主任司祭メッセージ

ミサ説教プリント「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」年間第24主日A年 2023年9月17日

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あなたに言っておく。
七回どころか
七の七十倍までも赦しなさい
― 年間第24主日A年 ―

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   18章21−35節


 〔語句の解釈〕
 ■21節「赦す」。兄弟を赦すことは兄弟を「得る」ことにつながります。「兄弟を得る」ことは先週の福音のテーマです(マタイ18章15−20節)。
 ■21節「七回まで」。ユダヤ教のラビは兄弟を赦す回数を3回までとします。これと比べると、ペトロの言う「7回」は寛容さを示すものですが、赦す回数を問うかぎり、自分の受けた損害を我慢することと捉えており、いつかは我慢できなくなり、罪を犯した兄弟を失います。だから、イエスは無制限に赦すようにと勧めます。
 ■22節「七の七十倍まで」。直訳〔七十七回まで〕。「七十七回まで」と訳すことができるのは、この箇所との関連性が指摘される創世記4章24節のヘブライ語聖書が「七十七」とする数字を、七十人訳聖書がここと同じギリシア語で訳するからです。いずれにせよ、問題とされているのは、厳密な回数ではなく、回数を問う「赦さない心」です。
 なお、創世記4章24節との関連性は数字だけではありません。創世記4章24節のレメクの言葉は、人類にとっての最初の兄弟カインとアベルの物語を踏まえた、際限ない復讐を誓う「赦さない心」を表明しているからです。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章24節)。これに対して、イエスは無制限の赦しを説きます。
 ■24節「一万タラントン借金している家来」。直訳〔一人の一万タラントンの負債者〕。「一万タラントン」の負債は天文学的な数字です。ちなみに、F・ヨセフス「ユダヤ古代誌」によると、紀元前4年にローマの属州であった(ユダヤ国の)ユダヤ州、イドマヤ州、サマリア州から徴収された税の総額が六百タラントン、(ユダヤ国の)ガリラヤ州とペレア州から二百タラントンと記されていることから見ても、一万タラントンがいかに膨大な額であるかが理解できます。一タラントンは六千ドラクメ、つまり六千デナリオンにあたります。一デナリオンは労働者の日給ですから、一万タラントンは六千万日分の賃金になります。
 ここに登場する家来は、国家の重要な任務についている者です。王から領地の一部を任された地方総督であり、その行政区における税徴収の責任を持った人物として想定されているのかも知れません。また、負債額が想像できないほど、巨額なのは、百デナリオンという小額な負債(28節)と対比するための文学的な手法です。
 ■25節「自分も妻も子も、また持ち物を全部売って返済するように」。妻を売却することはユダヤでは禁止されていましたが、子どもたちは家長に残された最後の財産でした。しかし、奴隷の値段はおおよそ五百から一千デナリオンなので、家族を売り払っても負債額にはほど遠いことになります。だから主君は本気で家来に言っていません。
 ■26節「家来はひれ伏し…しきりに願った」。直訳〔そこで伏して 奴隷はひざまずいた〕。ひざまずくのは懇願のしるしです。29節では仲間が同じように「伏して…訴えていた」と述べられていますが、家来は仲間を赦しません。
 ■27節「憐れに思って」。直訳〔深く憐れんで〕。この語「スプランクニゾマイ」は共観福音書だけに12回使われます。たとえ話に使われる二例を除けば、主語はいつもイエスです。
 ■28節「仲間」。直訳〔奴隷仲間〕。この語(シュンドゥーロス)はシュン(一緒に)とドゥーロス(奴隷)の合成語です。文字通りに「奴隷仲間」を表しますが(マタイ24章49節)、ドゥーロスには「大臣・宮廷官吏」の意味もあるので、ここでも王の高官を表すかもしれません。七十人訳ではこの語は高官仲間を指して使われています。なお、パウロはキリスト者仲間をこの語で表しています(コロサイ書1章7節、4章7節)。
 ■34節「牢役人」。直訳〔拷問役たち〕。このたとえに登場する「奴隷」が高官を指す可能性がありますが、ここでもそれが伺われます。というのは、オリエントでの拷問は通常不忠実な地方総督とか、税の引き渡しを怠った地方総督に対して行われたからです。拷問の目的は、彼らが隠した金を捜し出したり、その代償を彼らの親戚や友人たちから脅し取ったりするためです。
 ■35節「一人一人が、…兄弟を」。直訳〔各々 その兄弟を〕。直訳の言い回しは、ヘブライ語では「互いに」を意味します。神の国に属する者とは兄弟として互いに赦し合う者です。
 
 今日の福音のまとめ
 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。今日の福音は「赦し」がテーマですが、32−34節では、王の怒りが描かれています。借金を免じてやった家臣が、その同僚を小額の借金にもかかわらず、牢屋に入れてしまったからです。
 ラビ・アキバにも「王と負債のある家臣」のたとえがあります。その中では、家臣は返済できない負債のために、一年を通して王に真心から仕えます。そして、多くの負債者の中から、彼だけが赦され、地位を失わずにすんだ、という筋になっています。マタイのたとえ話との違いは、王の赦しを得るために家臣は王に心からの奉仕をするのですが、マタイは、神に赦されたゆえに、兄弟姉妹を赦すことを主張するのです。私たちが神から赦しを受けたのは、私たちの善行のゆえにではなく、神の全くの憐れみによります。そして神から受けた赦しを兄弟姉妹に伝えること、これがイエスの説く真の赦しなのです。ですから、「赦す」ことは、回数を数える善行の行為ではなく、自分が神に赦されたゆえに、兄弟姉妹を心から赦すことなのです。「自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか」(シラ書28章4節)。神の怒りは「自分と同じ人間に憐れみの心を持たない」ことを裁くのです。
2023年9月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 「語句の解釈」の各段落の冒頭で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
 原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」年間第23主日A年 2023年9月10日

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言うことを聞き入れたら、
兄弟を得たことになる
―年間第23主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 今日の福音の直前のたとえ:
  「迷い出た羊」のたとえ
  (マタイ18章10−14節)


 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

 ここで「小さな者」と呼ばれる人々は、つまずきの可能性を持つ者(18章6節・10節)、あるいは罪を犯し(15節以下、21節以下)、棄教する(14節)可能性のある人々です。彼らは信者ですが、教会内において倫理的に一段劣ったグループに属する信者であったように思われます。
 イエスは「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と命じます(10節)。すなわち、どれほど弱くどれほど教会から離れてしまっている人々であろうとも、教会の交わりの中にあるメンバーは誰でも、劣ったものとして処遇されてはならないのです。なぜなら、彼らの天使たちが神のみまえに自由に出入りして、自分が守護する地上の人間のために、ただちに必要な処置を願うことができるからです。同時代のユダヤ教では、ほんのわずかな天使たちが「神の御顔を見る」という神の直接的な現臨の場にいることが許されると考えていたので、この言葉が、小さな者に最高度の重要性、それも「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)という結論を確かめられるものとなっています。これらの小さな者が一人も滅びないこと、すなわち、一人も神の国へ入ることが否定されることがないというのが神の思いなのです。
 今日の福音はそれに続く箇所です。それは、罪を犯した兄弟を処分する三段階の手続きを規定したものではなく、むしろその「兄弟を得る」ための真剣な努力を強調したものです。

 今日の福音 第一段落:
  兄弟を得る(15−17節)

 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)。この言葉に続いて今日の福音が語られるのですから、この言葉との関連を15節以下の言葉の中に見ることが大切です。
 15−17節には、条件文と命令文の組み合わせが4回繰り返されます。
 兄弟があなたに対して罪を犯したなら、忠告しなさい聞き入れなければ、連れて行きなさいそれでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 この流れをさえぎるように15節後半には条件文と平叙文の組み合わせが現れます。
 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
 これは、15−17節の忠告の根本精神を表しています。罪を犯した兄弟に対する忠告は「兄弟を得る」ために行われます。今日の福音の直前には、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と述べられています。すべての忠告は「兄弟を得る」ために行われます。なぜなら、それが神の思いだからです。

 今日の福音 第二段落:
  天の父から(18−19節)

 18−19節の「あなたがた」は20節との関連で見ると、「イエスがその真ん中にいる二人あるいは三人」、つまり「教会」を指しています。「あなたがた(教会)」は「地」の上にあって、「天」の父と結びついています。教会が下す判断は天の父の判断を表します。あなたがたのうちの二人が願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。教会の願いは、それが神の思いを表すものである限りにおいて実現します。教会がすべてをつなぎ、解く権威が与えられているのは、その中心にイエスがいるからです。

 今日の福音 第三段落:
  イエスが中心に(20節)

20節は15−19節にかかる理由文です。罪を犯した兄弟への忠告は、兄弟を(神の国のために)得るために行われます。その根本にあるのが20節の主張です。兄弟を神の国のために獲得することは、人間だけの努力によるのではなく、その中心にいるイエスが共に働いています。

 今日の第二朗読;
  互いに愛し合うことのほかは、
  借りがあってはなりません
  (ローマ13章8−10節)

 今日の福音で「忠告する」と訳された動詞は「光の下に連れて行き、光にさらす」の意味ですから、過ちを認めるようにと神の光にさらすことが求められています。そうであれば、罪を犯した兄弟を「神の光にさらす」ことが基本であって、自分の考えに従わせるのではありません。
 神の光にさらされても、神の言葉を説いても、罪を犯した兄弟が聞き入れなければ、どうしたらよいでしょうか。パウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)と教えますが、この言葉にヒントがあると思います。
 この言葉の背景には「神とキリストの愛に正しく応える私たちの愛」を求めており、それが隣人愛という形で表されています。神とキリストの愛に応える道は愛し合うことですが、神とキリストの愛は大きいので、どんなに努力しても、借りが残ってしまいます。
 この愛(ある意味で愛による赦し・忍耐)に目を向けても、それでも罪が消えないときには、キリストの名によって集まり、そこにおられるキリストに助けを求めることになります。
2023年9月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 本文序盤で斜字(イタリック)になっている箇所は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。
 また、本文中盤で太字のカギカッコを使っている箇所は、原文では字下げされている部分ですが、スマートフォンなどの狭い画面でも読みやすくなるよう、字下げをやめて太字カギカッコを使用させていただきました。
 原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい」年間第22主日A年 2023年9月3日

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わたしについて来たい者は、
自分を捨てなさい
―年間第22主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   16章21−27節


第一段落:
 このときから、必ず起こること、
  示し始められた(21節)

 マルコ8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。
 マタイ16章21節「そのとき(直訳 このときから)、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた(直訳 示し始められた)」。

(1)「このときから、
   イエスは…始められた」

 これと同じ言い回しはマタイ4章17節「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」にも見られます。マタイ4章17節では「天の国にふさわしい悔い改めを宣べ伝える」ことの開始でしたが、21節では「苦しみを受け、殺され、復活する」ことを弟子たちに打ち明けることの開始です。イエスの活動は今日の福音から新たな段階に入ります。
 また、マルコ8章31節では「それからイエスは」となっているだけなのに、21節では「このときから」と記して、ペトロの信仰告白(13−20節)を契機にして、イエスの生涯に新しい段階が始まったことを示唆しています。

(2)「必ず起こること」
 21節では、イエスが歩む「ことになっている」道が描き出されます。「ことになっている」と訳された言葉は、直訳すれば、「必ずある」のであり、ある出来事が神の意志であるがゆえに「起こることになっている」ことを表します。イエスは、エルサレムへと行かねばなりません。そして、長老、祭司長、律法学者から苦しめられねばならず、しかも殺されねばなりません。しかし、苦しみ、殺されるだけでなく、三日目に復活することも神の意志です。
(3)「示し始められた」
 マルコ8章31節では「教え始められた」となっているのに、マタイ16章21節では「打ち明け始められた(直訳 示し始められた)」となっています。「示す」とは「神のひそかな計画を啓示する」という意味です(黙示録1章1節)。

第二段落:
 サタン、引き下がれ
  (22−23節)

 マルコ8章32−34節「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架に背負って、わたしに従いなさい』」。
 マタイ16章22−24節「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」。
 22節では、マタイは、ペトロがいさめた言葉をそのまま引用します(マルコにはない)。「主よ、とんでもないことです」は、「神があなたを憐れんで(そんなことがあなたに起こらないようにして)くださるように」という意味です。「邪魔をする者」もマルコにはない句で、「あなたはわたしのつまずきの石である」が原意です。イエスは、十字架の道を父のみ旨として受け入れ、そこから離れさせようとする一切のものを「サタン」(マタイ4章10節)とも「つまずきの石」ともみなしています。
 次に続く弟子への呼びかけは、マルコでは「群衆」にも向けられているのに、マタイでは弟子たちだけへの勧めとなっています。

第三段落:
 自分を捨てるのは
  背負うため(24−27節)

 24節は三つの命令文(自分を捨てなさい、自分の十字架を背負いなさい、わたしに従いなさい)を使って、弟子の取るべき態度を明らかにします。自分(人間の思い)を捨てるのは、十字架を背負うためであり、イエスに従うためです。これこそ「いのち」への道であり、この「いのち」は全世界よりも価値があります。しかも、この「いのち」の確かさは終わりの日に再臨するイエスによって確認されます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の直前で、イエスがメシアであることをペトロが告白したとき、イエスは「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と応じ、ペトロの告白の正しさを認め、彼を祝福しています(17節)。
 しかし、「人間の思い」から自由になり切れずにいたペトロが、受難を予告したイエスを脇へ連れて行き、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめると、「あなたはわたしの邪魔をする者」と叱られてしまいます。「邪魔をする者」は文字通りには「つまずき」です。
 つまり、人間のありようをすっかり決定する「思い」があります。それは「神のことを思う」か、「人間のことを思う」か、二者択一の形で人間の前に置かれています。神のことを思う者は、自分を捨て十字架を背負いますが、それこそが「いのち」への道なのです。
2023年9月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 文中で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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教会便り巻頭言「隣人愛の実践」(2023年9月号)


隣人愛の実践

―私は自分のするべき
「隣人愛」を見つけました。
「み旨ならば」ではなく
「み旨だから」、
これは実現すると信じました―

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 教皇フランシコは「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(いつくしみの特別聖年公布の大勅書 カトリック中央協議会発行29頁)の中で、預言者イザヤと預言者ミカの下記の箇所を用いて、「隣人愛の実践」について述べています。

1.「隣人愛の実践」は難しい
 −自分は弱くて
  貫くことができない−

 6節 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。7節 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。8節 そうすれば、あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る(イザヤ書58章6−8節)。
 イザヤは、真の断食の一つに「隣人愛の実践」を挙げています(7節)。この7節をよく考えてみますと、最初に出会った「飢えた人」に最後の「パンを裂き与え(た)」人が、次にもっと飢えた人に出会ったとき、どうするのでしょうか。何度も「裸の人」に「衣を着せかけ(て)」いるうちに、自分の衣をすべて失ったとき、社会全体から見ればただ単に貧しい人が一人増えたに過ぎないのではないでしょうか。
 このように「隣人愛の実践」は難しいことです。人間にはできることとできないことがあります。そして、してはいけないこともあります。私たちは、日常生活の中で、神から与えられた自分のするべき「隣人愛の実践」を読み取らなければいけないのです。その読み取りを間違うと全部が狂ってきます。その狂いの一つの原因は、自分は弱くて貫くことができないという自分自身に対する信頼性の崩壊です。人間は貫くことができるし、変わることもできます。ただし神の力を受けているならば、という条件つきです。

2.神のいつくしみの一貫性
 −弱い人間の中に
 「隣人愛」を貫く力が与えられる−

 18節 あなたのような神がほかにあろうか、咎(とが)を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業(しぎょう)の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神はいつくしみを喜ばれるゆえに。19節 主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる(ミカ書7章18−19節)。
 預言者ミカは「神の怒りは発動されるが、永遠に続くことはない(18節)。神の永遠の本性はいつくしみ、憐れみである。だから、神は私たちの罪・咎(とが)を、エジプト軍に対してなしたように、海の深みに投げ込み葬り去る(19節)」と教えます。
 「神のいつくしみ」は永遠に変わりません。その変わらない神は、小さな赤ちゃんで生まれるほど変わり、そして十字架上であんな死にざまをするほど変わり果てます。それほどまでに変わり果てるぐらい、「神のいつくしみ」は変わらなかったというのが「神のいつくしみ」の貫く歴史なのです。
 「私は自分のするべき『隣人愛』を見つけました。『み旨ならば』ではなく『み旨だから』、これは実現すると信じました」。このような(神を全幅に信頼した)弱い人間が、神の力によってどんなに強い「隣人愛」を貫く力を与えられたでしょうか。弱い人間だからこそ、そのような弱い人間の中に変わらぬ「神のいつくしみ」の一貫性が示されるのです。

3.神と人間との交わりの歌
 −神は骨(人間の支柱)に
  力を与える−

 9節 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」といわれる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いのことばをはくことを、あなたの中から取り去るなら、10節 飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出て、あなたを包む闇は、真昼のようになる。11節 主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない(かれない)泉となる(イザヤ書58章9−11節)。
 「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『わたしはここにいる』といわれる」(9節)とは、神と人間との交わりを歌ったものです。イザヤは、私たちが自分のするべき「隣人愛」を果たそうとするなら(難しいことですが)、人間の周りが「闇」(10節)であっても、「焼けつく地」(11節)であっても恐れることはない。神が「骨」すなわち人間の支柱に「力」を与え(11節)、人間は「輝き」(10節)また「水の涸れない泉」(11節)となる、と語るのです。

※ 注(Web担当者より)
 本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「あなたはペトロ。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」年間第21主日A年 2023年8月27日

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あなたはペトロ。
わたしはあなたに
天の国の鍵を授ける
―年間第21主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   16章13−20節


 マルコ福音書との比較
 マルコ8章27節→「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。
 マタイ16章13節→「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。
 違いは三つあります。
(1) 13節は一つの文章ですが、マルコ8章27節は二つの文章からできています。
(2) 「弟子たちと」と「方々の村に」という表現がマタイにはありません。
(3) マルコでは、イエスは「わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねていますが、マタイでは、「人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねています。
 これら三つの点から言えることは、マタイではマルコよりもイエスに集中しているということです。イエスに集中するために、「弟子たちと」と「方々の村に」という表現を省いて、一つの文章にしています。
 しかもマルコ福音書では、イエスの自称は「わたし」ですが、マタイでは「人の子」が用いられています。「人の子」という呼び名は、旧約聖書では「(弱くはかない)人間存在」(詩編8)を表しますが、黙示文学では「終わりの日に雲に乗って現れる天からの特別な存在」を表します。マタイは黙示文学の意味で「人の子」を用い、「イエスは人の子」であると同時に「天からの特別な人物」であることを強調しています。
 しかし、イエスは黙示文学での世俗的な勝利者としての「人の子」ではなく、この世から一旦捨てられ、殺された後に栄光を受け、人々を救う「人の子」です。このようにイエスに集中することによって、イエスが誰であるかを一層はっきり主張しています。

 第一段落:あなたはキリスト、
  生ける神の子です(13−16節)

 ヘロデ大王の子フィリポの名と、ローマ皇帝に敬意を表す「皇帝の(カイサリア)」の町という名を付けられたフィリポ・カイサリアには、異教の神や皇帝を神格化して礼拝する神殿がありました。この町で、イエスが誰であるかが問われます。人々はイエスを「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」と見ていますが、ペトロは弟子を代表して、イエスを「あなたはキリスト(=メシア)、生ける神の子」ですと告白をします。
 (今日の福音の)第一のポイントは、イエスは二つの尊称「キリスト」「生ける神の子」と呼ばれていることです。「キリストです」という告白文は、共観福音書に共通して見られますが、「生ける神の子」はマタイ固有で、イエスをそのように呼ぶことは、イエスが「父である神を現す存在」と告白することを意味しています(マタイ11章27節)。

 第二段落:
  天の国の鍵(17−19節)

 イエスを「生ける神の子」と告白する信仰は、「人間ではなく、神が現した」ものです。神からの呼びかけに対する人間の応答が信仰告白であり、そのように応答するペトロは「幸いだ」と祝福されます。
 第二のポイントは、ペトロと教会です。イエスの「父」である神が、イエスが神の子であることを現しました。それに対して、イエスは「私も言っておく」と述べて、シモンをペトロと呼び、さらに「この岩の上にわたしの教会を建てる」と約束します(17−18節)。
 神の呼びかけに応答した者を教会の礎として、イエスは「わたしの教会(エクレシア)」を建てます。「エクレシア」というギリシア語の背景には「エダー」というヘブライ語があり、それは「ヤアド(名指しで呼ぶ)」から派生した名詞です。教会とは「神の民」であり、神が名指しで呼びかけ、それに応答した者の集まりです。
 第三のポイントは「天の国の鍵」と「つなぐ−解く」です。「鍵」を受けるとは、イザヤ書22章15−25節によると、宮廷への出入りを許す力で、王の家の権力を授かることです。イエスはペトロに「天の国の鍵」を与えます。「つなぐ−解く」は、ラビが用いた専門用語であり、律法に従って行われる禁止と許可、共同体への加入と追放の意味を持っています。ユダヤ教のラビたちのそのような権威に対して、16章18−19節では「わたしの教会」での権威が強調されており、ペトロこそが神からそのような権威を与えられたのです。

 第三段落:
  誰にも話さないように(20節)

 教会は(イエスの復活まで)、今は語ることを禁じられます。それはユダヤ人が抱いていた力強い解放者としてのメシア像との誤解を避けるためです。イエスは十字架に死に、生ける神によって復活する「神の子」キリストなのです。

 今日の福音のまとめ
 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と尋ねたイエスに対してシモン・ペトロが答えた「あなたはキリスト、生ける神の子です」は、教会の完全な信仰告白です。この信仰告白は神から名指しで呼びかけられた者の応答としてイエスの祝福を受け、教会の礎となる地位と天の国の鍵の授与がペトロに約束されます(16−19節)。
 イエスが建てた「わたしの教会」は、いつの時代の教会であっても、常に「あなたはキリスト、生ける神の子です」と信仰告白することによって、ペトロに結ばれ、ペトロを通して歴史のキリストに結ばれるのです。
2023年8月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 序盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」年間第20主日A年 2023年8月20日

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婦人よ、
あなたの信仰は立派だ
―年間第20主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   15章21−28節


 今日の福音は三つの段落に分けることができます。第一段落(A)と第三段落(A´)が対応しています。Aはカナンの女性の願いを述べ、A´はその成就を述べています。これらに挟まれる第二段落がBです。ここでは、カナンの女性の願いを拒否するイエスの態度と言葉が述べられています。

 第一段落(A):
  主に叫ぶ(21−22節)

 ティルスは地中海に面したフェニキアの町で、カルメル山から55キロほど北にあります。シドンはティルスの北方35キロに位置するフェニキアの港町です。両方とも異邦人の町です。イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と宣言します。しかし、イエスがティルスやシドンの地方に旅行したならば、それはイスラエルの家の失われた羊に福音を伝えるためではなく、異邦人のためとなります。
 新共同訳は「この地に生まれたカナンの女が出て来て」と訳しています(22節)。ある学者は、イエスはまだイスラエルの地にいて、これからティルスとシドンの地方に行こうとされたとき、カナンの女性が国境を越えてやって来た、という意味に解しています。また、ある注解書は、イエスはティルスとシドンの政治上の領域に旅行したけれども、ガリラヤの北方境界線上にある、ユダヤ人の大きな人口密集地域に行った、と解しています。
 「カナン人」は旧約聖書では、イスラエルと対立している民族です。イザヤ書23章11節によれば、フェニキアとはティルスとシドンを指しており、ここでは「この地に生まれたカナンの女」と述べて、ティルスとシドンの地方出身の女性を「カナンの女」と呼んでいます。
 この女性が今イエスに向かって叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と(22節)。「ダビデの子」という称号をイエスに用いたのは、主に(おもに)パレスチナに住むユダヤ人キリスト者です。これに対して、「主(しゅ)」という称号はパレスチナを越えたヘレニズム世界のキリスト者によって用いられました。カナンの女性は二つの称号を一つに合わせていますが、それによってイエスはメシアであるという、ユダヤ人の大多数が否定した信仰を表明しています。イエスは、まずはイスラエルに遣わされたメシアでしたが(24節)、この異邦人の女性はイエスを「主」と呼び、さらに「ダビデの子」と呼び、メシアの慈しみを異邦人の世界にも及ぼしてほしいと懇願します。

 第二段落(B):
  子どもたちのパン(23−26節)

 23節では、一言も答えないイエスに弟子たちが近づいて「この女を追い払ってください」と願います(23節)。この語のもとは「解き放つ・去らせる」を意味し、「病気から解放する」(ルカ13章12節)の意味でも使います。THE NEW JERUSALEM BIBLEはここを「願いをかなえてあげてください」と訳します。だから、この語は「追い返してほしい」の意味にも、「彼女の望みをかなえて、帰してください」の意味にも取ることができます。この段落の強調点がイエスの否定的な態度を示すことにあるなら、後者の解釈が良いかも知れません。
 イエスは弟子たちの願いを拒否します。なぜなら、イエスはイスラエルの失われた羊を導く羊飼いとして、神から「遣わされた」からです。イエスは神の救いの計画に忠実に従う僕です。神は救いの力を具体的な出来事を通して現すために、特定の時代と場所と民を必要とされました。すべての人の救いを望む神によって選ばれたのは、弱く小さなイスラエルでした。なぜなら、力ある民ではなく、取るに足らない弱い民に救いが与えられて、彼らの上に神の栄光が輝くなら、異邦人の誰もが神の働きの大きさを悟るに違いないからです。神の救いの計画に従うイエスは、ご利益(ごりやく)としての奇跡は与えません。今はイスラエルに向けて救いが現される段階です。だから、イエスは自らの使命を確認するかのように、「子どもたちのパン」を取ってはならないと、否定の言葉を続けます。

 第三段落(A´):
  主人の食卓から落ちるパン
  (27−28節)

 カナンの女性は「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)というイエスの言葉に「主よ、ごもっともです」と同意します(27節)。「子どもたち」はユダヤ人、「犬」は異邦人を指します。ユダヤ人は異邦人を犬と呼びましたが、イエスは軽蔑の意味を避けて、やさしく「小犬」と呼びます。イエスの言葉に同意した彼女は、神の救いの計画に従う信仰を持っています。彼女は「子どもたちのパン」を願うことはしません。「主人の食卓から落ちるパン屑」なら、今、異邦人に与えられても神の救いの計画を損なうことにならないはずです。彼女の機知に溢れた信仰がイエスを動かしました。

 今日の福音のまとめ
 神の救いがイスラエルに留まらず、異邦人にも向けられることは、旧約時代にも知られていました(イザヤ書56章6−7節)。しかし、それはイスラエルの救いが実現してから起こることとされていました。マタイ福音書では、神の国の宣教はイエスの十字架と復活まではイスラエルに限定されています。それがイエスの復活の後、すべての異邦人へと広げられていきます(28章19節)。
 ですから、今日の福音でイエスが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と述べてカナンの女性の願いをいったんは退けたのは、まずはイスラエルが救われ、それを目にした万民が真の神に気づくという神の計画に従っているからです。カナンの女性がただ奇跡を求めたのではなく、神の計画に従う信仰を表したとき、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と応じて、娘をいやします。
2023年8月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 本文終盤で「下線+太字」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」年間第19主日A年 2023年8月13日

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わたしに命令して、
水の上を歩いて
そちらに行かせてください
―年間第19主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   14章22−33節


 語句の解説
 22節■「舟」。「舟」は教会を表し、嵐の海は教会に対して戦いを挑むカオス(神に敵対する混沌)の力を表します。今日の福音は、初代教会の宣教の生活を土台にして読むことが可能になります。宣教にはさまざまな困難がつきまといます。迫害があり、無理解があり、教会内に争いが起こることもあったでしょう。宣教がなかなか進まないという状況の中で、マタイは、イエスと共に生活していたときにガリラヤ湖で起こった出来事を思い起こし、それを福音として書き記したと考えることもできます。
 23節■「山」。山は祈る場所、神と出会う場所です。旧約のモーセはひとりで山に登りましたが、同じようにイエスもひとりで山に登ります。マタイでは、イエスは「新しいモーセ」として描かれています。マタイの教会はさまざまな課題や争いにもまれて苦しんでいますが、その中にあって、「私たちには、山に登って神と特別に親しく交わる方(かた)が山から降りて来て、共にいてくださる」という事実は大きな慰めになると同時に、信仰告白にもなったと思われます。
 23節■「夕方」。洗礼者ヨハネの死を知らされ、やがて自分も弟子たちと別れなければならないことを予感したイエスは、自分を慕って人里離れた所に集まった大勢の群衆をパンで養いました(マタイ14章13−21節)。それは、イエスがいつも共にいて、いのちの糧を与えるということを弟子に悟らせるためでした、このパンの出来事も、「夕方」であったことが明記されています(14章15節)。聖書では、夜の闇は神の力が顕現することの伏線となります。それで、マタイは「夕方」であったことをここでも明記します。
 24節■「スタディオン」。一スタディオンは約185メートルにあたります。
 25節■「夜が明けるころ」。直訳「夜の第四の夜警時間」。ローマでは午後6時から朝6時までを四つに区切って夜警の交替時間を表しました。ですから、「第四の夜警時間」は午前3時から6時を指しています。旧約聖書では、明け方は神が救いの手を差し伸べる時刻とされています(イザヤ書17章14節、詩編46・6)。
 25節■「湖」。直訳「海」。ギリシア語のサラッサが用いられています。「五千人に食べ物を与える」という奇跡を伝えるパンの出来事(マタイ14章13−21節)は、荒れ野をさ迷うイスラエルに神がマナを与えたという出来事を踏まえています(出エジプト記16章)。今日の福音はそれに対応して、イスラエルの民が紅海を渡った出来事を下敷きにしているのかも知れません(出エジプト記14章13−31節)。イエスが歩いた「湖」も、紅海の「海」もギリシア語では同じサラッサです。
 旧約聖書では、「海」は神の創造の力に敵対する原初の水、混沌と結び付いています。ですから、象徴的には、「海」は神に敵対するあらゆる力を表すと見ることができます。「舟」によって表された教会は「海」の中を行きます。神に敵対する力が猛威をふるう場が「海」ですから、舟(教会)はなかなか進まないということが起きます。
 そこに「海」の上を歩くイエスが近づいてきます。旧約聖書では、神の力は、カオス(混沌)の象徴であるである海を支配する力と考えられています。モーセに導かれてイスラエルの民が紅海を渡ったとき、神が共にいて敵の力を打ち砕いたように、「海」の上を歩いて弟子に近づくイエスは、神が共にいることを示します。

 27節■「安心しなさい」。直訳「勇気を出しなさい」。「勇気を出す」と直訳した動詞は名詞サルソス(勇気)からの派生語です。ファラオの軍隊に追撃されておびえるイスラエルの民に(出エジプト記14章13節)、またシナイ山での神の顕現が、雷鳴や稲妻や角笛の音という恐れを引き起こすしるしと共に起こったときに(出エジプト記20章20節)、モーセも民に同じ言葉を語っています。
 27節■「わたしだ」。直訳「私で ある」。申命記32章39節に見られるように、旧約聖書は神の顕現を表す定型句として「アニー・フー(私こそそれである)」を用います。この句は七十人訳旧約聖書では「エゴー・エイミ(私である)」と訳されていますが、ここではこれが用いられています。これは、人に姿を顕した神が、自分が神であることを表明するための表現です(イザヤ書41章4節、43章10・13・25節、46章4節、48章12節、51章12節、52章6節)。

 今日の福音のまとめ
 イエスとペトロが舟に上がると、強い風は静まりました(32節)。イエスが海の上を歩き、風を静めたのは、混沌を支配する神が共にいることを知らせ、イエスは「神の子」であると告白する信仰(33節)へと導くためです。
 「疑う」(31節)と訳されたギリシア語はディスタゾーですが、この語はディス(二度・二重)から派生した動詞であり、「あることに関して二番目の(=別の)考えを持つ」の意味だと思われます。ここでのペトロは「水の上を歩いてもイエスのもとに行きたい」と考える一方で、「強い風に気づいて怖くなる」という別な思いを持ちました。このように思いが二つに分かれた状態をこの語ディスタゾーは表しています。しかし、このような状態であれば、人間には常に見られることではないでしょうか。
 しかし、ディスタゾー状態は決してマイナスで終わりはしません。ペトロはイエスに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)と確かに叱られましたが、イエスに助けを求めて叫べたので、「本当に、あなたは神の子です」という告白に至ることができました(32節)。 
 ディスタゾー状態があるから、次の段階が開かれます。そのためには、神を信じて叫ぶこと、それが必要となります。
2023年8月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 「語句の解説」の各段落の冒頭で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「イエスの顔は太陽のように輝いた」主の変容A年 2023年8月6日

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イエスの顔は
太陽のように輝いた
―主の変容A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音書
   17章1−9節


 高い山に登る(1節)
 山は神が顕現する場所です。イエスは、モーセがアロン、ナダブ、アビフを伴ってシナイ山に登り(出エジプト記24章1節)、神と契約を交わしたように、三人の弟子を伴って高い山に登ります。イエスの変容を目撃したこの三人の弟子と、ゲッセネマの園でイエスの近くにいた三人(マタイ26章37節)とは同じ人物です。このことは、イエスの変容とイエスの十字架上の死との密接な関係を暗示しています。

 変容(2−6節)
 「顔は太陽のように輝いた」(2節)はマタイだけが記しています。この輝きは、「光のように白くなった」(2節)服の輝きとともに、復活のからだ、昇天して神の右の座に着座するときの栄光の姿(黙示録1章14節・16節)を示しています。
 マタイ福音書は、旧約聖書を「律法と預言者」(マタイ7章12節)の書と表現しています。モーセは律法、エリヤは預言者の代表です。神の栄光に輝くイエスがモーセとエリヤと語り合う(3節)のを見たペトロは三つの仮小屋をここに建てようと言います(4節)。
 「光輝く雲」は神の臨在の象徴です(出エジプト記13章21節・22節、34章5節、40章34節、列王記上8章10節・11節、歴代誌下5章13節・14節)。したがって、この雲の中の声は神の声です。神は弟子たちに「これ(イエス)に聞け」(5節)と告げます。弟子が聞くべき人は、モーセでもエリヤでもなく、イエスです。イエスは、旧約聖書を代表するモーセやエリヤと対等なのではなく、旧約聖書を成就するメシアなのです。
 弟子たちは神の声を聞いて、ひれ伏し、非常に恐れたのは(6節)、神の臨在に触れ、神の声を聞くときの人間の正直な姿です。

 近づき、手を触れ、
  起き上がらせるイエス(7−8節)

 三人の弟子は、顔を伏せ栄光の姿のイエスを拝みますが(6節)、イエスは「近づき」、彼らの「手を触れます」(7節)。その手は、病人をいやし(マタイ8章3節)、盲人の目を開け(マタイ9章29−30節)、死人さえも起き上がらせる(マタイ9章25節)、主の手です。新しい命(新しい生き方)を与える主、生ける「(神の)愛する子」(5節)の手と言えます。  
 イエスは命の主として三人の弟子に「近づき」、「手を触れ」、「起きなさい」(直訳 起き上がりなさい。この語は、復活を示すために用いられる動作)」。こうして、主の変容の出来事は、三人の弟子に復活のイエスを証言させ、信仰を強め、希望を与えるのです。

 山を下る(9節)
 イエスに励まされた弟子たちは山を下り、日常へと帰ります。イエスは確かに栄光に輝く神の愛する子ですが、それは十字架上の死を経た後、復活のときに明らかになります。それまでは沈黙しなければなりません。しかし、イエスが復活・昇天して教会の宣教の時代に入れば、この出来事を積極的に述べることが期待されているのです。

 今日の福音のまとめ
 ペトロが「あなたはメシア、生きる神の子です」(マタイ16章16節)と信仰告白した後、イエスは初めて弟子たちに自分の死と復活を予告します(16章21節)。ペトロは、イエスが「苦しみを受けて殺される」ことがあってはならないと思い、イエスをわきに連れていさめ始めます(16章22節)。このようなペトロに対して、イエスは「サタン、引き下がれ」と言います(16章23節)。マタイの記述のポイントは、ペトロの信仰告白に対しての天の父よりの確認として、また、イエスの十字架上の死・復活・来臨の先取りとして、福音書の受難物語の前に、「主の変容」を位置づける点にあります。
 イエスは、十字架上のイエスに惨めな死しか見えない弟子たちに、「顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)栄光の姿(復活の姿)を見せます。このように、変容という出来事は十字架上の死を経た後に待っている栄光(復活)を見せることによって、弟子たちを励まし、彼らに十字架上の死の意味を教える出来事なのです。
 ある神父さまが次のように述べています。

 「今日8月6日は、ヒロシマの原爆の日です。…イエスを包んだ天来の変容の光は、一見、全く無関係のようですが、あの日、一瞬にして無数の人々の上に、あの残酷の死をもたらしたピカの光を想い起こさせます。変容の山でイエスを包んだ光は、十字架のイエスを照らし出す光です。…戦後の苦難に満ちた復興への努力によって、広島の街は驚異的な変貌を遂げました。けれども、人間の努力によって成し遂げられたそのような変貌は、あの日、無数の人々の尊い命と引き換えに、この私たちの世界にもたらされた、一瞬の、神からの変容の光を隠しつつあります」。
 (今日のみことば 真正会館聖書センター 年間18土曜日 8月6日号 2011年7月31日発行 23ページ)。

 イエスを包んだ変容の光は、十字架上の死・復活・来臨の先取りの光であり、私たちの世界の変容を照らす光です。戦争による無数の人々の尊い命の犠牲によって(イエスの十字架上の死につながっています)、戦後の復興や平和(復活につながっています)があったことを私たちが忘れてしまったならば、変容の光を覆い隠すことになります。
 今日は、広島をはじめ日本各地で、原爆投下で天に召された人々を思い起こしつつ、核のない、戦争のない、平和な世界の実現を願って多くの人々が祈りをささげています。私たちもこの世界の真の変容を願い、ミサの中で祈りをささげましょう。
2023年8月6日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文後半で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教プリント「宝を見つけた人は持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う」年間第17主日 2023年7月30日

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宝を見つけた人は
持ち物をすっかり売り払って
その畑を買う
―年間第17主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   13章44−52節


 今日の福音を含むマタイ13章は次の三つのグループで展開されています。
第一グループ(1−23節)
 ↑先々週の福音
(ア) 種を蒔く人のたとえ
 (1−9節)
(イ) たとえを用いて話す理由
 (10−17節)
(ウ) 種を蒔く人のたとえの説明
 (18−23節)
第二グループ(24−43節)
 ↑先週の福音
(ア) 天の国についての
 三つのたとえ(24−33節)
  「毒麦のたとえ」
  「からし種のたとえ」
  「パン種のたとえ」
(イ) たとえを用いて語る
 (34−35節)
(ウ) 毒麦のたとえの説明
 (36−43節)
第三グループ(44−52節)
 ↑今日の福音
(ア) 天の国についての
 三つのたとえ(44−50節)
  「畑に隠された宝のたとえ」
  「高価な真珠のたとえ」
  「良い魚と悪い魚のたとえ」
(イ) 天の国のことを学んだ学者
 (51−52節)

 天の国のたとえ:
  「畑に隠された宝」「高価な真珠」
  「良い魚と悪い魚」(44−50節)

 今日の福音も先週の福音と同様に、三つの「天の国のたとえ」が語られています。先週の福音(第二グループ)は、最初に「毒麦」、次に対(つい)をなす「からし種」と「パン種」という順番でした。それが今日の福音では、最初に対(つい)をなす「畑に隠された宝」(44節)と「高価な真珠」(45−46節)が語られ、最後に「良い魚と悪い魚」(47−50節)が語られています。この最後のたとえは先週の福音の「毒麦」に対応しています。
 44・45・47節の冒頭は「天の国は次のようにたとえられる」という同じ表現で始められています。これは原文では「天の国は似ている」という表現になります。
 「畑に隠された宝」と「高価な真珠」は内容だけでなく、次の表現はほとんど同じです。「持ち物をすっかり売り払って、その畑(それ)を買う)」。対(つい)になったたとえですから、この同じ表現の部分に主眼点があります。つまり、天の国を見いだした者は持ち物をすべて売り払って、それを買いたいと思うほど、天の国は人に「喜び」を与え(44節)、「高価(直訳 貴重)」なものなのです(46節)。
 この対(つい)をなすたとえには相違点もあります。「持ち物をすっかり売り払って、その畑(それ)を買う)」。原文では、44節は現在形ですが、46節は過去形です。次に、「畑に隠された宝」では、隠された宝を「見つけた人」とあり、それが偶然であったことが示されています。それに対して、「高価な真珠」では、「商人が探している」とありますから、探し続ける努力が前提とされています。三番目は、宝を見つけるのは自分の畑を持たない貧しい小作人ですが、高価な真珠を買う人は、探し歩いているのですから金持ちと言えます。その人が貧しい人であれ、豊かな人であれ、それが偶然であれ、探すという努力をした結果であれ、過去であれ、現在であれ、天の国はいつもすべての人を招いているのです。
 「良い魚と悪い魚のたとえ」は「毒麦のたとえ」と対応していますが、相違点もあります。「毒麦のたとえ」では、毒麦を神が忍耐している現在に視点が置かれていました。「良い魚と悪い魚のたとえ」も、現在は「いろいろな魚を集める」時と捉えていますが、49−50節にあるように、「世の終わり」に起こる選別に強調点が移っています。

 天の国のことを学んだ学者
  (51−52節)

 「みな分かったか」の質問に対し、弟子たちははっきりと肯定で答えます。先々週の福音(第一グループ)において、聞いても悟ることができない群衆(13節・15節)と天の国の秘密を理解することができる弟子たち(11節)を対比的に置き、悟ることが弟子としての基本条件であるということを示しましたが、結びにおいて、弟子たち自身の言葉で弟子たちがイエスの教えを理解したことを表明します(51節)。
 これはマタイの弟子像をよく表していますが、ここからさらに一歩すすめて、特権を持つ(天の国の現実から新しいものと古いものを取りだす)弟子たちを「学者」と呼びます(52節)。マタイの教会に、伝承されたイエスの言葉を専門的に解説して教える学者たちがいたことは、マタイ23章34節からも推定されます。マタイは学者たちの原型を、イエスから直接教えを受け、「分かりました」と答えた(51節)弟子たちに見ています。「一家の主人」がイエスを暗示するとすれば、学者は弟子に、弟子はイエスに似ていることになります。

 今日の福音のまとめ
 畑に隠された宝のたとえ、高価な真珠のたとえ―天の国は人に「喜び」を与え、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと人が願うほどに「高価な(直訳 貴重な)」ものです。
 しかし、良い魚と悪い魚のたとえ―天の国は、海へ投げ入れられ、あらゆる魚を寄せ集める網に似ています。しかし、その網は岸に引き上げられると、良いものは入れ物へ選り分けられ、悪いものは外へ投げ捨てられます。今、天の国はあらゆる魚を寄せ集める網のように、すべての人に開かれています。しかし、その中には「悪いもの」がいます。
 「悪いもの」は49節では「悪い者ども」と言い換えられています。「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえとの関連で読むなら、ここでの「悪い者ども」の「悪」とは、倫理的な悪ではなく、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと願う天の国に気づかないことだと考えられます。今、天の国はすべての人に開いていますが、終末の日、天の国にふさわしくない人が明らかにされます。
2023年7月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で下線を引いている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、下線で代用させていただきました。ご容赦を。
 また、スマートフォンでも読みやすいよう、原文よりも改行を増やしたり、字下げをしたりしております。
 原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

ミサ説教プリント「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」年間第16主日A年 2023年7月23日

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刈り入れまで、両方とも
育つままにしておきなさい
―年間第16主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   13章24−43節


 天の国の三つのたとえ
  「毒麦」「からし種」「パン種」
   (24−33節)

 「毒麦のたとえ」のポイントはどこにあるのでしょうか。27−30節に「言う・話す(直訳)」という動詞が5回現れます。最初の二つ(27節「言った」、28節「言った(直訳 話していた)」が過去形で書かれており、次の二つ(28節「言う」、29節「言った(直訳 話す)」が現在形、最後の一つ(30節「言いつけよう(直訳 わたしは言うだろう)」は未来形です。
 25節以降の動詞はすべて過去形ですので、最初の二つが過去形であるのは当然と言えます。30節の「直訳 わたしは言うだろう」が未来形であるのも、終末の裁きのことを語る文脈に出て来るので当然と言えます。そうすると、過去形と未来形に挟まれている現在形がいっそう際立ってきます。28節の「言う」と29節の「直訳 話す」は、文脈から見れば当然過去形となるはずですが、それを無視して現在形で書いたのは、そこに強調点を置きたかったからでしょう。「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は〔直訳 話す〕。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」。今は、麦が一緒に取り除かれないようにと、主人(=神)が毒麦を忍耐する時です。「刈り入れの時」には、毒麦は必ず焼き尽くされます。ですから、天の国に招かれた者は今、毒麦への裁きを神にまかせることを知っています。
 「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」は対(つい)になっています。小さな「からし種」もわずかな「パン種」も想像できないほど大きくなり、全体を膨らませます。天の国は豊かな実りを獲得します。

 たとえを用いて語る
  (34−35節)

 マタイでは、イエスのたとえを聞き、そこに「天の国の秘密」を聴き取る者が「弟子」であり(13章11節)、聴き取ることができない者は「群衆」です。24−33節の天の国の三つのたとえを聞いているのは「彼ら」です(31節)。「彼ら」と呼ばれていた聴衆が、34節では「群衆」に変わります。イエスのたとえを聞く「彼ら」は弟子にもなれるし、「群衆」にもなれたのですが、結局は「群衆」となってしまいました。イエスのたとえを聴き取ることができず、「謎」で終わったからです(13章13節)。

 毒麦のたとえの説明
  (36−43節)

 初代教会は世の終わりに下される裁きという観点から、「毒麦のたとえ」を解釈しています。イエスを信じる教会は、悪(毒麦)に対して憐れみ深く忍耐するイエスの姿勢に疑問をはさまずに、未来に目を向け、「太陽に輝く」日を待ちます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音を含むマタイ13章は次の三つのグループで展開されています。
第一グループ(1−23節)
  種を蒔く人のたとえ
   (1−9節)
  たとえを用いて話す理由
   (10−17節)
  種を蒔く人のたとえの説明
   (18−23節)

第二グループ(24−43節)
  天の国についての三つのたとえ
   (24−33節)
  たとえを用いて語る
   (34−35節)
  毒麦のたとえの説明
   (36−43節)

第三グループ(44−52節)
  天の国についての三つのたとえ
   (44−50節)
  天の国のことを学んだ学者
   (51−52節)

 第三グループでは「たとえの説明」が欠けていますが、これは第三グループでのイエスは群衆を除く弟子たちに語ったとされており(36節)、弟子たちは、たとえの説き明かしを必要としない「天の国のことを学んだ学者」となっているからです。
 このように三つのグループは同じ構成を持っていますが、単純な繰り返しでは終わらずに、なにがしかの発展が見られます。まず、それぞれのグループの最初に置かれたたとえに見られる変化ですが、第一グループのたとえ(種を蒔く人のたとえ)のテーマについて明記はされていませんが、第二グループの三つのたとえも、第三グループの三つのたとえも、「天の国は次のようにたとえられる」とか、「天の国は…に似ている」とかで始まっており、テーマが天の国であることが明確に表現されています。ただし、第二グループのたとえの興味は、天の国が実現してゆく過程に置かれているのに対して、第三グループのたとえの中心は、天の国が人にもたらす結果に置かれていると言えます。
 それぞれのグループの二番目の要素についても進展が見られます。第一グループでは群衆は「聞くには聞くが、決して理解しない」人たちですが、弟子たちには「あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と語りかけ、聞くようにと励ましています。しかし、第二グループになるとこの対比が消え、さらに第三グループでは群衆が姿を消し、弟子たちを「天の国のことを学んだ学者」と位置付けています。
 もちろん、群衆が耳を開いて、イエスの励ましの言葉に力づけられて、たとえの語る神秘を理解するなら、誰もが弟子とされ、「天の国のことを学んだ学者」とされるはずです。マタイ福音書13章が求めているのは、私たちが群衆でとどまらずに、弟子への道を歩むことだと言えます。
2023年7月23日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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 また、本文で斜字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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