主任司祭メッセージ

ミサ説教「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」年間第26主日C年 2022年9月25日

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もし、モーセと預言者に
耳を傾けないのなら、
たとえ死者の中から
生き返る者があっても、
その言うことを
聞き入れはしないだろう
―年間第26主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  ヨセフの破滅に
  心を痛めることがない
  (アモス6章1a・4−7節)

 アモスが活動したのは北イスラエル王ヤロブアム2世の時代です。この王は、北の強国アッシリアの国力が弱くなり、パレスチナの地に力を発揮できなくなった間隙(かんげき)を衝いて(ついて)、支配領域をほぼソロモン王の時代に匹敵する広さに回復させました(列王記下14章25節)。ティグリス・ユウフラテス川のほとりまでを支配下に置くことができましたから、通行税や貿易収入などの富をもたらし、贅沢な生活をする人々が現れました。
 「サマリアの山で安脱をむさぶる者」(1節a)たちのように贅沢な生活ができるのは、少数の上流階級に限られています。多くの貧しい者は、さらに富を増やそうと躍起になる彼らに踏みつけられ、苦しみの声をあげていますが、欲望に膨らませた彼らの耳は鈍感になり、それを聞くことができません。
 アモスはその無関心さを指摘して、「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない」(6節)と嘆きます。ここで「破滅」と訳された言葉は、レビ記21章19節「手足の折れた者=手に骨折のある、あるいは足に骨折のある者」では、「骨折」の意味に使われています。ここでのヨセフはイスラエルのことですから、イスラエル社会が骨折を起こし、金持ちと貧しい者とに分解しているのに、それに痛みを覚えない鈍感さが非難されています。
 快適な生活に目を奪われ、「社会の骨折」に気づかない者は、「捕囚の列の先頭を行くことになる」(7節)とアモスは戒めます。

 第二朗読:信仰の戦い
  (汽謄皀6章11−16節)

 第二朗読の前には、キリストの健全な言葉や信心に基づく教えに従わない異端は、高慢で、ねたみや争いが絶えず、信心を利得の道と考え、金持ちになろうとする者であると批判されています。金銭の欲はすべての悪の根であり、異端に通じるものであると述べます(汽謄皀6章3−10節)。今日の第二朗読は、「あなたはこれらのこと(=異端と金銭の欲)を避けなさい」(11節)というテモテへの警告で始まります。
 金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て破滅に陥る人々の生き方を「避け」、全く逆の正義や愛を「追い求め」なければならない(11節)。そのような生き方は、12節では「信仰の戦い」と表現されています。「信仰の戦い」とは、「信仰が行う戦い」であり、この戦いは、正義や愛を求める者が、異端や金銭の欲を大切にする生き方に対して行う戦いのことです。この戦いを立派に戦い抜くなら、「永遠の命を手に入れる」ことができると教えています(12節)。

 福音:大きな淵=裂け目
  (ルカ16章19−31節)

 貧しい人ラザロが横たわっていたのは金持ちの門前です(20節)。門は家の中と外とをつなぐ入口ですが、金持ちはそこにいるラザロには目を向けません。ラザロの目から見れば、金持ちの家の門は渡って入ることも誰かが越えて来ることもない「大きな淵(直訳 裂け目)」になっています。
 金持ちは死んで盛大な葬式によって葬られたと思われますが、ラザロは墓に葬られもせず、「天使たちによって連れて行かれ」ました。ラザロが運ばれたところは、原文によれば「アブラハムの胸」です。それは、胸に抱かれる子どもの平安を表すと同時に、天の祝宴での最高の席を表しています(22節)。一方、金持ちは陰府に下り、「炎の中で」もだえ苦しんでいます。彼はアブラハムに助けを求めますが、「裂け目」があって、行き来はできない、と断られてしまいます(23−26節)。この「裂け目」は、生前、金持ちが貧しい人に作っていた「裂け目」の反映です。彼が貧しい人と関わりを持つことによって、「裂け目」を作り出していなかったら、陰府で苦しむこともなかったに違いありません。
 この世を生きる人間が築く、目に見えない「裂け目」はもうひとつあります。陰府とアブラハムとの間に越えることのできない「裂け目」があると知った彼は、せめて兄弟にはこの苦しみを体験させたくないと思い、ラザロをよみがえらせて世に遣わし、兄弟を戒めて欲しいと頼みます(27−28節)。彼らには「モーセと預言者(=旧約聖書)」があると言われてしまいますが、死者の復活があれば悔い改めるでしょう、と食い下がります(29−30節)。
 しかし、アブラハムは取り合おうとはしません。アブラハムは金持ちの兄弟が神に対して作る「裂け目」の存在に気づいています。それは神の言葉を聞くことができないという「裂け目」です。この「裂け目」を作り上げている限り、死者の復活という出来事も力を発揮することができません。なぜなら、神に心を閉じているからです(31節)。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは、先週と同じく「富」の問題です。聖書では、富は神から人間にゆだねられているものです。第一朗読でアモスが批判の目を向けるのは、ぜいたくな生活そのものというよりも、むしろ快適な生活を求めるという生き方が社会に「骨折」(アモス6章6節 ヨセフの破滅)をもたらし、結局はバビロン捕囚(7節)という滅びにつながってしまうということです。豊かさの中で神を忘れることが隣人を忘れさせ、滅びを招きます。
 一方、第二朗読で述べられた全く逆の正義や愛を「追い求め」る(汽謄皀6章11節)生き方は、今は快適さを犠牲にしなければなりませんが、「アブラハムの胸」(ルカ16章22節)に抱かれながら、神の国の宴会を楽しむことになります。
 この二つの生き方には、渡ることのできない「裂け目」があるように離れています。快適な生活の追求は目に見えるだけに、人の心を捕らえます。それに打ち勝つには、「モーセと預言者」に耳を傾けることが不可欠だとイエスは教えています(ルカ16章29・31節)。
2022年9月25日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」年間第25主日 2022年9月18日

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この方は
すべての人の贖いとして
御自身を献げられました
―年間第25主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


第一朗読:
 神と共に働くことを忘れる
  (アモス8章4−7節)

 アモスはヤロブアム2世が治める北イスラエル王国で活動した預言者です。彼が活動した紀元前8世紀中頃、北イスラエルはアッシリアが弱体化したことに乗じて、その領土を北や東に拡大させることができたので、かつてない繁栄を享受する人たちが現れました。彼らはいっそう豊かになろうとして、利潤追求に血眼になりました。アモスは、金持ちは「貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける」(4節)と、彼らのゆがみを批判します。
 アモスが痛烈に批判する商人たちは、「安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ」(5節)とつぶやいていますから、彼らにとって、安息日はあってほしくない、迷惑な一日です。安息日も仕事をしたいと熱望するほどに商売熱心な彼らにとって、仕事は神と共に働く時間ではなくなり、むしろごまかして、利潤を追求するための場となっています。
 もっと儲けて豊かになりたいという心がいったん燃え上がると、止めどもなく広がり、ごまかしへとのめり込んでゆきます。まずは良心が痛まない程度に、エファ升を小さくし、分銅を大きくします(5節)。そうすると、確実に儲けが増えますから、それが良心を麻痺させ、利益を増やす別の手段をとるのも怖くなくなります。こうして、分量をごまかすだけでは終わらず、商品の内容にまで手を出し、増収を図ります。さらに「靴一足」ほどの微々たる債務(さいむ)を返せない者を奴隷として売り買いして儲けることも、また商品を偽って「くず麦」を買わせることも平気になります(6節)。
 七日目(安息日)に仕事をしないのは、天地創造であれ、出エジプトであれ、神が行った業を思い起こして、残りの六日間を神と共に働くためです。六日間の労働を真の労働とするために七日目に「仕事をしない」ことにします。それを怠れば、利益の誘惑に打ち勝てずに、利益中心に生き始めてしまいます。

第二朗読:
 祈りをすべての人々のために
  ささげなさい
  (汽謄皀2章1−8節)

 第二朗読は、キリスト者は「すべての人々のために」祈りをささげるのだから、王たちのためにも祈るようにと勧めます。それはキリスト者が「平穏で落ち着いた生活を送るため」です(1−2節)。
 「落ち着いた」と訳された語と同族の動詞は、ルカ23章56節bでは「(安息日に)休む」と用いられ、神に向かうことによって与えられる「静けさ」を表しています。また汽謄汽蹈縫4章11節では「落ち着いた生活をし、……自分の手で働くように努めなさい」と用いられています。テサロニケ教会には、主の来臨が近いのなら働く必要はないと考え、仕事を放棄する人がいましたが、そのような誤った終末理解を戒めるために、パウロは神への信頼を保つことによって得られる「落ち着きと静けさ」を求めています。だから、「平穏で落ち着いた生活」とは、神の思いに触れ、神の平和から来る静けさに満ちた生活のことです。
 神の思いとは「すべての人々が救われて真理を知るようになる」ことです(4節)。ですから、「すべての人々のために、感謝をささげる」なら(1−3節)、静けさを得ることができます。キリスト者が求める「静けさ」は迫害によって乱されないことというよりも、すべての人々の救いを望む神の平和に満たされた状態です。真の平和は神からもたらされます。神こそが「永遠の王」であり(汽謄皀1章17節)、地上の王は神の支配下にあるからです。

福音:
 富で友だちを作りなさい
  (ルカ16章1−13節)

 「不正な管理人」のたとえの解釈は大きく二つに分けることができます。
 (1) 伝統的な解釈によれば、管理人は自己保身のために主人のものをかすめ、負債の額をごまかしたのだから不正だとされます。主人がこの不正な管理人を8節で誉めたのは、不正な行為に対してではなく、身の危機に機敏に対応した「抜け目のない賢さ」を誉めたと説明されます。この解釈によれば、たとえの適用は8節後半であり、終末が差し迫る今、光の子(つまりキリストを信じる者)も機敏な対応を選び取る「賢さ」を持たねばならないと教えており、9節は後から加えた解釈だとされます。
 (2) 別の解釈では、管理人は負債額に上乗せられていた利息分を差し引いたのであり、不正どころか、利息を禁じた律法に立ち帰ったのである、と説明されます。負債者は喜び、管理人は掟どおりに振る舞い、人々は主人の寛大さを賞賛するでしょうから、主人も管理人を誉めざるをえません。この場合は、8節後半というより、9節がたとえの意味を明かす部分になります。
 4節後半と9節後半の対応関係から言って、「友だちを作るために富を使い、迎え入れてくれる場所を確保すべきだ」ということが、たとえが教える要点になります。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは、富は神から人間にゆだねられているものであるから、その活用を図り、乱用してはならない、ということです。第一朗読では、権力を利用して貧しい人々を圧迫する王や富んだ人々に対する厳しい宣告(アモス8章7節)が神自身から下されるという箇所です。福音は、いわゆる「不正な管理人」のたとえとそれに続く勧告です。
 今日の福音11−12節では、「不正にまみれた富(この世の富のこと)」を神に信用されてまかせられた人がそれを善用して本当に価値あるものをまかせられるようになりなさいと勧め、そして最後にこの世の富に仕えるという態度は、神への奉仕と両立できないと断言しています(13節)。イエスはすべての人の贖いとして御自身を献げられました(汽謄皀2章6節)。地上の富(この世の富)は、神の富(天の宝)に比べたら、「ごく小さなもの」(10節)、「他人のもの」(12節)です。私たちはイエスに倣って愛の犠牲によってこれを神に返し、本当に価値ある「天の宝」を作ることを、今日の福音は勧めているのです。
2022年9月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「悔い改める一人の罪人については、大きな喜びが天にある」年間第24主日C年 2022年9月11日

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悔い改める
一人の罪人については、
大きな喜びが天にある
―年間第24主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:災いを思い直す
  (出エジプト記
   32章7−11・13−14節)

 シナイ山で神と契約を結んだ後、再び山に登ったモーセが神から新たな指示を受けている間、民はふもとに留まりました(出エジプト記25−31章)。モーセの下山が遅れて不安を覚えた民が迫ると、アロンはそれに応じ、「若い雄牛の鋳造」を造ります(32章1−6節)。民はその像にひれ伏し、いけにえをささげて「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトから導き上った神々だ」と叫びます(8節)。このような行動をとる民を神は「あなた(モーセ)がエジプトの国から導き上った民」と呼びますが、これは原文では「あなた(モーセ)の民」です。神は怒り、もはや「わたしの民」とは言わず、捨て去ろうとします。
 8節で「神々」と訳されている言葉は「唯一の神」をも表すことができます。おそらくアロンの意図は、目に見えないヤーウェ(出エジプトを行った神)のための台座として若い雄牛の像を造ったのだと思います。それでも、罪とされたのは、カナンの主神エル(バアル)も雄牛像で表されており、容易に混同される危険があったからです。それに偶像を造り、それを礼拝することは十戒で厳しく禁じられていました(出エジプト記20章4−6節)。
 神は民を「かたくなな民」と評価し、彼らが取った行動に対して「わたしは彼らを滅ぼし尽くす」と罰を決意します(9−10節)。しかし、モーセが神の名誉と神の約束に訴えて執り成すと(11−13節)、いったんは宣告した災いを神は「思い直す」ことになります(14節)。
 神は決意をひるがえして、民との関わりを続行させます。旧約聖書は、民に対する神の譲歩の歴史です。その頂点が、民の罪の赦しのため、神が独り子を十字架に上らせることです。

 答唱:打ち砕かれ悔いる心
  (詩編51
   3−4・12−13・18−19節)

 詩編51は、七つの「悔い改めの詩編」(詩編6・32・38・51・102・130・143)のひとつです。罪を告白して赦しを祈る詩編作者は(3−4節)、交わりの回復を願い(12−13節)、砕かれた心をささげます(18−19節)。恐ろしい罪を犯した人がそれを告白し、「打ち砕かれ悔いる心」(19節)を神にささげて賛美する歌となっています。

 第二朗読:
  イエスは救うために世に来られた
  (汽謄皀1章12−17節)

 パウロはかつて「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」でした(13節)。その意味で、パウロは「罪人の中で最たる者」です(15節)。しかし、そのパウロが憐れみを受けました(13・16節)。パウロの回心は人が主から受ける恵みがどれほど豊かであるかのしるしです。神の教会を迫害したパウロが恵みを受けたのであれば、誰もが恵みを受けることができるはずです。どんな罪人も「主の恵みが与えられ、救われる」(14−15節)ことを示すために、パウロは呼び出されました。それがパウロの使徒としての「務め」です(12節)。
 パウロは、神がイエスを通して恵みを与えることを示す格好の見本です。キリストは人の救いを願ってどこまでも忍耐し、あふれる恵みを与えたこと、また信じる者はキリストの愛を映す生き方に招かれていること、それをパウロの生涯は証ししています(16節)。

 福音:神は失われたものを
   見つけ出して喜ぶ
   (ルカ15章1−10節)

 イエスは徴税人ザアカイの物語(ルカ19章1−10節)の結びで、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と述べています。ルカは「失われた羊」のたとえの後に、それと対(つい)をなす「失われた銀貨」のたとえを加えることによって、失われたもの(=神から離れた罪人)を見つけ出したときの神の喜びをいっそう強調しています。
 この神の喜びは、「悔い改める一人の罪人については……大きな喜びが天にある」(7節)、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)とあるように、罪人の「悔い改め」から生じます。しかし、ここでの悔い改めは「善行をおこなって神に赦しを願う」といった人間の努力を強調してはいません。というのは、捜し回るのは羊でも銀貨でもなく、それらの持ち主だからです。とするなら、ここでの「悔い改め」とは、失われたものを捜し回り、見つけ出す神に気づき、神の喜びに触れた者の反応だと言えます。罪人が悔い改めるより前に、神が捜しています。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「罪の赦し」です。今日の第二朗読によれば、パウロが「神を冒涜する者」でありながら、神の憐れみ(赦し)を受けたのは、「信じていないとき知らずに行ったこと」だと神が認めたからであり、さらに彼を「手本」として、キリスト・イエスを信じて永遠の命を得ようとする人が現れるようにと考えたからです。
 ファリサイ派の人々はこの親心を理解できません。だから今日の福音は、一匹の「徴税人や罪人」に向けて語られたのでありません。むしろ九十九匹の「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向けて語られたのです。そこで求められているのは、九十九匹の羊に、羊飼いの心を分かってほしい、ということです。なぜなら、私たちに今があるのは、何度も後悔して思い直し(第一朗読)、捜し回って見つけ出して喜ぶ神(福音)がいるからです。
 回心する、悔い改めるとは、神のもとに帰ることよりも、迷子になっている私たちを捜しに来てくれた神を受け入れることです。洗礼を受けてキリスト者になるのは、今後決して迷子にはならないという条件付きでなるのではありません。逆に洗礼を受けても人生の道に度々迷うことがあるからこそ、捜し回る神があらわれて赦し迎え入れてくださるのです。
 今日の福音には、「一緒に喜ぶ」という言葉が繰り返されます(6・9節)。イエスは罪人を迎えて「一緒」にいます(2節)。私たちはミサにあずかるたびに、一緒に喜びをもって神に感謝します。教会の一員として信仰共同体がますます「一緒に喜ぶ」集いとなるように、貢献する使命があります。なぜなら、教会は神に見つけ出された人たちの集まりだからです。
2022年9月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」年間第23主日C年 2022年9月4日

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自分の十字架を背負って
ついて来る者でなければ、
だれであれ、
わたしの弟子ではありえない
―年間第23主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ルカによる福音14章25−33節

 二つのたとえ話(28−32節)
 二つのたとえ話をよく見ると、まったく同じパターンが使われているのが分かります。

 最初のたとえ話(28−30節)では、
(1)「……塔を建てようとするとき
(2)「……十分な費用があるかどうか
(3)「まず腰をすえて
(4)「計算しない者がいるだろうか
(5)そうしないと……
とあります。

 二番目のたとえ話(31−32節)では、
(1)「……戦いに行こうとするとき
(2)「……迎え撃つことができるかどうか
(3)「まず腰をすえて
(4)「考えてみないだろうか
(5)もしできないと分かれば……
と展開されます。

 傍線部に注目すれば、同じ構成の、対(つい)となった「たとえ話」であるのか明らかです。対になっていますから、同じねらいをもったたとえ話のはずです。
 二つのたとえ話に共通するねらいは「まず腰をすえて」(28・31節)です。「まず腰をすえる」のは、計算したり、考えたりするためですが、この表現自体は「ほかの仕事を一切捨てて」といった意味だと思われます。塔を建てるのに必要な準備はたくさんありますが、いったんはそれをすべて脇に捨て置き、「まず腰をすえる」ことが必要です。同様に、戦争を始めるためにはさまざまな準備が必要ですが、いったんはそれをすべて脇に捨て置き、「まず腰をすえる」ことから始めます。つまり、塔を建てたり、戦争を始めたりするにあたっては、行うべき準備はたくさんあるでしょうが、それらを「捨てて」、成算(せいさん 意味……成功する見通し)とか、勝算があるかどうかを考えます。
 この二つのたとえ話に続いて、イエスは「だから、同じように」と述べて、「一切を捨てる」ことを求めています(33節)。「まず腰をすえて」計算したり、考えたりすることの大切さを述べたのは、「一切を捨てる」という姿勢がイエスの弟子に求められているからです。

 何を憎むのか(26−27・33節)
 対となった二つのたとえ話と33節から考え、弟子の条件が「捨てる」ことに置かれているのは確かだと思われますが、いったい何を捨てるのでしょうか。それを知るために、26−27節に書かれた条件をまとめると、
 (私のもとに)来る
 父や母などを憎む
 自分の十字架を背負う
 (私の後を)来る

となります。この四つの動詞は一連の動作、つまり「私のもとに来て、父や母などを憎み、自分の十字架を背負って、私の後を来る」ということを表しています。そうであれば、「父や母などを憎む」ことと「十字架を背負う」こととは、互いに関連し合っていますから、背負うべき十字架とは、家族の間に最も濃密な形で現れる人間関係に関する十字架です。
 あるがままの人間はさまざまな欠点を持っており、なかなか受け入れることはできません。この受け入れがたい相手の欠点をここでは「十字架」と呼んでいます。私たちが背負うべき十字架とは、共に生きるべき相手、しかもあるがままの、欠点に満ちた相手のことです。
 あるがままの相手を背負えないのは、私たちの頭の中に相手についての理想像があって、それが邪魔するからです。弟子が憎むべき「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」とは、私たちが勝手に思い描いた「相手の理想像」であって、現実の欠点だらけの相手のことではありません。むしろ、欠点だらけの「あるがままの相手」を十字架として背負うために、「相手についての理想像」を憎んで捨て去ります。
 そうであれば、憎むべき「自分の命」の意味を明らかです。命(プシューケー)には、「欲望や感情を含め、人間の内面生活の場としての心」という意味があります。ここでは自分の命といえるほどに大事にしている「夢」を指しています。自分が思い描くすべての「夢」をいったん捨て、神の思いに従うことが求められています。そういえばイエスは、私たちに対する「夢」を捨て、あるがままの私たちを「自分の十字架」として背負ってくださいました。

 「被造物を大切にする世界祈願日」
  に向けて

 今日の福音は、人間同士の数多くの欲望や感情が絡み合った世界の中で、イエスと福音の要求(例 自分の十字架を背負いなさい)が、他の事柄に優先するだけでなく、実に、他の事柄を規定し直すのだ、ということを教えます。このことは、ある事柄を捨てることや、その方向を転換することを必然的に含んでおり、これから先もそうあり続けます。
 今日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。「被造物の声を聞け」―これが今年の「すべてのいのちを守るための月間」(9月1日〜10月4日)のテーマです。「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージは、「まず叫んでいるのは、……母なる大地です。私たちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つよう私たちに懇願しています。ですから、叫びをあげているのはすべての被造物です」と述べます。
 教皇は「エコロジカルな回心」を深めることを勧めています。地球は、神が共通の家として人間に与えました。国々が多様性をもったまま環境問題に向き合うためには、共通の家という視点が必要です。エコロジカルな回心は、地球を与えてくださった創造主の慈しみに感謝し、地球上のすべての「いのち」について考えることによって、私たちを解決の道へと導きます。教皇メッセージは、「他の被造物から切り離されているのではなく、万物のすばらしい交わりである宇宙の中で、他のものとともに育まれるのだということを、愛をもって自覚すること」の中に、キリスト者の霊性を基礎づけなさいと招き、過剰な消費主義、虐待と破壊からの方向転換を私たちに呼びかけています。
2022年9月4日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文冒頭の「二つのたとえ話」の部分は、原文(Wordファイル)では四角で囲まれ、左半分に「最初のたとえ話」が、右半分に「二番目のたとえ話」が書かれていますが、これはスマートフォンでは読みにくい上、Web上で四角で囲むのは難しいので、四角で囲まない通常の形にさせていただきました。
また、本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのレイアウトやフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。

教会便り巻頭言「新しい『ミサ式次第』の変更箇所 その3」(2022年9月号)

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新しい「ミサ式次第」の変更箇所
その3

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 2022年11月27日(待降節第1主日)から、ミサの式文が移行期間を設けず、一斉に変更します。その変更箇所の一部をまとめました。

ことばの典礼
1 第一朗読
 朗読者は朗読台に行き、第一朗読を行う。その間、一同は着席して聞く。朗読の終わりを示すため、朗読者は手を合わせてはっきりと唱える。
 「神のみことば。」
 一同は答える。
 「神に感謝。」
 続いて、朗読者は聖書に一礼して席に戻る。一同は沈黙のうちに、神のことばを味わう。
2 答唱詩編
 詩編唱者あるいは先唱者は詩編を歌うまたは唱え、会衆は答唱する。
3 第二朗読
 第二朗読が行われる場合は、第一朗読と同じように行う。
4 アレルヤ唱(詠唱)
5 福音朗読
 司祭は朗読台へ行く。必要に応じて、奉仕者は先導する。←侍者は司祭より先に行く。
 主は皆さんとともに。
 会衆は答える。
 「またあなたとともに。」
 司祭は言う。
 〇〇〇による福音。
 福音を朗読する司祭が、額、口、胸に十字架のしるしをするとき、他のすべての者も同じようにする。
 会衆ははっきりと唱える。
 「主に栄光。」
 司祭は福音朗読が終わると、福音書を両手で掲げてはっきりと唱える。
 主のみことば。
※福音朗読が主キリストのことばであることを明確にするため「主のみことば」とし、第一(第二)朗読後の「神のみことば」と区別されました。
 司祭は静かに唱える。
 福音のことばによって、わたしたちが罪から清められますように。
6 説教
※すべての主日と守るべき祝日には、司祭は説教を行わなければならない、と「ローマ・ミサ典礼総則66」に定められています。
7 信仰宣言
 説教後、すべての主日と祭日、及びより盛大に祝われる特別な祭儀に、一同はニケア・コンスタンチノープル信条、あるいは使徒信条を、歌うかまたは唱える。
 ※改訂版には、キリストの受肉の神秘を述べる部分で一同が礼をすることが明記されました。受肉の神秘において、神の恵みに深い感謝を向ける、ローマ典礼に伝統的な礼拝行為です。
 ニケア・コンスタンチノープル信条
 「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました」を述べるとき、一同は礼をする。
 使徒信条
 「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」を述べるとき、一同は礼をする。
8 共同祈願(信者の祈り)
 ※改訂版には「共同祈願すなわち信者の祈りを行う」と明記されました。←共同祈願は信者の祈り

感謝の典礼
1 祭壇の準備
2 奉納行列
 ※パンとぶどう酒、献金などの供えものをささげることを通して、自らの参加する心を表すことが勧められています。
3 パンを供える祈り
 司祭は祭壇に行き、パンを載せたパテナを取り、両手で祭壇上に少し持ち上げ、次の祈りを小声で唱える。
 神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。
 奉納の歌を歌わない場合は、司祭はこの祈りをはっきりと唱えることができる。その場合、結びに会衆ははっきりと唱えることができる。
 「神よ、あなたは万物の造り主。」
 司祭は、ぶどう酒と少量の水をカリスに注いで静かに唱える
 この水とぶどう酒の神秘によってわたしたちが、人となられたかたの神性にあずかることができますように
5 ぶどう酒を供える祈り
 司祭はカリスを取り、両手で祭壇上に少し持ち上げ、次の祈りを小声で唱える(奉納の歌を歌わない場合は、この祈りをはっきりと唱えることができる)。
 神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちの救いの杯となるものです。
※カリスを手に取って唱える祈りの結びは「救いの杯」に変更され、パンとぶどう酒を供える祈りが同じではなくなりました。そのため、司祭はパテナとカリスを同時に取り、祈ることができなくなりました。
 「神よ、あなたは万物の造り主。」←奉納の歌を歌わない場合、会衆ははっきりと結びを唱えることができる。
6 献香
 献香をする場合、規範版に基づき、祭壇と十字架に献香する。
7 清め
 続いて、司祭は祭壇の脇で手を洗い、静かに唱える。
 神よ、わたしの汚れを洗い、罪から清めてください。
 司祭は祭壇の中央に立ち、会衆に向かって手を広げ、次の招きのことばを述べてから手を合わせる。
 皆さん、ともにささげるこのいけにえを、全能の父である神が受け入れてくださるように祈りましょう。
 会衆は立って答える
 「神の栄光と賛美のため、またわたしたちと全教会のために、あなたの手を通しておささげするいけにえを、神が受け入れてくださいますように。」
 一同はその後、しばらく沈黙のうちに祈る
9 奉納祈願
 続いて、司祭は手を広げて奉納祈願を唱え、会衆は結びにはっきりと唱える
 「アーメン。」

※ 注(Web担当者より)
●原文(Wordファイル)ではフォントは明朝とゴシックを使い分けていますが、Web上ではこの使い分けは難しいので、ゴシックは太字で代用させていただきました。原文で「ゴシック」「太字」「ゴシック+太字」の箇所がいずれも「太字」となっております。ご容赦を。
また、スマートフォンのような小さな画面を考慮し、字下げの形態を部分を一部変更しております。

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ミサ説教「だれでも高ぶる者は低くされへりくだる者は高められる」年間第22主日C年 2022年8月28日

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だれでも
高ぶる者は低くされ
へりくだる者は高められる
―年間第22主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:自らへりくだれ
  (シラ書3章
   17−18・20・28−29節)

 第一朗読では「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。……主(しゅ)はへりくだる人によってあがめられる」(18・20節)と述べ、「へりくだる」ことの大事さを説いています。ここでの「へりくだり」は、「主の威光は壮大」(20節)ということを知った者の「へりくだり」ですから、人間関係を円滑にするための作法ではありません。真に偉大なもの(=神)を目にしているので、自ず(おのず)と「へりくだる」ことになります。
 主(しゅ)はこのへりくだる人によって、「あがめられる」ことになります。なぜなら、へりくだる人は成功を自分の力の結果とはせずに、主が働いたからだと知っているからです。ここで「あがめる」と訳された動詞(ドクサゾー)は、「栄光」を意味する名詞(ドクサ)から派生した動詞です。ちなみに、今日の福音で「面目を施す」(ルカ14章10節)と訳された表現を直訳すれば、「栄光があなたにある」となります。「栄光」の出所が神にあると知っているので、神に栄光を帰し(かえし)、あがめます。
 それに対して、「高慢な者」とは「自分で自分に栄光を帰す(かえす)人」のことです。彼らは神を認めようとはせず、自分を際立たせます。このような者は世界の支配者である神を無視しますから、手の施しようのない「災難」に見舞われてしまいます(28節)。

 第二朗読:
  新しい契約の仲介者と共に
  (ヘブライ人への手紙
   12章18−19・22−24節a)

 18−19節では、荒れ野を歩むイスラエルの民がシナイ山のふもとで体験した光景を語ります(出エジプト記19章16−19節、20章18−21節、申命記4章11−12節)。22−24a節では、キリスト者に約束されている終末の出来事が述べられ、18−19節の、イスラエルの民に律法が授与された場面と対比されています。
 荒れ野のイスラエルは「これ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」に近づきましたが(18−19節)、「あなたがた」が近づいたのはまったく異なるものです。律法授与の際には、シナイ山に上ることが許されたのは仲介者モーセだけであり、イスラエルの民はふもとに留まらねばなりませんでした。しかし、新しい契約の時代には、イエスのあがないの業によって、「あなたがた」が神に近づくことが許されています(22−24節a)。つまり、神は「燃える火、黒雲、暗闇……」に隠れながら現れる神としてではなく、「新しい契約の仲介者イエス」として現れ、私たちと共に生きてくださいました。
 ギリシア語パラボレーは、第一朗読では「格言」と訳されていますが、福音書では「たとえ」と訳されています。背後にはヘブライ語のマーシャールがあります。このヘブライ語は、基本的には「背後にあって表現されていない事柄を何かとの比較によって言い表す表現形式」を指し、そこから「格言・比喩(ひゆ)・なぞ」という意味になります。
 「新しい契約の仲介者」であるイエスのことばはすべて「たとえ」であり、「格言」となります。イエスこそ天の父の思いを現す方(かた)ですから、そのことばは「背後にあって表現されていない事柄を言い表す」ものとなるからです。

 福音:面目を施す
  (ルカ14章1・7−14節)

 イエスは、招かれた人々が上席を好む様子を見て「たとえ」を語りだします(7節)。宴会でどの席に座るかはその人の名誉に関わることです。イエスは、8−9節では「もし上席に着いた後(あと)で、末席に移るように言われたら、恥をかくことになる」と警告し、10−11節では「むしろ末席に行きなさい」と教え、上席を勧められれば、「面目を施すことになる」と述べます。「面目を施すことになる」の直訳は「栄光があなたにある」です。
 「たとえ」の次元で考えれば、確かに「面目を施す」ということですが、「背後にあって表現されていない事柄」との関わりで言えば、やはり「栄光」を指しています。「栄光」はここでは「名誉」を意味していますから、この教えは処世術であり、生活の知恵だと言えます。しかし11節のことばによって、それは作法を教える処世術に終わらず、神の国の秩序を指し示す「たとえ」に変わります。
 「低くされる」も「高められる」も受動形ですが、低くしたり高くしたりする行為者が神であることを示す神的受動形です。ですから、「上席ではなく末席に」と教える生活の知恵を語る形を取りながら、実は神から「栄光」を受けるための知恵をイエスは語っています。 
 「へりくだる」(11節)の直訳は「自分を低くする」です。「へりくだる者」とは自分の思いよりも、神の思いを先に立て、神の前に自分を低くして、従順に生きる者を表しています。高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められるのが、神の国の秩序なのです。

 今日の朗読のまとめ
 神が招待者である「神の国の宴会」では、誰が神にお返しなどできるというのでしょうか。神は、文句も言わず、人々の身分を限定せず、報いも期待しません。したがって、イエスは神の国の「栄光」に入るために必要な態度を教えています。それは、お返しができない人たち(貧しい人、障がいを持つ人、今日的に言えば、失業者、対人関係で悩んでいる人、人生の生きがいを探している人、人生の道で迷っている人々など)を食卓に招くということです。
 当時のクムラン宗団の人々は、「貧しい者」と自称していましたが、自分たちの「神の集会」に障がい者を受け入れることを拒否し、共に集会の席に着きませんでした。だから、今日の福音でイエスは、キリスト者に、貧しい人や障がいを持つ人の必要に応えよ、と言っているのではありません。イエスは、彼らを食事(=ミサ)に招待せよ、と言っているのです。 
 今日の福音は誰かに食べ物を送れと言っているのではありません。むしろ、共に食卓の席に着くことが重要です。へりくだって他者を受け入れ、自分と同等の者とみなし、結びつきをかたいものとする明らかな「しるし」が、共にパンを裂く(=ミサ)という行為なのです。
2022年8月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「人々は、東から西から来て、神の国で宴会の席に着く」年間第21主日C年 2022年8月21日

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人々は、東から西から来て、
神の国で宴会の席に着く
―年間第21主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  神の栄光を示す「しるし」
  (イザヤ書66章18−21節)

 今日の朗読は、異邦人全体が「主の栄光を見る」と述べています(18節)。「栄光」の原義は「重み」ですから、彼らが目にする「栄光」とは、出来事を通して示される神の「重み」のことです。この重みによって偶像崇拝の無意味さが暴露され、主(しゅ)だけが真の唯一の神であることが人々に知られるようになります。
 しかし、19節に「彼ら(異邦人)の中から生き残った者」とありますから、全員が救われるのではなく、滅ぼされる者もいます。真の神である主の栄光を目にしても悟らず、神との関わりに生きることに失敗した人たちです。しかし、主の栄光を認めて神へと戻り、「生き残った者たち」は全世界へと派遣されます。神は全世界に派遣される者たちのために「しるし」を置きます。それは未知の国への道順を示す道標のことでしょうが、彼らを人々から見れば、彼ら自身が神の栄光を示す「しるし」となります。
 この18−19節では、世界の果てに向かう動きが強調されていますが、20節ではそれを修正するかのように、エルサレムへの逆の動きが語られています。つまり、地の果てへと派遣された「生き残った者たち」は、そこに散らされていたイスラエル(「あなたたちのすべての兄弟」)をエルサレムの神殿へと連れ帰るとされています。
 いずれにしても、21節で「祭司とレビ人(れびびと)」として神に仕える「彼ら」の中には、異邦人も含まれているはずです。だとすれば、ユダヤ人と異邦人の垣根が取り払われ、一つになって神を礼拝する時が来ることに大きな期待をかけていることになります。この期待はキリストを通して実現されました。
 今日の福音との関わり……
  ユダヤ人自身が狭くした
  「戸口の狭さ」

 今日の福音には「神の国」という表現が28節と29節に使われていますが、28節によれば、そこは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」、つまりユダヤ人の先祖たちが集まっている場所であり、29節によれば、「東から西から、また南から北から」来た人々、つまり異邦人が宴席に着く場所だとされています。
 しかも、今日の福音でのイエスの語り相手となる「あなたがた」(25・26・28節)は、戸が閉められてから、戸をたたき、主人に「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(26節)と訴えていますから、ユダヤ人です。
 そうであれば、24節の「狭い戸口」とは、今は、ユダヤ人にとっては狭くなってしまっているけれども、異邦人には広く開かれている「福音を受け入れるための戸口」のことだと言えます。イエスが歩む十字架への道はユダヤ人の待ち望んでいたはずのメシアの道であるのに、彼らはそれを認めることができず、入ろうとはしませんでした。彼ら自身が戸口を狭くしたので、「狭い戸口」となってしまっているけれども、それが神の国への入口なのです。
 イエスは「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と語ります(30節)。ユダヤ人は救いの約束を受けた「先の人」でしたが、「後の人」に過ぎなかった異邦人が先に神の救いにあずかることになります。

 第二朗読:
  主は愛する者を鍛える
  (ヘブライ人への手紙
   12章5−7節・11−13節)

 迫害に直面している読者を励ますために、箴言から「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭(むち)打たれる」(6節)という言葉を引用します。「鞭打つ」という語は、イエスの受難と弟子たちが受ける迫害を述べる際に使われた言葉です。ですからこの手紙も、鞭打たれ、嘲られ(あざけられ)、十字架に死んだイエスを見つめながら忍耐することを求めています(12章2−3節)。あなたがたが鞭打たれることがあるとしたら、それは「主の鍛錬」(5節)であり、神があなたがたを子として愛していることのしるしです。
 今日の福音との関わり……
  狭い戸口から入るように
   努めなさい(戦いなさい)

 イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい(直訳 戦いなさい)」と命じます(24節)。直訳の「戦う」という動詞は、スポーツ競技者が勝利を目指して体を鍛え努力することを表す競技用語です。ですから、人を押しのけて戦うというよりは、自分を鍛錬する努力を指すと言えます。しかも「戦いなさい」は現在形ですから、今、必要とされる鍛錬が教えられています。戸口をくぐり抜けるための努力は、今すぐに始めなければなりません。なぜなら、家の主人が立ち上がって戸口を閉めてしまう時が来るからです(25−27節)。
 「戸口」がいつ閉じられるのかは誰にも分かりません。家の中で開かれる宴会の席(28−30節)に招かれるためには、「今」を活用して神に心を開き、イエスとの関わりに生きるようにと「鍛錬する」必要があります。「戸口」を狭くするのは、自分は救いにあずかれるという慢心です。神は誰に対しても「戸口」を開いています。それを生かすかどうかは、私たちにかかっているのです。

 今日の朗読のまとめ
 イエスは「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と語ります(29節)。私たちがこの神の国の宴席に着くためには、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と命じます(24節)。私たちは、洗礼を受けたことによって、救いの道へ導く「狭い戸口」の入口を通りましたが、洗礼は入口、はじまりにすぎません。それによって信仰の旅を歩み始めたのです。
 第二朗読は、神が私たちをどのように育てるかを教えてくれます。それは鍛錬です。私たちは人生の出来事によって鍛えられますが、洗礼を受ければ人生の試練から免れると約束されたのではなく、私たちは試練を信仰によって耐え忍ぶことで鍛えられます。それによって私たちはイエスの生き方にならい、神と隣人を愛することに努めるのです。イエスは呼びかけます。「努めなさい」と。「努めなさい」は、私たちへの忠告、励まし、掛け声なのです。
2022年8月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教「わたしには受けねばならない洗礼がある」年間第20主日C年 2022年8月14日

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わたしには
受けねばならない洗礼がある
―年間第20主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  捕囚はイスラエルの罪の結果
  (エレミヤ書
   38章4−6節・8−10節)

 ゼデキヤ王は紀元前597年の一回目の捕囚の際に、バビロンに連行されたヨヤキム王に代わって、バビロニア王ネブカドネザルが王とした人物です。ですから、最初のうちはネブカドネザルに忠誠を誓っていましたが、紀元前601年にエジプト国境に進んだネブカドネザルが勝利を手にできなかったのを知ったのをきっかけとして、エジプト側に寝返り、バビロニアへの貢物を拒否しました。ネブカドネザルはただちに行動に移り、三年間の包囲の後に、エルサレムを陥落させて神殿を焼き払い、もはや王を立てることを許さず、バビロニアの属州の一つに併合しました。これが紀元前587年の二回目の捕囚です。
 今日の朗読は、紀元前587年のエルサレム陥落の直前に、包囲された都の中で起こった出来事が朗読されます。国内に存在した反バビロニア派の主張に押し切られたゼデキヤ王は、彼らの要求に従ってエレミヤを逮捕し、水溜めにつり降ろしてしまいますが(4−6節)、状況がいっそう悪化したとき、クシュ人エベド・メレクの進言を入れて、エレミヤを救出させます(8−10節)。この指導力を欠いたゼデキヤの優柔不断さが亡国を早めましたが、根本的な原因はもっと根深いところにあります。
 紀元前597年の一回目の捕囚の4年後に、預言者ハナンヤは「イスラエルの神、万軍の主は言われる。わたしはバビロンの王の軛(くびき)を打ち砕く。二年のうちに……」捕囚は終わると述べ、捕囚は一回限りのことだと主張しました。しかし、エレミヤはそれに対し、「イスラエルの神、万軍の主は言われる。……バビロンで七十年……」と述べます。イスラエルは罪から清められるために、「バビロンで七十年」の捕囚生活を忍ばねばならないと考えるエレミヤは、バビロニアへの降伏を説きます。
 注意したいのはハナンヤもエレミヤも「イスラエルの神、万軍の主は言われる」と述べてから、一方は二年後の捕囚の終了を宣言し、他方は七十年続く捕囚を宣言していることです。ハナンヤから見れば、降伏を説くエレミヤは「民衆の士気を挫く(くじく)」売国奴でしかありません。ですから、エレミヤを苦しめることにはほとんど苦痛を感じないばかりか、それを神への義務とすら考えています。
 しかし、エレミヤは紀元前597年の一回目の捕囚に神からのしるしを見ていました。この悲劇は神のことばを聞くことのできない罪の結果だと捉えていました。それは悲劇の始まりなのであって、七十年の間、苦しみを忍ぶことによって、再生があると考えています。

 第二朗読:
  競争を忍耐強く走り抜く
  (ヘブライ人への手紙12章1−4節)

 11章では、約束されたものを望み見て忍耐し、信仰を生き抜いた旧約時代の先人たちの姿が述べられています。著者は彼らを「証人」と呼び、このように数多くの信仰の証人がいるのだから、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」(1節)と呼びかけた後に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(2節)と述べます。
 「競争」という語は、新約聖書ではもっぱらキリスト者のこの世での生き方としての「戦い」を表します(フィリピ書1章30節、コロサイ書2章1節、汽謄汽蹈縫噂2章2節)。この手紙が求めている生き方は「信仰を守り抜く」ことです。
 イエスが「信仰の創始者」であるのは、旧約時代の証人たちに先立って、彼らの信仰を導いたと見なされているからです。神を信じる者たちの初めとなり、導くのが「信仰の創始者」イエスです。また、イエスは「信仰の完成者」でもあります。イエスは神の思いに最後まで従い、それを実現するために、十字架の死を受け入れました。人々から嘲られ(あざけられ)、ののしられても、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍びました」(2節)。そのイエスを神が玉座の右に着かせたのは、イエスが示した信仰こそが完全な信仰だからです。それゆえ、イエスを「信仰の完成者」と呼びます。キリスト者はこの「信仰の創始者また完成者」イエスから目を離さず、自分の前に置かれている競争を走り抜かれなければなりません。

 福音朗読:
  イエスが受ける洗礼
  (ルカ12章49−53節)

 49節と51節の次の文章は、「目的語+主動詞+不定法」という同じ文型で書かれています。49節 を 私は来た 投げるために 51節 平和を 私はやって来た 与えるために 「火」と「平和」が対応しています。この対応を考えると、「火」はまずは裁きの火ではなく、「信仰の火」であり、真の平和をもたらす火のことです。しかし、その意図とはまったく反対に、この火は「分裂(直訳 裂け目)」を作り出してしまいます。それはイエスを受け入れる側に問題があるからです。人々は神から遠く離れていますが、自分では神の側に立っていると思い込んでいます。そのような者にとって、イエスの言葉は耳障りでしかなく、聞くに値しない言葉と映ります。こうして人々は、神の言葉を自信たっぷりに拒絶することになります。
 この拒絶の極みが十字架という「洗礼」です。しかし、イエスは十字架という「洗礼」によって、この「裂け目」を身に背負い、神と人との間に平和をもたらします。イエスの十字架は神と人との裂け目を解消するためのたった一つの架け橋です。

 今日の朗読のまとめ
 今日の主日のテーマは、神に奉仕する人が受けるべき苦難です。第一朗読では、神のことばの真正な告知者である預言者エレミヤの受けた苦難が描写されています。同じように、御父の思いを何ものよりも優先し、御父から派遣された最後の預言者イエスも迫害されます。イエスは自分の十字架上の死が引き金となって、弟子の上に集団的な苦難が襲いかかることを予見し、弟子たちがイエスの苦しみに結ばれることを求めます。実際、第二朗読のヘブライ人の手紙の読者は、それまでにない激しい迫害の危険にさらされていたのです。
2022年8月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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ミサ説教「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」年間第19主日C年 2022年8月7日

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目を覚ましているのを見られる
僕たちは幸い
―年間第19主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:過越の夜に
  (知恵の書18章6−9節)

 6節に「あの夜」とありますが、これはエジプトの初子(ういご)が殺された過越の夜、つまりエジプト脱出の夜を指しています。出エジプト記11章4−7節によれば、真夜中に主(しゅ)がエジプトの初子を撃つけれども、イスラエルに対しては「犬ですら、……うなり声を立てません」と予告されていました。エジプトには大混乱となる出来事も、イスラエルにとっては不安の種とはなりません。なぜなら、「彼ら(イスラエル)はあなた(神)の約束を知って、それを信じていた」からです(6節)。
 神の約束を信じる「神に従う人々」には救いがあるけれども、神の言葉を無視してイスラエルの脱出を認めなかった「敵ども」には滅びがくだります(7節)。神は「反対者への罰に用いたその出来事」で、イスラエルを光栄へと招きます(8節)。
 このように、神に従うイスラエルと神に敵対したエジプトを対照的に描くのは、「知恵の書」が書かれた目的と関係しています。この書はギリシア文化の魅力に心ひかれ、先祖伝来の信仰から離れようとするディアスポラの(パレスチナを離れて暮らしている)ユダヤ人に向けて書かれています。彼らの心を信仰へと引き戻すためには、このような書き方が必要だったのです。

 第二朗読:信仰によって
  (ヘブライ人への手紙
   11章1−2節、8−12節)

 1節の「望んでいる事柄」「見えない事実」とは、「神の約束の実現」を指しています。神が約束した確かな約束ですから、それに対する人間の姿勢は「信仰」でしかありません。しかし、確かさは私たちの信仰にあるのではなく、神の約束にあります。その意味で「信仰」は、神が与える「希望」と同じです。「信仰」は、他の者が主観的確信としか見えない事柄に、客観的根拠を提供します。つまり、神の約束が必ず実現することを、それが実現していない今「信じる」ことは、神の約束の確かさを他の者に示すことになります。そのような信仰を示した人々として、今日の第二朗読はアブラハムとサラを取り上げます。
 アブラハムはカナンの地に入っても、そこには定住せず、移動生活をする遊牧民が用いる「幕屋」に住みました(9節)。幕屋に住んだということは、彼の立場が寄留者であったことを表しています。アブラハムが寄留者として約束の地カナンに住んだのは、カナンはアブラハムが召し出された旅の中間点に過ぎず、「神の都を待ち続けていた」からです(10節)。
 年老いたサラは「約束をなさった方は真実な方である」と信じて、子どもを授かりました(11節)。アブラハムとサラの歩みを支えたのは、神は「真実な方」であると信じた信仰です。「真実な方」を信じた彼らは、「海辺の数えきれない砂」のように多くの子孫に恵まれました(12節)。神の約束の確かさは、このような恵みの豊かさとなって現されました。

 福音:何が土台となるのか
  (ルカによる福音
   12章35−40節)

 第二朗読は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」で始まっています。この意味はさまざまに解釈されていますが、「信仰が望まれている事柄(=見えない事実)の土台となるとき、それがすでに実現していると言えるほどに確信している」という意味だと思われます。
 37節bは「望まれている事柄(=見えない事実)」に相当します。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という「望まれている事柄」が信仰という土台の上に置かれるとき、「それがすでに実現していると言えるほどに確信している」という現実となります。
 このような確信を持つなら、「腰に帯を締め、ともし火をともしている」こと(35節)は重たい義務ではなくなるし、思いがけないときに到来する人の子のために「用意する」こと(40節)においても油断することがありません。「見えない事実」を確認しているからです。

 今日の朗読のまとめ
 今日の福音は、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」であり(37節a)、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」(38節)、と述べます。なぜなら、「主人が帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」からです(37節b)。この37節aと38節は、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」という表現によって対応しています。
 ここで「目を覚ましている」と訳された動詞(グレーゴレオー)は、汽灰螢鵐判16章13節に、
 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく(おおしく)強く生きなさい。
とあるように、キリスト者の基本姿勢を表す言葉の一つです。
 37節bに述べられた「望まれている事柄(=見えない事実)」を信仰において確信しているので、目を覚ましていることができるのであって、その逆ではありません。
 すなわち、人の子がいつ来るのか、神の最終的な介入がいつ起こるのか(40節)、誰も知りません。だから、油断せずに「目を覚ましている」ことが必要となりますが、主人が帯を締めて給仕する食事が待っているのですから(37節b)、不安に脅えながら「目を覚ましている」のではありません。救いの希望に燃えて待っています。キリストが救いのために来るという希望が私たちを支え、「目を覚ましている」ことを可能にします。
 将来への希望は人の目を覚まさせます。喜びの食事が待っていることを知る私たちは、未来に目を奪われて現在を忘れるのではなく、むしろ未来を信じているからこそ現在を真剣に生きます。将来を希望のうちに待つ者は、安心して現在へと目を向けることができます。
 「目を覚ましている」ことがキリスト者であることの「しるし」なのです。
2022年8月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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ミサ説教「いったいだれのものになるのか」年間第18主日C年 2022年7月31日

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いったいだれのものになるのか
―年間第18主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:すべては空しい
  (コヘレトの言葉
   1章2節、2章21−23節)

 「コヘレトの言葉」は「知恵の書」や「箴言(しんげん)」などと共に知恵文学に分類されますが、他の知恵文学とは違って、「空しさ」を繰り返し述べる書です。「空しい」という語(ヘヴェル)は、もともとは「蒸気・もや」や「息」を意味し、そこから「蒸気のようにはかなく、もろく、無価値で、虚しいもの(意味……内容のないもの)」を意味する言葉となりました。
 普通、知恵文学は「善人は栄え、悪人は滅びる」という原理に立って、知恵を求めることの大切さを説きます。しかし「空しさ」を訴えるコヘレトは、この原理の正しさを真っ向から否定する現実がそこにあるのではないかと主張します。
 「わたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる」(3章16−17節)。
 「貧しい人が虐げられて(しいたげられて)いることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから」(5章7節)。
 「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」(7章15節)。

 このようにコヘレトは「善人は栄え、悪人は滅びる」という原理の妥当性を否定します。
 コヘレトは万物の創造者としての神を信じています。しかし彼の目には、神は勝手きままに振る舞う、移り気な存在としか映りません。従って、神との人格的な交わりも不可能であり、神に祈っても無意味だと考え、「わたしは快楽をたたえる。太陽の下(もと)、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」と結論づけます(8章15節)。ですから、コヘレトは「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と述べます(1章2節)。

 第二朗読:地上的なもの
  (コロサイ書3章1−5・9−11節)

 1−2節では「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留めなさい」と主張し、コロサイ教会の人々の視線を「上へ」と向けさせます。キリストを信じる者は「地上」に生きていますが、「上にあるもの」に心を向けてそれを追い求めます。
 従って、キリスト者はまず地上的なもの「みだらな行い、……貪欲」を捨て去るように指示されます(3章5節、貪欲は今日の福音ルカ12章15節にもあり)。「貪欲(プレオネクシア)」は、「より多く持つ」という動詞から派生した語で、「持てば持つほど際限なく持ちたいという欲望」、「不正な手段まで用いて物を奪い取る欲望」を意味します。その「貪欲」が「偶像崇拝」であることは(3章5節)、自分の欲望をこの世で最も重要なものと考え、他者を利用して利益を得るものとみなし、自分と自分の欲望のみを神とする者の罪を言います。このような貪欲は、人の心をふさぎ、神の声を聞こえないようにしてしまいます。

 福音:神の前に豊かになりなさい
  (ルカ12章13−21節)

 17−19節の金持ちの言葉をギリシア原文で見ると、ここに現れる動詞はすべて一人称単数形であり、「私」が主語になっています。さらに、「私の収穫」「私の倉」「私の穀物や財産」「私の魂」というように、「私の」が四回も用いられており、金持ちの関心が常に自分自身に向けられていることの証しとなっています。この人物の関心は他者に向けられることがありません。
 神はこのような金持ちを「愚か者」と呼びます(20節)。彼が愚かなのは、彼の頭の中には「私の」が満ち溢れ、「神」のための場所が用意されていないからです。だから、イエスは「神の前で豊かになる」ようにと教えます(21節)。

 今日の朗読のまとめ
 私たちは財産や地位や名誉や業績といったものを蓄えるために労苦しますが、それをコヘレトが憤慨するように「まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならない」ものなら(2章21節)、「すべてが空しい」と口にしたくなるのも分かります。
 今日の福音では、コヘレトとは違って、蓄えること自体に楽しみを感じている「金持ち」が登場します。しかし、17−19節の彼の言葉には「私の」が四回も使われていることに端的に示されているように、彼の目は「上にあるもの(神)」にも隣人にも向いていません。
 神は彼に対して、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と宣告します(ルカ12章20節)。神の目に彼が「愚か者」なのは、死期がいつになるかを理解していないということではありません。自分の死がいつになるかを知ることは不可能です。イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12章21節)と加えていますから、金持ちの愚かさの根源は「自分のために富を積む」ということにあります。
 今日の第二朗読は「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。……上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と説いています(コロサイ書3章1−2節)。私たちが「自分のために富を積む」という生き方に集中しがちなのは、「上にあるもの(神)」に目が向かわないからです。
 コヘレトが言うように、人間は「空しい」者にすぎません。神を信じても、「空しさ」が消滅することはありません。しかし、私たちが人間の「空しさ」を知ることは、軸足を「上にあるもの(神)」に置く生き方への第一歩となります。そのとき人間の「空しさ」が、どうにもならない「空しさ」から、「神に埋め合わせてもらえる空しさ」へと変質するのです。
2022年7月31日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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