う生き方に留まることができます。

 第二朗読:
  落ち着いて仕事をしなさい
  (競謄汽蹈縫3章7−12節)

 テサロニケ教会に見られる「怠惰(たいだ)な生活をする」信徒は、ただの怠け者なのではなくて、それなりの信仰理解に基づいて、働かずに「余計なこと」をしていた人たちです(11節)。この人たちは、2章2節から考えると、「主の日(終末の日)は既に来た」と主張している人たちであって、主の日が来たからには、この世に関わる仕事に従事すべきではないと考えたに違いありません。彼らは主の日が遅れていることに苛立ち(いらだち)、わずかな徴(しるし)の中に、主の日の到来を無理に見て、この世の仕事どころではないと熱狂したのかもしれません。
 パウロは、主イエス・キリストに結ばれた者にふさわしい生活とは、「落ち着いて仕事をする」ことだと教えます(12節)。「だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労をして、働き続ける」(8節)ことができるのは、主の日の到来が遅れていても、その日が遅れていても、その日が必ず来ると確信しているからです。主の日が遅れているといって、浮足立つことがあってはなりません。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と命じるのは、それが神への信頼を表す確かな態度となるからです

 福音朗読:
  忍耐によって、命をかち取りなさい
  (ルカ21章5−19節)

 ルカ21章12−19節の迫害の預言では、迫害は痛ましい出来事としてではなく、むしろ神の保護を現すものとして描写されています。それは信じる者に寄せられる「髪の毛の一本も決してなくならない」ような神の保護です(18節)。信頼する者はどのような困難に出会っても、それに耐えることができますキリストを信じる者の「忍耐」は、歯を食いしばって頑張る自力からではなく、神に信頼して救いを待ち望むことからわき上がってきます
 聖書が終末を語るのは、おびえを抱かせるためではありません。キリストを信じる者の「忍耐」は、いっそう優れた「命」を獲得するための道となることを説くためです(10節)。

 今日の朗読のまとめ
 典礼暦が終わりに近づきますので、教会は終末、すなわち神の計画の完成についての、聖書の教えを私たちに読んで聞かせます。聖書の中に記されている「終末」は、現今ブームと呼んでいる「世の終わり」とはまったく異なっています。それは、まず終末に向けて「今」を自分がどのように生きているのかという回心と、神に対する揺るぎない信頼を伴うもので、イエス・キリストによって歴史の中に始まり、完成に向かって進んでいるのです。
2022年11月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

教会便り巻頭言「新しい『ミサ式次第』の変更箇所 その5」(2022年11月号)

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新しい「ミサ式次第」の変更箇所
その5

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹



 2022年11月27日(待降節第1主日)から、ミサの式文が移行期間を設けず、一斉に変更します。その変更箇所の一部をまとめました。

 交わりの儀(コムニオ)

 コムニオとは、キリストとの交わり、キリストにおける交わりを意味しています。
1 主の祈り
2 副文
 司祭は手を広げたまま、一人で続ける。
いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、世界に平和をお与えください。
あなたのあわれみに
支えられて罪から解放されすべての困難に打ち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。
 司祭は手を合わせる。会衆は次のことばをはっきりと唱えて祈りを結ぶ。
国と力と栄光は、永遠にあなたのもの。
※現行版の司祭のことばの「支えられ」に「て」が加えられて、神の恵みを与えられることによって罪から解放されることが表されています。会衆のことばは、主の祈りを日本聖公会と共同で翻訳したときに、この応唱も含めて翻訳し許可されたので、改訂版ではそれに合わせて現行版の「限りなく」が「永遠に」に変更されました。

3 教会に平和を願う祈り
 司祭は手を広げてはっきりと唱える。
主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。「わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える」。主よ、わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばのとおり教会に平和と一致をお与えください。
 司祭は手を合わせる。
あなたはまことのいのち、すべてを導かれる神、世々とこしえに。←新しく加わった。
 会衆は答える。
アーメン。

4 平和のあいさつ
 司祭は会衆に向かって手を広げ、次のことばを述べてから手を合わせる。
主の平和がいつも皆さんとともに。
 会衆は答える。
またあなたとともに。
 状況に応じて、司祭は次のように続ける。
※「状況に応じて」なので、週日のミサなどでは行わなくてもよいことになります。
互いに平和のあいさつを交わしましょう。
 一同は平和と一致と愛を示すために、互いにあいさつを交わす。司祭は奉仕者とあいさつをかわす。

5 平和の賛歌(アニュス・デイ)
 パンを裂かれている間に、平和の賛歌(アニュス・デイ)を歌うか、または唱える。
世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
世の罪を取り除く神の小羊、いつくしみをわたしたちに。
世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに。
←ことばがかわりました。
 パンを裂くために時間がかかる場合、何度か繰り返すことができる。最後に「平和をわたしたちに」で結ぶ。
※現行版では会衆の最後の応唱は「平安を」ですが、直前の「主の平和」というあいさつのことばとの一貫性を考慮して「平和を」に変更されました。

6 拝領前の信仰告白
 司祭は手を合わせて深く礼をしてから、ホスティアを取り上げ、パテナあるいはカリスを添えて、会衆に向かってはっきりと唱える。
世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。
 続いて会衆とともに唱える。
主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます(百人隊長のことば)。
 または
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう(ペトロの信仰告白)。
※現行版では、会衆のことばとして、規範版にあるマタイ8章8節の百人隊長のことばに基づく式文の代わりにヨハネ6章68節のペトロの信仰告白のことばに基づく日本固有の式文を用いてきました。改訂版では、規範版の式文も掲載して、いずれかを選ぶように変更されています。

7 聖体拝領
 司祭がキリストの御からだを拝領している間に、拝領の歌を始める。
 聖体の授与が終わると、司祭はカリスの上でパテナをふき、カリスをすすぐ
※拝領の後、パテナをカリスの上でふくことが加わりました。
 その間に、司祭は静かに唱える。
主よ、口でいただいたものを清い心をもって受け入れることができますように。
このたまものによって、永遠のいのちに導かれますように。

 その後、司祭は席に戻ることができる。拝領後、一同はしばらく聖なる沈黙のうちに祈る。
 適当であれば、詩編か他の賛歌の歌、もしくは賛歌を歌うことができる

8 拝領祈願
 司祭は祭壇または自分の席で会衆に向かって立ち、手を合わせて言う。
祈りましょう。
 一同は司祭とともにしばらく沈黙のうちに祈る。続いて、司祭は手を広げて拝領祈願を唱え、会衆は結びにはっきりと唱える。
アーメン。

 閉祭

1 お知らせ
2 派遣の祝福
 司祭は会衆に向かって手を広げて言う。
主は皆さんとともに。
 会衆は答える。
またあなたとともに。
「荘厳な祝福」あるいは「会衆のための祈願」を用いる場合はここで行います。その場合、司祭は「祝福を受けるために頭を下げて祈りましょう」と招きのことばを述べます
 司祭は会衆を祝福して唱える。
全能の神、父と子とで聖霊の祝福が + 皆さんの上にありますように。
 会衆は答える。
アーメン。


※ 注(Web担当者より)
 原文(Wordファイル)では、フォントは明朝と2種類のゴシックを使い分けていますが、Web上ではこの使い分けは難しいので、

・原文で太く見える「ゴシック」は、太字に
・原文で“やや太字”のように見える「明朝の太字」は、斜字(イタリック)で代用
・原文であまり太く見えない「丸ゴシック」は、通常の書体のまま
・原文で、太字でない「明朝」のうち、「※」で始まる補足的な段落(下線部を除く)は、やや小さい字にすることで代用

とさせていただきました。ご容赦を。
 また、スマートフォンのような小さな画面を考慮し、字下げの形態を一部変更しております。

 原文どおりの書式でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

 なお、この記事の掲載が遅れまして申し訳ありませんでした。

ミサ説教「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである―年間第31主日C年」2022年10月30日

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人の子は、
失われたものを捜して
救うために来たのである
―年間第31主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  あなたはすべてをいとおしまれる
  (知恵の書11章22節−12章2節)

 知恵の書が著されたと思われる紀元前1世紀前半は、シリアのセレウコス朝の支配から独立を勝ち取ったハスモン家がユダヤを統治した時代です。しかし、この時代は周辺諸国との争いに加え、国内の権力抗争の激しい時代であり、しかもファリサイ派の台頭によっていっそう複雑になり、紀元前63年にはローマに征服されてしまい、ローマの属州に編入されました。
 権力者がめまぐるしく変わる不安定な時代ですから、今日の朗読の直後にあるように、「魔術の業や神を汚す儀式を行う者、無慈悲にも子を殺す者、血をすすり人肉や内臓を食べる宴(えん)を開く者、踊り狂う秘密の教団に入門し、かよわいわが子の命を奪う親たち」(12章4−6節)が現れても、不思議ではありません。伝統的な信仰観を揺るがすような現実を目にした人々は動揺し、神への信仰に疑問を投げかける人も現れたに違いありません。
 そこで、「知恵の書」の著者は、神の忍耐を強調しています。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ回心させようとして人々の罪を見過ごされるあなたは存在するものすべてを愛し、……」(11章23−24節)。神の力と愛に基づく忍耐が回心へと招くことを教えて、紀元前1世紀の混乱におびえる人々に信仰を訴えています。
 今日の朗読の26節では「あなたはすべてをいとおしむ」と述べます。「いとおしむ(フェイドマイ)」という語はまず、「差し控える・寛大に扱う」ことを表しますが、さらに「惜しむ・いとおしむ」といった積極的な態度をも表します。12章8節では、「しかしあの者たちも人間であるということで、あなたは彼らをいとおしまれ、あなたの軍隊の先駆けとして熊蜂(くまばち)を送られた」と述べています。文脈から考えて「刑罰を差し控え、寛大に扱う」といった意味かもしれません。神は悪人を直ちに滅ぼそうとはせず、寛大に扱っているのは「あなたは存在するものすべてを愛する」(11章24節)方だからです。
 価値観が揺らぎ、混沌と見える世は、神の無力さのしるしなのではなく、むしろ存在するすべてを「いとおしまれる」神の愛のしるしなのです。

 第二朗読:パウロの祈り
  (競謄汽蹈縫1章11節−2章2節)

 この手紙はパウロ自身によるものであるという見方もありますが、大方(おおかた)は、パウロの思想を受け継ぐ者によって書かれたと見ています。おそらく、「主の日(終末の日)」について、第一の手紙の教えを誤解した人々があり、その誤りを正すために書かれたと考えられています。今日の朗読は、そのような誤った教えに惑わされないようにと警告していますが(2章1−2節)、そのためにテサロニケ教会の人々のために祈ることから始められます(1章11−12節)。
 テサロニケ教会の人々は、「迫害と苦難の中」にありますが、その中で彼らが愛を豊かにし、忍耐と信仰を示すことができるのは、現在の苦しみは終末の日に神の国に入ることのしるしであるという確信に支えられているからです(1章3−5節)。その確信をさらに強めることができるように、パウロは彼らのために「神のいつくしみ」を祈ります。

 福音朗読:
  神が決めた「その場所」と「今日」
  (ルカ19章1−10節)

 ザアカイは「徴税人の頭(かしら)」でした。当時、人頭税と土地所有税の徴収は、通常由緒ある家柄から選ばれた官吏(かんり)がこれにあたっていましたが、一地区の徴税(地方の徴税)の徴収は、この権利を最大額で競り落とした(せりおとした)徴税請負人が、いわゆる「徴税人」を通してこれに当たっていました。ですから規定以上の(ルカ3章12節)徴税をするようになっていました。ザアカイはおそらくエリコ地方の税を取り立てる徴税請負人で、ユダヤ人から言わせれば、まさに売国奴であり、盗賊の頭だったのです。そのうえザアカイは「金持ち」でした。イエスが前章で「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(18章24−25節)と言っている当(とう)の「金持ち」でした。
 イエスを見たいと思ったザアカイは、人込みに遮られて見えないことを知ると、「走って先回りし」、ついに道端のいちじく桑の木に登ります。3節の「見ようとした」という表現は、原文では「見ることを捜していた」となります。漠然とではあれ、ザアカイは救い主を求めていたのです。
 イエスはそのいちじく桑の木の下、「その場所」に来て、公民権さえ与えられずに、神の祝福から除外されているとみなされていたその人に向かって呼びかけます。「その場所」という語には冠詞がついています。この場所はイエスとザアカイの出会いの場所として、神によってあらかじめ決められていた所です。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの呼びかけに、ザアカイはすぐに従います(5節)。この「今日」は、昨日と明日にはさまれた平凡な一日を指すのではありません。「今日という今日」、すなわち待ちに待った特別な日です。「泊まりたい」というイエスの言葉は、直訳すると「留まることになっている」です。この出会いは神の意思による必然性をもった出来事です。

 今日の朗読のまとめ
 今日のテーマは「すべての人に及ぶ神のいつくしみ」です。いつくしみはすべての人に限りない愛のまなざしを注いでくださる神の働きを表しています。第一朗読はそのことを美しく歌っています。イエスは「失われたものを捜して救うために来たのである」と自分の使命を語ります(ルカ19章10節)。救いを捜すザアカイは、失われたものを捜す神と出会いました。救いを捜す人は、その人を捜す神と出会えます。そのそれぞれに「その場所」と「今日」があり、神のいつくしみによって、生き方の転換をもたらし、喜びに満たされます。
2022年10月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文序盤で「下線+斜字(イタリック)」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+斜字(イタリック)で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教「義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない」年間第30主日C年 2022年10月23日

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義とされて家に帰ったのは、
徴税人であって、
あのファリサイ派の人ではない
―年間第30主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  謙虚な人の祈りは雲を突き抜け
  (シラ35章15b−17節・20−22節a)

 シラ書が書かれたのは、エジプトのプトレマイオス朝からシリアのセレウコス朝へと支配者が変わった直後、紀元前190年頃と推測されています。ですから、第一朗読を読むにあたっては、異邦人支配者の交代という状況を思い起こすべきです。例えば、シラ35章14−15節「主にわいろを贈ろうなどとするな……不正ないけにえを頼みとするな……」の背後には、新しい異邦人支配者に取り入ろうとして、「わいろ」や「不正行為」がまかり通る社会情勢が見え隠れしています。
 このような社会にあって、神は「御旨に従って主に仕える人……謙虚な人……正しい人々」のために必ず介入するのであり(20−22節a)、このような人こそ神にとって「御自分の民」なのだ、とシラ書は訴えます。
 「雲」(20・21節)は神の住まいを表します。原文では20−25節まで、不変化詞ヘオース(……まで)が繰り返されており、虐げられている者の祈りを聞き入れ、正義を回復する神の確かさを強調しています。16節の「虐げられている者」は動詞アディケオーの受動分詞で「不正を被っている(かぶっている)者」の意味です。虐げられた者を慰めるのは神であるので、「それが主に届くまで」と述べ、その慰めは正義の回復となって現れるので、「正義を行われるときまで」と書いています。シラ書が著された2世紀のユダヤは、他国によって虐げられていました。その中で、主への信頼を説いています。だから、「御旨に従って主に仕える人、謙虚な人、正しい人々」であっても、その祈りが主に届くまで祈り続けます。

 第二朗読:
  主はわたしのそばにいて
  (競謄皀4章6−8節・10−18節)

 16節に、最初の弁明のときは、「だれも助けてくれず」とありますが、これを直訳すると、「誰も私のために傍らに立たなかった」となり、著者の孤独が強調されています。しかし、主は「(彼の)そばにいて」、力づけました。「そばにいて」の直訳は「そばに立つ」です。だれ一人彼の傍らに立つ者がいないときにも、「主はそばにいて(立ち)、力づけ」獅子の口からも救い出しました(17節)。
 過去に「救われた」という体験があるからこそ、未来にも「主が助け出す」という確信をもつことができます(18節)。著者が心静かに死の時を迎えることができるのは、やるべきことを果たしたという満足感と、どんな時にも、たとえ死の時にも「主がそばにいて、力づけてくださる」という確信があるからです。
 ※伝統的な解釈では、この手紙の著者はパウロであり、すでに一度ローマに監禁され(使徒言行録28章16節・20節)、釈放されたのち、今また獄中からこの手紙を書いていると見ています。しかし、現在ではこの手紙はパウロの思想を受け継ぐ者によって書かれているとする説が有力です。

 福音朗読:
  「〜にもかかわらず」
  (ルカ18章9−14節)

 律法によって規定されている公の断食は、年一回贖罪の日だけです(レビ記16章29節)。しかし、「ファリサイ派の人々」は、モーセがシナイ山に登った木曜日と下山した月曜日に断食を実行していました。また、ファリサイ派は律法に規定のない農作物についても十分の一を献げていました(マタイ23章23節、ルカ11章42節)。ファリサイ派の人の祈りの内容(11−12節)からうかがえるのは、彼は熱心なユダヤ教信者であり、自分に忠実であろうとした人だということです。にもかかわらず、彼の祈りは神から義とされませんでした。
 「徴税人」は、異邦人であるローマ帝国のために働くばかりでなく、勝手に値段をつけ、ローマ帝国に割り当てられた以上の税金を取り立て、金を貯めるという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされていました。にもかかわらず、彼の祈りは神から義とされました。今日の福音において、両者が受けたものは「〜にもかかわらず」なのであって、「〜だから」ではないのです。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「貧しい人の祈り」です。福音で朗読される「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえでは、祈りが「謙虚な心」(第一朗読)と「確信」(第二朗読)をもってなされ、神の憐れみに生かされているものでなければならないということを教えています。
 ファリサイ派の人の祈りの内容は、「神さま、わたしはほかの人のように……また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」ということです(11節)。まず、自分というものをはっきり確立させようとします。その確立の方法は、他の人間との比較からなされます。そして次に自分で、「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げて」といろいろ数え上げます(12節)。自分は正しい人間であることを確認します。そして、ありがとうございましたと言います(11節)。なにを信じているのかと言えば、結局自分を信じています。
 9節の「うぬぼれる」の直訳は「自分自身を頼りにする(ペイソー)」です。イエスがファリサイ派の人を非難したのは、「自分は優れているとうぬぼれた」ことよりも、「神を信頼せずに(謙虚な心ではなく)、自分自身を頼って祈った」ことにあります。
 他方、徴税人は、目を上げることができず、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました(13節)。で、イエスの言葉です。「義とされて家に帰ったのは、(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と(14節)。神に対する祈りは、自分というものをまったく立てずに、神に信頼を置いて、神だけに向かうことしかありません。つまり、自分の「義(正しさ)」を中心に置く人ではなく、自分の「罪」の上に神の憐れみを置く人こそ、神に認められるのです。「心の中で自分が罪人だとみなさなければ、神はその人の祈りをお聞き入れにならない」と、ある砂漠の師父は言います。
2022年10月23日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」年間第29主日C年 2022年10月16日

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気を落とさずに
絶えず祈らなければならない
ことを教えるために
―年間第29主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  アマレクとの戦い
  (出エジプト17章8−13節)

 今日の朗読に登場するアマレクは、パレスチナの南端部やシナイ半島の東端部を拠点としていた遊牧民であり、サムエル記上30章14節から考え、略奪を繰り返していたと思われます。春になると、大集団で定住民が住んでいる所へ襲来し、芽を出したばかりの穀物を家畜に食べさせ、定住民の家畜や作物を奪い取って、またたくまに姿を消す略奪者であり、定住民を不安に陥れる人たちでした。
 定住する以前のイスラエルは半遊牧民として定住地と荒れ野の境目に住んでいました。一方、アマレクは定住地からさらに離れた荒れ野に住んでいたので、数の少ない泉や遊牧地をめぐって争いが絶えなかったに違いありません。こうしてアマレクは常にイスラエルの敵として聖書に登場します。
 アマレクとの戦いで、戦場に出て、民を実際に指揮するのはヨシュアであり、モーセは「神の杖」を手に持って丘の頂に立っています(9節)。戦いは激しく、アロンとフルは石を持って来て、モーセを座らせ、彼らはモーセの手を支え、アマレクをやっと打ち破ることができました(12−13節)。
 このような模写は、上げられたモーセの手を通して働く神の力を強調していると思われます。しかし、今日の朗読に続く14節に「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」とあります。この言葉は申命記25章19節にも見られます。現在までのところ、アマレクについて述べる資料は聖書以外には見当たりません。しかも、アマレクはダビデ以降のイスラエルにとって脅威ではなくなり、もはや聖書には登場しなくなります。申命記の成立はアマレクが聖書の記述から消え去るダビデ以降であるのは明らかです。そうであれば、申命記はなぜ、アマレクの滅びに言及するのでしょうか。
 これに加えて、聖書に登場するアマレクは必ず敵であることを考えると、申命記25章19節「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らなければならない」という表現のアマレクは、史実のアマレクではなく、「神が求める秩序を破壊する民(=神に敵対する残酷な民)」の象徴なのかもしれません。アマレクの滅びを語ることによって、神が求める秩序を破壊する者が歩む運命を教えています。しかし、それは同時に、勝利は神から来ることをイスラエルが忘れないための出来事でもあるのです。

 第二朗読:
  確信から離れない者のために
  (競謄皀3章14節−4章2節)

 この手紙は「俗悪な無駄話」(2章16節)や「愚かで無知な議論」(2章23節)を避けるように命じています。このような話をする者は「真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆している」からです(2章18節)。誤った教えとは真理(神の思い)ではなく、「自分に都合の良いこと」を聞かせるものです(4章3節)。
 今日の朗読は、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」で始まり、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」で終わっています。確信したことから離れない(=イエスの言葉や信仰に忠実であり続ける)ことが、教会の混乱をなくす唯一の道かも知れません。

 福音朗読:
  昼も夜も叫び求める
  (ルカ18章1−18節)

 「神を畏れない人」というのは、旧約では神に敵対し、最も非道で冷酷な人を指します。「人を人とも思わない」(直訳では「人を敬わない」)は、人の陰口を怖れないこと。「やもめ」は、結婚年齢が早かった当時にあっては、かなり若い世代の人もいました。やもめがあまりに執拗に願うので、さすがの不正な裁判官もかぶとをぬぎます。「うるさくてかなわない」は、直訳では「目の下の部分をなぐる」で、目から火が出るほど打たれることを意味します。この不正な裁判官をノック・アウトする唯一の手段は執拗に願うことで、この婦人はこの武器を使ったのです(2−5節)。イエスはこの点を見習うようにと勧めます。それはことばを換えて言えば、「気を落とさずに絶えず祈る」です(1節)。
 「昼も夜も叫び求めている」(7節)は「絶えず祈らなければならない」と同じ意味です。「昼も夜も」は「絶えず」の言い換えですし、神に向けた「叫び」は祈りだからです。いつも祈る者は神に「選ばれた者」であり、神は彼らのために裁きを必ず、速やかに行います。
 イエスは「人の子が来るとき、果たして信仰が見いだすだろうか」と危惧しています(8節)。信仰は神の働きを見させる力ですから、信仰がなくなれば、神の働きも忘れられ、祈りもなくなります。キリスト者とは、この世にありながら神と関わって生きる者です。その特徴は「気を落とさずに絶えず祈る」ことにあります。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「祈り」です。第一朗読の「アマレク」は、ダビデ以降になると、「神が求める秩序を破壊する民」というシンボリックな意味を持ちます。神が求める秩序を中心にすえる信仰から考えれば、それを破壊する人(=アマレク)は排除されねばなりません。しかし、その場合、人間の願望のためではなく、「神の思い」でなければならないはずです。それを忘れるなら、神を利用する「神の民」に堕落することになります。神の前に常に謙虚な祈りをささげなければ、「神の民」とはいえない集団に成り下がってしまいます。
 第二朗読は、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(競謄皀3章14節)で始まります。福音では、人の子が来るとき、「確信から離れない者」が残っているかどうかをイエスは危惧しています(ルカ18章8節)。そのためにキリスト者は「気を落とさずに絶えず祈る」ことが不可欠なのです(ルカ18章1節)。
2022年10月16日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」年間第28主日C年 2022年10月9日

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この外国人のほかに、
神を賛美するために
戻って来た者はいないのか
―年間第28主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  神の人の言葉どおり
  (列王記下5章14−17節)

 ナアマンはアラム軍の司令官であり、ユダヤ人ではありません。重い皮膚病にかかって苦しんでいましたが、イスラエルから捕虜として連れて来た召し使いの少女から神の人エリシャのことを聞き、彼のもとに向かいました。
 ナアマンがエリシャの家の入り口に到着すると、エリシャは会おうともせず、人づてに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と指示します。ナアマンはエリシャの態度に腹を立て、ダマスコに帰ろうとしました。
 ナアマンはエリシャが迎えに出て、いやしのために、主の名を呼び、患部の上で手を動かすと思い込んでいました。彼は、「ダマスコにはヨルダン川よりもきれいな川がある」と不平を口にします。しかし、家来にいさめられ、ヨルダン川に下って行き、七度身を浸すと、彼の体は元に戻り、小さな子どもの体のように、清くなります(14節)。
 エリシャの態度は明らかに非礼です。しかし、ナアマンがエリシャの指示通りに振る舞うと、ナアマンはエリシャの偉大さに心が釘付けにされてしまいます。ナアマンをいやしたのは、エリシャではなく、神です。それを知らせるために、エリシャはナアマンの前に姿を見せることなく、神の言葉にのみ注目をさせようとしたのかもしれません。

 第二朗読:
  キリストと共に
  (競謄皀2章8−13節)

 テモテはエフェソ教会の指導者に任じられていますが、汽謄皀4章12節によれば、「年が若いということで」軽んじられることもあったようです。獄中で「鎖につながれている」パウロは、弟子のテモテを励ますために、「イエス・キリストを思い起こしなさい」と命じ、キリストは「死者の中から復活した」という福音に身を合わせるように求めます。
 11節以下は、当時の教会が歌っていた賛歌の引用だと思います。この賛歌は「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる……キリストと共に支配するようになる」と訳されていますが、原文にキリストは一度も現れません。キリストは補われた言葉です。だから、共に生き、共に死に、支配する相手はキリストだけではないかも知れません。むしろ、キリストを信じる「すべての者」が含まれていると考えたほうが文脈によく合うように思います。私たちは確かに「キリストと共に」死んで、生き、支配することを望んでいます。しかし、パウロが「耐え忍ぶ」のは、キリストによって神の恵みを知る「すべての者」と共に死に、共に生き、共に支配するためです。
 キリストと共にあるなら、信じるすべての者と共に救いを得ることができます。このことを「思い起こさせる」という務めをテモテは担います。思い起こすのは、イエスの生涯から生きる力と励ましを受けるためです。職務の重圧に苦しむテモテにこの賛歌を示したのは、「キリストと共にある」という確信こそが福音を宣べ伝える力となるからです。

 福音朗読:
  いやされたのを知る
  (ルカ17章11−19節)

 今日の福音には、重い皮膚病を患っていた十人の人が登場します。公生活の冒頭、異邦人ナアマンのいやし(今日の第一朗読)について言及したイエスは(ルカ4章27節)、洗礼者ヨハネの使者に向かって、このような人がいやされることが神の国の到来のしるしであることを力強く宣言します。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。……重い皮膚病を患っている人は清くなり、……貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ14章22節)。
 今日の福音では、重い皮膚病を患っている十人の人がイエスを出迎え、「憐れんでください」と叫びます。イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と応えます。イエスの言葉に従って出て行った人々は、その途中で患部が「清くされた」ことを知ります(12−14節)。そして、「その中の一人」は、神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました(15−16節)。そのきっかけは、いやされたのを「知った」ことにありました。ここで「知る」と訳された語は、原文では「見る」という言葉が使われています。
 その一人が「見た」ものとは、清くされた患部の向こう側に働く神の憐れみです。彼は「清くされた」だけでなく、「いやされたこと」をも見たのです(15節)。「いやされた」とは、「清くされる」ことを通して、招き入れられた神との交わりに生きることです。この人だけがイエスのうちに神の国の到来を認めたのです。
 イエスが「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(18節)と言ったのは、残りのユダヤ人を非難するためではなく、神の国の入り口に立っている彼らをも神との交わりへと招き入れるためでした。
 信仰とは清くされた患部の向こう側に働く神の憐れみを見る目であり、その目によって神との交わりに気づくことができます。だから、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と外国人に述べたのです(19節)。

 今日の朗読のまとめ
 イエス・キリストは「ダビデの子孫で、死者の中から復活された」(第二朗読)。「復活された」は完了形なので、単に復活の出来事を述べるだけでなく、イエスは今も生きている復活の主であり、その命を与えることのできる方であることを示しています。つまり、復活信仰の重点は、死者がムクムクと起き上がったことではなく、「イエスはいま私たちと共にいる」というところにあります。また、第二朗読は、イエス・キリストのことを「思い起こしなさい」と命じます。思い起こすのは、イエスの言葉(神の人の言葉)から生きる力と励ましを受けるためです。イエスを通して出来事の向こう側に働く神のみ旨を信仰の目によって見つめ、キリストを信じるすべての人々と共に神との交わりに生きてゆきましょう。
2022年10月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教


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