主任司祭メッセージ

教会便り巻頭言「2025年 聖年(テーマ:希望の巡礼者)」(2025年1月号)

2025年 聖年(テーマ:希望の巡礼者)

教会委員長 一瀬


JUBILEE 2025 希望の巡礼者
聖年のロゴマーク

 2025年の聖年に向けた準備のために、2024年は「祈りの年」として「聖年の祈り」を唱えてきました。
 聖年のロゴマークの解説については先月の教会便り12月号に記載されていますので詳細は割愛しますが、さて、この聖年、信者の私たちはどう過ごせば良いのでしょうか?
 教皇フランシスコは、「希望は欺かない−2025年の通常聖年公布の大勅書」の中で以下のように呼びかけられています。


 聖年に向けて、聖書に立ち戻り、わたしたちに向けられたことばに耳を傾けましょう。
 「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、……力強く励まされるためです。……わたしたちがもっているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」(ヘブライ 6・18―20)。これは、わたしたちに与えられた希望を決して失うことのないよう、神のもとに避難所を見いだすことによってその希望にしがみつくようにとの、力強い招きです。
 錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身をゆだねれば手にできる、安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかり根を下ろしているからです。この希望は、日常の充足や生活環境の改善よりはるかに重大で、わたしたちに試練を乗り越えさせ、招かれている目的地である天国のすばらしさを見失わずに歩むようにと背中を押してくれるものです。
 ですから次の聖年は、ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年です。この聖年が、教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるよう、わたしたちを助けてくれますように。信じる者のあかしが、この世におけるまことの希望のパン種となり、新しい天と新しい地(二ペトロ 3・13 参照)―主の約束の実現へと向かう、諸国民が正義と調和のうちに住まう場所―を告げるものとなりますように。
 今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編 27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストに賛美と栄光が、今も、世々に至るまで。

「希望は欺かない−2025年の通常聖年公布の大勅書」 より抜粋
https://www.cbcj.catholic.jp/2024/07/24/30297/



 私たちは、聖年の意味を考え理解し、聖書の教えに耳を傾け、共同体の一員として日々の信仰生活をおくる事が大切なのではないでしょうか。

 2025年、この聖年とどう向き合うか自分なりに考えてみたいと思います。

 この巻頭言が、聖年について、いま一度考える機会となり、皆様の信仰生活がより豊かなものとなりますようお祈りいたします。

教会便り巻頭言「イエスさまはどこにいるの?」(2024年12月号)

イエスさまはどこにいるの?

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 クリスマスは、イエスさまが生まれる日です。イエスさまはどこに生まれるのでしょうか? どこにいるのでしょうか?

 クリスマスの輝きと一つの影―中川 明神父の文章から
 教会のクリスマスの思い出には、光と影があります。受洗したばかりの高校生のころ、…当時、今からは想像できないほど多くの若い人が教会にいました。…クリスマスの思い出もキラキラと輝いています。当時、24日のミサは夜遅く、10時か11時に始まり、聖堂は人であふれていました。そして、そのミサの前の夕方に学生だけでパーティーをしました。ゲームをしたり、歌を歌ったり、ケーキを食べたり、とりたてて特別なことは何もなかったけれど、それでも、今思い出しても心が躍ります。…
 しかし、そんな輝きにも一つの影があります。家族でわたしだけがカトリック信者だから、夕方、わたしひとりで教会に出かけたのです。ある年、クリスマスだから、と母が腕をふるってご馳走(ごちそう)を作り、しかし、わたしは「時間だから」と食事の途中で席を立ち、教会へ出かけました。このことを母に申し訳ないとの心の痛みとともに、よく覚えています。
 「福音宣教2012年12月号 司祭館の静けさの中で」(中川 明神父著 オリエンス宗教研究所)58−59頁

 母に習ったサンマの食べ方―中学生の投稿記事から
 サンマの季節になった。天気が良かったので、自宅の庭で焼いて食べた。煙がもくもくと上がったけど、こうばしい香りが漂い、食欲をそそった。身をほじくるように食べていると、じっと見ていた母が「もったいないね。…」と言って、(母からサンマを食べるコツを教わった)。
 「そう言えば、魚の食べ方なんて、真剣(しんけん)に話したことなかったね。ごめんね」と母。最近、あまり母と話していなかったなあ。怒られたり、愚痴られたり、つまらない会話で嫌だった。でも、その日は素直に笑顔で「ありがとう」と言えた。
 「母に習ったサンマの食べ方」(荒 孝一郎君〔東京都 15歳〕朝日新聞への投稿記事)

 クリスマス・プレゼント―クリスマスの小雑誌から
 クリスマスまであと一日という日、わたしはクリスマス・プレゼントの買うために、デパートへ急ぎました。わたしがおもちゃ売り場に着くと、5歳ぐらいの男の子が人形を胸に押し付けて立っていました。男の子は、隣にいる老婦人の方を振り向いて言いました。「ねえ、おばあちゃん、本当にぼくのお小遣いじゃあ足りない?」…「さっき数えてみたでしょう。残念だけど、足りないのよ。なぜ、そんな、女の子のおもちゃにこだわるの」。それから、おばあさんは、他の用事をしてくるから5分くらいここでじっとしていなさい、と男の子に言ってその場を離れました。
 わたしは、その子に近づき、「この人形、どうするつもりだったの?」と聞きました。「これはね、ぼくの妹が気に入っていた人形なの。妹は、今年のクリスマスにこの人形をほしいと言ってた」。…「ぼくの妹はね、今、神さまと一緒にいるの。パパが、もうすぐママも神さまに会いに行ってしまうって言ってた。だからね、この人形をママに渡せば、妹に届けてくれると思うんだ」。…
 わたしは自分の財布に手をやり、お金を取り出しました。そして男の子に言いました。「もう一度だけ、調べてみようか? 本当にお金が足りないかどうか、わたしと一緒に数えてみない?」 わたしは、自分のお金をこっそり加え、数え始めました。…人形を買うのに十分なお金がありました。「よかった! ぼくね、ママのためにもプレゼントを買いたかったんだ。ママは白いバラが好きだから。…神さまは、ぼくに、人形とバラを買うためにぴったりのお金を用意してくれたみたい」。…
 帰りの電車に乗っていたとき、突然ふと、二日前の新聞記事がわたしの頭をよぎりました。その記事には、酔ったトラックの運転手が、小さな女の子とその母親を乗せた車をはねたことが書いてありました。…
 二日後、わたしは新聞で、彼の母親が亡くなったことを知りました。…告別式が行われている場所へと向かいました。女性が、棺の中で、手に一本の真っ白なバラを持ち、小さな人形を抱いて横たわっていました。わたしは涙が止まりませんでした。それからというもの、わたしのクリスマスはまるっきり変わってしまったのでした。
 「クリスマスの光」(アルド・チプリアニ発行 椿 歌子訳 ドン・ボスコ社)23−27頁 

 10年前の7月4日(金)、午後6時前、わたしの母が帰天しました。
 そのとき、わたしは母にわたしの祈りを神さまへ届けてほしいと思いました。
 でも、母はこう言うでしょう。「あなたの神さまはもうすでにあなたの心の中にいるのに、いまさらわたしが何を届ける必要があるの?」。

 鍛冶ヶ谷教会の皆さん、クリスマスおめでとうございます。

ミサ説教プリント「わたしが王だとは、あなたが言っていることである(副題 わたしの国はこの世には属していない)」王であるキリストB年 2024年11月24日

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わたしが王だとは、
あなたが言っている
ことである
(副題 わたしの国は
この世には属していない)
〜王であるキリストB年〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音
   18章33b−37節


 今日の福音では、ピラトは、33節bでは「お前がユダヤ人の王なのか」、37節では「それでは、やはり王なのか」とイエスに繰り返し尋ねます。この繰り返しから見て、今日の福音のテーマは「イエスは王なのか。王であればどのような王なのか」となります。

 イエスは王なのか
  (33−36節)

 ピラトはイエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」(33節b)と尋ねます。しかし、ピラトの前に現れた「ユダヤ人の王」は、弱々しく、無力な姿をさらしています。
 イエスはピラトの問いに「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と反問します。ピラトは、ユダヤ人の権威者たちがイエスを告発したことを、単なるユダヤ人たちのもめ事と見なしていたので、ユダヤ人でない自分が「ユダヤ人の王」のことなど知るはずがない、という気持ちから「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」(35節)と答えます。ピラトが知りたいのは、ローマの支配を脅かすどんな犯罪があったかということであり、ユダヤ人のもめ事に興味はありません。そこで彼は「いったい何をしたのか」(35節)と尋ねます。
 イエスは「わたしの国は、この世には属していない」(36節)と答えます。「国」を直訳すると「王の支配」(ギリシア語バシレイア)という意味になります。36節のイエスの答えは「王として支配する領域はこの世には属していない」ということになります。つまりイエスは王であることは認めていますが、地上の王ではありません。王としてのイエスの支配は、この世とは違ったもの、神の領域に属しています。もし、イエスが、この世の王、世俗の王であったならば、ユダヤ人に逮捕されたことによって、王をやめることになります。しかし、イエスの国は、神の領域に属しているので、この世の力や世俗の力に頼る必要がないのです。

 イエスはどのような王なのか
  (37節)

 イエスはピラトに「どのような王なのか」も語っています。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。イエスが生まれ、この世に来た(受肉の)目的は、真理を証しすることにあります。ヨハネ福音書では、「真理」とはイエスによってもたされた神の恵みの業です。イエスは自分の全存在をかけて、自分の伝える神の恵みの業(=言葉や行い)が真理であることを証明しました。そして、このイエスの言葉と行いを受け入れる人だけが、真理に属する人、イエスの王国の構成員となるのです。

 今日の福音のまとめ
 レクティオ・ディヴィナ
 ―MEDITATIOより
 問い イエスは、どのような種類の王国を暗示しているでしょう。どんな王国でイエスは王なのでしょうか。これはあなた個人にとって、何を意味するでしょう。

 今日の福音には、対立する二つの国を暗示しています。一つは、ピラトが考えていた政治的な国、ローマ帝国を背景とした国、すなわち、地上の権力や武力を背景としたこの世の国、世俗の国です。それに対立するのは、イエスが考えていた宗教的な国、「この世に属していない」イエスが王である国です。ピラトは、この世の国の価値観、世俗主義に生きている人です。ピラトの前に現われた「王」(イエス)は、弱々しく、無力な姿をさらしています。世俗主義に生きるピラトは、このような「王」は理解出来ません。対して、私たちは、イエスの言葉に耳を傾け、今イエスに従っています。それは、私たちがイエスの王国に属することを神が認めたからなのです。

 レクティオ・ディヴィナ
 ―MEDITATIOより
 問い 毎日の生活の中で、あなたはイエスに聞くことをどれほど優先させていますか。
「講演集 第二バチカン公会議と私たちの歩む道 講演者 粕谷 甲一神父」(サンパウロ社 173−174頁)から。

 「ついこの間のことですが、学生の頃、私の所へよく来ていた方がやって来ました。…
 ところが、『神父さん、私は最近、あまり教会へ行っていません。神さまがいなくても、私は結構幸せだ、と思うようになりました』と言うのです。食べるものに困らず、ゴルフあり、テニスあり、海外旅行がある。日曜日にミサに行くと、そういう仲間の誘いを断らなければならなくなる。ミサの時間に拘束されないで、家族と団欒(だんらん)し、仲間と今日はゴルフだ、とやっていることの中に幸せを見るようになったら、日曜日に教会へ行くことなど無い方が幸せなのではないか、と思うようになった、と言うのです。
 その人にとって幸せとは何か。精神的、霊的な充足感というものはもう、ないのです。…世俗主義です。それに私たちは覆われている。…
 世俗主義は、昔の迫害者のように教会へ怖い顔をしてやってこない。『神父さん、おいしいものを食べに行きませんか』とか。それは好意として、響いてくるでしょう。ところが、それに乗ると、いつの間にか…『神さまがいなくて幸せだ』『いない方が幸せだ』という世俗主義にやられてしまう。
 ですから、今の時代は、私たちの生活の源泉に神さまがあるのか、ないのか、問い直す必要がある(と思うのです)」。
2024年11月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 王であるキリスト ミサ 説教


※ 「王であるキリスト」の祭日である今回をもって、ホームページ上の掲載は終了します。印刷して聖堂の入り口に置くことは続けます。

ミサ説教プリント「人の子は、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める(副題 主イエスよ、来てください)」年間第33主日B年 2024年11月17日

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人の子は、彼によって
選ばれた人たちを
四方から呼び集める
(副題 主イエスよ、
来てください)
〜 年間第33主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   13章24−32節


 マルコ13章は小黙示録とも呼ばれています。今日の福音でも、終末の時の「人の子の到来」が語られています。「人の子の到来」とは「イエスの再臨」を指しています。

 人の子が来る
  (24−27節)

 24−26節では、人の子の到来に伴うしるしが述べられます。これは天体の変化であって、旧約聖書に見られる思想と用語に基づいています。「それらの日」(24節)とは、終末における主(しゅ)が定められた日です。「太陽は暗くなり…天体は揺り動かされる」(24−25節)。このような天体の大変動は終末的なしるしです。人の子は「大いなる力と栄光を帯びて」(26節)来ます(ダニエル書7章13・14節参照)。ここには、神として栄光に輝く人の子の姿が述べられています(マルコ8章38節、14章62節参照)。「雲に乗って」(26節)とは、雲が神の栄光に満ちた臨在の象徴であり、神の乗り物でもあったので、人の子も神としての栄光を持った存在であることを現します。
 続く27節では、人の子は、被造界全体から「選ばれた人たち」(27節)を集めます。「選ばれた人たち」とは、迫害に耐え、神を信じ続ける共同体を指します(ルカ18章7節参照)。終末は苦難の時です。しかし、神を信じて耐え忍ぶ人たちには、苦難が終わりなのではありません。力と栄光を帯びた人の子によって、必ずそこから救い出されます。終末は救いの時なのです。

 いちじくの木の教え
  (28−31節)

 パレスチナでは、ほとんどの樹木が冬も落葉しないのに、いちじくだけは落葉します。その裸の枝は枯れたように見えます。そのいちじくが芽をふき、大きな葉を茂らす時、夏の近いことがわかります。そのようないろいろなしるしによって終末の時が始まると、人の子はすでに近づき、いわば戸口に立っておられます。「戸口に近づいている」(29節)は、非常に接近していることを示す表現です。
 イエスは、人の目には最も確かなものと見える「天地は滅びる」が、「わたしの言葉は決して滅びない」と述べます(30節)。人の子の到来の確実さが強調されています。
 しかし、32節では、その終末の日時は父のほかはだれも知らないとされます。それは知る必要がないからです。なぜなら、終わりの日は救いの日であるから、その日を不安のうちに待つ必要がなく、むしろ今を目覚めて生きればよいからです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音の背景には、紀元66−70年のユダヤ戦争で、ローマ軍によってなされたユダヤに対する暴挙があります。「憎むべき破壊者」(マルコ13章14節)とは、その時のローマ軍を指しています。戦争と大災害(7−8節)、迫害(9−13節)、またエルサレム陥落と神殿への冒とく(14−20節)は、世の終わりのしるしではありません。これらのことがまさに起こった(或いは起こっていた)にもかかわらず、「まだ世の終わりではない」(7節)と聖書は語ります。世の終わりは、大いなる力と栄光を帯びて人の子が来ることと、関連づけられて語られます。ローマ軍によって神殿が破壊されました。それは人の子の到来のしるしではありませんが、それはユダヤ教とキリスト教の歴史において重要な転機となりました。その時以来キリスト者にとって、大いなる力と栄光を帯びた人の子の到来が、「神の国の完全な実現の場」としての神殿にとって代わるのです。
 今日の福音の意図は、それゆえにイエスに従う人たちを人の子の到来の希望へと招くことです。その希望は、迫害の下(もと)にあるキリスト者を支え、「最後まで耐え忍ぶ」(13節)ように神を信じる共同体を励まします。いちじくの木のたとえ(28−31節)は、希望のもとに共同体が一つにまとまるように意図されています。その希望とは、人の子の到来は確実であり、しかもそれが非常に接近している、ということです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)。「近づいている」と言っているこれらのしるしを悟るべきであるとキリスト者に勧めます。このことは注意すべきことです。なぜなら、希望は熱心に待ち望むべきものだからです。
 今日の福音は、紀元70年頃の弟子たちの語られたイエスの言葉であると同時に、今の時代における荒廃をもたらす困難な諸問題を、世界的な問題(例 核兵器)であっても、個人的な問題(例えば癌・がん)であっても、神の視点から見ることを私たちに求めています。今日の福音は、紀元70年のユダヤの国と神殿破壊に直面した人々に対してそうであったように、私たちに語りかけます。目に見える情況にもかかわらず、まだ世の終わりではない。だから耐え忍びなさい。これらの苦難は終末の始まりであり、新しい時代への産みの苦しみであり、困難な諸問題すべてにはその終極があることのしるしです。人の子は近づいています、イエスの言葉は確実です、だから人の子の到来を熱心に待ち望みなさい。
 紀元1世紀のキリスト者は熱心にイエスの再臨を期待し、毎日「主イエスよ、来てください」と祈りました(黙示録22章20節)。私たちも困難な諸問題に直面する時、まず「主イエスよ、来てください」と熱心に祈り、諸問題の終極を待ち望みましょう。
2024年11月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた(副題 神の価値観に添って生きる)」年間第32主日B年 2024年11月10日

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この貧しいやもめは、
だれよりもたくさん入れた
(副題
神の価値観に添って生きる)
〜 年間第32主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   12章38−44節


 今日の福音は、やもめを食い尽くす律法学者(38−40節)と生活費全部を神に投げ入れるやもめ(41−44節)を描くことによって、二つの生き方が対比されています。

 律法学者を非難する
  (38−40節)

 イエスは「律法学者に気をつけなさい」(38節)と教えます。ここで「気をつけなさい」と訳した言葉は「見る」という動詞です。「気をつけなさい」と言っても、律法学者の悪行(あくぎょう)の餌食(えじき)にならないように「警戒しなさい」の意味ではなく、彼らの姿を「見て、そのあやまちを知り、まねをしないようにしなさい」という意味です。
 イエスは「彼ら(律法学者)は、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38−40節)と言います。気をつけるべき律法学者とは、長い服を着て権威を見せびらかし、人々からの尊敬を追い求め、豊富な知識を活用してやもめの財産を不当に手に入れ、それを覆い隠すかのように、長い祈りを行う者たちです。このような者たちに対して、イエスは「人一倍厳しい裁きを受けることになる」(40節)と断言されます。

 やもめの献金(41−44節)
 イエスは賽銭箱(さいせんばこ)の向かい側に座って、人々の様子を見ています。多くの金持ちが多くのものを投げ入れます(41節)。だが、一人の貧しいやもめは二レプトンを投げ入れます(42節)。イエスが目を留めた人は金持ちではなく、この貧しいやもめです。イエスはわざわざ弟子を呼び寄せます(43節)。ここでの「呼び寄せる」は距離の離れた所にいる者を「呼ぶ」の意味ではなく、そこにいる者に「注意を喚起する」の意味です。イエスは貧しいやもめの姿に注意を向けさせるために、弟子を呼びます。イエスが見ていたのは、外見や賽銭の額の多寡(たか)ではありません。だから、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43−44節)と述べるのです。

 今日の福音のまとめ

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより
 やもめと律法学者たちの行動は、神に対する態度について何を教えているでしょうか。ここでの信仰、愛、謙遜(けんそん)の役割は何でしょうか、これから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。

 信仰
 やもめは賽銭箱に生活費を全部入れます。生活費の全部をささげることは、神に全く信頼し、すべてを神にゆだねた生き方を示しています。
 
 やもめの献金は、貧しい生活費を全部入れたのですから、苦しみや痛みが伴います。愛は苦しみや痛みが伴います。苦しみや痛みのない愛は、本当ではありません。愛による苦しみは、その愛が本物なのか、見せかけなのか、愛の試金石なのです。
 謙遜
 やもめは賽銭箱に生活費を全部入れます。やもめには、翌日からどのように生きていくかということに対する思いわずらいはありません。その点において、律法学者は虚栄心や尊大な態度から離れられません。権威を持ち、人々からの尊敬を追い求める律法学者の生き方より、人々の力を期待できないために、神にのみ信頼するやもめの生き方のほうが、神の目にかなうものとなるのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより
 外見で判断することについて私たちに何を教えてくれていますか。

 律法学者は外見だけを見て裁きますが、イエスは人の心の内を見ます。イエスは「律法学者に気をつけなさい」(38節)と教えます。これは、彼らの姿を「見て、そのあやまちを知り、まねをしないようにしなさい」という意味なのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより
 私たちの行動が私たちの言葉と矛盾するとき、何かを信じていると言って、私たち自身が偽善者にならないようにするのには、どうすればよいでしょうか。

 偽善者は、神に向かうはずの行為が人(神以外のもの)に向かいます。つまり、人に見せてほめられようとしているのです。そうすると、行為は正しいように人に見せかけて、心は実際に望んでいることと違っているから偽善なのです。
 私たち自身が偽善者にならないようにするためには、神に心を向けることです。神の価値観に添って生きることなのです。
2024年11月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

教会便り巻頭言「鍛冶ヶ谷教会の手話付きミサ」(2024年11月号)

鍛冶ヶ谷教会の
手話付きミサ

「神の愛を証しする力を
育てるチーム」
手話の会

 原稿の依頼があったとき、何を書こうか迷いました。手話に関してと言ってもいろいろな面から書けると思いました。今回は初めての事なので、鍛冶ヶ谷教会でミサに手話通訳が始まった経緯をお話しします。

 私たち家族が栄区に引っ越してきたのは平成7年の暮れです。奇しくも12月24日でした。平成8年から鍛冶ヶ谷教会にお世話になっています。そこでSさんと出会いました。Sさんは末吉町教会でミサ通訳をされて居ましたが、鍛冶ヶ谷教会ではミサ通訳はなかなか実現しませんでした。

 そんな時、偶々なのか?? 教会で手話通訳をすることを神様がご計画されたのか?? なんと、なんと、久我神父さまが主任司祭として赴任されて来られたのです。久我神父さまは当時から「横浜教区聴覚障害者の会」指導司祭で手話もおできになりました。教会で聞こえない方と一緒に聖書の勉強会も開かれました。当然、ミサに手話を付けることも喜んでくださいました。Sさんを中心に教会での活動が始まったのです。

 それまでは手話への認知度が低かったことからか、教会でミサ通訳をすると、何度も反対された経験があったので、鍛冶ヶ谷教会でも快く思わない方もいらっしゃるのではないかと消極的でした。ある教会の事です。祭壇の隣で手話をしていると踊っているみたいで祈りに集中できない、司祭が手話をしながらミサを捧げると時間が掛かる。そんなことを耳にすることもあり、鍛冶ヶ谷教会でも手話付きミサは長続きしないと思いながら参加していました。それが今も続いているとは……。しかも、「神の愛を証しする力を育てるチーム」からの教会便りの巻頭言の依頼を受けるとは……。

 更に、恵まれていると感じたことがありました。それは、林 神父さまです。またまた、聴覚障害者の会と関わりのある神父さまが赴任されて来られたのです。林 神父さまは「横浜教区聴覚障害者の会」が発足された時から一緒に活動されていました。「聴覚障害者の会設立10周年記念誌」には手話に対する思いが載せられていました。手話や聴覚障がい者に全く関わりの無い教会もあるでしょう。ミサに手話通訳が付くことを知らない信者さんもいらっしゃることでしょう。しかし、鍛冶ヶ谷教会には手話ミサをされたことのある司祭がお二人赴任されたのです。なんと恵まれていることでしょう。私は「手話をやりなさい」と言われているみたいです。

 来月は12月です。ご降誕を迎えるにあたり、手話で歌ができたら最高だと思っています。
 手話は日本語や他の言語と同じように言語です。手話言語がもっともっと世の中に周知され、これからも聴覚障がい者が鍛冶ヶ谷教会に行けば手話付きミサに与れると思っていただけるような教会であって欲しいです。

 皆さまはパリオリンピック・パラリンピックをご覧になりましたか? そこでお気づきになった方はいらっしゃいますか? パラリンピックには聴覚障がい者が参加していなかったことを、聴覚障がい者の参加種目が無かったことを。このことについては、また機会がありましたら……。

ミサ説教プリント「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい(愛は愛を呼び起こす 二つの掟)」年間第31主日B年 2024年11月3日

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あなたの神である
主を愛しなさい。
隣人を愛しなさい
(愛は愛を呼び起こす
二つの掟)
〜 年間第31主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   12章28節b−34節


 今日の福音で、律法学者はイエスに「あらゆる掟(おきて)のうちで、どれが第一でしょうか」(28節b)と尋ねます。ユダヤ教には613もの掟がありました。これだけ多くあれば、「どれが第一の掟か」という問いが生じて当然です。こうして掟をランクづけする努力がなされましたが、すべての掟を守る義務はなくなりませんでした。

 第一の掟
 「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(29−30節)。
 イエスが「第一」に取り上げた掟は、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りの言葉(申命記6章4−5節)です。マルコだけが「聞け、イスラエルよ、わたしたちの神」という部分をも引用しています。「わたしたちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を促すためです。その愛に気づいた者に「あなたの」神を愛しなさい、と呼びかけます。つまり、個々人に語られたこの神の命令は、神への祈りを外からの義務として強制を基礎づけるのではなく、「わたしたちへの神の愛」に対する感謝に満ちた応答として愛の内的発動に基礎づけているのです。

 第二の掟
 「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)。
 イエスが第二の掟としたのは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)という掟です。「自分自身を愛するように」とありますが、これは自己愛を肯定するのではなく、自分を愛するその愛を隣人に向けるようにと求めているのです。

 今日の福音の強調点
 今日の福音では、イエスは第一の掟と第二の掟を与え、「この二つにまさる掟はほかにない」(31節)と宣言されます。律法学者はその宣言を承認し、「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(33節)と言います。彼は掟の越えるところ、一切の物質的犠牲を越えるところに愛があることを承知したのです。イエスはこれに対して、「あなたは、神の国から遠くない」(34節)と宣言されます。
 律法学者は掟について尋ね、イエスは愛について答えます。今日の福音は、掟に始まって愛に至り、神の国で終わっているのです。神は献げ物やいけにえではなく愛されること、つまり、外からのものではなく、人間の内なるすべてをもって神を愛することを求めておられることを、イエスは旧約聖書の教えから引き出されるのです。

 今日の福音のまとめ
 わたしたちは自分の望む社会や心理状態を実現するためにいろいろな権利を求めます。こうした状況において、今日の福音は、人生についてもう一つの理解へと招きます。すなわち、キリスト者の優先順位は、神が第一であり、それからわたしたち自身とわたしたちの隣人が来る、ということです。わたしたちの内なるすべてをもって神を愛すること、そして、自分自身を愛するようにわたしたちの隣人を愛するのです。しかし、神中心の見方をしなければ、神を愛することができません。また、隣人中心の見方をしなければ、自分自身を愛するのと同じように隣人を愛することができません。そこでは、わたし(自分)がもはや わたし(自分)の世界の中心ではありません。だから、二つの掟に実践的に従う意味とは、わたしたち一人ひとりの心の根にある自己中心主義への挑戦、ということなのです。
 その挑戦がわたしたちの心を動かさずにおかないのは、イエスが二つの掟に実践的に従ったゆえに、わたしたちの心を動かさずにはおかないのです。まさに、イエスは神への従順(愛)と人間への奉仕(愛)に生きて死んだからです。わたしたちはイエスの十字架の出来事の中に愛を見るとき、二つの掟に従うことができます。なぜなら、(イエスの)愛は(わたしたちの)愛を呼び起こすからです。わたしたちのために命をささげて愛してくださったイエスに、わたしたちはどのように応えたらよいのでしょうか。
 イエスは律法学者を賞賛し、「あなたは神の国から遠くない」(34節)と述べます。「遠くない」と言われたのは、まだすべきことが残っているからです。彼に必要なのは、イエスを信じて、そのように生きることでした。これはわたしたちにも求められていることです。そのためには、まずイエスの愛を感じ、感謝の祈りをささげることから始まります。なぜなら、(イエスの)愛は(わたしたちの)愛を呼び起こすからです。
2024年11月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「先生、目が見えるようになりたいのです(副題 あきらめない信仰)」年間第30主日B年 2024年10月27日

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先生、
目が見えるように
なりたいのです
(副題
あきらめない信仰)
〜 年間第30主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   10章46−52節


 召し出しの物語
  ―奇跡物語なのか?

 今日の福音で際立っていることは、最初と最後に「道」という言葉があり、全体の枠を形作っていることです(46・52節)。盲人バルティマイはまず「道端」に座っていました(46節)。そのバルティマイが、イエスとの出会いを通して、「なお道を進まれるイエスに従う」ことになります(52節)。この「道」は原語では冠詞がついていますから、特別な「道」を指します。それは文脈から分かるように、エルサレムへと上る道(マルコ10章32節、マルコ11章1節)、つまり十字架の道です(マルコ10章32−34節の受難予告を参照)。道の傍ら(かたわら)に目が見えずに座っていたバルティマイが、「見える」ようになり十字架の道を従う者となります。つまり、今日の福音は癒し(いやし)を述べる奇跡物語で終わるのではなく、むしろ召し出しの物語なのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 バルティマイを黙らせようとした人々をどう思いますか。また、イエスの彼への答えと比べてみましょう。このことは必要を求める人々に、私たちがどのように接するべきか、何か教えてくれているでしょうか。
 バルティマイはイエスがいると聞くと、イエスを「ダビデの子」と呼んで、叫び続けます。ここでの「ダビデの子」はメシアを表す称号です。だが、多くの人々は黙らせようとして、彼を叱りつけます(48節)。彼らが期待するメシアは政治的な勝利者ですから、道端に座る盲人の物乞いに関わる余裕がないほどに高い人です。彼らはそのようなメシアを高く崇める(あがめる)ことによって、自分たちも高くなり、道端に座る者の苦悩が見えなくなっています。
 彼らのこの盲目はメシアを見間違えることから生じています。イエスは道端に座り込む者の苦しみから目をそらすメシアではありません。イエスは、バルティマイの叫びに耳を留めて立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」(49節)と命じるのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 あなたはどのようにバルティマイの信仰を表現しますか。あなたは、彼(バルティマイ)が「イエスは誰であるか」についてどのように信じており、イエスに何ができると信じていたと思いますか。このことから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか。
 今日の福音の47−48節では、「叫ぶ」が二回使われています。49節では、「呼ぶ」が三度使われています。この繰り返しは、「叫ぶ」者に対する応答の確かさを表しています。バルティマイは「叫び」、イエスは「呼ぶ」。神は一方的に人間を呼びつけはしません。人が憐れみ(あわれみ)を求めて叫ぶとき、神は呼びます。このような「叫び」は神への信頼を表す叫びです。「叫び」が信頼となるとき、神は呼びかけ、「道」を示します。51節では、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と述べ、バルティマイの願いを実現しています。ここでの「信仰」は「叫ぶ」ことの中に表されるイエスへの信頼なのです。
 呼ばれたバルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来ます(50節)。この上着は古い生き方の象徴であり、それを脱ぎ捨てたのは新しい生き方への転換を表しているのかも知れません。目が見えるようになったバルティマイは、「道」を進まれるイエスに従います(52節)。ここでの「道」はただイエスの歩む道を指すだけでなく、人の「生き方」やキリストの「教え」をも表します。イエスの進まれる道は受難(十字架)への道ですが、同時にそれは復活への道です。イエスはそのような「道」を示されるメシアなのです。

 レクティオ・ディヴィナ
  ―MEDITATIOより

 バルティマイが最初に癒し(いやし)よりも憐れみ(あわれみ)を求めたことにどのような意義があるのでしょうか。このことは彼の態度について何を表しているでしょうか。私たちが神に近づく際にこのことから何を学ぶことがあるでしょうか。
 イエスは「何をしてほしいのか」(51節)とバルティマイに尋ねます。同じ問いかけが、先週の福音では、栄光を求めたヤコブとヨハネに向けられています。栄光を求めた彼らの願いは「神が決めることだ」と退けられましたが、憐れみ(あわれみ)を願った叫んだバルティマイの願いは「あなたの信仰があなたを救った」(52節)と受け入れられます。神は一方的に思いを人間に押しつけずに「何をしてほしいのか」と尋ねますが、そうかといって、神を人間の思うままにコントロールすることはできません。神の思いと人間の思いとの間には、常に緊張関係があるのです。

 今日の福音のまとめ
 52節の「見える」とは、文字通り「目が開いた」ということだけでなく、召し出された者の「(心の)目が開いた」ということも表します。「見えるようになった」との句は「道を進まれるイエスに従った」と密接な並行関係にあります。マルコは、「イエスの進まれる道に従う」には、イエスを信頼し、目を開いていただく必要のあることを今日の福音を通して私たちに教えています。私たちの目をいつも開いてくださるよう、バルティマイのようにあきらめることなく祈りましょう。
2024年10月27日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(副題 仕える姿勢)」年間第29主日B年 2024年10月20日

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人の子は、
多くの人の身代金として
自分の命を献げるために来た
(副題 仕える姿勢)
〜 年間第29主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   10章35−45節


 今日の福音は第三回目の受難予告に続く箇所です。苦難の道に無理解な弟子たちに対して、イエスはどんな機会も逃さず「弟子とは何であるか」について教えようとしています。

 苦難と栄光の関係
  (35−40節)

 ヤコブとヨハネは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)とイエスに言います。ヤコブとヨハネは、イエスがエルサレムに行き、この世の王となることを期待しています。「右」「左」はその時に与えられる特別な地位のことを指します。イエスは「このわたしの飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)とこの二人に言います。二人は「できます」(39節)と答えます。「杯を飲み」は、ここでは「苦難」を受けることを意味しています。「洗礼を受ける」も、ここでは「杯を飲む」と同じく、「苦難」や「死」を暗示しています。ですから、二人はエルサレムで待ち受ける「苦難」の厳しさに気づいています。「苦難」は覚悟するけれども、その後には「栄光」が待ってほしいと願っています。「栄光」のイエスの隣に座れるという「報い」を拠り所として「苦難」を乗り切ろうとしているのです。
 しかし、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と二人に言います。そして、38−39節で「杯を飲み」と「洗礼を受ける」に言及します。「苦難」の後に与えられる「栄光」へと向かう二人の視線を、イエスは「苦難」そのものへと引き戻そうとしているのです。
 イエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(40節)と言います。「栄光」の座は「定められた人々」(直訳 準備された人々)に与えられます。「栄光」を与えるかどうかを決定するのは父なる神です。だから、「苦難」を忍んだからといって自動的に「栄光」が与えられるわけではないのです。こうして、「苦難」と「栄光」の必然的な関係が否定されますが、それを裏返せば、「苦難」はそのままで価値を持つということでもあります。ヤコブとヨハネにとって、「苦難」は無価値で、「苦難」を忍んだ後の「栄光」(報い)を願って歩みますが、イエスは十字架という「苦難」の頂点を目指して歩みます。この「苦難」自体に意味があるからです。

 弟子とは何であるか
  (41−45節)

 ほかの十人の者はヤコブとヨハネの言動に腹を立て始めます(41節)。彼らもまた人の上に立ちたいという本音では二人と変わりはありません。イエスはそのような彼らを呼び寄せて諭します(さとします)。「異邦人の間では、支配者と見なされる人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの身代金として自分の命を献げるために来たのである」(42−45節)。
 人の上に立つことを求めて上昇志向に走る生き方と、人に「仕える」ために自分の命を投げ出すという二つの対極的な生き方の間に置かれた43節で、弟子たちの取るべき態度(仕える姿勢)が語られます。異邦人、つまり父なる神に出会っていない人々は人の上に立つことを求めます。しかしイエスに出会っているキリスト者は、人の下に身を低くし、「仕える」ことを追い求めるべきです。人に「仕える」ために十字架に向かうイエスに出会った者は、生き方が変わるはずだからです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と言います。イエスは弟子たちに対し、彼と共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことを求めます。しかし、それに対する報い(栄光)は、イエスの権限の中にではなく、父なる神に属するものです(40節)。従って、弟子たちに必要なのは、いかなる報い(栄光)が与えられるかということよりも、いかに、イエスに従い、人に仕えることができるかということです。報い(栄光)を望む者に、純粋な奉仕はできないのです。今日の福音は、「栄光」ではなく「苦難」そのものに意味があると告げる前半(35−40節)と、「仕える」生き方へと招く後半(41−45節)とをマルコは結び合わせています。こうすることによって、真の「栄光」はイエスと共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことにあることが示されているのです。
 私たちは問いかけられます。(1) 年をとっていく親や気難しい配偶者であっても、問題児であっても、教会の交わりの中にある非常に困窮(こんきゅう)している者であっても、どんな人であっても、イエスは仕えます。あなたは「仕える」ことができますか? (2) 「仕える」生き方はこの世の成功の基準と対立するものです。「仕える」生き方は社会の少数派です。このような社会の中にあって、イエスは、彼と共に「苦難」を担い、共に「仕える」ことを決断するように求めます。あなたは決断することができますか?
 勿論、私たちはイエスがしたように人に「仕える」ことができません。しかし、私たちはイエスのしたように人に「仕える」ことが求められているのです。イエスのように人に「仕える」姿勢を持てるように父なる神に祈りましょう。
2024年10月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

ミサ説教プリント「持っている物を売り払い、それから、わたしに従いなさい」年間第28主日B年 2024年10月13日

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持っている物を売り払い、
それから、
わたしに従いなさい
〜 年間第28主日B年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  マルコによる福音
   10章17−27節


 イエスと富める男
  (17−22節)

 富める男がイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問いかけます(17節)。富める男の関心は「永遠の命を受け継ぐ」ことです。「永遠の命」は、共観福音書でよく見られる用語「神の国」(23節)の同義語であり、「救われる」(26節)の同義語でもあります。つまり、富める男は「神の国に入るには、何をすればよいでしょうか」または「救われるには、何をすればよいでしょうか」と尋ねているのです。
 富める男にイエスは「善い」と呼ばれることを拒みます(18節)。これはわかりにくい発言です。なぜなら、イエスが神と一つであることあるいは罪無き者であることを否定していると解釈されかねないからです。ここではひたすら神のみ旨(むね)を求め、教え、それに絶対的に従うイエスの姿勢を見るべきです。19節でイエスが直ちに富める男の注意を十戒に向けさせているのもこの姿勢に一致します。
 富める男は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えます(20節)。イエスはこの富める男を「慈しみます」(原語アガパオー 愛します)。すなわち、彼を助け、救いに導き入れようとします。イエスは「あなたに欠けているものが一つある」と指摘し、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と教えてから、「私に従いなさい」と招きます(21節)。
 富める男はイエスのこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります(22節)。こうしてマルコは、信仰にとって富の危険がどんなに大きいかを印象づけます。

 イエスと弟子たち
  (23−27節)

 イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と語ります(23節)。弟子たちはこの言葉に驚きます(24節a)。財産「クテーマタ」(クテーマの複数)は複数の土地をも意味します。元来ユダヤ人は、現世の財産を「神の祝福のしるし」としていました。それで弟子たちは、現世の財産を危険視するイエスの言葉に驚きます。
 イエスは更に「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語ります(25節)。らくだが針の穴を通ることはできません。同じように、イエスは金持ちが神の国に入ることは不可能だと言います。この言葉に弟子たちはますます驚いて(26節a)、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに論じ合います(26節b)。弟子たちはイエスの言葉の意味を悟らず、富を「神の祝福のしるし」だといまだに考えています。彼らは、金持ちでない者はなおのこと、神の国に入れないと考えていたのです。
 金持ちだけでなく、弟子たちにとっても神の国に入るのは「難しい(直訳 苦労する)」ことです(24節)。それは人が神の力に信頼できず、この世の力にすがるからです。富はこの世にあって最も頼りになると思われているだけに、それは捨てがたいものとなります。イエスは「だれが救われるのだろうか」(26節)と問う弟子たちを見つめて「神は何でもできる」と答えます(27節)。万事が可能である神からの力に身を委ねるとき、人間に不可能なことも神の力によって可能になるのです。

 今日の福音のまとめ
 富める男はイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます(17節)。そのためには、モーセの十戒の倫理的要求(19節)に従うだけでは不十分です。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」とイエスは言います(21節)。しかし富める男はこの答えを聞いて「悲しみながら立ち去ります」(22節)。
 「私に従いなさい」という結尾の命令はマルコが付加したものと考えられています。イエスは富の処分以上のこと、即ち十字架への道で彼に従うことを求める、とマルコは言うのです。「イエスが旅に出ようとされる」(17節)もマルコの編集句です。マルコは、イエスは受難への道を歩んでいることをこうして読者に想い起こさせようとします。
 「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」というイエスの言葉(23節・25節)に弟子たちは驚き(24節a・26節a)、「それではだれが救われるのだろうか」と論じ合いますが(26節b)、イエスは「人間にできることではないが、神にはできる」と答えます(27節)。24節bは富める男だけではなく、すべての人にとって、神の国に入ることは難しいという注釈です。
 イエスに従ったことのない富める男にとって、富の処分は弟子となるためにまず必要な条件でした。今日の福音を読んでいる後の弟子たちにとって、富の処分は必要な条件ではなく結果として生じます。即ち、人はまず条件として何かをする、何かを捨てることによってイエスに従うことができる、というのではないのです。無理に捨て去ったものは、まだ捨てていないものよりも、より強くその人の心を支配します。従って真に捨てるということには決してなりません。神の愛の大きさを感じ、神の力においてはじめて、(神以外の)他のものが小さくなるのです。しかしだからと言って、ひとたびこれが始まったときでも、人がそれを捨てる場合、そこに苦労を感じないわけではありません。しかし根源的には、イエスに従うということは、神からの力によって与えられるということに変わりはありません。いかなる努力も、献げや禁欲も、これを可能にすることはできません。神は何でもできます(27節)。神からの力に身を委ねるとき、イエスに従うということが神の力によって可能になるのです。
2024年10月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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【主日のミサ】
 ・前晩(土曜)18:00
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  毎月第3日曜は手話つき
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Saturdays at 18:00
Sundays at 9:30
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JR本郷台駅徒歩7分
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